第四話 違法コピーは犯罪です
同じ方向に流れるひとびとの群れのなかを歩いていると、ふと瑞生は通りの向こう側に、リアルな顔つきの男が歩いているのに気づいた。彼は興味深そうに、通りのこちら側の群れに視線を向けている。瑞生は反射的に目をそらす。
瑞生はこのコピペした空間で、あきらかにAIが生成した人間ではない、リアルな顔つきの人間をたまに見かける。瑞生が独自につくりだした仮想空間に紛れこんだ彼らは、 ものめずらしそうにあちこちに視線を向けている。遠くからでも瑞生にはストレンジャー(と瑞生は心のなかで呼んでいる)であることがわかる。
彼らの存在は、現実世界の渋谷や原宿などで見かける、韓国人の女性観光客たちとよく似ている。日本の若い女性たちが化粧の仕方を韓国人風に寄せていっているせいで、日本人の若い女性たちに埋没してしまい、外見からは彼女たちが韓国人であることはほとんどわからない。しかし日本人女性とは微妙に異なる独特の視線の動きや雰囲気などでそれと判別できる。たぶん韓国に旅行に行った日本人女性だってそれは同じなのだろう。
彼らを見つけると、瑞生は指名手配されている人間が、巡回中の警官を見かけたときのように、あわてて目をそらす。瑞生が顔つきで彼らを判別できるように、彼らもまた、顔つきから瑞生のことを判別できるはずなのだ。彼らに話しかけられでもしたら厄介だし、あれこれ訊ねられるのも面倒である。いやそもそも顔をおぼえられては困る。
瑞生のつくったこのコピペの空間のどこかに穴があいている。そこを通って何人かがこの空間に来ている。本家の仮想空間のプログラム、そしてコピペしたこの仮想空間のプログラム自体を精査してみたところで、こうした空間構築のプログラミングに専門外である瑞生には、プログラムそのものに欠陥があるかどうかがまったくわからない。開発時にあれだけバグの存在を探していたエンジニアたちが、こうした単純なバグを見逃すとも思えないから、これはたぶん自分のせいだろう。もうひとつ独自に仮想空間をつくったことが、こうしたバグを誘発してしまったのだとしか考えられないのである。
彼らがデスパート社に通報していないところをみると、仮想空間が本来こういうつくりになっているとでも思っているのか、あるいは瑞生がそう解釈したように、単なるバグだと思って、隠れ家を訪れるような感覚でこの状況を楽しんでいるのか、そこはさすがに瑞生も見当がつかなかった。瑞生は仕方なく、黙って彼らを遊ばせている。
彼らを追い出そうとするのはまさに藪蛇だ。そもそも追い出す方法なんかない。少なくともこのコピーの仮想空間から彼らを穏やかに締め出せる方法を、瑞生は思いつけない。彼らにへたなことをして通報されれば、この仮想空間はたちまち撤去され、デスパート社はそれこそ徹底的に原因を究明するはず。瑞生がこの空間の居住者であることが判明すれば、すぐさま過去にデスパートに所属していたことが洗い出され、在籍時に故意にセキュリティを緩めていたことが発覚してしまう。
本家の仮想空間にあいた穴は小さなものなのだろう。人が通れるていどのもののはずだ。だからデスパート社も気づいてはいない。
そう考えるのは楽天的に過ぎるだろうか。仮想空間の構築それ自体は、例の優秀な統括者が携わっていたときにほとんど完成していた。よほど想定外のバグでもないかぎり、破綻はないはずなのである。しかし瑞生には、あの統括者がこうした穴をみすみす見逃してしまうとも思えなかった。
それもあって瑞生は自分が本家の仮想空間をコピペしてこちらの空間をつくった際にできてしまった穴なのだと考えたわけである。おそらくプログラミングのコピペする箇所を数行ほど間違えて持ってきてしまったのだ。
とはいえ、瑞生自身には、それがいささか安易な結論であるように思えるのもまた事実なのである。いわゆるひとつの海底トンネルじゃああるまいし、そんなに都合よく本家とコピペ空間をつなぐ穴ができるものなのだろうか、と。
だが瑞生にはそれ以外に考えようがなかったのだ。
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「この人たち、みんなメグのライヴに行くんだ。すごい人気だね」
詩梁が感心したように言った。もちろん詩梁はVRのアイドルになんか興味がない。男性のアイドルにだってまったく興味がない。めずらしく瑞生が熱心に誘ったのでしぶしぶついてきた、といった感じである。とはいえ根っからの陽キャなので、この手のイベントそのものは大好きなクチなのだ。
たしかに現実の詩梁は本家のほうの仮想空間に参加している。だからこそ瑞生は詩梁のコピーをつくることができたのだ。ほんものの詩梁が足跡としてのこしているデータから、顔つきや身体なり、性格パターンのアルゴリズムを抽出することなど、瑞生にとっては赤子の手をひねるようにたやすい。
本人の記憶も、ネットに出まわっている同年代の女性たちのfacebookやXなどから摘出して、詩梁が違和感を抱かないように、ひとりの人間の記憶として再構築されている。詩梁がなんの気なしにたびたび口にする「ふたりの思い出」が、たまに詩梁本人も自覚しない巧妙なトラップとなり、女性と接することが乏しい、いわば実戦経験の少ない瑞生がまんまと引っかかって浮気を疑われたのは、それが原因だ。
詩梁は週末ごと、あるいは気まぐれな単発などではなく、熱心なレギュラー組としてほぼ毎日、欠かすことなく、といってもよいほど頻繁に仮想空間を訪れている。瑞生はその事実を知ったとき、意外に思ったものだった。詩梁もやはりそういった人種に属していたことを――。
この仮想空間が一般層に普及するのは、瑞生や開発元のデスパート社が予想していたよりも、はるかに時間がかかったものである。もちろん、当初の装置がおおがかりなものであったのも要因で、日本の狭い住宅環境では、ユーザーが仮想空間に参加するにあたって必要不可欠な、ベッドのようなサイズのスキャン装置は問題外だった。みな単純に、ただただシンプルに、それを設置するだけのスペースがないのだ。
改良に改良をかさね、ようやくアイマスクひとつで意識の送受信が可能になったところで、しかしまだまだ世間の反応は鈍かった。アップルウォッチなどを発売日に買うような先鋭的な層が、その真価を見ぬいて、一にも二にもなくとびついたものの、結局はデスパート社の会社組織としての体力不足、ようするに宣伝が行きわたらなかったのである。
ふだんからスマホの機能を20パーセントもつかっていないような一般層は、やはりこうしたものには、とんと理解が追いつかなかった。またこの仮想空間のいちばんの売りはユーザー双方向なれど、閑古鳥が鳴いている状態では、もうひとつ面白味がなかったせいもある。
しかし、なんらかの法則が働いているかのように、ある分水嶺を超えると、しぜんと人があつまってくる。tiktokやInstagramなどと同じように、普及率がある一定のラインを越えたら、若い連中が血相をかえて群がってくるのだ。まるでいままさに電車に乗り遅れそうな人間のように、両手にバッグを抱きかかえながら、息咳きって「流行りもの」の戸口への階段を駆けあがってくるのである。
厳然とした校内カーストによって、かなりの心理的距離がありながらも、小中高の一貫校でともに青春を過ごし、こちらは孤島の陰キャ、相手はつねに席のまわりに人の群がっている都心駅近の陽キャであっても、詩梁には、どこか冷静にそういう流行りものを捉えていそうな印象を瑞生は抱いていた。けれど、詩梁がこうした「流行りもの」を追いかける、しょせんはそういう世俗的なタイプの人間のひとりに過ぎない、というのは、瑞生にとってどこか寂しいことのような気がするのである。
瑞生の記憶のなかに温存されている詩梁は、世俗的なものごとを超越している。しかも離ればなれになった現実の詩梁とはべつに、いまも瑞生のなかで歪つに成長しつづけているのだ。
詩梁はまるで、古来より伝承される神話に出てくる女神のように神聖な存在だった。たとえ神話そのものがくたびれ枯れ果てても、民衆のなかで女神像が色鮮やかに芽吹くように、高校を卒業したあともずっと瑞生のなかで詩梁は美しく育ちつづけたのだ。
昔は瑞生も、大学に進学して、あるいは社会に出て名のとおった企業に就職すれば、詩梁のような女性がじつはありふれた存在に過ぎないことがわかるのではないかと、本気で思っていたものだ。しかし実際は、むしろ詩梁がかなりのレアケースであることを、瑞生は人生の新しい一歩を踏みだすたびに思い知らされることになったのである。
それは子供の頃にたまたま見た美しい蝶のようなものだった。なんの価値基準ももたないはずの子供が、最初からあたかも遺伝子にじかに刻みこまれていたかのごとく、ほとんど直感的にいだく至上の美。その美しさはこちらの意思とはまるで関係なしに、時間が経過するほどに研ぎ澄まされていく。瑞生にとっての詩梁は、高校の卒業式で見た最後の姿のまま、シベリアで稀に発掘される永久凍土のなかに眠る生物のように、たいせつに保存されているのだ。誰であろうとその不可侵で絶対的な美しさを汚すことはできないのである。
もっというと、現実の詩梁にすらそれを汚す権利はないと、瑞生は(いささか⋯⋯いや、かなり自分勝手に)思うのである。瑞生にとって詩梁は崇拝の対象ですらあった。だからこそ瑞生は自分だけのこのプライベート空間に詩梁のコピーをつくりだしたのだ。
瑞生は仮想空間に登録されているマイナンバーから詩梁の存在を割りだした。仮想空間での物の売買は、現実社会のクレカや電子マネーとの紐づけが大前提で、たとえ仮想空間での仮想商品の取り引きであろうと現実世界のお金が動き、そこにはもちろん課税対象も含まれるわけだから(対象外になるわけがない)、現実世界でのマイナンバーと仮想空間でのマイナンバーの連携は、仮想空間の営業許可を与えるにあたって、日本政府がデスパート社に要望した絶対的条件だった。
瑞生にとっては、現実世界の日本の役所がつかっているとろくさいパソコンをハッキングして、詩梁がこの仮想空間に参加しているかどうか調べることなど、それこそ朝飯前であった。やろうと思えば、現実世界での職業なり、納税額や通院歴だって、瑞生は簡単に調べることができる。しかしそれをやらないのは、そういった行為が瑞生なりのモラルに反していたからである。盗みはやるが、覗きはやらないと。泥棒にもそれぞれ独自の哲学があるわけである。
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強引にプログラムで詩梁の記憶を操作することはできる。そういったやり方が、あるにはある。瑞生が自分の記憶ではこれこれこうなっていると詩梁に告げれば、詩梁自身の記憶もそのように刷新されるという、便利な仕組みである。
開発当初、まだ試験段階であったこの仮想空間のガイド役のためにつくられた女性の性格をコントロールするためにつくられたプログラムで、例の統括者はそれを変更プログラムと呼んでいた。
仮想空間の一般のユーザーは、支払う料金におうじて、限定的ではあるがオプションとして仮想空間の設定、たとえば住居環境などを細かく変えることができる。だがもちろん変更プログラムはこの仮想空間のオフィシャルな設定には存在しない。現実のモデルが存在する人間、ないしはモデルの存在しない人間を一般のユーザーが勝手につくることは許されていないのだから、とうぜんといえばとうぜんだ。
その変更プログラムと呼ばれていたものは、ガイド役の女性がその役割を終えたときにプログラムごとオフになった。しかし仮想空間のプログラムの外にくっつけられたプログラムは、抹消されずにそのまま残っていた。瑞生はその変更プログラムのセキュリティも担当していたから、この紛いもののほうの仮想空間のプログラムに同じようにコピペしてくっつけてみたのである。
瑞生はいちどその変更プログラムとやらを試してみた。すると、とたんに詩梁との関係は順風満帆なものとなった。詩梁が嘘みたいに機嫌がよくなったのである。しかし、陰キャのくせにゼイタクなと突っこまれそうな話だが、それをやってしまうと瑞生はなんだか機械を相手にしているような味気なさをおぼえたのである。瑞生はさんざん迷ったあげく、結局この変更プログラムをとりはずしてしまったのだった。
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いつかほんものの詩梁にバレるときがくるのだろうか。いや、そもそも学生時代の地味な陰キャに過ぎなかった自分のことを、詩梁はおぼえているだろうか。瑞生と詩梁は会話をかわしたことさえなかったのだ。詩梁にとってはずいぶん遠い昔の話になっている気さえする。
高校を卒業してから、ほんの一瞬でも自分のことを思い出してくれたかどうかさえ、瑞生には疑わしい。その他おおぜいのなかに埋没して、しまいにはポーチの底で溶けた板チョコのように分離不能なものになって、ゴミ箱にポイとあっさり捨てられてしまったのではないだろうか。さほど未練もなく。
その一方で、こういう感情が気味わるいものであることは瑞生だって十分すぎるほどわかってはいるのだが、こんな結びつきでさえ、詩梁と繋がっていることにたいして、瑞生はつい顔がほころんでしまうのである。