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第三話 メグというヴィドル

 駅から吐きだされた人の群れは、外の通りにそのままひとつのおおきな流れをつくっていた。

 オフィス街にある通りを何度か曲がったところに、おめあてのライブ会場がある。休日はほとんど引きこもりのような生活をおくっている瑞生はまったく足を運んだことのない場所だったが、これならわざわざスマホで方角を調べる必要もない。AIで生成された群衆の川が、ふたりをメグというヴィドルのライヴのヴュー会場まで導いてくれる。

 ヴィドルというのは、V(ヴァーチャルのV)アイドルの略だ。といってもデスパート社の公称は最初、イのおおきいヴイドルだったのだが、SNSではいつのまにかヴィドルと呼ばれて浸透してしまい、いつしか本家の公式名称をも揺り動かしてしまったのである。

 デスパート社は事前に、youtubeやtiktokで仮想空間を売り出すためのキャンペーンを展開していた。その案内役がヴィドルだった。そしてデスパート社は彼女をアイドルとしても売り出したのである。

 もっとも、コンセプト自体がほとんどvtuberというか、まあvtuberそのものといってよかったため、世間の反応はあまりよろしくなかった。おまけにアップされたヴィドルの動画が、生身の人間そのものにしか見えなかったため、みごとに上滑りしてしまったのである。だがその一方で、本人の際立った美貌だけはとにかく注目をあつめた。

 女優のような顔立ちの女性はあまり歌はうまくないし、ダンスだってうまくは踊れない。なぜか世の中そういう風にできている。歌とダンス、両方あるいはどちらかに秀でた女性というのは、不思議と量産型の顔立ちをしているものだ。

 いや、たしかにダンスをうまく踊れる美人はそれなりにいるものの、女優として売り出せるほどには、整った顔立ちをしていない。トレードオフ、まさしく。しかし一流女優のような顔立ちの女性が、歌とダンスのふたつを両立させたとしたらどうだろう。それは世の男たちにとって、いわゆるひとつの夢の現実化みたいなものではないだろうか?

 懐疑的な目を向けるのも、実際に現物をたしかめるまでのこと。一度でもヴィドルに接したら、男の子はみな夢中になってしまう。いや、男の子だけではない。顔立ちバツグン、歌唱力バツグン、ダンスの切れ味バツグン、と三拍子そろえば、ドルヲタ以外の層だってふんだんに取りこめるのだ。若い女の子が夢みて憧れるための起爆装置となる存在は、いつの世だって純金のように貴重なのである。

 仮想空間でのヴィドルの存在はあくまでアバターに過ぎないのだから、どこででもライブができる。例によって瑞生はヴュー会場のプログラミング部分をコピペしてこちらに引っ張ってきたわけだが、だからといってこちらのヴィドルが真っ赤なニセモノということにはならない。そんなことを言いだしたら、オフィシャルのほうの仮想空間に存在する本家本元のメグだって、アバターなんだから立派なニセモノなのである。ほんもののメグは現実の世界にだけ存在するわけだ。

 だからこの場合はあくまで名目上だけ、ライヴ配信ということになる。理屈のうえではまあそうなる。ヴァーチャルリアリティのアバターなので、本人はどこにでも存在することが可能なのだ。そのため同時刻帯に全国各地のヴュー会場のステージに立つメグは、VRアイドルとしてはみなほんものといっていいわけである。

 まさか瑞生は自分がアイドルに夢中になるなんて思ってもみなかった。そもそも現実世界ではアイドルなんて眼中にすらなかった。それどころか、学生時代、同年代で学力に長けており、かねてから一目置いていた男の口から、推しのアイドルがいる、なんてことを耳にしただけで、瑞生はまるで過去におこなった犯罪を自慢げに打ちあけられたような気分になったものである。どれだけ秀でた容姿をしていようと、あきらかに人としてのレベルの異なる相手に夢中になるなんて、瑞生にとってはけっしておおげさな話ではなく、生物としての尊厳に関わる話だとさえ思っていたのである。

 役者としてはいまいち華に欠ける、若さだけが売りの女の子たち。消費期限はデビューからせいぜい五年といったところ。いかにも社会経験のとぼしい、締まりのない笑顔を浮かべ、とんちんかんな受けこたえで長い人生のほんの一瞬でも愛でられれば幸運である。二十代のなかばも過ぎ、そこらへんのOLたちとさほど変わらぬ()()()()()()を表情に纏えば、ロリコン中心のドルヲタたちは、蜘蛛の子を散らすように消えていってしまう。彼らが求めているのは、じつのところアイドルのかわいらしさなどではなく、あくまで現実逃避の手段に過ぎないのだ。

 しかしヴィドルは違う。理屈ではない。魅せられてしまうのだ。同性でもはっとするほど綺麗な顔だちの女の子が、こんなんどうっちゅうことないっすわ、とでもいわんばかりに心に響く歌をうたい、キレッキレのダンスを踊るのは、男女ともに理屈ぬきで心うばわれてしまうのである。瑞生もyoutubeでひと目見たときから心うばわれてしまった。

 ヴィドルは謎に包まれている。歌はべつの人間が唄い、ダンスはまたべつの人間が踊っている、というネットでまことしやかに囁かれている説がある。技術的には簡単な話だ。彼女たちはおそらくパソコンのモニターのまえでマイクをつかい、あるいは手足にパッドをつけ、ヴィドルを巧みに操っているわけだ。

 いやいや。美貌と歌とダンス、三つとも兼ねそなえている、つまりビットトランスファされていないと主張している人たちもいる。だがそれはどちらかといえば願望だろう。そんな人間がネットの地下深くに潜んでいるだろうか、と誰もが思うのである。瑞生のような世間知らずだってそう思う。そんな恵まれた人間が、歌舞伎でいう黒子みたいな役を、自ら望んでやるわけがないのだ。

 瑞生がメグに惹かれたのは、どこか高校時代の詩梁を思い起こさせるところがあるからでもある。メグの年もちょうどその頃合いだ。

 学生時代と同じように、瑞生にとって詩梁の存在はいまでも近くて遠い。こうして仮想空間で恋人にしたところで、お互いにもう二十代もなかばにさしかかろうとしているわけで、瑞生にしてもそうだが、十代のときのような、触れればこちらの指が切れるくらいの、いわくいいがたい危うさ、それ自体が本人の魅力の何割かを担っていたであろう危うさを、もうすでに失ってしまっている。だがメグからは、たとえパソコンのモニター越しであっても、その当時の詩梁が持っていた雰囲気と、どこか相通じるものがあるように感じられるのだ。

 いや、もちろんそれは、ふたりの顔が似ている、ということではない。詩梁の端整なモデル顔に、メグのいかにもなアイドル的ロリ要素はまったくない。両者の顔のつくりは正反対といってもいいくらいである。詩梁の顔つきはあくまでギリシャ彫刻のように彫りが深くてシャープだ。

 磁石が砂鉄をあつめるように人を惹きつける超絶的なオーラ。学生時代に唯一無二と思っていた詩梁の華やかさと、メグが身にまとっている華やかさには、まるで根っこが同じ養分を吸収して生えてきた異なる種類の草花のように、どこか共通したものがある。

 もっとも、瑞生のなかで、時間の経過とともに、いささか記憶が美化されているのも事実なわけで。現在のところユーザー登録者数が百万人の、仮想空間という局地的な規模ではあるが、そこで一躍スターとなったメグと、なんのかんもいってもしょせん一般人に過ぎなかった詩梁が、同じだけのオーラを放っていたとは、やはり考えにくいのだ。

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