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第二十七話 『地獄の七所巡り篇』 其の七 人類を踊らせるためのボレロ(前編)

 都市部の巨大なスクランブル交差点。瑞生はそのちょうど中央あたりに立っていた。空は晴れわたっている。雲ひとつない。

 頭上からスネアドラムの音が聞こえてくる。文字どおり、頭のうえから音が降ってくるのである。最新鋭のフラッグシップ機のスピーカーでも出せないような、異様にリアルな音だった。スネアドラムは控えめに一定のリズムを刻んでいた。

 目のまえにメグが立っている。表情はあくまでフラットだ。無名の画家が実費で開いた展覧会の若い受付嬢のような無邪気な笑みを目もとに湛えている。瑞生がなにか言おうとしたとき、フルートの特徴的なフレーズが流れてきた。すぐに気づいて、瑞生がメグに訊いた。

「これって、ラヴェルの『ボレロ』だよな?」

 メグは感心したようにうなずく。

「さすがは瑞生クン。クラシックも嗜んでらっしゃる。そうだよ、ライナーが指揮したラヴェルの『ボレロ』だよ」

 瑞生がうさんくさそうな目でメグを見る。

「ライナーって、フリッツ・ライナーのことか?」

「うん」

「嘘こけ、ライナーはラヴェルの『ボレロ』なんて演ってないはずだぞ」

「‥‥やっぱり瑞生クンはそう簡単に騙せないね。これはね、もしライナーが『ボレロ』を演っていたらっていう、いわば擬似的に仮想された『ボレロ』なんだ。ラヴェルの『ボレロ』なんて、ぜんぜんたいした曲でもないけど、ライナー指揮のシカゴ交響楽団が『ボレロ』をお客さんのまえで演奏することになったら、聴衆たちはきっと、固唾を呑んで客席で微動だにせず見守ってただろうね。実際にライナーがラヴェルの『ボレロ』を指揮していたら、たぶん歴史上もっとも統制された『ボレロ』になったんじゃない」

「ライナーはリハーサルで音を外した団員を、その場でクビにしたりしてたからな。いまじゃ考えられない話だけど」

「逆にそれが許された時代だからこそ名演が続出したって側面もあんのよ。ライナーほどスパルタじゃないけど、マイルス・デイヴィスや後期のスティーリー・ダンだって似たり寄ったりのことやってたわけだし。芸術の世界に平等主義を持ちこむってのも考えもんよね」

 瑞生は少しだけ微笑む。現実の世界では、十七才の女の子はおろか、七十七才の女性であろうとも、こんな話はできない。少なくとも現実の世界でこんな会話ができる女性と出会うことはまずない。

「それで、最後の地獄とやらはもうはじまってんのか。まさか、この曲のクレッシェンドで耳の鼓膜が張り裂けるほどの大音量になって、僕が苦痛にのたうちまわるっていう、くだらない王道パターンなんかじゃないよな」

 メグは小さく首を振って、右手の人さし指を立てて自分の唇にあてる。

「メグちゃんのこと舐めたらアカンでちゅよ。そんな単純なやつなんかじゃないよ。メグちゃんプレゼンツ最後の地獄は、こんなやつ」

 メグはにっこり笑いながらウインクして、頭上に掲げた右手の指をぱちんと鳴らした。

 とつぜん、瑞生の足もとがぐらついた。なにかに引き寄せられている。瑞生はそのなにかに、身体ごとたぐり寄せられ、ふらついた足がばたばたと後ろに流れていった。ちょうど台風のつよい風に吹きあげられた感じだった。

 瑞生はかろうじて歩道の信号機にしがみつく。その信号機だってなにかに引き寄せられており、ぐらぐらと揺れている。信号機自体は揺れているようには見えないのだが、しがみついている身体をとおして、そのかすかな振動が伝わってくるのだ。

 メグは瑞生のしがみついている信号機のまえまでゆっくりと歩き、まったくふらつきもせず、瑞生の顔をじっと見ていた。

「なんだよ、これ。おいメグ、どうなってる」

 メグはそれには答えず、またにっこりと笑った。

「瑞生クンはワールドトレードセンターの跡地がいまどうなっているか知ってる?」

「ワールドトレードセンターって、ニューヨークにあった有名なあのツインタワーのことか?」

「そう。今世紀初頭にテロ攻撃にあって崩壊したふたつのビルのことよ」

 瑞生は首をかしげた。

「いや、知らないな。どうなってるんだ?」

「そこにはおおきな穴があいてるの。といっても、もちろん記念碑的な造形物ではあるんだけど。たぶん瑞生クンがいま頭に思い浮かべたのよりもずっと深くておおきな穴だよ。正確にいうと穴は空洞ではなく、たえず水の循環される人工池みたいな感じになっているんだけど、人口池の中央にはさらにもうひとつぽっかりと穴があいていて、その穴は人類が築きあげてきた文明の穴が底なしであることを象徴している。いまの世界のこの政治的状況を放っておいたら、そのうちみんなあの穴のなかに呑みこまれるわよ。あたしの言っていること、わかるよね? ‥‥そしてこれがメグちゃんプレゼンツの最後の地獄。ひょっとすると人類そのものが味わう最後の地獄なのかもしれない。瑞生クンを引っぱっている力は、その穴の底からきているの。この曲がクレッシェンドを迎える頃に、瑞生クンの身体を引っぱっている吸引の力が最大限になるわ。そして瑞生クンはツインタワーの跡地のその穴に引きずりこまれるの。テロで犠牲になったおおぜいの死者たちの魂が眠る穴のなかにね」

 瑞生がふと気づいて言った。

「そもそもこのコピーした空間にアメリカなんてあるのか? 僕がコピペしたのは、日本の一部分だけのはずだぞ」

「あたしがいまつくったの。ニューヨークのその一画だけね」

「なんでわざわざそんなものつくったんだ」

 瑞生が訊いた。それまで笑みを浮かべていたメグが、急に真顔になった。

「はあ? 意味がわかんない。そんなもの、ってどういうこと?」

「僕を穴のなかに引きずりこみたいってんなら、路上のマンホールの蓋でも開けりゃいいだろ。ツインタワーの記念碑なんて、そんなのどう考えたって人類の負の遺産じゃないか。わざわざ仮想空間につくる必要がない。それに、どうせつくるんだったら、テロで破壊されるまえのツインタワーをそのままつくればいいだろう」

 メグが眉間に皺を寄せて表情を歪める。

「なんでそんな理屈になるわけ。これまで人類の辿ってきた歴史のなかで、いちど起こってしまったことを帳消しにすることなんてできないわよ。たとえここが仮想空間であろうとね。それに人類の負の遺産はツインタワーの記念碑だけじゃないでしょ。原爆ドームなんて、それこそ人類の最大の負の遺産じゃない。瑞生クンは本家のほうの仮想空間に原爆ドームがあるかどうかは知ってるよね?」

「たしかつくったんじゃないのか。僕は空間の構築にはいっさい携わってないからうろおぼえだけど、原爆ドームのもともとの造形を写真から再現することだってできたんだよ。でもそうしてしまうとまわりの近代的な建物とまったく整合性がとれなくなるし、平和記念公園はどうするんだって話にもなる。仮想空間っていう遊び場とはいえ、そんなことをしたら騒ぐ人たちだって出てくるわけだしな」

「じゃあどうしてツインタワーの記念碑をつくったらダメだって理屈になんのよ」

「だからあんなのは負の遺産でしかないって言ってるじゃないか」

「原爆ドームだって負の遺産でしょうが」

「あれはもう歴史なんだよ。表現が不適切かもしれないけど、殿堂入りの堂々たる歴史的建造物なんだ。それと比べれば、ニューヨークの同時多発テロなんて、起こってから日もまだ浅い。だから原爆ドームとは違って、建物をそのまま再現しても、周囲の建築物との違和感だってないだろ」

 メグの目尻が、まるで見えない釣り糸にでもかかったように、細かく引きつった。

「あっきれた。瑞生クンってけっしてバカじゃないよね。瑞生クンですらそういう意識でしかないわけ」

「なにがだよ」

「戦争なり紛争なりテロなりは、なんらかの必然によって起きるの。身体にのこっている傷跡がその人間の歴史であるのと同じように、地球上にのこっている戦渦の痕跡は、どれも人類の揺るぎない歴史なのよ」

「だからなんなんだよ」

 メグが両目を吊りあげる。

「そんなものをなかったことにしようって、いったいどんな教育を受けてきたらそういう考えかたになるわけ。正気すら疑うわよ。瑞生クンが当たり前のように享受している平和は、争いの起きたその時代その場所を生きた人たちの犠牲のうえに成り立っているの。過去に起こった戦争なり内紛なりテロなりはすべて、歴史の必然のもとに引き起こされたのよ。もっと言うと、人類が綿々と歴史を紡いでいくなかで、一度は通らなければならなかった避けがたい轍なの。少なくとも時間が不可逆的なものである以上、そう解釈せざるえないわけでしょ。そして瑞生クンが平和な時代に生まれたのがたんなる偶然であるのと同じように、戦争で死んでしまった人たちがその時代に生まれたのも、たんなる偶然だったの。そんな人たちの尊厳を踏みにじるのは、誰であってもけっして許されないことなのよ」

 背後から引き寄せられる力に、瑞生は信号機から吹きとばされそうになりながらも、メグの目をじっと見る。

「そういう深い意味で言ったんじゃねえよ。もうちょっと‥‥なんていうか‥‥子供の問いかけみたいな無邪気な意味あいで言っただけだ」

 メグが両腕を組んで瑞生の顔をじっと見据える。

「でも瑞生クン、子供じゃないよね」

 瑞生は何度も首を振った。

「‥‥いやさ、そういった立派なスピーチは、国連の会議場だとか、ストックホルムのコンサート・ホールで客席に座ったあの着飾った連中を相手にでもやってくれないか。僕に訴えかけたってなんの意味もないだろ」

 メグはため息をついて、ゆっくりと首を振る。

「意味がないわけないじゃない」

「ねえよ。僕は地球の片隅でほそぼそと暮らしている一般人だ。政治にたいしてはなんの関心もない。選挙にだって一度も行ったことがない。街頭デモに出くわしたら、かならずスマホに視線を落として目をそむける。だからそんな人間にそういうスピーチをすんのは、猫にむかって六法全書を全部読み聞かせるのと同じくらい無意味なことなんだよ。わかったか?」

 メグがだんだん苛立ったような表情になる。

「まるで他人事みたいに言うよね。こういうことが無関係な人間なんて、地球上に誰ひとりとして存在しないのに」

「勘弁してくれ、お前なんでこんなことでキレてんだよ」

「腹が立って仕方がないのよ、地球のいたるところでわんさか核爆弾がつくられて、つねに自分の命がおびやかされてるってのに、怒ろうともしない人間のことが」

 だんだんと『ボレロ』に加わる楽器が増えていき、それと並行して空間に響きわたる音量もあがっていった。瑞生は音楽に負けじと声を張りあげた。

「だから、そういうことはもっと志の高い人間にむかって言えってんだよ。ガンジーとかキング牧師みたいな立派な人間は、いまだって探せば世界のどっかにいんだろうよ」

「瑞生クン、まったくわかってないよね‥‥そんな人たちには、こんなこと言う必要がないんだってことが。だって、あの人たち、ちゃんとわかってんだから。これ以上、地球を核爆弾だらけにすることを許さないって、きちんと声を張りあげてんだから。瑞生クンみたいな大馬鹿者だからこんな口酸っぱく言ってんのよ。瑞生クンみたいな無関心な人間が世界のこういう状況を許してるんだって、さっさと気づいたらどう?」

 看板らしき長方形の板が、空中をくるくると回転しながら、猛スピードでメグのすぐ脇を飛んでいった。よく見ると大小さまざまな物体がせわしなく空を走って後方に流れていっているのだった。瑞生はメグに視線を戻して言った。

「べつに許してなんかねえよ」

「だったらどうして声をあげないわけ? ねえ、どうして異議申し立てをしないわけ? ‥‥もしかすると声を張りあげている人たちは瑞生クンには愚かに見えているかもしれない。でも実際は声を張りあげていない人は彼ら以上に愚かなの。沈黙は、この状況を容認しているのと同じことになるんだってことに、早く気づくべきよ。なにもかもが手遅れになるまえに」

 瑞生は懸命に信号機にしがみつきながら、おおきく首を振った。

「僕のことをまるで人類の代表かなんかと勘違いしてないか」

「いいえ、勘違いなんかしてないわ。人間は誰でも人類を代表しているの。みんな人生の主人公、なんて甘い言葉は聞きたくても、みんな人類の主人公、なんて言葉は聞きたくないわけ? 自分は人間なのに、人間としての権限はそれなりに謳歌しているっていうのに、人間としての義務や責任は負いたくないってわけ? ずいぶん勝手だよねえ。それとも、瑞生クン、自分は人間じゃないとでも言うつもりなわけ?」

「極論だろうよ、それは」

 瑞生は苦味ばしった表情で言う。

「極論じゃないわよ、瑞生クンが人間で、人類の一部分を担わなければならない立場であるのと同時に、人類を代表しなければならない立場であるってことは、ちっとも極論なんかじゃない。どうして行動を起こさないわけ? もしかしたら瑞生クンひとりが行動するだけでこの世界が少しはいいほうに変わるかもしれない。たとえ全体の駒のひとつに過ぎなくても、瑞生クンがそれなりに有効な科学反応を起こして、物事が一歩でも前進するかもしれないのよ。人間は誰でもそれくらいのポテンシャルは秘めてるんだから、動かなきゃ損じゃない」

「寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞ。世界はそこまで単純にできてねえんだよ」

 瑞生がメグにむかって言葉を叩きつけるように叫ぶ。

「世界が複雑きわまるのはたしかよ。でもそれは、あくまで人間ひとりの思考の複雑さに比例するていどの複雑さに過ぎないの。脳味噌が一個でもあれば十分に立ち向かっていける世界なのよ。危機はもう近くまで来ているかもしれない。抗議デモとかに参加しようという気すらないわけ?」

「焼け石に水だろ、あんなのは」

「ずっと水をかけていれば、いつかは鎮火するかもしれないわ」

「いや、たぶん水すらかかってないね。水がかかるまえに、ジュッと蒸発するような仕組みになってんだよ。お前だってそう思わないか? 核廃絶のデモに参加している人たちが、どれだけのデシビルで騒いだって、この耳をつんざくような『ボレロ』以上の大声でわめいたって、世界は少しも核廃絶の方向になんてむかってねえんだよ」

 瑞生は笑いながらそう言った。メグはあいかわらず両腕を組んだまま、いままさに吹きとばされようとしている瑞生の顔をじっと睨みつづけていた。

「いつ偶発的に核爆弾が発射されて、地球上のあらゆるものが焼き払われるかわからない、そんな状況でよく気もふれずにのうのうと生きてるよね。いっそのこと、地球上にある核爆弾をひとつのこらず爆発させてみてあげようか?」

「勝手にしろ」

 瑞生が吐き捨てるように叫んだ。空間に響きわたる『ボレロ』は器楽的クライマックスに達していたが、瑞生がそう叫んだとたんにぴたっとやんだ。メグが口を一文字にむすんで、にんまりと笑みを浮かべる。

「そうするわよ」

 閃光。遠くからこちらにむかってくる風圧だけで、地上のすべてがなぎ倒された。その風圧を追いかけるようにやってきた火の海が、地上のあらゆるものを焼きつくす。まるで頭上から溶岩でも垂れ落ちてきたように、瑞生の身体はほんの一瞬で燃えつきてしまった。

*次回のアップは10月26日を予定しております。

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