第二十四話 『地獄の七所巡り篇』 其の五 平樹安(前編)
配役
瑞生 栴檀
メグ 平樹安
詩梁 謎の女
端役 生成AI
栴檀は蔵のなかで立ち尽くしていた。
蔵は灯りもなく、薄暗かった。やがて、空の雲が流れたのだろう、格子窓から不意に月の光が差しこみ、邪悪な蛇のようにじっくりと壁を這って、蔵の床に垂れてきた。そしてその光は、冷たく横たわる女の死体を優しく照らし出した。
死体は栴檀の女房だった。栴檀はだいぶ以前より女房の浮気に勘づいてはいた。しばらく泳がせたのち、動かぬ証拠をつかんで本人に突きつけたはいいが、はげしい口論となって近くにあった陶器で頭を殴ってしまい、打ちどころがわるく死んでしまったのである。
とはいえ栴檀は動揺しているわけでもなかった。自分を裏切った女にもはや未練などなかった。栴檀は死体をどう始末するか、そのことばかりを考えていた。しかし女房を殺した直後とあっては、頭が麻痺したようになって、なかなか考えがまとまらなかった。
そのときであった。遠くから鈴の音が聞こえてきた。平樹安だ。平樹安の夜の徘徊だ。栴檀は舌打ちする。
「そうだ。ちょうどあの娘の散歩する時間だったな。くそっ、いまいましい娘め」
平樹安とは気のふれた十七の娘のことだ。十二の年に兄に嬲られ、血のつながった兄弟をそそのかしたと父親に何百回と鞭で打たれて、ついには気がふれてしまった。あげくに、どうとでも暮らせと家を追い出されてしまったが、キリシタンである情けぶかい婆あばに拾われて暮らしている。昼間のうちこそ家に籠もっているものの、夜になると呑気に歌など唄いながら村を徘徊するのである。
以前、行商の旅人がこの村の宿に泊まった際、暑くて眠れなかったのか、夜分に村をぶらりと練り歩いた。そして運わるく徘徊する平樹安に遭遇し、気の毒な旅人は腰をぬかしてしまったのである。それ以来、平樹安は手首にきつく紐で鈴をつけられ、宿の女将は、きまって旅人たちにこう忠告するのが慣わしとなった。
「旅の者、夜更けに鈴の音が鳴るうちは、けっして外に出んように」
栴檀は神経を研ぎ澄ませて鈴の音を聞いた。いくら知能のたりぬ娘とはいえ、こんなところを見られては一大事だ。徐々に近づいてきた鈴の音は、壁や天井に反響して、蔵の至るところから聞こえてくるのだった。栴檀の全身に粘っこい汗が流れる。鈴の音は蔵のまえをゆっくりと過ぎ、やがて遠ざかっていった。栴檀はほっと安堵の息をついた。
だがとつぜん蔵の壁を蹴りあげる音が鳴り響いたかと思うと、平樹安が窓の格子を掴んで顔をのぞかせた。そして床に倒れている女を見て、節をつけ唄った。
こぉろした、こぉろした
にょうぼうをこぉろした
せんだんは、つみびとだ
せんだんは、つみびとだ
栴檀もいきおいよく壁を蹴って、その跳躍で窓までよじ登り、左手で格子を掴むと、平樹安がそれ以上唄わぬよう、右手で喉をつよく締めあげた。そして鬼のような形相で平樹安に問いただした。
「平樹安、答えろ、なぜここに死体があることがわかった?」
なにも答えようとしない平樹安の首を、牛の乳でも搾るように栴檀はさらに締めあげる。平樹安はかぼそい声で言った。
「ち‥‥血の匂いがしたからだ」
「なぜ鈴の音が鳴らなかった。つねにお前の右の手首にきつく結ばれているはずだぞ」
平樹安はさも嬉しそうににんまり笑うと、右の手のひらを開いて栴檀に鈴を見せた。それを見た栴檀はみるみる顔が青ざめていった。
「ええい、変に知恵のまわる女め。手で鈴を握りしめて音を殺し、ふたたびここに戻ってきたというわけか」
「そ、そうだ」
「うぬ、ふざけた娘め‥‥」
この場で平樹安の首を締めきってやりたいところだが、いくら男の栴檀でも片手ではさすがに叶わなかった。かといって蔵を出て外にまわったときには、いくら知能のたりぬ娘とて、全力で逃げ去っていることだろう。
だが娘をこのまま逃がすわけにはいかない。三度の飯より歌を唄うのが好きな女、いま唄ったような歌を、人前で唄われては困るのだ。栴檀は思案を巡らせてから、押し殺した低い声で言った。
「いいか、お前は二度と歌など唄うな。もし唄っているところを見たら、お前と暮らしている婆あばともども、この手でひねり殺してやる。このとおり女房を手にかけた男だ、もうひとりかふたり殺したところで良心など微塵も痛まん。お前がどうしても歌を唄いたければ、鳥にでも生まれかわってから唄え。よいな。人間の姿のまま唄ったときは婆あばとお前の命はない。これはけっして脅しではないぞ。わかったな?」
返事をしない平樹安の首を、栴檀はさらにつよく締めあげる。平樹安は観念したようにわずかに首を振った。
「わ‥‥わかった」
月の明かりが平樹安の端麗な顔を照らし、その光の綾がこの世ならぬ陰影の美をつくりだした。栴檀はほれぼれとその顔を眺め、ここにまで運ばれた互いの奇妙な運命に思いを馳せる。哀れな女よ。このような境遇でさえなれけば、男など憂いのうちにも入らぬものを。栴檀は平樹安の顔に落ちた長い髪をそっと指でかきわけてやった。女がうっとりとした目つきになったのを見て、栴檀はわれにかえる。
とつぜん平樹安の首をぐいと引っぱると、突っぱねるようにいきおいつけて手を離した。平樹安は窓から転げ落ちた。地面に叩きつけられた平樹安は、うめき声をあげながら顔をあげ、月に照らされた栴檀の冷ややかな顔を見て、ぞっと身体を震わせると、乱れた着物をなおしもせず、あたふたと走り去っていった。
栴檀は格子から手を離して床におりると、ふたたび女房の死体をじっと見入った。
女房の浮気を問いつめるため、母親と年のはなれた弟を旅行に出しているが、今日の昼には帰ってくる。おまけに弟はこの蔵で遊ぶのが大好きときている。疲れを知らぬ子供は、旅帰りであろうとこの蔵で遊びたがるだろう。のんびり思案している暇はない。
河原に埋めるのはどうであろう。穴を深く掘って埋めてしまえば、少なくとも自分が生きているあいだは、誰にも見つかるまい。うむ。それがいい。そうと決まれば、このまま朝を待つのはやはり得策ではないだろう。蔵から死体を運び出すのは今宵のうちがいい。闇夜はつねに人殺しの味方だ。
栴檀はあらためて床に冷たく横たわっている女房の死体に目を向けた。そして心のなかで問いかける。なぜあんなくだらぬ男になど身を任せたのだ。あの男のほうがお前の心をもう少し汲みとれたとでもいうのか。お前はおれを欺いた。だから死んで当然だ。千の日をともに過ごし、千の夢をともに見て、果てにこの仕打ちではあんまりではないか‥‥
栴檀は死んだ女房の腕を自分の背中にまわして持ちあげ、その魂のぬけた重い身体をなかば引きずるようにして蔵を出た。
旅行から帰ってきた母親は、栴檀の女房の姿が見あたらないのを、あまり不審に思わなかった。もともと仲がわるかったから、よい仲の男がいて出ていったらしいのだ、と栴檀が言えば、そうか、そんな女だったわい、もっとましなのを見つけてきたらええ、とだけ言う始末であった。
弟ももとから懐いていなかったので、口にこそ出さないものの、いかにもせいせいした感じであった。近所のものたちも、母親がことの顛末を吹聴してまわったあと、女がよその土地の人間だったせいもあり、しばらくするとみな栴檀に女房がいたことさえ忘れてしまったのだった。
村のものたちのあいだでは、むしろ平樹安が唄わなくなったことで話が持ちきりだった。あの不憫な娘、唄うのだけが生きがいだったろうに、と。なかにはそれを残念がるものさえいた。夜中に村に響きわたる、平樹安の幼女のように澄んだ歌声は、ひょっとすると眠れぬものたちの子守唄だったのかもしれなかった。栴檀の女房が姿を消したのと、平樹安が唄わなくなったことを結びつけるものなど、誰ひとりとしていなかった。
しばらく経ってから、平樹安が村はずれの森の木で首を吊って死んだ。平樹安のことなどほとんど忘れかけていたので、その報せを聞いた栴檀はふと、平樹安が家で歌を唄い、同居する婆あばがそれを聞いたのではないかという猜疑心に苛まれた。
栴檀は婆あばの家に線香をあげに行くことにした。平樹安のことについて、婆あばからさりげなく聞き出そうという魂胆である。もしあの歌を聞いていたのであれば、婆あばもやはりこの手にかけなければならぬ。
しかし栴檀は婆あばに家に招き入れられた際、笑いがこみあげてくるのを抑えきれなかった。この婆あば、耳が聞こえぬのだ。
どこまでも不憫な平樹安め。同居人の耳が聞こえぬのなら、せめて家のなかだけでも思う存分に唄えばよかったのだ。平樹安の仏壇に手をあわせ、婆あばに背をむけてるのをよいことに、栴檀は満面の笑みを湛えながら、そんな身勝手なことを考えていた。
やがてその婆あばも病気で死んだ。その頃にはもう、栴檀の女房や平樹安のことを思い出すものは誰ひとりいなくなっていた。
*
ある日、栴檀が耕している畑のあぜ道を、旅の女が通りかかった。
女は足をとめ、畑仕事をしている栴檀に向かって、にっこりと微笑んだ。美しい女だった。栴檀は鍬を持った手をとめると、素朴な農夫をよそおった卑しい笑顔を浮かべた。
女は父親を亡くしてから全国各地の寺を巡礼して、死者の魂を弔っているとのことだった。栴檀はひととおり身のうえ話を聞いたあと、女にこう説いた。おれも父親を亡くしているから、お前の気持ちもよくわかる。だが女というものは男にめとられて幸せになる生き物だ。それに結婚することが天国にいる親父さんへのいちばんの孝行にもなる。女は顔を赤らめて目を伏せた。
「結婚しようにも、相手がおりませぬ」
栴檀は気持ちよく笑って、どんと自分の胸をたたいた。
「ここにおるではないか」
じつによくできた女だった。料理も裁縫もケチのつけようがない。最初のうちこそ母親も、姑らしい意地のわるい目で見ていたものの、一から十まで神経の行きとどいた女の献身的な働きぶりに舌をまいて、ついには降参してしまった。
あえて欠点をあげるとすれば、鳥を好むことだろうか。あの血に染まった夜の平樹安との不吉な約束を、栴檀だってけっして忘れたことはなかったのである。女が庭の木にとまる鳥の名を言い当てるのを、栴檀は露骨に顔をしかめながら聞いた。しかし、女とともに市場に出かけた際、栴檀はどうしてもとせがまれ、珍しい模様の鳥をしぶしぶ買ってやったのだった。
女がなにやら鳥に向かって言葉を発し、鳥がその言葉を繰りかえすのを見て、栴檀は腰が抜けそうになった。人間の言葉を話す鳥が存在することを、栴檀はこのときまで知らなかったのである。栴檀にはこの鳥が不吉に思えてならなかった。だが一方で栴檀は神も仏も信じていなかったから、よもやこの鳥が歌を唄うなどとは思っていなかった。
だが鳥は唄ったのである。みなが寝しずまった夜更けに、鳥はとつぜん歌を唄ったのだ。
*次回のアップは9月21日となる予定です。




