第二十三話 『地獄の七所巡り篇』 其の四 蛙の逆襲
どこからか風が吹いてくる。そっと目を開くと、窓が開けっ放しになっていた。真夜中らしかった。瑞生はベッドに横たわっている。明かりのついた、見知らぬ部屋。
質素なワンルームで、配置された家具の構成やその色のトーンなどを見ると、若い男性のひとり暮らしといった感じである。テーブルに置かれたスマホが振動していた。自分のスマホではなかったが、瑞生はためらいもなくスマホをとって耳にあてる。
「ねえ、あの考えってまだ変わってないわけ?」
聞きおぼえのある声。詩梁の声だ。
「‥‥なんのこと?」
「一年後に瑞生が就職のためにここを離れる、って話だよ」
瑞生は言葉につまる‥‥はずだったのだが、瑞生の口は勝手に動いていた。
「うん。僕の考えは変わらないよ」
「確認するけど、それって、瑞生があたしを捨てるってことでいいんだね?」
詩梁の声はひどく苛立っていた。
「違うよ。詩梁が遠距離恋愛はイヤだって言うから、そうせざるえないじゃないか、って話だろ。詩梁とはもう何度もこのことについて話しあったはずだよ」
もちろん瑞生自身には話の流れがまったく理解できない。だが瑞生の舌はまるで自分の意思が存分に反映されているかのようにすらすら動くのだった。詩梁と瑞生はこの件でながいこと揉めている感じであった。少なくともそういう設定になっているらしかった。
こういった詩梁との痴話喧嘩が、メグの用意した第四の地獄なのだろうか。詩梁の話を聞きながら瑞生は頭の隅で思った。‥‥だとしたら馬鹿げてる、と瑞生は思うわけである。
そもそも仮想空間に詩梁のコピーをつくって、こちらが一方的に付きあわせているだけなのである。別れ話がどうこうなんて、茶番にもほどがある。しかも、話を追っているかぎりでは、どうやら別れを切りだしたのは瑞生のほうなのである。瑞生は呆れたように顔をしかめた。
「でもさ、それってちょっと勝手すぎない?」
電話のむこうの詩梁が少し声を荒げた。
「そうかな」
「あたしの都合なんて、どうでもいいわけ?」
「けっしてそういうわけじゃないよ。でも僕の都合だってある。この土地じゃ就職できる職業がかぎられるから、本州のほうに引っ越さざるえないんだ」
「一年後って、意味わかんないんだけど」
「僕は来年になれば四年で、本格的に就活がはじまる。そうなると就職する会社を選ばなきゃならなくなるだろ」
詩梁は黙って話を聞いていた。
「それをわかってて、一年後になってとつぜん詩梁にそんな話を切りだすわけにはいかないよね。もちろん僕は詩梁のことがいまでも好きだよ。でも詩梁が遠距離恋愛はイヤだって言うんだから、僕が北海道を離れる時点でこの関係を終わらせよう、っていう話じゃないか」
ながい沈黙。まるでスマホの向こうに誰もいないような深い沈黙だった。しばらくしてから詩梁が言った。
「‥‥ねえ、これから会って話せる?」
「いまから?」
「うん。こういうことは瑞生と顔をあわせて話すべきことのような気がするんだ」
「いいけど、どこで会うの?」
「瑞生の住んでるマンションの近くの公園でいいよ」
「わかった。‥‥でも詩梁と会って話すのはたぶんこれで最後だよ」
ふたたび深い沈黙。
「瑞生って、どこまでも自分勝手だよね」
詩梁は吐き捨てるようにそう言って、電話を切った。瑞生はスマホをそのままテーブルに置いた。それからベランダに出て下を見おろすと、たしかにすぐ近くにひとけのない公園があった。自分の服装を見てみると、ちょっとした外出には支障のなさそうな感じであった。瑞生は部屋に戻り、財布だけズボンに突っこむと、ドアの鍵もかけずにマンションを出た。
公園にはすでに詩梁の姿があった。たぶん詩梁はここから電話をかけていたのだ。薄手のジャンパーを着ていても寒いのか、軽く足踏みしている。詩梁はスマホを耳にあてて誰かと喋っていたが、瑞生の姿を見ると、すぐにスマホを握っているほうの手をおろした。
詩梁は瑞生のつくったコピーの詩梁よりもいくらか若かった。二十才前後といったところだろうか。高校時代の面影に近づくような幼さがわずかに目に残っている。詩梁はそのいくらか幼い目で瑞生のほうを精いっぱい睨みつきてきた。
「最後にもう一度だけ確認するけど、瑞生は自分の気持ちを変えるつもりはないんだよね?」
「ああ、変わらないよ。大学を卒業したら、本州のほうで就職するつもりだ」
「どうしてこっちじゃダメなわけ?」
「‥‥これじゃ堂々めぐりだな。こっちだとどうしても就職できる職業の選択肢が狭まるんだって何度も言ってるじゃないか。逆に聞くけど、詩梁はなんでそんなに遠距離を嫌がるんだよ」
「あたしはつねに好きな人にそばにいてもらわないと困るわけ」
「詩梁って、そういうとこあるよな。依存体質というか。でもさ、学生のあいだはともかく、社会人になったら、どのみちそう頻繁に会うことなんかできなくなるよ」
詩梁はしばらく黙りこんだ。そしてふたたび口を開いた。
「‥‥こういうのって、瑞生のなかではもう決定していることなの」
「そうだよ。何度も言ってるじゃないか」
「ほんとにそれでいいんだね?」
「どういう意味だよ。まるで脅しみたいな言いかただな」
「わかったよ‥‥出てきて」
詩梁がそう言うと、すぐ近くの木陰から女がひとり姿を現した。
「ひどいやつに引っかかったもんだね」
「ほんとだよ、もう」
シャツのうえにシアーブルゾンをルーズに羽織り、タイトなフレアパンツを履いて、薄暗いなかでも金色に染めた髪がやたら目立つ、見るからにタチのわるそうな感じの女だった。だがその女は、以前に詩梁といっしょに、そのカレシとともに一度だけダブルデートした記憶があった。少なくとも瑞生の頭にはそんな記憶がある。女も女で、瑞生の顔をするどく睨みつけているのだった。
「さっき電話で話したときに言ったけど、あとでカレシたち来るから」
女が詩梁に言った。
「カレシたち?」
瑞生の問いかけを無視して、詩梁と女は小声でひそひそ話しはじめた。しばらくしてから公園のまえの道に数人の男たちが通りかかり、女が叫んだ。
「こっち、こっち」
女が手招きすると、四人の男たちがぞろぞろとこちらにやってきた。
「そいつかよ、詩梁のこと、もてあそんだやつってのは」
「うん、こいつ」
詩梁がうなずいて瑞生のほうを顎でしゃくった。
「わるいやつだな」
男たち、といっても、彼らはまだ少年らしかった。みな揃いも揃ってブルゾンとジーンズという組みあわせの格好だった。そのうちのひとりが瑞生のほうにまっすぐ歩いてきて、いきなり瑞生の腹に膝で蹴りを入れた。加減のわからない人間が、力まかせに暴力をくわえた際の無慈悲な激痛が、瑞生の腹部を襲う。瑞生は腹に両手をあててうずくまる。
「なんだよ、弱っちぃな」
「もっとやっちゃいなよ」
そう言ったのは紛れもなく詩梁であった。瑞生は耳を疑った。少年のひとりが、腹を押さえてうずくまっている瑞生の首に蹴りを入れる。まるでサッカーボールでも蹴るようなむちゃな蹴りかただった。人間の急所に暴力をくわえているという自覚なんてまるでなかった。瑞生はふらふらと地面に倒れた。
「おいおい、こんなので終わりじゃねえからな」
女のカレシがそう言って、地面にうつ伏せになって倒れている瑞生の腹に靴の先をねじこみ、瑞生の身体をむりやり横向きにした。そして少年は無表情のまま瑞生の胸に蹴りを入れる。
信じられないことに、詩梁と女が声をそろえて笑った。もちろんメグがこうした世界を描き出しているだけであることは瑞生も頭の隅ではわかっている。だがこうもリアルにやられると、瑞生のメンタルも削られる。瑞生はうめき声をあげた。
やがて他の少年たち三人は笑いながら、交互に瑞生の腹に蹴りを入れはじめた。瑞生がうめくたびに、彼らの単純そうな神経のどこかを刺激して、暴力は際限なくエスカレートしていくのだった。瑞生はぐったりして地面に突っ伏した。女が瑞生のポケットを手でまさぐり、財布を抜きとった。少年たちが足をとめて歓声をあげる。
「いくら入ってんの」
「‥‥五千円ぽっち」
「なんだよそれ。少なすぎじゃね」
「でもクレカがあるよん」
女が財布から抜きだした一枚のカードを二本の指にはさんで、頭上にかざした。
「そんなの持ってんのか。そいつ、大学生だろ」
詩梁が口をはさむ。
「親が持たせてんのよ。だからたぶん限度額もけっこう高めのはずなんだ。暗証番号聞き出して」
「カノジョなんだから、それぐらい知らねえの」
詩梁がわざとらしく笑い声をあげる。
「馬鹿じゃないの。カノジョだからって、そんなの知ってるわけないじゃない」
「おい、カードの暗証番号いえよ」
瑞生は顔だけあげて、そう言った少年の顔を黙ったまま睨みつける。他の少年が瑞生の髪の毛をつかんで、自分の顔を近づけながら言った。
「素直に言っちゃったほうがいいよ。そうしないと、また傷が増えるだけなんだからさ」
無駄に負けん気のつよい本来の瑞生であれば、そんなことは口が裂けてでも言わなかっただろう。しかし口が勝手に動いて、四桁の番号を喋っていた。
「あんがとよ。はい、これ教えてくれたお礼ね」
少年のひとりがそう言って、足で思いきり瑞生の顔を蹴りあげた。それからまた少年たちの暴行がつづいた。少年たちはまるで、誰がターゲットにたいして致命傷を与えられるのかを競うかのように、瑞生の腹や背中を蹴りつづけた。少年たちはもう歯止めがきかなかった。
ここまでやると相手が死ぬかもしれないということが、なぜこの少年たちにはわからないのだろう、と瑞生は思った。しかし、女と同じように節度もなく染めあげた金髪や、ファッショナブルという形容とはほど遠い、身につけたブレスレットなどのアクセサリーのセンスを見ると、彼らにそうした疑問を抱くほうが愚かなのかもしれなかった。おそらく彼らは、他人の命を丁寧に扱えるほど賢くはないという、ただそれだけのことなのである。
それからも少年たちの暴力はながくつづいた。瑞生の意識はしだいに薄らいでいった。
いつのまにやらそばにメグが立っており、瑞生の顔をじっと見おろしていた。瑞生はメグを睨みつけ、血の混じったツバを吐いてから笑いを洩らし、そして言った。
「ろくでもねえ地獄だな。リアリティもくそもないじゃないか。別れ話がもつれてカノジョの友だちに殺されかけるなんてさ。こんなバカな話、あってたまるかよ。もっと言うと、お前らしくもない」
メグは気の毒そうに瑞生の目を見つめながら言った。
「でもねこれ、ほんとうにあった話なのよ」
瑞生はメグを見あげたまま表情が固まる。
「まさか‥‥嘘だろ」
「2024年に北海道の江別市で実際に起こった話なの。それに、殺されかけた、わけじゃないの、殺されてしまったのよ。加害者たちはもうみんな逮捕されてるけどね」
「こんなことがほんとうに起こったのか」
メグは目を閉じて首を振った。
「信じられないでしょ。あたし、瑞生クンに好意もってるから手加減くわえてるけど、この被害者の男の子、ほんとは全裸にされて殺されたんだ。事件のおこった十月後半の北海道の夜なんて、ほとんど冬といってもいいくらいの寒さなのに。おまけに加害者たちは、そんなとこをスマホで動画撮影までしてるのよ」
瑞生は少年たちに暴力をくわえられていたとき以上の悲痛なうめき声をあげた。
「マジかよ‥‥」
「うん。不謹慎な言いかたかもしれないけど、通りすがりの不良たちに同じことされるほうがよっぽどマシだよね。しかもさ、とんでもないことに、カノジョの女も含めて、加害者たちは男の子を殺害したあと、コンビニに行って盗んだクレカでタバコを買おうとしてたりしてたんだ。そういう話を被害者が知らないだけ、まだ救いなのかもよ」
「むごたらしい話だな‥‥」
メグはうなずいた。そして右手の人さし指を自分の顎に当てながら話をつづける。
「でもさ、女のほうはこういう性格なんだから、いつかは似たような事件起こしてたと思わない?」
「‥‥まあ、そうだろうな」
「このカノジョのほうの女はもともとストーカー気質みたいなものがあって、同性の友だちにたいしても粘着気味につきまとうところがあったらしいのよ。気味わるがられて、高校を卒業する頃には、学校にはもうひとりも友だちがいなかったみたいだけど。かわいそうなのは被害者の男の子のほうだよ。進学校に通ってたような真面目な子だったのに、地雷女にたまたま掴まっちゃったってだけなんだから」
瑞生が腹を押さえながら顔をあげてメグに訊いた。
「いったいなんでこんなことが起こるんだ?」
「そうねえ。加害者側の家庭環境、受けてきた教育のレベル、とことんわるいほうに形成されちゃった友人関係、思春期の残り香を内包した年齢期の男女の色恋ごとのむずかしさ‥‥」
「いやさ、そういういかにもな機械的分析はいいから。どうして恋愛関係だった相手がここまで手のひら返して残酷なことできんだ、ってお前に訊いてんだよ」
「そんなの本人に聞いてみなきゃわかんないわよ。本人に聞いてもわかんないかもしんないけど。抽象的でポエムな分析したって瑞生クンは撥ねつけるでしょ?」
瑞生は口から血のかたまりをぺっと吐き出し、メグを見あげながらうなずいた。
「まあな」
「そうそう、日本語でうまい言いまわしがあるわ、かわいさあまって憎さ百倍、ってやつ。あたし的にはこれがいちばんしっくりくるんだけど」
「たしかにそれが当たらずとも遠からず、ってとこなんだろうな。もちろん、それだけでは納得いかない部分もあるけど」
「もしかしたら、一年後、ってのが気に障ったのかもね。地雷女のスイッチみたいな響きじゃない?」
瑞生はまた血反吐を吐き出して、首を縦に振った。
「女にしかわからない、嫌な響きだったんだろうな」
「特殊な女にしか、だよ。女がみんなこんなんじゃないもの。このカノジョのほうの女の性格の異常さに気づいて、学校の同級生の女の子たちはみんな離れていったわけだし」
「あの女から離れなかった女は女で、やっぱちょっと変わったとこがあったんだろうな」
メグはしきりに何度もうなずく。
「そういうことになるね。類が友を呼んじゃうのが世の常ってやつだから」
瑞生は苦しそうな表情をしながら黙ってうなずいた。
「‥‥それにしてもまあ、こんなことがほんとうに起こったんだな」
「アカの他人ならまだしも、知ってる人間にこれやられちゃうと堪んないだろうね。正確にいうと元カノってことにはなるけど。痴情のもつれで、刺して刺されてってのは世間によくある話だけど、ここまでひどい話はそうそうないんじゃないかな」
「たしかにこれは地獄だな。参ったよ。これをほんとうに経験した人間が実際にいるなんて、信じたくないくらいだ」
「ほんとだよ」
しばらくのあいだふたりは黙りこみ、瑞生の荒い呼吸だけがあたりに響いていた。
「なあメグ‥‥頼むから、僕をひとりにしてくれないか」
瑞生が消え入りそうな声で言った。
「どうして? ケガの手当てとかしてあげようと思って出てきたんだけど」
「よけいな真似しないでくれ。すでに終わってしまった話とはいえ、誰かがこの男の子が受けた心や身体の痛みを分かちあってあげなくちゃいけない。そしてその誰かってのは、この僕なんだ。‥‥AIのお前にも、こういう気持ちがわかるか?」
しばしの沈黙のあと、メグは言った。
「うん‥‥わかるよ」
メグは神妙な表情でうなずき、瑞生に向かって優しく微笑むと、くるりと足の向きを変え、静かにその場を立ち去っていった。
痛みを堪えながら、瑞生はどうにか身体を仰向けにした。北海道に行ったことのない瑞生が実際には見たことのない、澄んだ空に散りばめられた星々の輝きが目にとびこんでくる。世界はこんなにも残酷で、こんなにも美しい。瑞生は心の底からそう思った。
瑞生の目にはとめどなく涙が溢れてくる。なぜかはわからないが涙がとまらなかった。見たこともない、会ったこともない人間。瑞生がそんな他人にたいしてここまで親身に痛みを共感したのは生まれてはじめてのことだった。
涙を流しながら、瑞生は心のなかでひたすらなにかを祈りつづける。それは無残な人生の終わらせかたをした人間にたいする、瑞生なりの鎮魂の祈りだった。意識が朦朧とするまで一心不乱になにかを祈り、張りつめた糸がぷつんと切れるように、頭のなかがからっぽになると、瑞生は寒空の下、ただただ涙を流しつづけた。
やがて瑞生は意識を失った。
*次回のアップは9月14日となる予定です。




