第二話 不正アクセス
ターミナル駅はやたら混みあっていた。途中まではわりとスムーズに進むのだが、改札の手前あたりで、ぴたっと身動きがとれなくなる。
誰かが期限ぎれの定期でタッチしたり、残高不足の電子マネーで通ろうとしてとめられたのだ。この世界のエキストラたちは、都市生活者のそうした些細な習性もリアルに演じてくれる。うしろにならんでいた人たちは、ピンボールの球がはじかれたように、改札をとって返してふたたびべつの行列にならびなおす。
瑞生は詩梁の言葉を聞きながしながら、はじかれて戻ってくる人々の顔を眺める。どれも似たような、ありふれた顔。それにどこかのっぺりとした顔つきだった。
仕方がないのだろう。この仮想空間が商業化されてからまだ間もない頃、過疎状態でだだっ広い空間を埋めるため、デスパート社が苦肉の策として群衆をAIに自動生成させるプログラムをつくったのである。
ネットにアップされている、それこそ無限といえるほどの画像の顔という顔から、眉や目や鼻や口や耳などのパーツをランダムに拾いあげ、平均的な人間の顔として違和感がないように生成するAIプログラム。身長や体重、服装や歩きかたの癖なども、もちろん不自然にならないようランダムに生成される。瑞生はその自動生成のプログラミングをこちらにも引っ張ってきた。
しかしやはりどことなく、とってつけたように人工的な感じがするのである。仏つくって魂入れず。まさにそんな感じ。それこそ、AIの描いた絵のように、無難で嘘くさい。瑞生はこのつくりものくささに不満を持ち、以前にもっと高精細な設定にしてみたことがある。仮想空間のプログラムに不正アクセスを働いている瑞生だけができる裏技だ。
高精細な設定にすると、肌のシワやシミ、産毛、化粧の濃淡、絶妙な髭の剃りのこし、各人各様の視線の動きかたなどが付け足され、彼らはいかにも人間らしいリアルな顔つきになった。しかしそういう設定にすると、心なしか彼らの動きが遅くなってしまったような気がしたのである。彼らの喋る声もなんだかピッチが低くなった。ギガ配分。瑞生はひさしぶりにその言葉を思い出して、苦笑いを浮かべた。
たしかこの仮想空間のプロジェクトを指揮していた人間がよくつかっていた言葉だった。瑞生はその人間の名前を完全に忘れてしまった。実際のところ、瑞生ですら感心するほど頭のいい人だったが、どちらかといえば平凡な顔つきだったし、名前もどちらかといえば平凡な響きの名前だった。
その人間はこの仮想空間が完成するまえに、上層部から子会社への異動を申しわたされてプロジェクトから抜けてしまった。着ている服がダサいから異動を命じられた。という本人の弁は、照れかくしのジョークだったのだろうか。
瑞生はそのプロジェクトにかかわった最年少のエンジニアだった。もっとも、瑞生は瑞生で、仮想空間の完成を待つことなく、途中でひどく条件のいい額を提示され、よそのIT企業に移籍してしまったのだが。
学生時代から瑞生はコンピューターのプログラミングに長けており、国立大を卒業後、ソフトウェア会社に就職した。ほぼ単独で開発したセキュリティソフトが複数の企業に採用され、その納品先のひとつがデスパートであった。その縁もあって、新卒採用からわずか二年弱ほどでソフトウェア会社からデスパート社にめでたく引き抜かれたのである。
プロジェクトは各分野をそれぞれ異なるエンジニアが担当していた。空間の構築および制御、ユーザーのアバターの情報処理、仮想空間に滞在することによって蓄積されつづけるデータの暗号化など、各分野の精鋭たちが集められた。仮想空間本体のプログラムの構築だけは複数のエンジニアたちが担当していた。
瑞生は仮想空間そのもののセキュリティの担当だった。仮想空間への外部からのハッキング的な攻撃はもとより、正規の手続きを経ていない者の不法侵入、ユーザーのクレジットカードの情報やマイナンバーの暗号処理などのプロテクトを担当した。
自分が抜けてからはほかの人間が後釜についたので、それなりに付加された部分はあるのだが、基礎部分は瑞生がつくったといっていい。だからプログラミングのセキュリティを優雅にときほどき、無断でシステムに侵入して、こんなふうに本家の仮想空間とはまた別個の空間を独自にこしらえたり、仮想空間のプログラム本体にくっついているサブプログラムの細かな設定を変えることだってできるわけだ。
このことを考えるたびに瑞生は笑ってしまうのである。なんちゅうゆるゆるなセキュリティなのか、と。とはいえセキュリティを設定した当人によるセキュリティ破りなのだから、そこを一笑に付すのはもちろんフェアではないだろう。瑞生は表面上はもののみごとに完璧なセキュリティのプログラミングをつくった。そこに最初から作為的な抜け穴がつくられてあるなんて、ほとんどの同業者たちは、虫眼鏡で覗いたってわからないはずだ。
瑞生がまだプロジェクトに関わっていたとき、いわば事前テストのため、一度だけだが、試しに自宅のパソコンからデスパートのシステムにアクセスしてみたことがある。
帰り際に仮想空間のセキュリティのプログラミングのあらゆるアラームというアラームをはずし、外部からのアクセスの痕跡がまったく残らないよう、巧みなトリックを施した。美術館の警備員が赤外線センサーを全部オフにして、外部にもつながっている監視カメラに無人のループ画像を送り、ドアのロックをはずして仲間の泥棒を手招きする、みたいなものである。かなり前から用意周到に準備を進め、すべては抜かりがないはずだった。
ところがプロジェクトの統括者にすぐさま不正行為が発覚してしまった。あとからわかったことだが、彼は瑞生の担当していたセキュアをも含めたプログラミングの総体をつねに監視していたのだった。
翌日、朝イチで瑞生は統括者の常駐している個室に呼びだされ、理由を問いただされた。こんなことは完全に想定外だったから、瑞生は事前に言いわけなどまったく用意していなかった。だが瑞生はそれなりに機転がきくタイプだったから、夜中にセキュリティのプログラミングにミスがないかと不安になり、いてもたってもいられなくなって、自宅のパソコンからついアクセスしてしまったのだ。という理由を無理からこねくり出した。
統括者はうんうん頷きながら瑞生の話を聞いていた。まるで人生相談を親身になって聞いてくれているみたいな感じであった。彼は瑞生の話を信じてくれているようだった。結果、驚いたことにお咎めなし。もちろん、二度とやらないように、という注意は受けたが、瑞生が想像していたほど厳しい口調ではなかったのである。
個室に呼びだされた時点で、瑞生はそれなりの覚悟はあったのである。いくら雇用契約を結んでいる人間とはいえ、社外のパソコンからの無断侵入である。即刻解雇はおろか、警察に突きだされる覚悟だってあったのだ。だが文字どおりの「口頭注意」で済んだのである。瑞生がプロジェクトから外されずに済み、エンジニアとしてのキャリアが汚れなかったのは、ひとえにこの人のおかげといっていいだろう。
だがいまになって思えば、こういったことも最初から折りこみずみだったのかもしれない。瑞生も含めて、しょせんは寄せあつめのエンジニア。警戒されないほうがおかしいのだ。統括者本人はそういったことを口に出すことも、態度にあらわすこともけっしてなかったものの、瑞生だって彼の立場だったら、やはり同じことをしていただろう。
また、はじめからそういった意識がなければ、瑞生の仕掛けた巧妙なプログラミング上のトリックを、そうたやすく見破られるはずはないのだ。そもそもセキュリティのプログラミングに関してはズブの素人であるはずの人間に簡単に見破られるなんて、ロシアやアメリカの高度なハッカー集団にプログラムごと破壊されるほうがまだマシである。
おそらく最初から自分の足元に網が広げられていたのだろう。透明でおそろしく目のこまかい精緻な網が。誰かが少しでもおかしな真似をすれば、たちまちその網が引き揚げられる、たぶんそんな仕組みになっていたのだ。当時まだもうちょっと若くてプライドの高かった瑞生は、必死になって自分にそう言い聞かせたものだった。
*
そしてその日の午後に統括者の異動が決まった。本人にとってもずいぶん唐突な話らしかった。おまけに上層部は彼に引きつぎの時間さえ与えなかったのである。瑞生はとうぜんながら、自分のやったことが原因なのかと思ったが、統括者から話を聞くかぎりでは、まったくそういうわけではなさそうだった。ただ単に偶然が重なったわけである。彼は追いたてられるように荷物をまとめ、つぎの日には異動先である子会社へと移っていった。
この統括者は瑞生のハッキングに関して、上層部の人間にひとことも報告はしていない。それがけっして気のせいなんかではないのは、瑞生に接するほかのエンジニアたちの態度が、以前のままだったことからも窺える。まさか。むしろ瑞生は頭をかかえたものである。ムチのない懲罰がいちばん堪えるタイプの人間がこの世の中にはいるが、相手の心理をつい深読みしてしまう瑞生などは、まさにそのタイプなのである。
まあどちらかといえばとつぜんの辞令によって、そうした報告もままならなかったと考えるほうが正しいのだろう。けれども、瑞生はどこか自分のやったことが、総務の人間が会社の金でもチョロまかすような、ありふれた、とるにたらないことであるかのように暗に指摘された気がして、妙にへこんだのである。子供のいたずら。そんな風に扱われた気さえした。そして統括者にとっては実際にそんな感じだったのかもしれない。酸いも甘いも嗅ぎわけた⋯⋯というのとはまた違う感じだったが、不思議とものごとを達観した印象のある人ではあった。
彼がその後もプロジェクトに残っていれば、自分のぶちぬいた穴など、完膚なきまでに塞がれていただろうと瑞生は思う。徹底的に再発防止策を練って、それを実行していただろう。そういう実務家的な側面もあわせ持った人ではあった。彼がそのまま会社に残っていれば、瑞生が仮想空間のプログラムをコピーして、さらには詩梁が一般ユーザーとして残したデータもコピーしてこちらで恋人にするなんてことは、おそらくできなかったはずだ。
瑞生は結局最後まで上層部の人間とは一度も顔をあわせたことがなかった。引き抜きなので、面接らしい面接もなかったのだ。ただ、なぜこんな有能な人間を上層部は軽くみているのか、という素朴な疑問だけが、瑞生のなかでずいぶんあとまで尾を引いたのである。