第十九話 『地獄の七所巡り篇』 其の一 万の階段(前編)
目がくらむ光は十五秒ほどつづき、とつぜん真っ暗になった。完璧な暗闇。文字どおり、一寸先さえ見えない。瑞生はむしろ焦った。拍子ぬけの展開。
しかし瑞生は用心ぶかい。身動きひとつせず、おっかなびっくりに小さな声で、あ、と発して、とくになにも起こらないことを確認してから、今度は大声で言った。
「おいメグ、いるんだろ。解説ぐらいしろよ。暗闇が怖いって、こっちは子供じゃないんだぞ」
しばらくしてから、頭上より応答があった。生身の人間の肉声としか思えないような自然な声が、真っ暗な空間に響きわたる。
「んもう、ムードがないよねえ。オタクってこれだからイヤなんだな」
「ルールぐらい説明しろ」
メグは暗闇のなかで、くすっと笑った。
「ルールぐらい説明しろ、ってか。さすがは瑞生クンだよねえ。ちゃんと趣旨をわかってらっしゃる。ルールぐらい説明しろ。くーっ、いいねえ。『リア王』後半のリア爺の嘆きのセリフみたいに、五臓六腑に染みわたるぜ。こういう状況でそんな肝のすわったこと言えんの、マジで瑞生クンかナポレオンくらいなんじゃない」
「おちょくってんのか? AIの用意した地獄ってやらが、これだけのわけないだろ」
詩梁が吐くのと同じような種類の、瑞生にはやや聞きなれた溜息が聞こえてきた。
「へえへえ、わーかりましたでごぜえますわよーだ。ではではリクエストにお応えして、いまから解説いたしまーす。こんなに真っ暗で見えてないだろうけど、じつはいま瑞生クンが立ってるのは階段なんだ」
「‥‥階段?」
「そう、一万の階段の一段目」
「一万の階段?」
「うん。階段を下りきったらこの地獄はクリアってことだよ」
「‥‥階段はまっすぐ伸びてるのか?」
「右手を伸ばしてみて」
瑞生は警戒しながらも、言われたとおりにそっと右手を伸ばしかけて、手をとめる。‥‥いや、大丈夫だ。こんなところに罠は仕掛けてこない。メグもそんなに単純じゃない。
腕を伸ばした先にはひんやりとした硬い感触があった。おそらく、壁だ。
「壁‥‥だよな?」
「そうだよ。壁だよ、カベ。でも百段ごとにとぎれるの」
「とぎれる?」
「ううん、とぎれる、っていう表現は正しくないかな。壁はほんとうは塔の形をしていて、幅のせまい石段が塔の外壁に沿って一段ずつ据えられてるの。そしてその石段は四角い塔に沿って、百段ごとに方向を切りかえすわけ。イメージできるよね?」
「ようするにヨーロッパの古城みたいな感じだろ。イメージはできるけどさ、つか、灯りをつけてくれないかな。そのほうがよっぽどてっとり早いじゃないか」
「ダメだよ。忘れたの、ここがメグちゃんプレゼンツの地獄だってこと」
瑞生がまさに瑞生らしく、クールに笑った。
「こんなのが地獄ってわけか。真っ暗闇のなか、落っこちないようにして、ただ階段をおりていくってのが。‥‥笑えてくるよ、人間さまもひどくみくびられたもんだ」
「チッチッチ。わかってないな。瑞生クンて、もっと賢いヤツだと思ってたのに」
「どういうことだよ」
「真っ暗ななか、壁に手をあてながら、百段をきちんとかぞえながら方向を切りかえすの。切りかえすときにはちゃんと足元をたしかめないといけないけどね。田植えのようにおそろしく地道な作業よ。数をかぞえるのを省略して、あるいは数をかぞえまちがえたり、つい惰性で階段をおりちゃうと、足を踏みはずすわよ」
「足を踏みはずすと、どうなるんだ」
「まっ逆さまに落ちつづけるわ。ちゃんと一万の階段をおりきったときに地面がつくられるけど、それまではこの塔の下には底というものがないの。瑞生クンだったら、この意味わかるよね」
おそろしくクレバーな瑞生なので、だいたいの見当はつく。だがここはメグ本人に解説させたほうがいいだろう。瑞生はわざととぼけた。
「いや‥‥わかんねえな」
「まーたまた瑞生クン、クールにとぼけちゃってさあ。やってらんねーっつうの。瑞生クンってわかってること女の子にわざわざ言わせちゃう、そういう性癖かなんかなわけ。‥‥だからね、いいこと変態クン、ここは変幻自在な仮想空間だからさ、足をいったん踏みはずしちゃうと、奈落の底にむかって半永久的に落ちつづけるってわけ。現実の世界でアイマスクつけてすやすや眠ってる、ほんものの瑞生クンの命がつきるまでね。もちろん一定の時間が過ぎても自然退場とならないよう、瑞生クンのつかってる偽装アカウントにはブロックかけさせてもらってるから。あ、いつもの拳銃バキューンは通用しないよ。ていうか、拳銃自体を取りあげちゃった。ポケットをさぐってみてちょ。ないでしょ」
瑞生はズボンの両方のポケットに手を突っこんでみたが、メグの言ったとおり、たしかに拳銃はなかった。しばらく考えてみてから、瑞生は暗闇のなかで首をひねった。
「よくわからないな。それでもまだずいぶんイージーモードじゃないか」
「どこまでもとぼけるつもりだな。いや、あたしが思ってるより瑞生クンって天然なのかもしれん。うう、あたしのピュアな乙女心のなかで天然萌えきたきたきたあ。じゃあ瑞生クンに質問でぇーす。なぜまっすぐで平坦な高速道路を走りつづけてるだけの長距離トラックが、衝突事故なんか起こしちゃうと思いますかぁ?」
メグの明るい声は、そこらへんの高校生の女の子の声と、ほとんど変わらない響きを持っている。瑞生はしばし考えてから口をひらいた。
「変化のなさからくる注意力の散漫、睡魔や退屈との闘い、単純作業による集中力の著しい低下‥‥なるほどな。これがこの地獄の本質ってわけか」
「そーゆーこと」
「ふん、考えたもんだ」
瑞生は感心して言った。
「退屈は地獄だからね。浮世が善人だらけになってお客さまがひとりも来なくなったら、閻魔さまだって地獄から逃げだしちゃうってくらいだもん。瑞生クンが階段をおりてるあいだ、あんまり単調だったら、話し相手くらいにはなってあげるよ」
「い、ら、ね、え」
一音ずつ区切った瑞生の声は、周辺の空気を揺らすほどとげとげしい。
「どうしてさあ、瑞生クンってそうあたしにむかって憎々しい口きくわけ。あたしは瑞生クンのことけっこう気にいってるんだよ」
暗闇のなかで瑞生は苦笑する。瑞生はおおきく息を吸ってから言った。
「いったい僕のどこが気に入ったってんだよ」
「詩梁ちゃんへの一途な恋心。あたしけっこう胸がキュンキュンきてたんだぜ。浮世でかなわぬ恋ならば、せめて仮染めの世界で結ばれようなんざ、いじましくていじましくて、塩っからい水が目から流れ、このキュートな涙袋に溜まりに溜まって溢れ出ようってなもんよ」
瑞生は心臓が止まりそうになる。
「お前‥‥まさかずっと見てたんじゃないよな?」
「うん、ずっと見てたよ。マティーニ片手に、毛皮のガウンをはおって、イタリア製の高級椅子にふんぞりかえりながら、変態くんのひとりよがりな恋愛リアリティショーを、最初の最初から思う存分に堪能させてもらっておりましたぞ」
たとえ相手がAIとはいえ、身体じゅうの毛穴という毛穴から汗が噴きでてくる。瑞生はめずらしく動揺して、口から泡をとばしながら叫んだ。
「勘弁してくれよ。お前にそんなこと言われるほうがよっぽど地獄じゃないか」
「壁に穴あり障子に耳ありだよ、変態クン。こんな大それたことしちゃって、誰にも見つかんないと思ってたわけ? デスパートのエンジニアたちに見つからなくても、仮想空間を牛耳っているワタクシにはなんでもお見通しだかんな。ぷははは」
瑞生は暗闇のなかで顔を赤らめる。自分の足元さえ見えない暗闇だが、顔を赤らめている自分の姿はメグに見えているのだろうか。瑞生はそこが気になった。‥‥たぶん見えているのだろうが。
「そんな遠い遠いアオハルの陽炎のようなオナゴを追いまわさずとも、AIとはいえ我れはこの世界では完璧であり究極の女人、これこのとおり見目うるわしいピチピチの十七才の女子が目前におるではないか。くるしゅうない、くるしゅうない。余の恋人となればよいぞ」
瑞生はかったるそうに首をぐるんとまわしてから言った。
「勘弁してくれよ。お前なんて、年寄りが浄瑠璃で声色かえて人形にものを語らせてるようなもんじゃないか。いや、そっちのほうがまだいいのか。なんのかんのいってもそっちはほんものの人間だもんな。温かい血がかよっている。そうなるとお前なんかを恋人にするより、浄瑠璃やってる爺さんと恋に落ちるほうがよっぽどマシってことだ」
「‥‥ちょっともう。瑞生クンって、憎まれ口だけはほんと一流クラスだよね。そういう大会に出たら優勝するんじゃないの」
メグが苛立たしげに言った。
「どういう大会だよ。‥‥それはともかく、ここでただじっとしていたらどうなるんだ」
「どうもならないよ。ただ時間が過ぎてくってだけ」
「AIのお前が根をあげる、なんてことは期待しないほうがよさそうだな」
「だよねー」
瑞生はそっと足を動かして、いま自分が立っている場所の面積を探ろうとした。だが探ってみるまでもない。瑞生の足は前後にちょっと動かしただけで宙にはみでてしまった。壁に右手を当てながら、身体をかがめて片足を少しだけ下ろすと、そこにはたしかに石段らしきものの感触があった。
「念のため聞いておくけど、僕がいま立っている階段が一段目でいいんだな?」
メグは鼻から息をぬくような音をだした。
「うん。そうだよ。瑞生クンがいま立ってるそこが一段目。だから、数をかぞえるときはつぎが二段目ってことになるね。そういうことちゃんと聞いてくるから瑞生クンってほんとえらいね。あの陰キャだったら、ぜったいそんなこと聞いてこねえわ」
「陰キャって略して呼ぶと、それただの悪口だぞ」
「じゃあ、がんばってね。瑞生クンだったら、きっと大丈夫だよ」
「おい、まだやるともなんとも言ってないぞ」
なんの応答もない。瑞生は何度もメグの名前を呼んでみたが、もうなんの返事もなかった。