第十七話 もうひとりの眠りの姫
メグは静かに目を閉じる。ご陰キャさまもぴたっと動きをとめた。
しばらく経ってから、瑞生はズボンのポケットから拳銃を取り出して、メグの身体に狙いをさだめる。足元から辿っていき、均整のとれた胴体をゆっくりなめ、首筋に焦点をあわせた。引き金をひこうと、寸前まで指をかける。
だがすぐに銃口をうえに向ける。ご陰キャさまの立っている背後の空の、どこからか(しつこいようだがどこかのトイレには違いない)伸びてきていた花子さんの太い腕が、瞬く間にするすると引っこんでいった。何本もの花子さんの腕が登場すると仮想空間が混乱するため、ひとつの区域に、同時に何本もの花子さんの腕が出現することはない。しかしメグが公安の男ともども遠くに放り投げたから、こうしてめでたく復活するわけだ。
もちろん犯罪防止のための花子さんのプログラムは、銃の標的になっているのがAIで生成された人間であるかどうかを判別できない。少なくとも自分はそんな機能をプログラムに盛りこんだ記憶はない。ほんとうにメグがスリープ状態になっているか、銃を撃ってたしかめてみたかったが、自分で起動してしまったプログラムに阻まれている。マヌケな話だ。これでは策士策に溺れるってやつである。
それにしてもデスパートのエンジニアたちがここまで生身の人間のような個性を備えたAIを創造したのには頭がさがる。眠っているメグの妙になまめかしい肢体を眺めながら、実際に反乱を起こしかけているところまで育てあげたという事実にたいして、瑞生は鳥肌が立ってくるくらいだった。たしかにここまでの凄味は、そこいらのIT企業に棲息している平凡なエンジニアたちには、どう逆立ちしたって真似できない芸当だろう。
「ほんで、メグちん眠らせてどうするつもりっすか?」
ご陰キャさまが口を開いた。
「もう終わったのか」
「あんなの朝飯前っすわ。メグちんの言ったとおり、めちゃくちゃ単純なプログラムだったし」
瑞生はまたしても表情を歪める。それから瑞生は、ご陰キャさまの顔を見据えたまま、ぴくりとも表情をかえずにいった。
「よし、この子を襲おう」
ご陰キャさまは口をあんぐり開けた。
「は?」
「は、じゃねぇよ。人生は刹那の連続だから、この瞬間をふたりで楽しもうぜって言ってるんだ。AIとはいえ、こんなかわいい女の子を抱けるチャンスなんて、僕たちオタクには二度とこねえからな」
「うーん‥‥スンマセン、俺もう瑞生クンについていけないっす」
「いいからメグのスカートをおろしてパンツを脱がせってんだよ」
「‥‥ひょっとして瑞生クンてマジでサイコパスかなんか?」
瑞生とご陰キャさまは静かに睨みあった。しかしご陰キャさまはまだ、瑞生の言動をそのまま鵜呑みにはできないらしく、片方の眉をつりあげ、半信半疑であるかのような表情を浮かべている。このやりとりそのものが、自分を陥れるための巧妙な罠なのではないかと疑っているのだ。
ご陰キャさまが挑発するような口調で言った。
「こんなことして、またトイレの花子さんが腕を伸ばしてくるんじゃねえの」
「あれならもうスイッチを切ったよ。じつはあれも僕がつくったプログラムなんだ。自分でつくったやつなんだから、どうとでもできるさ」
ご陰キャさまはまた泣きそうな顔で言う。
「無抵抗な女子どうこうすんのやめようよ。俺そういうのぜんぜん趣味じゃないんすよ」
「草食にすぎねえか、そういうのは」
「瑞生クン、友だちいないっしょ。腹わって話せる友だちいないっしょ。俺もいないっすけど」
瑞生がまた拳銃を取り出して銃口を空に向ける。
「いいからごちゃごちゃ言ってないでその子のパンツ脱がせろよ」
「そういう脅しがきかないの、わかっててやってんすよね、瑞生クン。いいっすよ、撃ってみりゃいいっすよ。撃てないっしょ。俺、瑞生クンの仕掛けたカラクリわかってんすよ。頭のうえに拳銃を向けてんのは、そうしていれば花子さんが来ないからっしょ。ほんとうはプログラムをオフになんかしてないっしょ」
瑞生はご陰キャさまの靴の先に銃口を向けて一発撃ち、その反動のようにみせかけてふたたび銃口を頭上にかざした。ご陰キャさまの背後の空に、花子さんの腕がちらりと見えた。だがトイレの花子さんの腕は、瑞生が銃口を頭上にかざしたとたん、たちまち引っこんでしまった。
ご陰キャさまが指摘したとおり、単なる脅しに過ぎない。この状況でご陰キャさまに危害を加える意味なんかまるでないのである。けれどもさすがは拳銃の効果。実際に銃を発砲されて、ご陰キャさまは震えあがった。目が点になり、身体が痙攣でも起こしたような動きかたになる。たぶん指が震えているのだ。
瑞生にとっての仮想空間が「もうひとつのリアルな現実」であっても、ご陰キャさまにとってはそうではない。ただパソコンのモニターのまえでかたかたとキーボードを叩いているだけである。しかし、たとえモニター越しではあっても、自身に向けられた銃口は生身の人間による具象化された悪意そのものであり、SNSでの誹謗中傷のように相手の頭を打ちすえるのだ。ご陰キャさまはまるで催眠術でもかけられたようにのそのそと上半身を屈め、メグの履いているミニスカートを脱がせようと手を伸ばした。
だがその瞬間、メグの足が俊敏に動いて、ご陰キャさまの股間に必殺の蹴りをいれる。ご陰キャさまが悲鳴をあげ、同時に瑞生が間髪いれずに叫んだ。
「裏切りやがったな、このクソ女」