第十三話 消しゴムのような空が剥がれる
ふたたび瑞生が仮想空間に戻ってきたときには、花子さんの太い腕はぐったりと屋上の柵に乗っかったままぴくりとも動かず、屋上に立って両手で銃をかまえた公安の男と、自分の側頭部に銃口をあてたご陰キャさまが静かに立ちつくしていた。
瑞生は床に倒れたまま視線だけ動かしていたが、ご陰キャさまの中身(とカンタンに表現していいのかどうかはとりあえず置いといて)が戻ってきているのかがわからない。瑞生はしばらくのあいだ、じっとしたまま様子をみていた。
「瑞‥‥生‥‥クン‥‥もう動いてもいーの?」
ご陰キャさまが懐かしのいっこく堂のように、器用に口を動かさず言った。公安の男がやや腰を落とし、銃をかまえなおしたが、すぐにアクションに起こす気はなさそうだった。瑞生も小声で言った。
「いつ戻ってきてたんだよ」
「三十分まえくらいからっす。再開のサインとか聞いてなかったんで」
「そういや、そうだったな」
「んもう瑞生クンてばあ」
銃口を自分の側頭部にあてたまま、泣きそうな声でご陰キャさまは言った。
「じゃあ合図するから空間をめくってくれ。指をぱちんとはじくから、それから空間を剥がすんだ」
「ん。えーとですね‥‥いや、もうめくれはじめてるんすけど」
「え」
「そういうのって、現実の世界で、パソコンでプログラムいじってるときじゃないとできないんっすよ。俺はあくまでこの仮想空間から離れないと仮想空間を操作できないんっす。ただ単にプログラムをいじってるだけなんで。ほら、さっきからずっと、上のほうからめりめりって変な音してるっしょ」
床に倒れたまま上空に目を凝らすと、たしかにスマホの保護シールが剥がれるように、空の一部分がぴろんとめくれている。めくれた部分は無色透明で、それなりの厚みを持ち、そのまま自分の重さで横の空間を切り裂きながら、こちらに向かってじわじわと落ちてきている。いまのところはまだゆっくりとした速度だが、自重で加速がつきはじめるのは時間の問題に過ぎない。皮肉なことに、この仮想空間では現実の世界ではありえないようなことが起こっても、絶対的な物理の法則が作用してしまうのだ。
「ほら、ゆっくりっしょ」
「いや、途中から自重でとんでもない加速がつくんだよ。あのまま落ちてきたら、僕たちも下敷きになって身動きとれなくなるぞ」
瑞生は顔面蒼白になって立ちあがろうとした。しかし左脚の脛のあたりから血が流れていて、少し動かしただけで激痛が走った。
「マジかよ。公安に撃たれてる」
瑞生がそう叫ぶと、ご陰キャさまが非常にもうしわけなさそうな表情をした。
「いやあ、違うんっす。あの、それ‥‥それなんすけど、俺が撃っちゃったんす」
「は?」
「瑞生クンが眠ったあと、言われたとおり、床に落ちた銃を拾おうとしたときにさ、つい引き金の部分もっちゃって。そんでまあ、瑞生クンの脚パキュン、と。銃なんて見たことも触ったこともなかったんで」
「これ、お前にやられたのか」
「へへ。イエッス」
「マジかよ」
そんなやりとりをしているあいだにも、公安の男のすぐ後ろの縦の空間がめりめりと剥がれる。とんでもないことに、公安の男はしゃがみこんだかと思うと、一瞬でひょいんと空を跳躍して、剥がれた空間の裏側に両足をのせた。
「ふわえ」
ご陰キャさまが喉の奥からおかしな音を出した。透明な消しゴムのような質感に見える、めくった空間の裏側。その後ろの開いた空間はまるで星のない宇宙のように真っ暗だ。そしてその消しゴムのような空間の剥がれる速度がじれったさそうに、公安の男は剥がれた空間のうえでぴょんぴょん跳びはねはじめた。
「んで、これからどうするんすか」
ご陰キャさまが寝ころんだままの瑞生を見おろして、心配そうに訊いてくる。
「拳銃を落とせ」
いかにも同じ姿勢に疲れたように、自然にぶるぶる手を震えさせると、ご陰キャさまは拳銃を床に落とした。瑞生は手の近くに落ちた拳銃を拾うと、寝ころんだまま自分の側頭部に拳銃をあてた。ご陰キャさまがまた喉からおかしな音をたてる。
「いやいやそれちょっとズルくない」
「復活してもまたこの場所が出発点になるから、僕は二度とここに戻ってくることはない。仮想空間のプログラムのこの部分だけは、たぶんお前みたいな優秀なハッカーでも変更することができないと思う。『どこでもドア』みたいにユーザーに瞬間移動なんかされたら、提携する旅行会社のビジネスの邪魔をすることになるから、この部分のプログラムのハッキングには、他の箇所とはちがって念入りに何重ものプロテクトをかけてあるんだ」
「戻ってこないって‥‥あの、カノジョさんの死体をこのまま置いて、っすか」
瑞生はにっこり微笑んだ。なにもかも諦めた人間がみせる、じつにすがすがしい笑顔である。瑞生が変なテンションで、へらへら笑いながらご陰キャさまにあらいざらいぶちまけた。
「ありゃ単なるコピーだよ。これもなにかの縁だろうし、お前の弱みを握ってしまったから僕も正直に打ちあけるけど、あれは僕が知っているかぎりの本人の性格を打ちこんで、ほかの部分はAIで生成させて不正にコピーした紛いものなんだ」
「なんでそんなことしたんすか」
瑞生はとたんに顔が赤くなる。たしかに他人にあらためて真顔でそう問われると、急に自分のやっていることが恥ずかしくもなる。
「お前、それ言わせる気かよ」
日本のどこかの山で、今日も元気に跳ねまわっているはずのサルやイノシシなんかよりも、下手するとよっぽど純粋無垢なオタクの恥じらい。瑞生はニホンザルのようにさらに顔を赤くする。
「いやわかるんすけどね。たぶん学生時代に好きだった女の子とかなんでしょ。でもこういうのって、本人に見つかったらめちゃくちゃ恥ずくないすか」
「お前にそう言われんのも、まあまあ恥ずかしいんだけどな」
「‥‥つうことは、もしかして公安の男の狙ってるのって、ほんとは俺じゃなく瑞生クンなんじゃね」
「かもな」
瑞生はあっさりと認めた。
「でもこれでなにもかも終わりだよ。お前も二度とこの空間に戻ってくるな。剥がれた空間の下敷きになって、今度こそあいつに取り押さえられるぞ」
「いやあの、俺、身体を分割したりできちゃうんで」
「勝手にしろ」
公安の男とともに、剥がれた空が弯曲してふたりのすぐ頭のうえにまで落ちてきて、瑞生は引き金に指をかけようとした。だがまさにそのとき、どこからか聞きおぼえのある声がしたのである。
「君たち、危なかったねえ。でもグッジョブダイジョーブだよ、最強無敵のメグちゃんが助けにきてあげたかんね。きゃはは」
いつのまにやら屋上の手すりに両足をのせて立っていたメグが、垂れ落ちてきていた空の端を両手でがしと持つと、げらげら笑いながら、まるで布団でも敷くように、腕をしならせてひょいと押しかえした。それからパズルのピースのようにぴたっとはまった空を、手のひらで思いきりパシンと打ちすえると、空間をたちまちもとどおりにしてしまったのだった。