第十二話 ミノタウロスとテセウスと眠りの姫
天井の孤独なキャンバス。サルバドール・ダリ顔負けのシュールな絵面が目のまえで繰り広げられたあとでは、まっしろな天井はむしろ視神経が針で突き刺されてでもいるように、きりきりと痛いくらいだ。
瑞生はしばらくのあいだ、ベッドの上でぼうっとしていた。ベッドの脇のチェストに置かれているめざまし時計に目をやる。時間はまだまだある。なんせ二時間だ。
三十分ほどぼんやりベッドに寝ころがっていたあと、ようやくデスクに向かい、パソコンの前に座った。パソコンの画面にはコピーのほうの仮想空間のプログラムが映しだされている。
瑞生の内部で、突如として本家の仮想空間をプログラムごと爆破してやろうかという衝動が、むらむら湧きあがってくる。仮想空間のプログラム自体は、専門外の瑞生には自由に改竄することができないが、セキュリティの基礎部分は自分がつくったもので、後さき考えずに爆破することだったら比較的容易なのだ。
ご陰キャさまがハッキングのために複数のプロバイダーを経由させ、自宅のパソコンのIPアドレスを特定できないようにしている、という話を瑞生は思い出した。仮想空間にいったん戻ってから、ご陰キャさまにその方法を聞き出すのもひとつの手である。そしてふたたび現実に戻ってきて、ご陰キャさまに教わったとおりにIPアドレスに細工を施して、本家のほうの仮想空間とコピーの仮想空間のプログラムを爆破する。これなら無事にコピーの仮想空間に滞在しているストレンジャーたちを一掃できるし、あとにはなんの物的証拠も残らない。さすがにセキュリティ専門のエンジニアだけあって、コピーした仮想空間のプログラムの痕跡がどこにも残らないよう、瑞生も事前に手を打ってはある。
もちろんデスパート社は、あのバカでかい本社ビルを揺らすほどの大騒ぎになるだろう。しかし仮想空間のプログラムそれ自体は、デスパートの管理しているクラウドに鍵をかけて手あつく厳重に保管されているし、現行のプログラムが破壊されても、そっちを引っ張ってくればいいだけのことだから、デスパート側もさほど本腰を入れて犯人さがしをするとも思えないのだ。
また、ご陰キャさまとの会話にでてきたように、昔から根づよくネットで囁かれている投資詐欺の噂‥‥瑞生にも真偽のほどはわからないものの、もしその噂がほんとうなのであれば、仮想空間の内部に設置した「なんちゃって公安」の存在はともかく(彼らは現実の世界では法的になんの拘束力ももたない)、現実世界の警察とは極力関わろうとしないスタンスを保つはず。だから瑞生が仮想空間をプログラムごと破壊しても、あんがいお咎めなしのような気がするのである。
‥‥とはいえ(とはいえ、だ)仮想空間をプログラムごと破壊するという選択は、自らの手で詩梁を抹殺するようなものだ。瑞生にはそれができない。優柔不断な民に選ばれし優柔不断な国を支配する優柔不断な王は、仮想空間に誕生させた、ヴァーチャルな紛いものの恋人さえ、自らの手で処刑することができないのである。詩梁が与えてくれた、言葉では形容できない暖かなものに、瑞生はまだ未練がましくしがみついていたいのだ。
瑞生は窓の外のうすぼんやりした世界を眺める。しみったれた、つまらない世界。瑞生はこっちの世界を破壊してやりたいくらいだ。しかしこの世界のどこかには確実にほんものの詩梁が生きて暮らしている。このモノクロームの世界を色あざやかに染めあげる、瑞生にとっての唯一の存在である詩梁が。
現実世界で詩梁と再会することは、もはやあるまい。瑞生もそこは諦めている。学生時代の友だちなどという、気のきいた普遍的シロモノを瑞生はもたないから、詩梁がどの大学に進んでどの会社に就職したのかも、瑞生はまったくあずかり知らない。
たとえそこらへんで見かけたとしても、瑞生はおそらく指をくわえてぼうっと見ているだけだろう。いっちょまえにストーカーみたいな真似だけはするかもしれないし、しないかもしれない。そしてどう転んでも、残念ながらそれ以上にふたりの仲が進展することはないのだ。そのことは瑞生自身もじゅうぶん承知している。
遠い島の宮殿に棲む、麗しき眠りの姫。詩梁はミノタウロスが番人をつとめる地下の迷宮の奥深くに静かに眠っている。けれども瑞生は、ギリシャ神話に出てくるその半人半獣のミノタウロスを倒したという、テセウスのような英雄的性格をもたない。対岸の島にたたずみ、手のとどかない美に想いを馳せながら、深くせつないため息をつくだけだ。というか、それでこそ詩梁には法を破ってまで複製をつくりだすだけの値うちがあるのだ。
設定してあっためざまし時計のタイマーが鋭く鳴る。
瑞生はペットボトルの水を流しこんで睡眠薬を呑み、アイマスクをつけ、ふたたびベッドに横たわって目を閉じる。コピーした仮想空間に置き去りにしてある詩梁は死んだままだ。蘇生させるためにプログラムに手を加えてはいない。だがもちろん、いつかは復活させる。瑞生は半ば眠りに落ちながら、力づよくうなずく。
夢のなかでたいせつなひとに出会えることがわかっているというのは、素晴らしいことだ。――たとえそれがほんものを模写した紛いものに過ぎない相手だろうと。