第十話 ヤクザによろしく
瑞生はビルの屋上に登ると、手すりにもたれてまた通りを見おろした。ご陰キャさまはわりに往生際がわるかった。公安の男に腕をがっしりと掴まれたまま、もう片方の腕をばたつかせたり、身体をねじったりしていた。しかしもうこれ以上もがいても無駄だと悟ったのか、途中で全身から力が抜けた感じになり、なかば引きずられるようにしてご陰キャさまは連れてかれていってしまった。
瑞生は屋上の中央のあたりまで歩いていって空を見あげる。よく晴れた空だ。この穏やかな空のもと、瑞生は公園に詩梁の死体がそのままであることを思い出すと、寒気がしてぶるっと身体を震わせた。
自害用の拳銃をいったんはポケットから取り出したものの、またすぐにポケットに戻した。ご陰キャさまが捕まってしまった以上、つぎは自分の番てなことになるわけで、もうなにもかも観念すべきであるように思えてきたのだ。
瑞生は放心したように、目の前にたちならぶビルを眺めた。オフィス街らしく、無機質なビルがところ狭しとひしめきあっている。ビルの窓ガラス付近にうろついている人影は、やはりどこか動きが鈍かった。瑞生は苦笑いした。
ふと見ると、いつのまにやら隣りに見知らぬイケメンが立っている。アイドル雑誌の表紙から抜けでたような八頭身。瑞生だってそれなりに上背はあるが、男のほうがはるかに高い。やや襟元のたるんだ茶色い長袖のシャツ、作業服のようなカーキ色のズボンと、着ている服はちょいと垢抜けないものの、全身から溢れでるイケメンオーラはそれを補ってありあまるものがあった。
「捕まってしまいましたねえ。まあ中身はAIにすり替えちゃいましたけど」
瑞生は隣りに立っている男の顔をまじまじと見る。見た目が変わっていようと声質がまったく変わっていようと、独特な声のイントネーションだけはさすがにごまかせない。
「ご陰キャさま?」
イケメンはにこっと笑う。
「てへへ。そうっす」
「つうことは⋯⋯あれはいったい誰なんだ?」
「まあ俺の脱け殻みたいなもんっすね。つうか俺、いままで他人の名義かりて仮想空間に出入りしてたんすよ。ながいことログイン履歴のないユーザーを探して、アカウントごと乗っとったんすわ。仮想空間に半年以上ログインの形跡がなくて、死に体になってるアカウントがいくつかあったから、年の近いやつのアカウントを剥ぎとったわけっす。外見もそいつのマイナンバーカードからスキャンされたものをそのままつかわせてもらって。体力とかもそいつが仮想空間にアクセスしているときにアイマスクで計測されたものそのまんまだから、ちょっと走っただけでも息がきれちゃったんすよ」
瑞生はあらためて男の全身を眺めた。
「これがほんとうの姿なのか?」
「この姿は最初にスキャンしたマイナンバーカードの写真のデータを保存してそのまんま使ってるんす。最初はこれ以外の登録はいっさい受けつけてなかったっしょ。体重や身長もそのとき手打ちで入力したまんまっす。だから実際には俺、アイマスクつけてないんっすよ。てか、眠ってすらいない。起きたまま、モニター観ながらパソコンの前でかたかたキーボード打ってるんすよ。手足を動かしてんのはキーボードのアルファベットにそれぞれ間接を対応させてカチャカチャやってるんすわ。笑えるっしょ。さすがに声はイヤーマイクつけて実際に喋ってるんすけどね。言葉発するのにキーボード打つのはさすがにめんどくさいし、いくら俺がブラインドタッチの達人でも、リアルタイムに返答してるとかなりのディレイが生じちゃうし」
とんでもないハッキングの化け物がいたものである。おそらく世界でもトップクラスであろう複数の精鋭エンジニアたちが構築した難解きわまるプログラムを、ここまでカスタマイズできるというのはやはり驚異的というほかない。
「プログラムのセキュリティはどうやって破ったんだ?」
「ああ、よくできたセキュリティだったなあ。ちゃんと教科書どおりに組み立てられていて、暗号化の部分にだけ分数上の独自のからくりを巧みに応用してて。たぶんその独自のからくりがセキュリティ専門のエンジニアとしてのいちばんの強みなんだろうな。しかもナチスのつかってたエニグマみたいに解読コードが一分おきにころころ変わるから、まあまあ手こずったんすよ。んにしても一分おきてねえ」
「だからどうやって破ったんだってんだよ」
瑞生は悲痛な叫びをあげた。
「そのセキュアのプログラムの弱点は、むしろ一分おきに解読コードを変えてしまうっていう点にあったんすよ。そういうのって、ランダムな生成に設定してあるつもりでも、どうしてもパターン化してしまうっしょ。ひとつの傾向に偏ってくると。一分おきの設定になんかしていたら、よけいにそういった悪癖が出てきちゃうんす。このセキュアつくったエンジニアって、ちょっとコンピューターを過信しすぎてるところがあると思うんっすよね。AIと会話してたら、あ、こいつらまだバカだな、ってのがちゃんとわかるんすけど。そういうのって、たとえコンピューターにつくらせているのだとしても、人間がつくったものであることに変わりはない。人間がつくったものである以上、なんらかの欠陥はかならずあるわけっすよ」
なんだか優秀な塾の講師から自分の欠点を指摘されたような気分になり、瑞生は身体の芯があつくなる。ずっと忘れていたような感覚だった。ご陰キャさまはかまわずつづけた。
「‥‥具体的にいうと、そこから摘出したひとつのパターンを、俺のつくった簡易的な解除プログラムに徹底的に教えこんだんっすよ。『サザエさん』に出てくるような、ほっかむり被った昔ながらのどんくさい泥棒が、金庫の番号をひたすらまわすのを思い浮かべてほしいんすけど、一分のあいだにそれをひたすら高速でやってもらうわけっすわ。そんで59秒経つまでにコードが一致したら、めでたく鍵が開くっていう。まあさすがに三週間くらいはかかりましたけどね」
瑞生はがっくりと肩を落とした。両膝に手を落とし、肩で息をするように呼吸して、恨めしげな目つきでご陰キャさまを見あげる。
「そのプログラムつくったの僕だよ」
ご陰キャさまは目が点になった。
「いやいやまさかまさか。……なんかのジョーダンっすよね」
「二重にセキュアがかかってたはずだ。最初のセキュアを破ったとき、画面に警告文みたいに点滅する赤い数字が出ただろ。ヤクザによろしく、89324649って数字が」
「ふわっ、マジすか。あれ、たしかにヤクザによろしくって読めたんで、妙に記憶に残ってたんすわ。すぐ同じ数字を打ちこんでデスパートへの通報を解いたんすけど。あとでプログラム見てわかったんすけど、あれ、十秒以内にやらなかったら相当ヤバかったんすよね」
瑞生の頭にビルの解体工事でつかうような鉄球が、派手な音をたてながら何度も打ちつけられる。
「なんで同じ数字を打ちこむだけって、すぐわかったんだよ?」
「『ヤクザによろしく』なんて、めちゃくちゃキャッチーな構文じゃないすか。日本人だったら誰でも数字に変換して暗記できるくらい。で、即座にこれ開発者用のパスワードだなって思ったんすよ。たぶんまだ開発途中だった仮想空間のプログラムに変更とか加えるときに、一時的にセキュアを外すためのものだったんじゃないかな、と俺は考えたんっすわ」
「それぜんぶ十秒以内に考えて、数字も打ちこんだってわけか」
瑞生はむしろ呆れたような口調で言った。ご陰キャさまは歯をみせて、にやっと笑った。たぶんこういう動きもキーボードと連係しているのだ。
「八桁の数字打つのなんて、ほんの二秒もかからないっす。日本のハッカー舐めたらイカンっすよ。もし外部からのハッキングを防ぐ目的であれば、画面に数字なんか出さずに黙ってデスパート側に通報するはずだから、本来ならプログラムが完成した時点で取りはずす予定だったのが、途中で担当者が入れ替わったかなんかで取りはずせなかったんじゃないすかね」
あっぱれである。読みもカンペキだ。
「え、つうことは、お兄さんってつまり……」
「この仮想空間のセキュアを構築したエンジニアだよ。お前の読みどおり、途中で抜けたから、完全に僕がつくったわけじゃないけどさ」
ご陰キャさまはまたまた目が点になった。
「ふわえ。いや、失礼ぶっこきました。⋯⋯しっかしすげえ難解なプログラムでしたね」
「いまさら遅えわ」
自慢のセキュアを破られて、瑞生はすっかり不機嫌である。
「お兄さん、ひょっとして俺のこと、ぶち殺したいっすか」
「ほんとにぶち殺してやりてえよ。この世で僕が他人に誇れることなんて、ほんとにこれだけしかなかったんだからな」
「じゃあじゃあ俺のやったことってもしかすると、お兄さんのプライドをめためたに踏みつぶしちゃいました?」
言っていることは煽りの極みだが、表情はじつにもうしわけなさそうである。
「原型とどめないくらいにな」
「ささささーせん」
顔のまえに垂直に手を立てて、ぺこりぺこりと二回ほど頭をさげる。これもまた生身の人間とのコミュニケーションに不慣れなヲタ特有の煽りの舞いだ。しかしその優雅にして寸分の隙もない舞いの姿たるや、極寒の北欧の湖にただ一匹たたずむ孤高の白鳥のごとし美麗さすらある。瑞生はズボンのポケットに忍ばせている小型銃に手を伸ばしかけ、この男を蜂の巣にしてやりたい衝動にかられる。
しかしそこは人類史上もっとも呪われしパソヲタ種族のおそるべき種族間共鳴といったところで、相手がこのポーズを器用にキーボードをかたかた操ってやっているところを想像すると、瑞生もなんだか許せる気持ちになってしまうのだからアラ不思議。オウ、アミーコ。瑞生はまるでイタリア系マフィアのゴッドファーザーのようにぶっとい葉巻をくわえながら、おおきな指輪をはめた両手をひろげ、自分のために長年の刑期を終えてシャバに出てきた手下を、ひしと抱きしめてやりたくなるような気持ちになっちゃったりするのだ。
「まあ、いいんだよ。僕の負け、なんだから」
「潔いんすねえ。負けを負けと認める。いやあ、偉いっすわ。俺なんかとても真似できねえっす。フルでリスペっす」
さらなる煽りの一撃。だが本家の仮想空間に穴をぶちぬき、瑞生にとっては絶対的ルールとさえ思われていた基本操作をもカスタマイズしたこの男の手腕には、素直に感心せざるをえない。
脱帽ついでに、瑞生はとうとうご陰キャさまに自分の名前をつげる決心を固めた。観念した、と言いかえてもいいだろう。それに、こんな離れ業をやってのけたこの男に、もうこれ以上隠しごとをしている意味もないと思ったのである。
「申しおくれたけど、僕の名前は瑞生っていうんだ、これからはそう呼んでほしい。お兄さんなんて呼ばれるたびに、ケツの穴がもぞもぞしてたんだ」
「瑞生クンっすか。いい名前っすね」
瑞生は少し待ったが、いつまで経っても本名を名のろうとしないので、ご陰キャさまにうながした。
「‥‥で、ご陰キャさまの本名を教えてくれよ。ご陰キャさまなんて呼ぶの、ちょっと変だろ」
ご陰キャさまは表情を引きつらせたまま黙りこんだ。瑞生はまるで、高校生のカップルが片方だけ服を着たままの相手を責めるような目つきで、ご陰キャさまの顔を非難がましく見る。
「おい、こっちはちゃんと本名を名のったんだぞ。この期におよんで、そっちの名前言わないとかの選択肢あんのかよ」
「ちがうんっすよ。俺の名前、めちゃくちゃキラキラネームなんす」
瑞生は一瞬だが笑いそうになる。しかしさすがにぐっと堪えた。そこは同類のオタク同士といえども非常にセンシティブで不可侵な領域なのである。笑うわけにはいかない。
「べつに恥じる必要なんかねえよ。ご両親が持てるセンスのすべてを投じた粋な変化球ってだけだろ。誰がそんなものを笑う権限もってるっつうんだよ」
「瑞生クン、煽ってるわけじゃないよね」
「被害妄想だぞ、そりゃ」
「ぜったい笑わないっすよね」
「笑わねえよ。しつけえな」
ご陰キャさまはほんのちょっと黙りこむ。瑞生の目をまっすぐ見据えて、いちどは決心したかに見えた。しかし顔を赤くして、服の一番うえのボタンをはずしかけて手をとめた女子高生のように、伏し目がちに恥ずかしげに首を振る。
「やっぱイヤっす。俺が引きニートになった原因の八割がたは、このキラキラネームにあるんすから。現実の世界で笑われて、仮想空間でも笑われるなんて、俺ぜったいイヤっす。そうなったら俺はいったいどこに逃げ場があるっつうんすか」
ご陰キャさまは泣きそうな顔でそう言った。キラキラネーム‥‥それは平成以降に親となった者たちが、わが子に与えた呪われし刻印。彼らが子どもに与えた名前の響きは、まるでわが子に凡庸な名前を与えつづける世の親たちへの挑発行為的な響きのようにも聞こえる。それはまるで、イーゴル・ストラヴィンスキーやオーネット・コールマンが平穏な日常の空気をかき乱すために奏でた音楽と、ほぼ同等の響きを持っているのだ。
瑞生は目を閉じて、首をふりながら言った。
「わかったよ、もう訊かねえよ」
「ふへい」
ご陰キャさまはさんざん泣いたあとの女子高生のように、鼻をすすりあげながら声にならない声で言った。