第一話 キオクノソゴ
「ほんと、なんでだろうね。いつも微妙なとこで記憶が食い違うのって」
肩をならべて電車から降りると、少し怒っているような口調で詩梁はそう言った。
しかし詩梁にとって、こんなことはもう馴れっこになってしまっているから、不機嫌さをそのつどカタチをかえて表現するのも、さすがにどこか芝居っぽくもなるというもの。詩梁は据わった目で頬をふくらませ、だんだん空気を抜いていく。そのほんのりあたたかい息が瑞生の顔にかかる。
発端はたわいのない話だったのである。ついさっきのことなのに、いったいなんの話だったか思い出せないくらいの、じつにたわいのない話。それがいつしか大手回転寿司チェーンの話となり、クロダイやヒラマサってなんかちょっと人間のニックネームっぽいよね。なんていう電車内のカップルが話しそうな、いかにもなジャンクな小ネタをはさみつつ、やがて昔いっしょに行ったはずの水族館の話となり、その水族館の名前が食い違っていることに、詩梁がまた怒ってしまったのだった。
ふたりのあいだには、まえまえからこうした記憶の齟齬が頻繁に起こっていた。詩梁だってそこらへんにいる、フツーのほんのり狂気じみた猜疑心まみれのうら若き乙女。最初のうちは瑞生が過去おりおりにほかの女と浮気していて、その記憶と混同しているのではないかと、本気で疑ってかかったくらいである。
とはいえ、顔のつくりこそ無駄に整ってはいるものの、小学生の頃からずっと致命的なまでのコミュ障をわずらっている瑞生に、浮気なんて器用な真似は、とてもじゃあないけれどできそうもないな、と詩梁は判断したのだった。
浮気というのは、女の重くて軽い心ふたつを、左右の手でひょいひょいとべつべつに操る、いわばジャグリングみたいなものである。幼なじみである自分を相手しているだけでもアップアップしている瑞生なんかにできる芸当ではない。スライムであろうが推しのアイドルの子供であろうが、まあなんだっていいのだが、何回か輪廻転生を繰りかえしてひたすら経験値を上げてもらわなければ、生身の女ふたりに、どっこらしょと二股をかけるなんていう大胆不敵な行為は、瑞生には一生できなさそうな相談なのである。
瑞生がいかにもわざとらしく目を細め、遠い場所に視線をとばしながら、徳川の埋蔵金よりも深く深く地中に沈んでいる幽玄な記憶を、子供が公園の砂場でつかうプラスチックのシャベルでかちゃかちゃ掘り起こしているような感じで言った。
「大学二年のときにバイクで車と接触事故起こして、転んで頭を打ったことがあるから、もしかしたらそれが原因かなあ」
まるでほんものの恋人同士のような会話。しかし詩梁は声の響きにちょいと違和感がある。瑞生にしては長ゼリフというのもあるが、イントネーションが第一次大戦後のドイツのインフレ率のように乱高下していて、いかにも不自然だ。詩梁は瑞生の顔を見あげたまま、クローゼットのなかに隠れているターゲットをみつけた殺人ドールのチャッキーちゃんのように瑞生を半笑いで睨みつけ、かくんと小首を傾げる。
近頃ではむしろ詩梁のほうが、昔の話を掘り起こすのを避けているような節があった。詩梁だってデートの最中に口ゲンカなんてしたくはないのである。それに喋っている途中でだんだん早口になり、相手を効率よく痛めつける言葉を無意識のうちに探しはじめては、ポンと出てきたその言葉にまた脳髄がおかしな感じで反応したりして、じわじわと両の眉がつりあがっていくのが自分でもわかるのである。
「接触事故ってなによ? 初耳なんだけど」
瑞生はびくっと肩が震える。ダメだ。また墓穴をほってしまった。瑞生は女性に嘘をつきなれていない。世の平均的な女性たちが、男のつく雑な嘘にするどく反応する、という習性さえわかっていない。というか、瑞生は女性そのものに慣れてはいないのだ。現実世界でもふだんは生身の女性となんてほとんど口をきかない。
一日のうちのほんの数時間、といっても現実世界では数分のことだが、そんな短い時間でさえ、瑞生は女性のあつかいにひどく手こずっているのである。
「言うの忘れてたんだよ。転んで頭を打ったけどケガはしなかったし……」
「ケガがなくたって、カノジョに報告する義務くらいあるって思わないわけ?」
瑞生と詩梁の頭のなかで同時にゴングが鳴った。だがもはやプロレスのようにどこか馴れあいじみてもいるので、そのあとは一方的に詩梁がいろいろな角度から瑞生をひたすら殴りつづけるだけのことになるのであった。