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「ざまぁ追放」を楽しめる人、楽しめない人 ~文章からプロファイリング的に認知を読む、という話~

作者: いけなミ ゴろう


ざまぁ系。

こう書くと印象はかなり軽くなりますが、その本質は『復讐』です。


このジャンルは古くから存在しており、また人気もあるもので、かの名作シンデレラにも復讐の要素がありますね。

仮にイジワルな義理の家族が作中に登場していなかったとしたら、シンデレラは世界的な人気作にはならなかったのではないでしょうか。


さて、この復讐(ざまぁ)といった要素の作品ですが、書く上でもっとも大事なポイントとは何でしょう?

俺が思うにですが、それは『報復をする者(大体は主人公)に落ち度や過失がないこと』だと思います。


たとえばシンデレラだと……

最初にシンデレラの方が義理の家族を酷く扱っていて、そこから立場が逆転、からの再逆転でハッピーエンド。


これではなんともモヤモヤしたものが残りませんか?

事の発端はどう考えてもシンデレラにありますから、「それで再逆転して幸せになられても……」と。


この展開にするなら、立場が逆転したときにシンデレラがこれまでの自分を反省し、再逆転したあとは和解エンド、みたいな展開の方がまだスッキリするかと。

ですが、それは復讐ではないですね。


だから復讐モノの多くは、ちゃんと考えて報復する者に落ち度や過失がないように描かれています。

ただそこに暮らしていただけなのに強大な勢力に故郷を滅ぼされる、とか。


しかし、しっかりと考えられていない復讐モノは、よくある『ざまぁ追放系』などは、書き手と支持者が気づいていないか見て見ぬふりをしているだけで、主人公にそれなりの落ち度・過失がある場合が多いんです。


ここがざまぁ追放系を楽しめるか楽しめないかの境目で、問題点に気づけない人と気づける人との認知の差が見える部分でもあるんですよ。



ざまぁ追放系主人公によくある落ち度・過失の例。


その① 実際にただの無能


仲間と一緒にいた頃は本当に無能で、追放されたあとで都合よくチート能力に目覚めるパターン。

これだとクビになるのは至極当然で、それで元仲間が落ちぶれましたー、とかされても、あまり気分のいいものじゃないでしょう。



その② 報連相&コミュニケーション不足


主人公の伝達能力不足も問題なのに、全てを「仲間がバカだった」という理由で誤魔化すパターン。

責任を全て仲間(悪役)に押し付けるような話が多く、まともに考えれば主人公にだって多大な落ち度があるわな、と。


ここまではよくツッコまれている問題点です。

しかし、俺が一番問題あると思っているのは、三つ目の問題点ですね。



その③ 人付き合いに対する認知の歪み


これは、こういった歪んだ主人公を生み出す書き手と、その歪み気づけない読み手の問題とも言えます。


ざまぁ追放系でよくあるのが、主人公が「自分はこれだけのことをやってきたのに」みたいな主張をすることです。

これは直接言うこともあれば、言外に内心でそう考えていたり。

「別にどうでもいいですけど? 効いてませんけど?」みたいな感じで、しれーっと離れていくパターンもありますが、これはこれで自分のことしか考えていないからこその行動ですね。


対等な関係であったなら、仲間に助けられることもあったはずです。

そうじゃなく、一方的に搾取される立場だったならお気の毒ですが、それはそれでそんな立ち位置に甘んじていた責任が発生しますからね。

仕事にブチブチ文句言いながらも一向に辞めようとしないヤツとか実際にいますけど、これと同じようなもんでしょ。


実体験がない人には分からないかもしれませんが、「自分が人にしてやったこと(・・・・・・・)」を真っ先に口に出すような人間ってヤバいヤツが多くないですか?


これは日本人の国民性もあるんでしょうが、多くの人はある程度お互い様の関係の場合、「人にしてもらったこと、助けてもらったこと」が先に頭に浮かぶんですよ。

しかし、自分の責任から目を逸らす人間は、「自分が人にしてやったこと」が先に出るんです。


実際に色んな人間見てきましたけどね、何かあったときにまず「自分はこんなことをしてやった」的な言葉が出てくるようなヤツでまともなヤツ見たことないです。

都合が悪くなったとき、先に怒ることで相手に譲歩させようとするタイプが同種の人間ですね。


中学時代の話ですが、こんなヤツがいました。

仮に名前を『財布くん』とします。


財布くんは親が金持ちで、中学生なのにいつも数万円の金を持ち歩いていて色んなものを人に奢り、ゲーム機やソフトも常に最新の物を持ってるようなヤツでした。

なので彼の周りには人が多くいて、自身も「俺は友達が多い」と自慢するような性格でしたね。


ですが、まぁこう書いた時点で分かる人には分かるでしょうが、彼の周りにいたのは友達なんかじゃなかったんですよ。

実際、周りにいた連中は笑いながら「アイツは俺らの財布w」と言ってましたからね。


財布くんを利用しないヤツらは、財布くんを嫌っているか無関心かのどちらかでした。

なぜなら、財布くんは常に「俺スゲー」的な態度で、取り巻きの連中が気に入らないことをしたり言ったりすると「奢ってやったのに!」みたいなことを真っ先に口に出すような性格だったからです。

だから本人の認識とは裏腹に、彼は悲しいくらい本当の友達がいない人間だったんですよ。


今になって思い返すとこれって、ざまぁ追放系のなろう主人公とその仲間の関係にそっくりですよね。

自分を悪者にしたくない財布くんの目線で当時のことを文章にすれば、まさにざまぁ追放系小説になるんじゃないでしょうか。


人と人との関係性というのは、投資やギャンブルに似たものだと俺は思います。

自分にとってプラスの結果になるという確実な保証はない、信じるか信じないか決めるのは自分、ってところが。


人を値踏みするのは良くない、という風潮もありますが、これについても俺は逆だと思っていて、信用したい相手こそしっかり値踏みすべきだと思います。

値踏みするというのは言い方こそ悪いですが、相手のことをしっかりと見定めるってことですから。

それをしないまま相手を信じると自分で決めたなら、その結果に対する責任も自分が負うべきものでしょう。


正直俺は、こういった盲目的な人間を都合良く利用するクズの方がよほど人を見てると思いますよ。

人を見た上で「コイツはいいように利用すべき人間」と判断してるわけですからね。


また、こういった『人を見ないのに人を信用する人』が、裏切られたと感じたときになぜ怒ったり悲しんだりするのかというと、それは自分のキャパを越えるものを相手に渡してしまっているからです。


信用出来ない人間に金を貸して踏み倒された、と想定してみましょう。

それで許せないと思うのは、自分が「許せない!」と思う金額を貸して踏み倒された場合だけですよ。

自分のキャパ内に余裕で収まる程度、数百円とかなら、「はいクソー」くらいのもんですよね。


値踏みの話にも通じますが、要するに『相手に預けられる信用の量』というのは対象によって適正値が変わるんです。

その適正値は相手をよく見て見極め、さらに自分の懐事情も考慮して、そして自分の意思で決定しなければならないわけです。


人に裏切られたと嘆くような人は投資やギャンブルで例えると、賭ける対象の精査もせず使っちゃいけない金まで突っ込んで、負けて発狂する人みたいなもんですね。


人間関係でキャパオーバーの信用を人に預ける人というのは、「自分はこれだけの物をあなたのために出せるんですよ」という見栄があって、自分を良く見せたい人です。

人を見る目がある人にはそういった人間性を見透かされ、利用されたり相手にされなかったりするんですね。

見栄を張る人間というのは身を滅ぼすまで見栄を張り続けるので、カモにするか巻き添え食らわないように関わらないか、という対応ばかりになるんです。


だから結局、付き合ってる人間の質は本人の質と比例してるんですよ。

「クズと付き合ってたけど、ボク自身は聡明な聖人です」なんて、んなわけがないと理屈で考えれば分かるでしょう。



構成要素を理屈で分解出来ると、様々なものから人の認知は読み取れます。


たとえば、『理不尽な攻撃を受けた主人公が同等かそれ以上の報復をする物語』に共感出来る人は、「力には力で返すのもやむなし」という認知を持っているわけです。

これは社会的にそれが許されるとかではなく、あくまで心情的な話で。


「超平和主義!」みたいな認知をガチで持ってる人は、こういった復讐話に共感出来ないのは理屈として分かるでしょう?

自分が被害を受けた途端に主義をひるがえすような人は、いわゆる左翼的な綺麗事を口にして自分に酔っている人ですね。


では、ざまぁ追放系によくある、主人公が知らないところで元仲間が落ちぶれるような話には、どんな認知が見えるでしょうか?


俺が読むにそれは、まず「自分(主人公)が悪だと思われたくない」という認知。

それから、「でも自分(主人公)が嫌いな連中には不幸になって欲しい」という認知です。


主人公が直接手を下さないのは、それが正当な報復とは呼べないものだと心のどこかで理解しているからでしょう。

『人を見る目がないからクズを信用して、利用されたと分かったから武力報復する』とか、これを善行に感じる人は「世の中が悪い!」みたいな思考の人くらいですよ。


そして、主人公が手を下さないまま元仲間が落ちぶれるというのは、いわゆる信者ファンネルと同じ理屈のものですね。

主人公が作者で元仲間は批判者、元仲間を攻撃してる物語世界は信者ファンネル、という関係性と綺麗に合致します。

これは自分の手を汚さないまま敵対者を排除したいという腹黒い認知で、こんなことを考えない本当の善人なら「気が合わない人のことは忘れて自分を磨こう」という思考になるはずですね。


蔑視するつもりはないんですが、本来これは女性に多く見られる認知です。

だから乙女モノなどは「不幸な私がスパダリに見初められ、不幸な立場や嫌いな人間をスパダリが全部壊して私を幸せにしてくれる」みたいな話が多いでしょう?

言い方がクソ悪いかもですが、要約するとマジでコレですから。

これが男向け作品にも見られるようになったのは、多様性なんですかねぇ。



こうして要素を分解して言語化してみると、なかなかに歪んだ認知が見えるんじゃないでしょうか。


いや、分かりはするんですよ。

人間、こういった醜い感情も絶対あるんで。

ただ、「こういった認知を主人公に重ねたくねー、主人公に見たくねー」という人は、主に男は、理屈では分からなくても直感的に不快感を覚えるわけです。

男はなんだかんだで「自分の問題は自分の力で解決する」という認知を良しとする人が多いですから。


この認知読みはリアルの人間にも使えるんで、出来るようになると人間関係が円滑になりますよ。

相手の嫌いなことが読めるだけでも相当強いので。


異性関係にも有効なんですが、調子に乗ってズバズバ性格を言い当てたりすると怖がられますw

相手が求めている対応が読めたら、黙ってそれに応えるのがミソ。


ただ、これは主観が混ざるとまるで意味がなくなるので、そこは注意です。

事実に対して淡々と論理的な説明をつけていく手法なので、好意や嫌悪はノイズになるんですよ。


なろう系をボロクソに批評する場所だと、たまに「自分が上手くいかないから妬んでるw」みたいなことを言う人が出てくるんですが、これはゴリゴリの主観なんですね。


だって、ネットのわずかな書き込みだけで対象の認知なんて読み取れるわけないでしょう?

対象のSNSなどを特定して、徹底的に追いかけるとかしてるならまだしも。

文章から認知を読みたいなら、それこそ小説レベルの文章量は必要ですよ。


中には妬みというのが当たってる人もいるかもしれませんが、これは認知を読んで当ててるわけではなく、自分の認知を押しつけたらそれが当たる人もいるってだけですね。


頭を使って読むというのは、突き詰めるとこうやって言葉の裏にある認知まで読むことを言うんですよ。


という話でした。


おわりー。


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― 新着の感想 ―
…せや、ホウレンソウ出来なくて出費が激しくて自分が完全な被害者といつも言ってて認知が歪んでるヒーローが不快なら、そーゆー奴をざまぁ役にすれば良いんじゃね? 婚約破棄王子「そして僕が生まれたのだ」
今っの子って、芥川龍之介の羅生門すら読まないのかな?
そんな事よりざまぁ勇者の完結をだな
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