オークと出会った少年の話
自身の何倍もの体躯を持つ暴力的な生き物を目の前にして、一体どれだけの人が、それに立ち向かおうとするだろうか。
多くは生存の為に逃げ出し、またその内の多くは、逃走すらも叶わずに息絶える。そう言った、覆り様の無い弱肉強食の関係と言うのが、動物にはあるのだ。
そんな状況にあって、未だ足が動かない少年が一人、陽の光も届かない様な、深い、深い森の中に居た。
対峙するオークの手には、これまた巨大な、少年の身体と大差ない大きさの棍棒が、しかと握られている。
「ツイてない」と言うのが、少年の心境の全てであった。相手が知的な、理性の欠片でも持つような生き物ならまだしも、人を見るや否や、声を上げるより殴りかかる方が早いと言うような怪物だ。現在、こうして向かい合っている事自体が、ある種の奇跡と言えよう。
少年とて、何も丸腰でこの様な場所に赴いた訳では無い。腰には真新しい、鞘の革もまだ色付いていないような剣が携えられていた。
信じられないのは、彼が未だそれを抜いてさえいない事である。が、それ程にこの状況を悲観し、何を無様に抵抗して、苦しみを長引かせる事があるだろうか、とすら考えていたのだろう。
しかし意外にも、オークは少年の方を凝視するばかりで、その手の棍棒を少しも動かしはしなかった。足でさえも、片方でさえ地面を離れる様子はない。
何ら不思議はない。このオークは、昨日、住処の洞穴を始めて出たばかりと言う若者であった。初めて目にする人間の存在に、少しばかり驚いて、同時に興味を抱いたのである。
そのような考えを少年は知る由も無い。しかし偶然にも、彼が剣を抜かなかった事が、この珍妙な現状を可能にしたのだった。
数秒経っただろうか、先に動いたのは少年の方だった。身構えながら、両親や友人達への別れを胸中で済ませた頃に、ようやく自分が今、こうして生きている事に気が付いたのだ。
何もしてこない。と言うより、何をしに来たと言う様子でもない。偶然、この近くに居て、更に偶然、自分の前に出てきてしまったと言うような雰囲気だ。
希望的観測が窮地の彼に舞い降りる。このオークはもしや、人を攻撃しないのではないか。自分が、母親に寝物語に聞かされたような嗜虐的なオークでは無く、その辺で花を摘んでるような、心優しいオークと言う物なのでは無いかと、花畑は彼の頭の中にあると言わんほどの考えが降りて来たのだ。
オークは驚いた。さっきまで、何やら呆気にとられた顔で、少し目を潤ませながら立ち尽くしていた人間が、急に、こちらを訝しむようにして居直ってきたからだ。
彼は母に聞かされてきた。人間は骨っぽくて大した旨くも無い癖に、他の生き物より好戦的で、時にオークですら討ちかねない、厄介な生き物だと。
しかしその人間が、こうして目の前に居るのを改めてみると、意外も意外。昨日まで乳飲み子をやっていたような、弱々しい姿ではないか。その小枝の様な四肢も、不安定に細い胴も、小ぶりで、何も考えられなさそうな頭も、全てがオークに劣っている。
何を恐れる必要があるだろう。オークもまた、両の腕を降ろし、張った肩を緩めた。
この時、互いに思っただろう。「何だコイツは」と。いや、少しは敵対心も残っていたかもしれない。特に少年なんかは、初めから恐怖一色の頭だったから、猫を噛んでやるような気持ちで、剣に手を掛けていたかもわからない。
彼らは理解した。この場で、無理に殺し合う必要も無いと。相手に敵意は無い様だし、とっとと回れ右で帰るのが吉だと。
しかし問題は、その最初の一歩である。背を向けた途端、相手が牙を向く可能性だってあるのだ。
その懸念は、ことオークにとっては大きかった。如何に強く優れたオークでも、背後から刺されれば、万が一と言う事がある。ここはどうにか、この人間を先に帰らせる必要があった。
少年も少年で、オークの思考を単純化して捉えていた。彼としては、このオークがここに来て何もしないなら、このまま別の場所に、また何をするでもなく向かうのが道理だろうと考えていた。
そうすれば彼は、本来の目的である薬草採集に戻る事が出来る。今もこのオークの右足のすぐ横に、目当ての薬草が凛と立っているのだ。
今度はオークが先に動いた。ため息でもつくように肩を落として、そのまま回れ右。来た道を戻って行ったのだ。
なんと奇妙な時間だっただろう、それに、なんと呆気ない最後だっただろう。少年は今更ながら、自分がとんでもない命拾いをしたことを、神に感謝していた。
駆け出しの冒険者未満が、森でオークに出会って、しかも生還してくる。そんな話は誰もしない。勿論、その様な話を聞かせた所で、何の教訓にもならないだろうから、当たり前だ。
しかし、彼の幸運は村の話題をさらうだろう。その持ち帰った、押し花のような薬草の事も併せて。