第5話 公爵令嬢アサカ
ダンローが台所に行くと、そこには先日、下働きに来たという使用人の後ろ姿があった。身の回りのことはすべてジンベに任せていたので、この使用人を見たのは初めてだった。確か、ユリという町から来た若い女だとジンベから聞いていた。ダンローは、
「おい、酒を頼む」
と声をかけた。するとユリは一瞬、驚いたようだが振り返りもせず、ダンローに背中を向けたままだった。
「わかりました。どうぞそこに置いておいてくださいませ。後でサキに持っていかせます。」
彼女はそう答えた。ダンローにはその声が無理に変えているように聞こえた。少しおかしいと思いながらも、
「では頼むぞ」
とダンローは酒瓶をそこに置いた。するとそこにジンベが来た。
「これは申し訳ありませぬ。気が付かずに・・・」
ジンベはその酒瓶を片付けようとした。すると痛めた足が引っかかって転んでしまった。
「あっ!」
あわててユリが振り向いて駆け寄った。その顔を見てダンローは思わず声を上げた。
「アサカ殿!」
ユリは慌てて顔を隠そうとしたがもう間に合わなかった。ダンローにはっきりと顔を見られてしまった。ユリという偽の名を使ってアサカはダンローに見つからぬようにここで下働きをしていたのだ。
「アサカ殿。どうしてあなたがここに・・・」
もう隠し通せぬとアサカはその場に跪いて頭を下げた。
「ここで働かせていただいております」
「そうではない。どうしてあなたがここに来ているのだ。もう私とあなたとの間には何もなくなったのだ」
アサカは顔を上げて言った。
「確かにそうでございます。ダンロー様との婚約は破棄になりました」
「それならなぜ?」
「破談になり城下に居づらくなり、ジンベに相談したところ、ここに来ることになりました。下働きの私のことなど気にされずに」
それは明らかに嘘と思われたが、アサカが破談となった男の家にいる理由が彼には思い浮かばなかった。
「あなたはここにいてはいけない。どうか道場にお帰りください」
「いえ、帰りません」
アサカはかたくなだった。彼女は言い出したら聞かない頑固な性格であったとダンローは思い出した。それに彼にはアサカに対する負い目があった。
「アサカ殿。あなたにはすまないと思っている。私があのようなことになり、あなたとの縁談は破談となった。そればかりか大恩ある先生の葬儀にも参ることもできずに・・・あなたは私を恨んでおろう」
「いいえ。恨んでおりませぬ。それは仕方ないこと・・・。でもここに置いてください。お願いいたします」
アサカは悲しそうに顔を伏せた。その様子を見かねたジンベはダンローに言った。
「私からもお願いでございます。アサカ様をこのままに。私も足を痛めて困っておりますので」
2人にそこまで言われてダンローは無下に断れなかった。彼はわざと冷たく、
「お好きなだけおられればよい。」
と言ってそこを立ち去った。それを聞いてアサカはほっとして胸をなでおろしていた。
◇
ダンローは奥の間に戻ってきた。彼の心は乱れていた。思いを断ち切ったはずのアサカが現れ、その心が揺れていたのだ。そこに老人が声をかけた。
「申し訳ないと思っていながら聞かせていただきました。ユリさん、いえアサカさんと婚約されていたのですか?」
「ご老人。すまぬがあまり人に言うべき話ではない」
ダンローは口を閉ざした。その顔には苦悩の色が浮かんでいた。
「これは失礼いたしました。お許しください。しかし悩み深いようにお見受けいたします。この年寄りに話されたら気が少し晴れるかもしれませぬぞ」
ダンローはその老人の言葉にフッと笑いながらも、
「確かにそうかもしれぬ。しかし今夜は忘れたい。ご老人には申し訳ないがジンベの怪我のためしばらくご逗留いただけるとのこと。気が向けばそうさせていただくかもしれぬ。さあ、飲み明かそうぞ」
ダンローは老人の盃に酒を注いだ。老人はそれを受けながら思っていた。
(この方は心に深い傷を受けたのだろう。それにアサカさんも・・・)
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