71 閑話3
時刻は真夜中を過ぎ、館の殆どが寝静まった頃。
執務室で机に向かっていたジャックは、部屋の空気が変わったのを敏感に感じ取り、大きく息をついた。手元の紙をクシャクシャと丸め、当たりを付けた場所に放ると、空中で突如静止する。そして時間を巻き戻したかのように、ジャックが投げたのと同じ放物線を描いて戻って来た。
「アラン。見えないままだと話しづらい」
「そんな繊細な神経など持ち合わせていないでしょうに」
笑いを含んだ声と共に、アランが姿を現す。その手には、ホットケーキに似た茶色く丸い物体が乗った皿がある。アランがこういう時に持ってくるのは甘味と決まっていた。
「どら焼きというそうですよ」
「嬢ちゃんの手製……な訳ねーか」
「ルカさんの作った物を貴方に渡すものですか。ソウマ君作です」
差し出された皿からどら焼きとやらを摘み上げ、一口噛る。中に挟んであるのはクリームと、マロンペーストか。甘さ控えめで、結構な大きさなのにペロリといける。
「王妃様ですか」
脈絡もなく本題に入ったアランに、ジャックは口をもぐもぐさせながらも頷いて見せた。アランはチっと舌打ちし、眼鏡のフレームを指で押さえる。レンズの間を押さえるのは、機嫌が悪い時だ。無意識に眉間のシワを隠そうとしているらしい。
「あの王妃、まだ懲りていないようですねぇ」
「他にも何かやらかしたのか」
「ルカさん達がこちらに来て直ぐ、第二王子をルカさんの婚約者にしようとしてました。念入りに叩き潰しておいたんですがねえ」
「あの嬢ちゃんに縁談なんてあったのか?」
「ええ、国内外問わず腐る程。全て潰すのに、かなりの時間と労力を費やしましたよ」
「1年前位から、あちこちの貴族の不祥事が暴かれたり息子が廃嫡されたりしたのって、お前の仕業か?」
「全部ではありませんよ?」
「一部はそうだってことだろ」
相変わらず敵には容赦無い。味方につければ、これ程頼もしい男もいないが。
「私を呼んだのは王妃の指示ですね?ルカさんから私を引き離して、その隙にルカさんを王宮に囲い込むつもりでしたか」
「たぶんな。お前の足留めを命じられた。お前、よく嬢ちゃんを一緒に連れて来れたな」
「国王陛下を脅しましたから」
「サラッと怖い事言うなよ」
ジャックが王妃の命令を受けたのは、王都でアランとルカに会い、辺境伯領に戻った直後だ。王都でのジャックの行動は筒抜けだった。王家の影か何かがルカを見張っているのだろう。
「ですが脅しが足りなかったようですね。あのシェフは王妃の手下でしょう」
「せめて配下って言えよ」
「直接ルカさんに接触しようとするとは。それに、今日のあの、王妹殿下からの連絡とやらは何です?」
「あー、王太子ご夫妻のご子息が、えらい偏食らしくてな……」
「ああ、なるほど。辺境伯家で食べた珍しくも美味しい料理に感動した王妹殿下が、料理を作った少女に懇願するんですね。どうか幼い王子の偏食を治すために、王宮で料理を作ってくださいと。子どもを口実にされると、優しいルカさんは断れなさそうですねぇ」
拙い、アランが静かにキレてる。ニイッと笑った唇の端からのぞく犬歯が竜の牙にしか見えない。全身が炎に包まれているように見えるのは錯覚だと思いたいのに、机にあった書類が瞬時に燃えて塵になった。
「抑えてくれ、火事になる!すまん、おれが上手く立ち回れなかったせいだ!」
「……いえ、貴方のせいではありませんよ。姿が見えないご息女を、人質にでもされているのでしょう?」
「王女殿下と、王族の別荘に遊びに行っているだけだ」
「私と縁を切ったから、二度とこんな事には巻き込まれなくなりますよ。それに、私が竜人の血を引くと知れば、王家もさすがにルカさんを諦めるでしょうし」
「お前、公表する気なのか?ここまで隠してきたのに!」
「最高の脅しになるでしょう?竜人の番に手を出したら如何なるか、歴史を紐解きながら丁寧に教えることにします。ですから通信魔導具を出してください。辺境伯家になら勿論あるでしょう?国王への直通通信魔導具」
あるには有る。有事の際の緊急連絡用の通信魔導具が、この執務机の下に隠されている。だが出して良いのだろうか。今のこの状況は、有事に含まれるのか?
「早く出しなさい。この時間なら国王陛下だけでなく、王妃も一緒に脅せます」
アランの瞳の色が変わっているのに気づき、ジャックは無言で通信魔導具を引っ張り出した。これは何を言っても無駄だ。過去には番と引き離されそうになった竜人が、一晩で国を滅ぼしたこともある。うん、そう考えると、今は十分に危機的状況にあると言える。国王陛下へのホットラインの出番だ!
ジャックは思考を放棄した。諦めたとも言う。
アランが受け取った通信魔導具を起動させる。多少時間が掛かったが反応があり、はい、と固い声が言った。こんな夜中に叩き起こされて、何事かとの緊張が声にこもっている。
「ああ、国王陛下」
話し始めたアランの声が、奇妙に明るく執務室に響いた。




