2 押し寿司を食べたい
午後のお茶の時間を過ぎる頃、ルカは自宅を出て冒険者ギルドに向かった。行き先は職場だが重役出勤ではない。仕事はお休み、今日は1ヶ月に一度の仲間達との会合の日なのだ。
と言っても、ルカ以外の4人はパーティーを組んでいるので実質ルカのための会合だ。これは異世界転移して直ぐに受けた転移者向けの講習会で、ルカ達の相談役に勧められたのを取り入れた。
異世界転移が複数人同時だった場合、定期的に集まって故郷の話をすると、精神的に安定するらしい。もっとも、忙しくて時間が取れなくなったり、こちらでの生活に馴染んで必要なくなったり、元々の相性が悪かったり、様々な理由から次第に集まらなくなることが多いようだが。
ルカ達の場合は極めて上手くいっていた。類は友を呼ぶというか、全員似たりよったりの穏やかな性格なのに加え、共通の目的があるのも良かった。この世界での和食の再現である。そのため1ヶ月に一度の会合は、『異世界で和食を食べる会』通称イワシ会と名付けられた。イワタ会は却下された。
イワシ会はいつも、冒険者ギルドの建物内にある厨房で開催される。併設されている食事処とは別の、お茶を淹れたり夜勤中につまむ物をストックしておいたりの、小さめの厨房だ。台所と呼んだ方がしっくりくる場所だが、たまにヒヨッコ冒険者に料理を教える講習会が開かれたりする。一般に貸し出しはしていないが、ルカが冒険者ギルドの職員だというので特別に貸してもらっている。
ルカが厨房に入ると、既に他のメンバーは揃ってイワシ会の準備に取り掛かっていた。イワシ会では皆で料理を作って、食べながら和食について語り合うのが恒例だ。
「ごめん、遅くなった!」
「アタシ達も今来たとこだよー!」
お米を研ぎながら、人懐っこい笑顔で迎えてくれたのは柏木勇李──勇者ユウキだ。彼女が研いでいるのは長粒米、この世界では今のところジャポニカ米を発見出来ていない。でもユウキが色々と試行錯誤してくれて、美味しい長粒米の炊き方を見つけてくれた。いや、現在進行形で更に美味しいご飯が食べられるよう研究中である。白米には並々ならぬこだわりを持つユウキである。
「ルカ、安かったから海老とサーモンにしたけど良かったかな?」
「うん、海老大好きだから嬉しいよ!」
「僕も好きだから沢山買ってきたよ」
極上のスマイルを浮かべて海老の殻を剥いているのは東条颯真──聖騎士ソウマだ。海老はボイルされたばかりなのか、湯気を立てているのを指先で摘みながらの殻剥きだ。
この国は海に近く、新鮮な魚介類が安く手に入る。種族によっては生魚も食べるので、お刺身も手に入る。ただし醤油がないし、わさびもない。ソウマが市場で貰ったホースラディッシュで代用している。美形で人当たりの良いソウマが買い出しに行くと、たいてい何かオマケを貰ってくるのだ。
「サーモンは一応俺の魔法で凍らせた。こっちにも寄生虫がいるかもしれないからな」
「さすがだねケイ、ありがとう!」
褒められて嬉しいのに、格好をつけて無表情を装っているのは宇藤慶──賢者ケイだ。時折ずれた眼鏡のフレームをクイッと直しながら、きっちり同じ薄さになるようにサーモンを切り分けている。
この世界の生態系は、魔物がいる以外は地球とよく似ている。魔物も種類によっては食べられるが、毒があったり下処理が大変だったりで、あまり普及していない。高級珍味として好んで食べる人もいるが、今のところルカ達は和食の再現に情熱を注いでいるので、魔物食にはまだ手を出していない。
「マリナは卵焼き?」
「ええ、彩りを考えたら必要かと思いまして」
真剣な表情でフライパンを凝視しているのは月路マリナ──聖女マリナ。錦糸玉子にするつもりなのか、フライパンの溶き卵は極薄に広がっている。コンロの火加減は最弱に設定されているが、炎は見えない。
ここのコンロは最新式の魔導具だ。エネルギー源は魔物から採れる魔石で、コンロの内部に組み込まれて熱を発する。見た目はIHクッキングヒーターと似ているし、機能もIHクッキングヒーターそっくりだ。
「うん、要る要る。見た目綺麗だし、美味しいよね」
魔導コンロの横の戸棚を開けて、ワインビネガーを取り出したルカ。地球での名前は史倉瑠華だが、ここでは鑑定士ルカで通っている。ルカは奥の棚に移動して、砂糖と塩も取り出した。今日の料理は押し寿司だ。米酢がないのでワインビネガーで代用する。
ルカ達は、ごく普通の日本の高校生だった。料理人だったことはないし、両親共働きで家のご飯担当だったりもしなかったし、料理クラブにはいっていたわけでもない。料理の経験なんて、せいぜい調理実習とかお手伝い程度のものだった。
だから、この世界に転移して来たばかりの頃は、自分で料理をしようとも思っていなかった。この国では、凝った食事は外で食べるものだ。家ではハムやチーズを切ってパンに乗せるのが関の山、ドイツの冷たい食事と似たような食文化だから尚更だ。
だが、半年と経たずに和食が恋しくなったルカ達は、無いなら自分達で作ろうとなったのだ。高額な賞金を掛けて、かつ冒険がてら醤油や味噌や豆腐なんかを探しつつ、今日もイワシ会ではなんちゃって和食が作られている。