Ep.05 もう一度、空高く
学園の裏にある滑走路。
その脇に並ぶガレージの一つに、俺の愛機、九七式戦闘機――九七戦乙型が鎮座している。
九七戦は、1940年頃――日中戦争の頃に活躍した型だ。水平方向の運動性能が抜群だが、後の型式に比べると馬力の面で劣っている、比較的前期型の近接戦闘機。
そして、目の前のこの機体は、陸軍時代の緑色に日の丸の塗装ではなく、反射を抑えたサテン調の銀色に塗り替えられている。
”銀翼の双蝶”の一。
しばらく見ない間に、なんだか煤けたような気がする。
近くの棚にあった雑巾で、キャノピー、いわゆるコックピットのカバーを拭く。
「変らないわね」
いつの間にか、操縦服に着替えた結花が立っていた。
「そうか? なんか機体が煤けたように見えるけど」
「私のもこんなもんよ」
どうやら、しばらく見ない間に変わったのは俺の記憶のほうだったらしい。
この機体は学園の整備科に預けて授業の一環で整備してもらっているので、調子は悪くなっていないと思う。
ただ、ここに運び込んだ時は陸送だったうえ、もう1年半以上実飛行させていないので、一通り念入りに確認しておいたほうがよさそうだ。
「昴、私のほうは発航前準備だけで大丈夫だから、手伝おうか?」
「頼む」
2人で点検していく。
後で整備科の先生に最終確認してもらう手筈だが、この場で見落としなく点検しておかなければ飛行機乗りとしては恥だ。
足回りから、細々した可動部品まで。
特に、機体操縦の要である3つの舵は操縦索駆動ということもあり、念入りな点検が必要だ。
――主翼後方にある、機体の横転を司る補助翼。
――水平尾翼後方にある、機体の上下動を司る昇降舵。
――垂直尾翼後方にある、機体の首振り運動を司る方向舵。
ひとつでも調子が優れないと、特に速度を出しているときにはただでさえ重く操作しにくくなる舵が不調とあっては、目も当てられないことになる。
「よし、目視点検終了」
機体前方と、コックピット内にある計器の点検を終える。
「こっちもオッケーだよ!」
機体後方と足回りの点検を任せていた結花が戻ってくる。
整備科の先生のチェックを受け、エンジン始動に入った。
隣では、一足先に結花の機体――二式戦闘機二型甲、俗に二式戦、二式単戦と呼ばれる機体のエンジンが始動する。
二式戦は、俺の九七式戦とは反対に馬力があり、昇降性能が高い。速度や馬力のかわりに旋回性能は犠牲になっており、小回りのきく型式が多く出場する模擬戦闘会ではあまり好まれない型式だ。
あえてこの機体を選び、着実に結果を残すあたりに、結花の凄さが見て取れる。
二式戦から遅れること少々、俺の機体も始動した。
回転が安定するまでは、計器類や無線機の再チェックを行う。
「すばるー、聞こえる?」
無線機から陽気な声がした。
「ああ、聞こえてるよ」
「エンジンはどう? 調子よさそう?」
「今のところな」
整備科で定期的に始動してくれていたようで、回転も随分と安定している。
俺たちがタッグを組んでいた頃、よくこうして無線機で話していたっけ。
懐かしんでいると、それを知ってか知らずか、結花が切り出した。
「昔も、よくこうやって話したよね」
「ああ、俺もいま同じこと考えてたところ」
以心伝心? ついそんなことを考えてしまう。ただ腐れ縁なだけかもしれないが。
「コックピットってこんなに狭かったっけ……?」
引退前、もう少しゆったりと座れていた座席は、ずいぶん窮屈に感じられた。
「背が伸びたからじゃない?」
「そうかも」
他愛ない会話を続ける。
お互い会話がなくなったところで、発航準備にかかった。
離陸は、俺から行うことになっている。
ガレージの並びにある管制塔――といっても、空港で見るような立派なものでもないが――と通信を行い、気象状況を確認する。
小型機は、下降気流――とりわけダウンバーストとよばれる凄まじい下降気流に対して、あまりにも無力だ。
気象条件が整わないと、小型機の離陸にはリスクが大きい。
気象状況が良好であることを確認して滑走路の手前に進入、管制塔からの離陸許可を待つ。
「第1滑走路上支障物なし、離陸可能です」
ついに離陸だ。
スロットルレバーを一杯に引いてエンジンの回転を上げ、機体を水平に保つために操縦桿は前に倒す。
回転数が上がるとともに、機体が滑走を始めた。
地面の凹凸が、ダイレクトに伝わってくる。
そして、ある一定速を超えたところで操縦桿を手前に引く。
浮遊感とともに地面からの振動がなくなった。
離陸したのだ。
十分に高度をとり、滑走路のある地点から距離を置く。
ここで旋回して、後から離陸してくる結花を待つことにする。
眼下には、普段生活している街並み。
選手時代、他の地域に住んでいた俺にとって、この景色は初めて見るものだ。
しばらく眺めながら旋回を続けると、無線が反応した。
「おまたせー。そっちから見える? 十時の方向」
「見えてる」
「オッケー、それじゃあ、しばらく飛ぼうよ。今日は慣らしで」
結花の二式戦に並ぶように、機体を操縦する。
目を凝らせば、コックピットに顔が見えるくらいの距離感。
長いこと見ていない構図だった。
「どう? 久々のフライトは」
無線機から、結花の声が響く。
「ああ、最高だよ」
なんでこんな楽しいことをやめてしまったのかと思えるほどには。
「でも昴、なんかフラフラしてるよー?」
「仕方ないだろ、こちとら二年近くもブランクあるんだ」
機体旋回の感覚が、イマイチ戻っていない。
ラダーをつい踏み込み過ぎて、機体が内滑りする。
だが、そんなのは些細なことだ。
この一面が白と蒼に染まった世界を、また二人で飛ぶことができた喜びに比べれば。
「あしたから実戦練習だからね! 絶対ついてきてよね」
「大丈夫かなぁ……酷いことになりそうだけど」
――そういいつつ、結花と一緒ならまたうまく飛べるんじゃないかって。
そう思わずにはいられないのだ。
約2年ぶりの空は、最高に気持ちがよかった。