第一章 シャインソール王国 4
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フォレスティンという名の村がある。シャインソールの王都サンディアスから南東に位置し、王都に一番近い村である。この村は、王都に最も近いこともあり、多くの庶民たちが暮らしていた。
末端の兵士であるタイトも、フォレスティンに住んでいた。元々は、農民でしかなかったタイトが、結婚を機に、それまでとは、百八十度方向転換した真逆な生活環境を強いられるようになった。
タイトの生活を変えたのは、妻となったアスリーンの所為なのである。否、正確には違う。タイトがアスリーンと一緒になるために、真逆な生活環境に自ら飛び込んだのである。故に、タイトは現状の生活を苦とは思っていない。それどころか、現在の生活を幸せと思っている。
確かに、自由気ままな独り暮らしで、自分の食い扶持だけを得られれば良かった農民時代とは違い、現在は、あの厳しいエミリオ将軍の下、兵士としての規則でがんじがらめの生活を強いられている。その結果、精神的にも疲れることは間違いなかった。
しかし、それを差し引いても、お釣りがくるほど、アスリーンとの生活は喜びの毎日だった。そして、結婚六年目にしてやっと授かった娘フラニーが七年前から家族に加わり、更に喜びは何倍にもなったのである。
タイトは、夢の中で、その幸せを噛みしめていた。しかし、その幸せは長くは続かなかった。タイトの頭の中に鐘の音が響き渡り、幸せな夢は、水泡と帰した。
タイトは、ベッドの中で、毛布を頭から被り、頭に響き渡る鐘の音を掻き消そうとした。しかし、鐘の音は、そのボリュームを大きくするばかりであった。
「パパ、いい加減に起きなさい。もう朝ですよ」
鐘の音を鳴らした張本人が、寝室のドアを力強く叩きながら叫んでいた。扉を叩く音が、夢の中で鐘の音として響き渡ったようである。その張本人とは、先ほど、幸せな夢の中に出てきた愛娘のフラニーである。
仕方なく、タイトは、上半身を起こし、外へ声を掛けた。
「分かったよ、もう起きたから、そんなに大声を出さないでくれ」
タイトは、面倒臭そうに言って、ベッドから這い出した。
「もう、大きな声で起こされたくなかったら、時間通りに起きてよね。四十を超えて、いつまでも手が掛る赤ん坊では困るわ」
「あぁ、パパが悪かったよ。」
そう言った後、小声で、そっと呟いた。
「全く、誰に似たんだか・・・、ママは、もっと優しく起こしてくれたぞ」
「何言ってんのよ。ママは、パパに甘すぎるのよ。だから、四十も過ぎて、未だに時間通りの生活もできないルーズな大人になっちゃったんじゃないの。確りしてよ、もうっ」
フラニーは、タイトに関しては、非常に厳しい性格をしている。タイトの言うことを一言も漏らさず聞いており、逐一突っ込んでくるのである。
タイトは、娘の言うとおり、もう、四十四歳になっていた。妻のアスリーンとは、十三年前に結婚しており、アスリーンも四十歳になっていた。タイトにとっては、六年目にして、やっと授かった子であり、そして、たった一人の子なのである。まさに目に入れても痛くないほど可愛がっていた。
その所為なのか、フラニーも二人のことを心から愛しており、タイトに対して厳しいのも愛情の裏返しなのである。そんなことは、タイトも百も承知しており、毎朝の、このようなやり取りを楽しんでいた。
「早く、着替えて、ママは、もう食事の支度を済ませているからね」
「はい、はい」
「『はい』は、一度良い」
「はいっ」
「それじゃ、待っているからねぇ、早く、来るんですよ」
そう言って、やっと、タイトのことを開放して、フラニーはアスリーンのもとに去って行った。
タイトは、急いで、顔を洗い、身支度を済ませ、キッチンへ向かった。
既に、二人は、着席しており、申し訳なさそうにタイトは声を掛けた。
「やぁ、おはよう」
その姿を見て、アスリーンは、申し訳なさそうに言った。
「いつも、すいません、貴方。朝からうるさくて。フラニー、パパは疲れているのよ。もっと、優しく起こしてあげなさい」
アスリーンの言葉を聞いて、少し不貞腐れて、フラニーは答えた。
「だって、毎朝、同じことの繰り返しよ。怒鳴りたくもなるわよ」
「パパは、毎日、疲れているのよ。毎朝、ゆっくり寝ているのは当たり前です」
「毎日、働くのは、どこの父親もやっているわ。何故、パパだけが、そんなに疲れるの。ママが、そうやって甘やかすのが駄目なのよ」
フラニーが、そう言うや否や、アスリーンは大きな声を出した。
「フラニー、いい加減にしなさい。パパは、一方的なママの愛を受け入れてくれて、結婚してくれたの。本当は、もっと平凡で普通の生活だって送れたのに、ママがパパのことを如何しても忘れられなくて、泣きついたのよ」
そこまで、捲し立てるとアスリーンは、目に一杯の涙を浮かべていた。それを見て、フラニーがいたたまれずに、謝った。
「ごめんなさい、悪かったわ」
「いいえ、良く、お聞きなさい。ママが、結婚したいと言ったのに、お爺ちゃんは、大反対したの。それなのに、パパは、そんなお爺ちゃんに決して逆らわず、ママとの結婚をお願いしてくれたの。その結婚の条件として、シャインソール王国の軍に入隊することを約束させられたのよ。フラニーも分かるわよね。パパは、優しい人なの。その優しいパパが、自ら争いごとに手を貸さなくてはならないの、それが、どんなに精神的に苦しいことか。それも、全て、ママとフラニーのためにやらなくてはならないのよ。本当に、パパには、申し訳なくて・・・」
そう言って、顔を伏せて、暫くの間、泣いていた。その姿を見ると、もう、フラニーは、何も言えなくなった。
「ママ・・・」
フラニーが、何か言おうとすると、アスリーンは、突然、顔を上げて叫んだ。
「でも、後悔はしていないわ」
突然、そう叫ぶと、更に続けていった。
「ママは、パパと一緒にならずにはいられなかったの。パパのいない人生なんか、ありえなかったわ。だから、私のもとからは自由にすることはできないわ。パパ、ごめんなさい」
「ママ、落ち着いて・・・」
そんなフラニーの言葉など、全く耳に入らないのか、アスリーンは、自分に誓うように宣言した。
「こんどこそ、父に、パパのことを認めさせて、自由にしてみせるわ。それで許してね、パパ」
そう言って振り返ると、タイトと目が合ってしまった。アスリーンは、思わず顔が赤くなるのを感じた。そんなことは構わず、タイトが話し出した。
「ママ、それは、大きな勘違いだよ。誰が、好きでもない女性と結婚するのに、全てを受け入れるというんだい。愛おしくて、ママ無しでは生きられなかったのは、パパの方だよ。ましてや僕と君とじゃ、容姿も素性も月とスッポンなんだよ。未だに、君が僕と結婚してくれたのが信じられないよ。だから、仕事だって辛くはないよ。朝起きられないのだって、フラニーの言うとおり、ママに甘えて暮らしてきたパパが悪いのさ。ママ、本当に申し訳ない。ママに、そんな思いをさせて、フラニーの言うとおり、夫として、父親として、僕が、もっと確りしないといけないなぁ」
タイトの言うとおり、タイトは太っており、細身で美人であるアスリーンとは、とてもつり合いが取れているとは言い難かった。
それでも、妻であるアスリーンは、本気で愛していると言ってくれるのである。そんなアスリーンに対して、何か後ろめたさが感じられて申し訳なかった。
そこまで、黙って聞いていたフラニーは、馬鹿らしくなり怒鳴りつけた。
「あぁ、やってられないわ。勝手にして。聞くのも馬鹿らしいわ。いただきます」
そう言って、勝手に食事を始めてしまった。我が子に、そこまで言われて、アスリーンは我に返り、タイトに食事をするように勧めた。
「そうね、パパもお腹が空いたでしょ。食事にしましょう。いただきます」
恥ずかしさを誤魔化して、アスリーンも食事を始めた。タイトは、そんなアスリーンとフラニーを本当に心の底から愛している。
確かに、アスリーンが言ったように、争いごとが苦手なことは事実である。但し、アスリーンの父であるジェラルド・カスバーン公爵に強制されたから兵士になった訳ではない。
タイトは、生まれてから今日まで、一度も人から強制されて物事を決めたことはなかった。確かに、言われたとおりにしたことは何度もある。しかし、それは、結果として、そうなったに過ぎない。
タイトにとって、自分の行動の全ては、『生きるために』していることなのである。『生きるため』にする行動が、自分の意思に反するはずがない。つまり、タイトにとって、全ての行動は、他人の意思の入り込む余地はなく、自らの意思によって決定されているのである。
言い換えれば、自分の意思を貫き通してきたのがタイトなのだ。故に、今回の入隊の件もジェラルド公爵に言われたからではない。タイトが、アスリーン無しでは生きられないから、自分が生きるために、アスリーンと結婚するという意思を貫き通した結果として、軍への入隊となっただけのことである。
それゆえ、タイトは、アスリーンに申し訳ない気持ちで一杯であった。だが、タイトは、そのことをアスリーンに言っても無駄であることも理解していた。タイトの考えは、タイトにしか分からない。
もし、アスリーンが理解してくれたとしても、それは、優しさゆえである。タイトが傷つくことを何よりも許せないことと考えている。それは、先のフラニーとの会話からも理解できる。その気持ちは、タイトも全く同じである。
だからこそ、タイトには、アスリーンに自分の気持ちを打ち明けることは、彼女自身の思いで気持ちを変化させるのではなく、彼女の優しさに付け込んで、無理やり気持ちを切り替える行為に思えてならないのだ。
当然、タイトには、アスリーンの優しさに付け込む気はない。しかし、結果的に急速な変化は、その可能性をもたらす確率が高いのである。
人が自分の意思で思いを変えることは、本当に労力のいる行為なのだ。一朝一夕で、できることではない。ゆえに、人が思いを変化させるには、十分な時間が必要なのである。
もし、ここで、タイトが自分の心の内を話せば、アスリーンやフラニーの気持ちを急激に変化させる可能性が高い。これは、自分の発する言葉の力を信じているからではない。アスリーンやフラニーの優しさを信じているからこそ、そう考えずにはいられないのだ。
タイトにとっては、最早、アスリーンやフラニーに関しては、信じるというレベルの存在ではない。
だからと言って、タイトにとっては良く言われるような「二人は自分そのものである」と言うような考えもない。
タイトにとって、二人は自分以上の存在であり、二人に生かされている存在がタイトなのである。
タイトは、そう考えている。だから、自分の不甲斐無さを本当に恥じた。
「よし、今日も腹いっぱい食べて、頑張るぞ。いただきます」
そう言って、食べ始めようとしたタイトを見て、フラニーが食事の手を止めて言った。
「パパ、お腹一杯食べては駄目よ。そのお腹を見なさい。だから、疲れが溜まるのよ」
タイトは、そう言われ、「そっそうか」と返事をし、言われたとおり腹回りを触ってみた。すると、今度は、アスリーンが、そんなタイトの姿を見て言った。
「そうね、その点に関しては、フラニーの言うとおりだわ。パパ、気を付けてね。貴方の命は、私たちの命でもあるのよ。先ほども言ったけど、パパ無しの人生は、私たちにはありえないわ」
「す、すいません」
タイトは、そう言うと、「明日から食事を減らさなくてはならないな」といつものように心に誓ったのだ。
食事を終らせて、タイトは、いつものように自室に下がり、お城に上がる準備に取り掛かった。
食事のときの会話を思い浮かべ、今日は幾分、気が張っていた。直ぐに準備も終わり、アスリーンとフラニーに、「行ってきます」と挨拶をすると、二人から直ぐに、「行ってらっしゃい、貴方」「行ってらっしゃい、パパ」と声を掛けられ、家を出た。
シャインソール王国は、平和そのものである。兵士とはいってもやることは、戦争ではない。もう、昔のような戦国時代ではないのだ。
兵士に与えられた仕事は、城の警護と庶民たちに王国の秩序を順守させることである。それに抵触するような輩は、直ちに赴いて、その身柄を確保し、処罰することになる。
一昔前は、全くと言って良いほど、王国では秩序を乱すようなものはいなかった。特に、三世、四世の時代は皆無であった。
しかし、五世の時代になってから、徐々に変わってきたのだ。庶民たちは、現状の平和に不満がある訳ではない。しかし、現状の自分たちの生活に納得できないのだろう。
つまり、ひとつの不満が解消され、別の不満が噴き出してきた。それが、ちょうど現在の状況を生み出したに違いない。
タイトは思う。この平和を続かせなくてはならない。それが、アスリーンとフラニーのためなのである。そう、タイトは考えずにはいられなかった。
「人の心は移ろいやすいもの、か」
タイトは、独りごとを呟いていた。現実は、タイトの思いなどとは関係なく、日々変化していく。そのことを誰よりも理解しているタイトであった。




