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  作者: 咲良 玲
1/1

悪魔に魅入られた娘




           (よこしま)




           咲良 玲

























第一章 トケイソウ


第二章 カモミール


第三章 クレマチス
























第一章 トケイソウ



第一節:ムスカリ

    

第二節:スズラン

    

第三節:スターチス

    

第四節:カーネーション

    

第五節:マリーゴールド

    

第六節:リンドウ

    

第七節:白いポピー

    














 「ムスカリ」


     一

 

 闇の渦が私を弄ぶ、上昇しているようだ。

何も見えない、どこまで行くのか。

光の国へ続く渦であって欲しい。


 私の行為、この死をもって消えよ。

死を感じた時、深く苦しみ後悔に悶えた。

 邪気が私の中に住み着いて苦しめる、払い除けても戻って来てしまう黒い塊、自分の力では

抑えられないもどかしさ、神仏に縋りたい思いのまま年月が過ぎて来た。


 灯りが欲しい。


     二


 私の中の魔性は、五歳の時に生まれた。

ずっと、父と母の愛は私ひとりのものだった。

近所の大人も父の部下達も「淳子お嬢さん」

と呼んでくれるのを当たり前に育った。

母のお腹が膨らんで来た不思議を感じていたのだが、唐突にその日はやって来た。

妹が生まれたのだ。早産だった。家に産婆さんが来て、バタバタしているうち生まれた。

泣き声が弱々しい。未熟児なので命が続くかどうか、皆が気を揉んでいた。

当然のごとく、私は構ってもらえず寂しい思いをした。まだ妹を見ていない。

初めて会わせてもらったのは、一ヶ月過ぎた頃だった。

 「美沙」と命名された。

 何故、誰も私を見てくれないのだろう。

わざと転んでみても、擦り傷程度で大人の関心を惹くには至らない悔しさ。美沙が生まれて

来なければ良かったのだ。


この世から消してしまえば良いと悪魔が囁く。


 「スズラン」


     一


 私には、息子が二人居て、孫四人と恵まれている。世間一般に、子より孫の方が責任が無い分、

可愛いと言われているが本当に孫は可愛い。長男夫婦と同居、嫁も働いている為孫の世話に明け

暮れている。無責任に可愛がってばかりでは居られない。

怪我・病気もそうだが、躾・ルール、兄妹喧嘩の仲裁等々、手がかかる。

二歳の孫娘、希代(きよ)は可愛がられる術を身に付けている。実にオシャマさんだ。

「ジィジとバァバと寝たい」とグズルのは毎晩のこと。私達の所で眠らせてから嫁の許へ運ぶ。

「バァバのご飯おいしいね」。

片言のことば、一生懸命喘ぎながら話す。

爪を切るのも耳掃除も私の役目。入浴は兄妹とも夫、浩一の仕事。夫も孫に甘い、四歳と二歳可

愛い盛りだから仕方ないが、毎回のオネダリに負けている。

 嫁は、二世帯住宅ローン返済等で、息子の「(こう)()の収入だけでは生活出来ません」と

の理由で「退職しません、出来ません、お義母さんお願いします」と。

子供が病気の時でも、舅姑任せで「働けるので助かります」。

地方公務員の嫁の方が、浩太よりも僅かだが収入が多いようだ。

母性愛が希薄としか思えない行動が気になる。

休日、孫二人を私達に預け若夫婦だけでドライブ等に行ってしまう事も度々だ。

今が一番可愛い時なのに、なんと勿体無い。

 希代は親に邪険に叱られないので、留守番を楽しんでいる。

「バァバこれ一緒にやろ」「ジィジきいちゃんが遊んであげるね」と幼児ことば。

なんて可愛いのだろう頬が緩む。

お兄ちゃんの後追いをする、言葉の遅い四歳翔太を言い負かして得意顔だ。お兄ちゃん、ジィジ、

バァバも敵わない、可愛さの武器を上手に使いこなす、敵なしである。


     二


妹美沙(みさ)にも二歳の時代があった、私は七歳。

今の希代よりも可愛かったと思う。一緒に遊んだ記憶はない。他人の目がある時だけ妹の

傍らに居た。「良いお姉ちゃんだね」の為に。

美沙は邪魔者、輝く二歳児が憎かった。美沙の体格は華奢だが顔付きはポッチャリ、二重目蓋で

パッチリしている。いつも笑顔である。転んでも、体調不良でも泣くことはめったになかった。

発語は遅かったように記憶している、話かけられるとニッコリ笑うが中々返事出来ないでモジモ

ジするのも可愛いのだと、周囲の者は言う。

何故か、誰も幼児言葉では話かけない不思議。

 だからだろうか、長じて美沙は理屈っぽい話し方をするようになった。起承転結のある話しを

するので周囲の者は感心して聞き入る。


 自我が形成されつつある私五歳児に、妹が出現したことで、心に鬼が生まれたのだろう。

三歳位の差か七歳以上の差が有った方が良かったのかもしれない。

あるいは、弟だったら違う感情で接していただろう。


 周囲の者を和ませる天使のような妹と、鬼のような殺意をひそませる私。

どちらが勝つのだろうか。



 「スターチス」


     一


 「淳子(じゅんこ)、お前は長女だから、この家の跡継ぎだぞ、ずっとお父さんお母さんと一緒だ」。

私の勝ちだ。

「進学はさせるが、必ず戻って来るんだ。名前お父さんの淳也(じゅんや)の淳の字が入っているのは

長女だからなんだ」。

 「美沙(みさ)、お前は次女だから大きくなったらお嫁さんになって出ていくんだ、勉強しろよ」

父は晩酌しながら、機嫌が良くなると、姉妹に言い続けた。

美沙は寂しげに、「私の名前はお母さんの沙の字をもらったんでしょ」とポツリと問う。

 

 私は東京で華やかに楽しく暮らしたい。

この田舎暮らしは、高校卒業までの我慢だ。


     二


時々、母にお使いを頼まれることが有るが、

独りで行くのは不安だ。複数のお使いは苦手だった、母は何故かメモを取らせなかった、記憶力の訓練か?

妹を連れて行くことが多かった。側で母の言いつけを聞いているので、覚えてくれている。

用事は妹の記憶力のお陰で、全部出来た。寄る順番、買い物籠への入れ方まで指摘されるのは忌々しいが。

手を繋いで歩いていると、「お使いかい?妹連れて偉いなァ」と褒められる。気分が良い。

それ以外、妹と行動をともにすることは皆無。邪魔な存在に変わりはない。 

妹の手をひいての帰り道、夕焼けが私を、責めているようで赤い空は嫌いだった。


 父の会社の事務員、小池裕美子さんも美沙を相手に話すのを楽しんでいる。

時折、退社時美沙を自転車に乗せて帰る。男兄弟ばかりとのことで、美沙は歓待されるという。

美沙も大きな農家で楽しんで来る。

生まれた時から大人に囲まれて育ったからか他人ばかりでも物怖じしない。羨ましい。

 私は、電話番を言いつけられるのが嫌で、逃げ出してばかりだった。先方の言っていることが

解らないからだ。

小学校入学前の美沙五歳の頃、率先して電話番をしていたある日、方言訛りの強い人からの電話で、

美沙は何度も聞き返しながら、ひらがなでメモをしていた。「もう少しゆっくり言ってください」、

先方も困ったのだろう、「もっと若いもんに代わってくれ」と。

美沙の話し方はゆっくりで年寄りと思ったのか。

母を呼びに行き用事は済んだ。事務所に戻って来た父に仔細を話した。

翌日には近所で話題となっていた。

「五歳より若い者じゃ、どうにもならんよ、美沙ちゃんだから、留守番出来るのになァ」。

「あそこの親父の訛り、ひでェからな」。


数日後、その親父さんが来て「嬢ちゃんにこれ渡してくれ」と言って大福餅を沢山置いていかれた。

会社の人と笑いながら食べた記憶がある。


 美沙は近所の家への電話取次ぎも買って出た、「Aおばちゃァん電話だよゥBさんから」と言いに、

走って行く、体力のない体で。

走って行かなくても良いと言われても「電話代かかるでしょだから行きだけ走るの」と。

(当時は電話の普及率低く、商店・会社等にしかなく、ご近所への取次ぎで用を足していた。

日本電電公社の債権を買わなければならなかった時代だ。)

 裕美子さん出勤時に美沙は戻ってくる。

歓迎されることも嬉しいようだが、家では食べられない郷土料理を食べて美味しかったと。

代々続く豪農で、囲炉裏や、黒光りする太い柱、梁に興味を持ったようだ。

母に纏わりついて嬉々と報告する。

母が裕美子さんに、お世話になった事や土産の野菜のお礼を口にする。

「美沙ちゃんが来ると家が華やぎ楽しいです、また連れていっても良いですか?」

裕美子さんが嫁ぐまで美沙の外泊は続いた。お泊りセットには、解熱剤・下痢止・胃薬、赤チン、

包帯等が常備されていた。

 母は東京下町育ちだ、田舎言葉、郷土料理は作れない。

母の言葉を聴いて育った姉妹は、方言が苦手だ。

中途半端な方言を喋った、まだテレビの有る家はほとんど無かった。私の友人は、変だとからかう。

イントネーション、発音が違うのだろう。祖母タエにべったりくっ付いて話し言葉を覚えた美沙は一層、

東京下町弁が強かった。後年、学校でイジメの対象となったようである。

 父は地元の生まれ育ちだが、若い頃、東京の農林省関係で働いていた為か、方言は薄れていた。

その経歴を生かして、帰郷後製材所兼材木店を営み始め母と結婚した。

父は六人兄弟の末っ子だ。母には妹が居るだけの長女だったので母の籍に入った。

長兄の子即ち甥に当たる子が父より幾つか、年上だった。

叔父叔母等、親類縁者が多い。

 それらの家にも美沙は一泊で遊びに行くことも有り、人気の子だ。

めったな事では泣かず手がかからないからだろう。

おっとりした明るさが受けるのだ。私には声がかからない悔しさ。

苦手な方言はどう対処したのだろうか。


 長じてからの親戚付き合いは、「長女の役目だから、美沙は行っては駄目」と禁じた。

先方で美沙のことばかり問われるのが不快で嫌だった。

 

 美沙外泊の日を私は喜んだ。両親の関心を自分に惹けると考えたのだが、意に反して雰囲気は沈み

会話の少ない食卓となった。

私は十二・三歳であったが、順序立てて話をするのが下手で、聞く者に伝わらない。

思い付くまま口が滑る。

「いつ、誰が、どうした、でどう思った」を考えてから話すようにと父から注意される。

何度も叱られる。

私には苦痛だ。(大人になっても直らなかった突然話しが飛ぶ聞くものを戸惑わすのだ。)

 もう「淳子(じゅんこ)お嬢ちゃん」とは誰も呼んでくれない。美沙のせいだ。

父に叱られた後、母はそっと見守っている、慰めて欲しいのに。父と同じ考えだったのだろうか。

そういえば、美沙も「美沙ちゃん」と呼ばれている「美沙お嬢ちゃん」とは誰も言わない。何故だろう。

 父の仕事が軌道に乗るまでピリピリしていたが、何も言わずニコニコしている美沙に癒されていたのかもしれない。自転車に乗せて取引先にまで連れて行く。商談が上手く進むという。

何をして来たのかと問うてみた。

「お父さんの側に座っていた」

出された茶菓は食べない、「お姉ちゃんと半分こにするから持って帰って良いですか?」

「それじゃコレも持って帰りなさい」

「お姉ちゃんの分と二つで良いです」

「遠慮しないで持って行きなさい」

美沙が固辞する毎に量が増えていく、困って父の方を見る。「じゃあ頂いて行こう」。

笑いを誘う、拗れかけていた商談が纏まる。

「私も行ってみたい」と強請ったら、「淳子では纏まる話も流れる」。と拒絶された。

側で座っているくらいなら出来るのに。

この不思議な子、居なくならないのかな。


     三


 転居。父の仕事の関係だ、今度は東北の田舎ではあるが、中都市部だ。父の親類が多い。

父方の従兄弟誠一と母方の従姉妹喜枝とは、同い年だ。


 中学校入学。

女の子の友達は出来ない、私に何か原因があるのだろうか。

いつも私の周りには男の子が取り巻いていた。

従姉妹の喜枝は誠一に関心を寄せているようだったが、誠一はほとんどの週末私の所へ来て過ごした。

街の中心部の商店街に行ったり、公園でバトミントンしたりデパートの屋上で話したりして過ごした。

誠一の家に行くのは、昼食の時。

叔母に美沙のことを問われるのが面倒なので、食後は手伝いもせずに再び外出した。


 下駄箱に手紙が入っていることも度々だ。

読んだことも、返事を書いたこともない。

しかし交換日記は二人としていた。ノートを父母に見つかると叱られるのは解っている。

隠し場所を色々考えた、机の中では見つかってしまう。悪い点のテスト採点の物を引き出しに隠すので、抜き打ちにチェックされる。

考え付いたのは、美沙の机の裏だ、美沙は成績も悪くないし悪い点を取ったときにも自己申告する、

隠すという発想がない。

二人分の日記の返事を書いている方が勉強するより面白いので、勉学は二の次となる。

テストの採点の悪い言い訳を作る。父に叱られるがゴメンナサイが言えない、父を苛立たせた。

隠した日記が見つかったことは無い。美沙には見つかったが、何も言わなかった。

両親にも言い付けることは無かった。

 時々、「知らないお兄さんが、お姉ちゃんに渡してだって」と私宛の手紙を持ち帰って来る。

この事も両親に告げ口しなかった。

 誠一の来ない週末は、他の男の子達と郊外へサイクリングに出かけた。

観光名所の多い地域だったので行き先に困ったことは無い。

 子供の頃の五歳の差は大きい。美沙は私の行動に関心を示さなくなって行った。

その代わりのように、私の女同級生が迎えに来て遊んでくれたり、家で数人が宿題をやった。

美沙には家庭教師替わりだ。友達はおやつに母が出してくれるホットケーキを喜んだ。

 足手まといの妹が居ない、自由自在にボーイフレンドと楽しむ事が出来た。


 私は細身で俊敏で足も速かった。男の子に遅れをとることは無い。

運動会の徒競走では、高校卒業までずっと三番以内で鼻高々だ。これだけは父も喜んでいた。

擦り傷は絶えなかったが病気知らずだ。


     四


 美沙は未熟児で生まれたのが原因なのか、

虚弱体質で度々、発熱、嘔吐、下痢をした。就学してからも続き、欠席がちであった。

小学一年生時の出席日数が足りなくなりそうに陥った。

教頭先生と相談し、担任先生が自宅に通って個人授業をしてくださった。それを出席とみなしてもらい、無事進級出来た。長閑な時代だったのだ。

 運動会と遠足には一度も参加したことが無い。だから両親には、「来ないで」と言っていたのだが、

母がこっそり覗きに行ったら、テントの中で先生とお弁当食べ、上級生の放送係りの手伝いをしていたと不憫がる。

「美沙には内緒よ」通知票に難はなかったが、体育は1。

体育館の片隅で見学か、保健室なのだから当然だ。


 欠席して自宅療養する美沙が羨ましかった。


 サイクリングで採って来た桑の実を食べさせたら、嘔吐した。スグリの実の時もだ。

両親には、吐いた物で私が食べさせたと解ってしまい、厳しく叱責された。

このまま死んでしまうのかと、ドキドキしながらも、それを望んで座っていた。



 「カーネーション」


     一


 また二人の息子が喧嘩している。

長男の(こう)()弟浩(ひろ)(つぐ)の玩具を取って泣かせたのだろう。

小学生になったのだ「お兄ちゃんなんだから、浩君はヒロちゃんを泣かせちゃ駄目でしょ」。

浩太は聞分け悪い息子だ。何度も繰り返す。三歳下の浩次を泣かせて、勝った気になるのは困り者だわ。

外では友達と喧嘩して泣かされて帰って来る。

典型的な内弁慶。私が浩次の世話をしている時を狙うように、コップをひっくり返して、びしょ濡れになり大泣きする。カッとして殴ってしまう。浩次を寝かし付けて浩太との時間を作り話すようにしている。

「お友達出来たの?勉強はどう?学校は楽しい?」


 たまに浩太は弟を寝かせに子供部屋に連れて行く。お兄ちゃん大好きの浩次は、猫のミチル抱き締めて付いて行く。やはり兄弟かと安堵。ベッドに入れて、浩太一人で私の許へ戻って来る。褒めてやると得意そうな表情をする。暫らくしてミチルが戻って来る。

ギュッと浩次が抱き締めているので逃げ出せないのだ。

眠って力が緩んでから、そっと抜け出して来る。

ミチルの方が子守上手で助かるが、浩太には言わないでおく。

ミチルは浩次に何をされても、爪を出す事は無い。あまりにもしつこかったのだろう、猫パンチを喰らった浩次はビックリして後ろに引っ繰り返り泣いた。

様子を見ていた浩太から状況を聞いて、何故か大笑いしてしまった。

「ヒロちゃん、ミチルの嫌がる事は止めようねミチルは悪くないからね」。こっくりする。

隅で小さくなっているミチルを抱き上げるとゴメンナサイとばかりにゴロゴロ喉を鳴らす。

翌朝、浩次の後先をミチルが纏わりつき騒いでいる。仲直りしたようだ。


     二


 我が家の食卓は賑やかだ、主役は幼児言葉の浩次と猫のミチル。

先に餌を食べたミチル卓上の物が欲しいのではない。

混ざりたい、お皿と口元を行き来する箸に興味がある。口元へ行く箸を狙ってチョッカイ出す。

叱ると、その度に離れるが、すぐ戻って来て家族四人に次々と悪戯して廻る。

 夫浩一は酒を呑まない。喋るよりも、私や子供達の話を聞くほうが多い。

温和ではあるが、気難しい頑固でもある。機嫌をとるのは我が子より楽な面も有る人だ。

物理学者で、研究一筋に生きてきた。故に世事に疎い。私が話して聞かせる世間話を、感心したり笑ったり驚いたりしている。きっと、この人をマインドコントロールするのは楽だ。

上司や同僚と酒席に着くこと無く帰宅する。

残業で遅くなっても必ず帰宅して摂る。それが例え深夜であってもだ。

「淳子の作るのが一番美味しいからだ」と言う。嬉しいが、子育て中の身にもなってほしい。男性ばかりの職場。浮気の心配せず安心していられる。妹美沙を監視していれば良い。


 保育園年長組となった浩次が、母の日用に折り紙で赤いカーネーションを作って来た。

畏まって「お母さんありがとう」と。

「上手に作れたね」と答えて受け取る。浩太が、私の手から引っ手繰りビリビリに破いた。当然、浩次は泣くかと思ったが、肩を震わせグッと手を握りしめただけで泣くのを我慢。

どことなく美沙に似ている。叔母と甥。

 子供部屋に籠っている。食卓に居ないので不審に思った夫に事情を聞かれた。話したら激怒して、初めて浩太にビンタした。「ゴメンナサイ」を言わない長男に業を煮やしたのだ。

反抗期に入った浩太、接し方が難しい。

所作が乱暴になり、機嫌が悪いと弟に当り散らす。浩次は口を一文字にして我慢する。

誰もが通る一時のことだろうから、見守ることにした。他所の人へ迷惑かけなければ良いがと願う。


     三


 私が高校一年半ば頃、実家に異変が起きた。

 母沙()()、膠原病発症。病名が判明するまでに七・八年を要した。当時は専門医もなく、治療法も定かではなかった。入退院を繰り返し、退院して自宅療養になっても、横臥していることが多かった。

父淳也の機嫌も悪くなり灯が消えたような家庭になった。

祖母タエと叔母美()()が交互に手伝いに来てくれたが、父が気に入らず三ヶ月程で断った。

 家事を担ったのは小学校五年生の美沙だ。

起きることの出来る日は母がやるのだが、母に付ききりの美沙は、その時に家事を習う。

美沙の献立レパートリーは少ないが、毎朝夕違う物を作った。買い物は、美沙が明日作る物、材料を話すのを書き取り父からお金を預かり私か父がした。

我が家を知らない人は、姉の私が全部やっていると思い込んでいた。

起き上がれない母の排泄介助も美沙が世話している。

私は、汚いと感じたので手を出さなかった。

休日の私の過ごし方も以前と変えない。

美沙は母の側から離れず甲斐甲斐しく看病。

 学業に影響するどころか、ある事を切っ掛けに成績良好、学年トップに躍り出た。

高校卒業まで続いた、全国模試でも十番以内。


 私はいったい何をやっていたのだろう?

努力型の美沙には負け続けだ。自業自得とはいえ悔しい。いつか仕返しすると決めた。


 休日、父は美沙を自転車に乗せて親類を、訪ねることがあった。親類中で一番幼い美沙は、何処に行っても人気者だからだろう。

後で考えれば母の医療費が嵩み、家計は困窮していたのだろうか?金策に行っていたのかもしれない。

父方の従兄弟のところでは、歓待される。お土産と小遣いを貰って来る。

私の分の小遣いまでだ。皆で分けて食べた、笑いがこぼれる。

役得だと父が言って美沙に多目に菓子を与えるのが、気に入らなかった。

私が行っても、茶菓は出してくれるが、お土産まではもらえない。


     四


 私は、理学療法士になるため上京し、専門学校へ通い始めた。

進学は、医療系と父から限定されたのだ。

家計に余裕は無く入学金の安い学校を探した。

家を離れ、東京で暮らせるなら何処でも良かった。私の周りには、いつも男子学生が居た。

毎日楽しいキャンパスライフだ、都会暮らしにも馴染むのが早かった。

母が入院しても、またかと思うだけで帰省しなかった。美沙が居れば事足りるのだ。

感覚が麻痺していた。


 病院実習が嫌でたまらなかった、汚いのだ。

男子学生と付き合い始めた、喧嘩した時など相談に乗ってもらった先生が、数年後の夫だ。

 卒業後一年半程働いて、結婚した。


 婿さんと酒を呑むのを楽しみにしていた父に、浩一は呑めない体質だとは言えなかった。

実家に訪問、「僕は長男なので、嫁にください。」

思いの他、父はあっさりと承諾してくれた。

美沙が居たからだ。この時だけは、妹に感謝した。

お祝いだと言って、在宅中の母に酒を用意させた。酒肴を作る手伝いをしながら、美沙は若い男性を

珍しそうに時々覗き見する。母に嗜められている。

 案の定、浩一は盃一杯で引っ繰り返ってしまった。全て白状している横で、真っ赤になり眠る顔が

能天気に思えた。

 父はガッカリしたようだが、数日滞在しているうちに浩一の人柄が解り、良かったなと言って喜ん

でくれた。両親、妹とも打ち解けてくれ、嬉しかった。

 私と同じ高校に通う美沙、高三である。

物怖じしないので、浩一と笑い転げながら話している。浩一も、私には見せない破顔だ。

照れながら「お義兄さん」と言う。

「お義兄さんて、学者さんなんだ尊敬しちゃうなァ」と眩しそうな表情をする。

 一回り歳下の義妹を、「可愛いなァ淳子とは性格違うよな?姉妹でも色々だァ、僕にも妹居るけれど

歳が近いせいかな、義妹って良いものだな」と。


 私の中の邪気が弾けた。

 もう美沙と浩一、直接には話をさせまい。


 結婚式が終わったら、美沙とは絶縁しよう。

二年後長男出産で、短大卒業後の春、美沙の手を借りることとなってしまった。無念。


 社会人となった美沙は切り詰めた生活と、休日バイトをしていて、我が家に来ることも無かった。

数年後知ったのだが、本当に就きたい目標があり、自力で夜学に行く資金を貯めていたという。

考えがブレない子だ。

次男浩次出産後三年程は、お互い忙しく音信も無くなった。

母が入院する度に美沙は休暇を取って、帰省していたようだ。


 夫浩一は私だけを見ていた。

私独りでの外出を嫌がるので、同窓会やママ友会にも出席出来ない。息が詰まる。

アレコレ考えた、夫と子供達が朝出かけたら直ぐに夕食の準備を済ませ、次男の帰宅前に戻っておく

段取りを思い付いた。


     五


 今の住まいは東京郊外の一戸建てだ。

専門学校時代、良く行った日本橋・京橋近辺をぶらついたり、足を銀座に向けたりして帰宅するのが

丁度良い息抜きだ。


 高校時代付き合いの在った者達で「ふる里会」が開かれることになった。

夕方からの会合であったが、参加することにした。

浩一には、「母方の親戚に不幸が起きた」と嘘の話しをして、外出した。

 高校時代のボーイフレンドも来ていた。卒業以来だ、懐かしい。

数日後、「会いたい」と連絡が有った。迷ったが承諾して電話を切った。

家庭に不満は無いが違う景色が見たかったのだ。

恋愛感情に火が付いた、いけないと思いながら抑えることは出来なかった、

幼少のころ、複数の玩具を同時に欲しがったように。

「夕食は電子レンジで温めて食べて」と言い置いた、ソワソワ浮かれお洒落して出かける。

昼間会うようにした、回数を重ねると近所の目が気になり始めた。

家計、特に「子供達の塾に費用が要りようだから」と浩一に話して、パートに週二・三日就いた。

これで、外出の口実が出来る。

 不倫に罪悪感は無い。日々の生活に張りが出た。子供達をヒステリックに怒らなくなる。


 我が家は平穏だ。

 美沙に見つかるまでは、そうだった。


 半年目あたりに、ばったり遭遇してしまった。

美沙の職場は八重洲である、お遣いに出て私達と会ったのだ。腕を絡ませていた訳ではないのだが、

美沙は察したようだ。困惑気味に挨拶する。

翌日美沙からの電話で、不貞を認めてしまった。言い逃れることも出来た筈なのに。 

またもや美沙が私の邪魔をする。先手を打って、口封じをすることに腐心する。


 いつもの手順で外出し、美沙の職場訪問。

差し入れを持っていく。美沙は外出中、丁度良い。「佐々木美沙の姉です、妹がお世話になります。

ご迷惑かけていませんか?子供の頃、手癖が悪く困らされました。何か御座いましたら私にご一報

くださいませ、よく言い聞かせますので」。男所帯の会社だ、私の操縦向き。成り行きが楽しみだ。

案の定、美沙は暫らくして母の看病を理由にして退職した。

この方法は、有効だ数回繰り返し使えた。

度々職場を変える事由を知らない浩一は、美沙に対して批判的な思いを抱くようになった。


 就職先に困ったのか、まだ半人前なのに、独立して個人事務所を持った。

下請けの仕事から始めて、着実に先方の信頼を築いていく。

官公省庁発注の仕事も受注出来るまでになる。

部下も数人置けるようになった、睡眠時間を削って頑張り続ける美沙が疎ましい。

あなたに勝つ方法はないのだろうか?


 「浩一が、顔も見せないと不服気味だから、一度来てよ」、の誘いに乗ってやって来た。

甥二人と甘党の浩一への土産に、有名洋菓子店の菓子を沢山抱えての来訪だ。

嬉しそうに頬張る男三人を見て、私の不倫事件は終わっていると察したようだ。

万が一、言い付けられた時の否定する言葉を用意していたが、不要だったと安堵した。

浩太と浩次は「美沙おばちゃん」を連呼して取り合っている。

ぽち袋を二人に渡す時「紙のお金だから、お母さんに預かって貰おう、どうしても欲しい物が有ったらお母さんに話してね」、と言い聞かせている。

この時が始まりだ、毎月五万円と菓子を運んでくれるようになった。

長年のことだ総額で三百万円近くになったと思う、いや超えているかもしれない。

浩次は空っぽのぽち袋が不満で、美沙に「紙のお金は要らないから、赤いお金入れてよゥ」せがんで三十

円入れて貰ってご満悦。浩太は百円玉を強請る。

 無類の猫好きの美沙にミチルが何かを訴えるように鳴く。ケーキの生クリームを舐めさせている。

私の宝物は渡すものか。

 プライドの高い浩一は義妹から援助を受けることに納得しないだろう、毎月の五万円のことは内緒だ。

隠し通帳に入金。残高イコール借財では無い、浪費の残りだ。

 「子供も大きくなって来たことだし、家の買い替えをしたい」と浩一が言い出した。

世事に疎い夫は、一家四人の暮らし息子達の習い事の費用全て併せていか程必要なのか、

解っていないのだ。

言い出したら聞く耳を持たない夫に腹が立つ。私の週三日のパート代など多寡がしれている。

衣服代と化粧品代で消える。美沙がこっそり渡してくれる五万円は、有り難い、夫には言えないが。


 どんどん美沙からの借りが増えていく悔しさ、母の入院の度にも父に現金を渡して来るらしい。

自立する美沙は立派だとは思うが素直に喜んでやれない自分にも珍しく腹が立つ。



     六


 このところ、母は安定していて自宅療養が続いている。子供達は夏休み。

父から、孫の顔が見たいと催促の電話が続く二人だけで冒険させることにした。困った時は、これを見せるんだよとメモを持たせ上野駅から特急指定席に乗せた。終着駅に父が迎えに来る手筈を取った、浩太は少し不安そうだが浩次はケロッとしてはしゃいでいる。お揃いのリュックを背負って出発。 

四時間半後、父から無事到着した旨電話が。

電話口に浩太、「十日後に迎えに行く」と伝える。

この十日間を一番喜んだのは夫浩一だろう。新婚時代が短かった私達には、二度目の新婚生活のようだ。

ドライブ、温泉一泊、デパートで実家への土産を購入、スーパーマーケットまで同伴だ。

 実家に行って見ると、二人とも真っ黒日焼け。

カブト虫、カミキリ虫、トンボと沢山の昆虫を見せてくれる。

好物のトウモロコシ、西瓜をたらふく食べて満喫したようだ。

すっかりお祖父ちゃんお祖母ちゃん子になっている。

両親は女の子しか育てたことがなく、男の子のやんちゃ振りに、疲れきっていた。

私達夫婦は一泊しただけで帰京した。両親に内緒だが帰途、観光地を巡り二泊した。二人の子は、少し逞しくなっているよう思う。父には途中の公衆電話から、「もうすぐ自宅に着くが、渋滞なのであと少しだから心配しないで」と言っておいた。自宅が留守電では心配するであろうから、先に電話した。


 数年後、帰省せず家族旅行で九州に行く際浩一の仕事が忙しいので帰省出来ないと連絡した。

私と妹、顔つきも性格も違うのだが、声はそっくりで、両親特に父は聞分け出来ないことを利用して、美沙に留守番を頼んだ。


 一晩でも留守にすると、ミチルがパニックを起こし、家中、紙屑だらけにする。ティッシュも箱もボロボロだ。抗議するように、野太い声で鳴き家中猛ダッシュで走り回る。ミチルごめんね。


     七


 これからは、休暇は家族で帰省しようか?

美沙にばかり世話させるのは可哀相だと言う。

「美沙ちゃん、仕事順調で忙しいだろう」。


 ミチルはどうするの?

美沙は結婚する気はないのだろうか、母の看病帰省と仕事の忙しさで、婚期を逃したか。男だらけの環境に居るのに。

結婚が女の幸せとはかぎらないが、男と同じ土俵に立つのも苦労があるだろうに。


 新築の家のインテリアも美沙の力を借りた。

浩一の要望を私が伝える、上手に表現出来ず随分と美沙を振り回した、

「直接お義兄さんと話した方が早い、いつなら居るの?私に電話くださいと伝えて」と。

それは駄目、許さない。

「私のデザイン料高いよ、誠実な仕事の積み重ねの賜物ね、勿論お姉さんから頂きませんが、大きな変更は止めてね建築士との連携で進めているのだから」。

建築中、毎日通って見て来ては、「あそこはどうなるのか美沙ちゃんに聞いてくれ」と、

能天気に淳一が言う。

本業の合間にやってくれているのに、またかと呆れる。

FAXで美沙はパースを何枚も描いて送ってくれた。

時々来た、色見本、クロス見本等を抱えて来る。選択するのは、楽しい作業だった。

無事竣工、引渡し、引越し。

これからのローン返済が頭痛の種だ。美沙には、金銭と労力の借りが増えた。返すことは出来ない。

「普段の仕事の百倍疲れた、二度と縁者の仕事は請けないことにする」と言われた。

 家族旅行の際は、美沙にミチルの世話に来てもらうことにした。渋って中々引き受けてくれない、

仕事が重なっていて無理だと言う。

母を見舞って来ると約束し、引き受けさせた。

 出かける二日前に宅配便で大量の図面とデザイン用具が届いた。断るのも無理もない。

浩一は何も言わなかった。子供達は美沙叔母ちゃんが来るのと目を輝かせている。

触れ合う間もなく翌日出発。

一週間で戻って来たが、用意して置いたベッドは使わなかった様子。

「仮眠をしただけだ」と言う。美沙が起きている間、ミチルは遊んで催促し続け一緒に徹夜したと。

翌日、美沙は帰って行った。その日から二日程ミチルは眠ってばかりいた。休暇旅行の恒例となった。

 美沙も誘ってドライブに連れて行く事も有ったが、後部座席で甥二人の世話係、慰労とはならない

「美沙おばちゃん」の取り合いだ。

浩一は夫婦二人での会話を楽しみ、たまに美沙と話して、慰労したと自己満足している。


     八


 夫浩一は母子家庭に育った。二歳下の妹との三人暮らし。(義妹は私より三歳年上)。

姑は地方公務員として働きながら、二人の子育てをした苦労人だ。

 浩一の父親は妹が生まれて間もなく亡くなったという、幼すぎて記憶に無いと。

母親に苦労かけまいと奨学金で大学院まで苦学した人だ。母親とは高校から別居したと明かしてくれた。

子供の頃から反り合わなかったらしい。

 姑は定年後、我が家で同居し始めた。

同居始まってからも問題の多い親子で私は、間に挟まれ気疲れしてしまった。

ご他聞にもれず、嫁姑問題にも疲れ果てた。

いつしか、作話をするようになり振り回された、浩太も浩次も懐かない。

認知症発症していたのだろうか、郷里の義妹の家と、こちらと一ヶ月毎に過ごす予定が

戻って来なくなった。安堵。



 「マリーゴールド」


     一


 私の中に邪まな気持ちが芽生えたのは、美沙誕生後数ヶ月した頃だ。殺意。


 突発的な思いの行動だった。

眠っている美沙の顔に何かを被せ、その上に乗ったことと、母に突き飛ばされたこと、美沙を抱え裸足で家を飛び出して行ったことだけ覚えている。

その晩、美沙は帰って来なかった、母の足に包帯が巻かれていた。

暫らくの間、周囲がザワツイテいたと思う。


 母は私に関心を向けるようになったが、以前のそれとは意味合いが違っている。

時折、怯えた目で私を見ていた。


     二


 ブリキのバケツを持っていたのは私だったのか、美沙だったのか記憶は朧だ。

美沙の上を向いたお尻を突いた。バランスを崩した、アッという間に小川に飲込まれ流されていく。

どうしようという思いと、黙っていようという思いが同時に有った。

ポッカリと浮き上がって来た、顔が見える。怖がってはいない。

私の友達が家の前で騒いで居る「おばちゃァん来てェ」と。

米屋の若いお兄さんが、どうにか追いついたのだろう小川にザブザブ入って美沙を引っ張り上げた。

胸を押して水を吐かせる。そのまま診療所に運ばれて行った。

高熱と下痢。お医者さんから「疫痢」だと診断された。小川の水を飲んだからだと。

祖母タエが来て、付ききりの看病で快復した。

事情を母は話した、父には内緒だと言って。

 「暫らく美沙を預かる」とタエは言い張り、連れ帰った。

 タエは、母の妹一家と祖父秀治とともに暮らしている。私と同い年の従姉妹喜枝は、一人っ子の八歳。

実の妹のように美沙を可愛がる。祖父とは血の繋がりはないのだが溺愛する。

既に独り寝が出来るのに、皆が順繰りに添い寝をしたがる。

「もう子供じゃないから独りで大丈夫」と美沙に言われてガッカリ。

すっかり元気になり相変わらずの人気者だ。

 一ヶ月経った頃、父が迎えに行った。

「お、少し大きくなったな寂しかったぞ」。

祖父母一家は返したく様子、父と見比べ困ったなァという表情を見せたという。

 帰途の車中、川は危ないから近寄らないように話し聞かせたらしい。


 あの一瞬は私しか知らない、失敗したが。

 お祖母ちゃんの所にずっと居ればいいのに。


     三


 五歳になった美沙は、父の仕事の影響か材木の切れ端を収集するのが好きだ。

「危ないから製材工場には絶対入らないこと」と厳しく言い含められている。約束を守り、入り口から

一メートル外側に落ちている物を拾い集めて来るのだ。父は、積み木を買い与えたが木切れ集めは止ま

なかった。積み木の裏に書かれたひらがなを読み書き出来るようになるという副産物が生まれた。

新聞を広げて拾い読みをするのが日課となった、簡単な漢字と自分の名前を書き覚えた。


 鋸、金鎚、釘を父に強請っていたが、却下。

めったに強請ることのない美沙は、この件で引き下がらない。

「ままごとで使う家具を作るの、折角集めた木がもったいないでしょ」。

言い続けた、根負けした父は承諾した。

従業員のおじさん数人が名乗りをあげて、子供サイズの物を苦心しながら、仕事の合間に作っていた。

「美沙ちゃん、めんこい女っ子だべ、なんだら作んだべ。この太さ握れっかなァ」他の従業員も見物に

来てアレコレ。鋸が一番苦心したようだ、糸ノコを加工した。

 美沙は小躍りして喜んだ。変な奴。

貯めた小遣いで茶菓を買い求め、三時のお茶で皆に「ありがとう」を言いながら配った。

お礼に物を配るなど五歳児のすることか?

従業員、口を揃えて、「美沙ちゃんが男の子だったら良かったのになァ、お父さんの跡継ぎになれたのに」と笑う。


 ふん、跡継ぎは長女の私がなるのよ。


 数日かけて、道具の使い方を教えてもらっていた。大分慣れて来たようだが、鋸には苦戦している。

私は美沙の背後から手を添えて、力まかせに鋸を引いた。美沙の左手人さし指から多量の出血、私は驚いて逃げた。従業員のおじさんが手拭いを裂いて巻き付け家に連れて行った。病院で三針縫った。

指の傷跡は大人になっても消えないだろう。捥げるかと思ったのに、美沙は強運だ。

 大事な道具を取り上げられるのが嫌で、「台所で怪我したの」と父には言っていた。


     四


 お母屋続きの事務所の暖房は薪ストーブだ。

家業柄、燃料の薪は豊富に有る。来訪者は一様に、「暖ったけェ」と手を翳す。ストーブが赤くなるほどにガンガン燃やすのだ。事務員の裕美子さんは薄着に腕カバー姿だ。薬缶はいつも湯気を揚げている、母が流行のオーブンでパンを作ってくれたり、餅を焼いたり大活躍だ。母は煮物にも使用していた。

 私が、お餅を焼いている所へ美沙がやって来た。美沙のお餅嫌いは知っていたが、「食べる?」問うた、要らないと予想通りの返事だが私は親切で言ったのにとムッとした。

虫の居所の悪かった私にスイッチが入った。

 六歳になっていた美沙だが、十一歳の私に力は敵わない。手首をギュッと掴んで、ストーブ上のお餅を取らせようと引っ張った。

歯を食いしばり真っ赤な顔で抵抗するのだ。

弾みで、薬缶が反対側に引っ繰り返り落ちた。

 裕美子さんが戻って来た。ガラス戸越しに見ていたようだ。

美沙が火傷していないか確かめて抱き締めた。

お母屋に居る母を呼んで仔細を話した。危険な行為だから、報告したようだ。

相前後して父がやって来た。惨状を見て裕美子さんから聞き取り、顔色が変わった。

私は泣き出した、ゴメンナサイが言えない。

母にも促されるが言葉が出て来ない。業を煮やした父の平手が飛んで来た。

いつもなら、その辺で母の助け舟が入るのだが、今回は黙って私を見おろしていた。

再び手を上げようとした父に美沙がしがみ付いた、「叩かないで」と止めに入った。

揉め事が嫌いなのだ。

また美沙に助けられた、悔しい。裕美子さんが母に、「淳子ちゃんてよく解らないお子さんです」と話すのが聞こえた。

 夕食までの時間、茶の間で父と二人きりであった。「女の子だから、叩くのはお尻だ、今日は違っただろ解るか?ストーブに触ったり熱湯被ったら死んじゃうんだぞ」。

「勉強もお母さんの手伝いもしない、美沙を大事にしない、今のままの淳子をお父さんは嫌いだぞ」。


 いつもいつも私だけ叱られる。


 裕美子さんは美沙を実家に連れ帰った。




 「リンドウ」


     一


 母沙江が逝った。享年六十四歳の若さだ。

膠原病発症から数えると二十三年の闘病生活に耐えた。人生の大半を病床で送ったようなものだ。

足繁く見舞っていた美沙。

七度目の危篤の知らせ今頃は車中の人だろう。

家庭を持っている私は、それを口実に、看病に来た回数は少ない。


 医療系の学校に通った私は、普通の人より医学知識を多く持っている。治療方法の確立していない

時代の発症だった。ステロイド剤の乱用で腎臓が壊れた。人工透析も長期に渡った。

「医者の言うこと全部信じちゃ駄目よ、服薬も無駄かもしれない」。


 六回目の危篤までは、「美沙が来るから頑張れ」と励まされ踏み止まった。

今回は力尽き、彼岸へ逝ってしまった。

美沙は間に合わなかった。


     二


 寝てもダルさが取れない、疲れる。

一年中、風邪を引いているようなものだ。

一旦治るのだが、微熱が残る。再び発熱等の風邪症状が始まるのだ。

 四十三歳のいままで大きな病気は患っていない。近所の医院では疲れが溜まっているのでしょう、

消炎剤とビタミン剤を処方します。

症状は一向に好転しない。パートに就く病院の医師に話してみたが診断は同じだ。

パート止めることにした、益々美沙の援助が頼りだ。

浩一の収入は増えたものの子供達にかかるお金も増えた。

家事をいつも通りやって置けば小言は聞かないで済むが、姑は定年まで働いていた為、専業主婦を嫌う傾向がある。

気が引けるが、不調の体で家事とパートの両立は無理だ。

 この程度で大学病院で看てもらうのは、躊躇われるが、通院してみることにした。

一週間後、検査結果を聞きに行ったら、そのまま緊急入院となってしまった。

「本田先生の奥様なんですって」とナースステーションで話題になっていた。

多くの検査を受けた、落ち着かない。

母の病床に行くのを嫌ったのに、自分が病床に着くようになるとは何の因果だろう、母の発症と同年齢。

その母は既に彼岸の人。

 悪い予感が当たってしまった。膠原病発症。

遺伝する病気ではない。偶然だ。四十代女性の発症率の高い病気だ。

これから始まる闘病生活を想像すると、気が重くなる。

女友達はいない、姑もあてに出来ない。


 エアコン温度設定が低すぎる、寒くて我慢出来ない。

男所帯の我が家で、女物の入院セットを作ることは、期待出来ない。

准教授夫人の見得もある、見舞い客が無いのは悔しい。

 

 妹美沙に頼るしかなさそうだ。

 要望通り、長袖パジャマ二着と下着五十枚、豪華な花束、果物そして見舞金十万円を

携えてやって来た。

いつもは仕事柄、ジーンズのラフスタイルだが、今日はきっちりスーツ姿で颯爽として、いかにもキャリアウーマン。

 真夏に長袖パジャマいくつかデパートを廻り、やっとみつけたのは、

「ブランド物で普通にスーツが買える値段よ」とぼやく。

(現在では、病院に外部業者が入っていて病人着衣はレンタルの所が多い。)

 美沙は仕事もあり、通うには経路が不便。

度々は来られないからと、下着も多すぎる程持って来た。浩一は恥ずかしくて買いに行けないのだ。

洗濯は退勤時に持ち帰ってもらうことにした。

「下着一生分だわ」と言ったら、「買い占めて来た」と笑う。

生理用品も整えて来てくれた。真夏に「みかん」銀座千疋屋の包装紙、同部屋の方に配った。

これで、少し面子が保てる。

 浩太十八歳大学一年生、浩次十六歳高校一年生。子供達のことが気掛かりだ、思春期の難しい年頃、

浩一と上手くやって欲しい。

母が発症した時、私は十六歳高校一年生、美沙十一歳小学五年生。

何故、妹の面倒をみてやらなかったのだろう。

家事まで押し付けていたのだ、どうして美沙は頑張れたのだろう。

 美沙、見舞いの帰り我が家に立ち寄り、お惣菜作り置きして、二人に私の様子を話して安心させた。

「度々は来られないから、お父さんと相談してコンビニお弁当か出前取って、食べるように」と千円札二十枚浩太に渡して行ったと聞いた。浩太は台所に立つことを嫌がらない、

時折スーパーで材料を買って来て作っているようだ。

一ヶ月半で退院出来た。


     三


 定期通院で、生活出来るようになるまで、三年程かかった。数回の入退院。

入院セットを常備しておくことにした。

何度か、美沙も顔を見せてくれた。息子達は、照れ臭いのかあまり来てくれない。


 二人の息子は叔母の美沙に懐いているが、郷里で暮らす浩一の妹とは接した回数が少なく遠い存在だ。

殊に、浩次は美沙を尊敬している大きな存在だ。高校三年となり、将来のことで悩んでいるらしい。

入院中で、話を聞いてやれない。来ても女ばかりの部屋には、居にくいのだろう。

 毎晩のように美沙と長電話。幾つか就きたい職業があり迷っていると。

だから、学部も決められないのだと。

挙句、「大学には行かなければならないのか」とも。

美沙は適切な相談相手だ。二つの学部を卒業後、本当に就きたい道を選び今日に至っている。

美沙との話で納得し、志望校に入った。

 このようなやり取りをしていた事、後日知った私は、苦しんだ。

母親は私なのに浩次は美沙を頼ったのだ、それで良いと判っていても、感情では腹が立つ。

「美沙は忙しくて迷惑になるから、もう電話をしては駄目だ」と言い聞かせた。


     四


 自宅療養中、安定している時には仕事をした、内職程度だが端切れを使った手芸だ。

手作りブームだ、近所のブティックで委託販売してもらった。私が働いていれば淳一の機嫌も良い、

納品を手伝ってくれる。

が、寝て居たくても無理強いされている気持ちになってしまう。

 息子二人は、親離れしたようだ、夫婦の外出に着いて来なくなった。

毎週末は夫と二人きりでドライブだ。

酒を呑まない夫の唯一の趣味なので、少々具合が悪くても付き合う。

会話が途絶えた時、美沙の事に話は及ぶ。

 私は不快だ、「美沙は貴方が世間知らずだと笑っている、馬鹿にしているわよ」と繰り返し作話を吹きこんだ。

 「美沙、実の姉が寝着いているのに見舞いに来ないの?ご飯作りくらい来てよ」。

 「明日、一つ区切りが付くからから明後日の昼間行く」。

 食材色々買い込んで「重いからこれからタクシーで行く、十五分くらいで着くから」と電話。

「止めてよ、余計な事シナイデッ、浩一が間もなく帰って来るんだから」。

「だって、色々買ってしまったわ」。

「浩一は生意気だと貴女を嫌っているのよ」。

「徹夜あけで無理したのに・・・」。

 

 同じことを何回いや何十回も繰り返した。

「食材、独り者には量が多すぎ無駄になってしまうから、本当のことを言ってよ、冷凍のきかない野菜もあるのよ」。

「あんたは元気じゃないの、いいわね」。

 死の恐怖が襲ってくる。殆どの臓器が機能低下しているらしい。いつ死んでもおかしくないそうだ。

孫娘、希代が遠くで私を呼んでいるようだ。幼かった美沙の声に似ている。


 毎日のように美沙の携帯電話にかける。

死への恐怖でヒステリーを起こし、暴言をぶつける。嫁では駄目なのだ、呼んでも来ない返事も無い。

浩一は認知症気味で、私はイラつくばかりだ。一日に何度も美沙に電話する、私の相手に疲れたのか、

「実は、私も病気しているの」と「若い頃の無理が祟ったのかもね、仕事量減らし休み休みやるわ」と言って電話を切った。

 私は生きたい、美沙が先に逝けッ。



 「白いポピー」


 嗚呼、母の世話をしっかりとすれば良かった、美沙を庇ってやれば良かった。

母の辛さ、苦しみが今なら解る。


 二人の息子、四人の孫。どこに居るの。

 浩一どこっ。

 美沙、美沙っ。ごめんね。


 ずっと遠くに灯りが見える。

ゆっくりゆっくり近付いて来る。

レインボーアーチ、潜ろうか。










第二章 カモミール



第一節 ラベンダー


第二節 アスター


第三節 ユキヤナギ


第四節 カンパニュラ


第五節 パンジー














 「ラベンダー」


     一


 私には五歳離れた姉の淳子が居る。

痩身で、スポーツ万能、カッコ良いと憧れる。

自慢の姉、私はお姉ちゃんが好きだ。

 一緒に遊んで欲しくて付いて行くが振り切られてしまう、毎度のことなので慣れてはいるが

寂しい、「遊んでェ」。

お姉ちゃんは私のこと嫌いなのかな。私の後ろを通るとき髪を引っぱたり、蹴飛ばして通りすぎる。

抓ることもある、露出していない所をやる、そんなに嫌い?

 私の一番最初の記憶は、三歳の時の光景だ。

私は空を見ながら流されて行く、多くの大人が叫びながら走っている、裸足の人、下駄。

それだけが鮮明な記憶だ。もう少し大きくなってから聞かされた話では、小川に姉に落とされ溺れかけた

のを米屋のお兄さんが助けてくれたとのこと、小川の水を飲んでしまったのが原因で疫痢になったこと。

タエお祖母ちゃんが付ききりの看病をしてくれたこと。

またお姉ちゃんが何かするかもしれないから、お祖母ちゃんの家で暫らく過ごしたのだと聞かされた。度々お祖母ちゃんの家に泊まりに行ったので、記憶が曖昧だ。

タエお祖母ちゃんには三人の孫が居る。一番歳下で、早産で生まれ虚弱体質の私のことを殊のほか可愛がってくれた。

姉淳子と二人きりになる機会が多いから心配して、母もお祖母ちゃんを頼りにしたという。

 お祖母ちゃんの家は居心地が良かった、お姉ちゃんと同い年の()()お姉ちゃんが遊んでくれる。

手伝いも少しやらせてくれた。食器洗いは木のりんご箱に乗って出来た。

畑にも連れて行ってくれ、トマトと茄子を収穫したのが嬉しくてお祖父ちゃんに見せた。

お祖父ちゃんも味方だ。

「美沙はおっとりしているが三歳にしてはしっかりしているな、喜枝とも上手に話が出来て賢いよ」。

 本当は少し違う、おっとりしているのでは無い、話す順を考えてからじゃないと、

話し出せないのだった。

 暫らくして、父が迎えに来た。

母に会いたい、家に帰りたい頃合いだったので、丁度良かったのだが、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、

「もう少し泊まっていけ」と言う。

帰りたいと言い出せなくて困ったが、父が何か言い、結局父と帰宅した。


 父方の親戚に子宝に恵まれない夫婦が、二組有った。美沙ちゃんが欲しいと申し入れが有った、他に男の子は沢山居たのに。一番歳下を望んだ、馴染み易かろうと考えたらしい。

両親は断った。どうしてもと言うなら、美沙が自分の意思で決められる頃、

「小学校入学の頃にして欲しい」と返事したようだ。

自分の意思がはっきりしている子だから自身で決めさせようとした。

母は、絶対に手放さないと決心したという。

結局、二組とも諦め遠い縁者から養子を取ったらしい。


     二


 私の着衣は姉のお下がりと東京の母方の親類の子のお下がりをリフォームした物を着た。

お姉ちゃんはいつも新品で羨ましかったが、母が苦心してリフォームする姿を見ているので不平は

言わなかった。

東京から送られて来る物は、質もデザインも良い、この田舎では手に入らないと言う。

就学後、「幾つになってもキューピーさん体型だ」と笑う。

黒のビロード生地でワンピースを仕立ててくれた、左胸には赤い四葉のクローバーが縫いつけられて、

一番のお気に入りだった。

父の背広や母が若い頃東京で着ていた物も私のスカートやベストに変わった。

「お姉ちゃんのは作らないの?」「心配しなくても大丈夫よ」の返事で安心した。

 初めて、私だけの為で一番欲しい物を従業員おじさん達が、丁寧に作ってくれた。私一番の宝物だ。

鋸、金鎚、釘等を子供サイズに日曜大工道具一式作ってくれたのである。私は普通の五歳の女の子だ。

お人形さんも、おままごとも好きだ。おままごとで使う小物を自分で作りたかっただけだ、

「美沙ちゃんが男の子だったらなァ」と皆が口を揃えて言う。

いつの間にか「美沙ちゃん箱」と書かれた箱が出来ていた。

私が使いそうな小さな木切れを入れて置いてくれるのだ。嬉しかった。

家の三和土でやると、騒音が出ることと母が心配するので、工場の外で作業した。

道具の使い方もおじさん達が丁寧に教えてくれた、私が木で何か作っていると皆集まって来てアドバイスしてくれる、手出しはせずに見守ってくれるのは有り難かった。鋸が一番難しかった。

背後に、お姉ちゃんが居るのを感じ取った。

左手人差し指と親指の爪の付け根から、多量に出血した。

とても痛かったが泣いてはいけないと思って我慢した。

おじさんに「お父さんには言わないで」と頼んだ。宝物を取り上げられるのが嫌だからだ。

指に布を巻いて家に連れて行ってくれた。母にも「お父さんに黙ってて」とお願いする。

病院で三針縫った。

おじさんが、紙ヤスリを貼った板を作ってくれた、鋸使う時木が滑らない工夫だ。

早く使ってみたいが、指の傷の消毒に通院だ。

傷跡は大人になっても残った。

何の時だろう、お尻に注射して其処が化膿した。当時の医療器具は煮沸消毒だった、今みたいな個包装された使い捨てでは無かった。

切開して膿を出し、開いた穴に滅菌ガーゼを詰めた。

座位が出来ない、立てない、脚を伸ばしたままである。

トイレには両親が横臥したままの状態で運んでくれた。

「もっと小さい時ならオムツが使えた」とボヤいた。通院はリヤカーに乗せられて運ばれた。

舗装されていないデコボコ道は傷に響いて辛かったが、非力な母が頑張っているのだ我慢する。

今でも左のお尻のほっぺには大きな跡、筋肉にも違和感が残っている。

当時、医療ミスという概念は無かった、

お医者様様の時代である。

 またタエお祖母ちゃんが来てくれた。横臥したままの私の食事介助するのを見ていて、

「美沙ばっかり可愛がる」とお姉ちゃんが言って熱い味噌汁を私にぶっ掛けた。

いつも優しいお祖母ちゃんが、お姉ちゃんのお尻を叩いた。

「何度も何度も、美沙を虐めるのはお前だ、悪いのは誰っ」

私の顔に水疱が出来ヒリヒリ痛んだが薬を塗り数日後瘡蓋となって治った。跡にはならずに済んだ。

 後日、私が完治してから当初の鋸での怪我の様子を目撃した作業員おじさんが、母にだけ仔細を打ち明けた。母は益々淳子お姉ちゃんを見る目が険しくなっていった。

 私と二人だけの時を見計らって、「絶対に淳子と二人きりになっては駄目」と少し怖い顔で言う。

守れるかと問われたので、「はい」と答えた。二人で入浴することも禁じられた。父か母と入ったり、ひとりでの時は頃合いをみて母が背中を洗いに来てくれた。シャンプーも自分で出来た。

シャワーは無かったので洗面器に湯を汲み何度も濯いだが目がしみた。

病気怪我以外では、手がかからないと褒められるのが嬉しかった。


     三


 母から、お姉ちゃんとは二人きりにならないよう言い付けられていたのを守っている。

お母屋に続く事務所には、裕美子さんが居る、お話をしようと思い行ったが不在だ、すぐに戻って来るだろうと甘い考えだった。 お姉ちゃんが怖い。

 外にいた裕美子さんが、駆け込んで来るのと薬缶が転がり落ちるのと同時だったと思う。

裕美子さんは私の全身を点検してから抱き締めてくれたが息が苦しかった。お母屋の母、父が来て顔色が変わり騒ぎとなった。裕美子さんにも話を聞く。

 お姉ちゃんがまた叱られている。「止めて叩かないで」さっきは泣かなかったのに、父の腕にしがみ付き泣いた。

誰であれ揉め事は嫌。

その日、裕美子さんの家に行った。

消炎解熱剤等色々な薬の入ったお泊りセットとパジャマを持って。

裕美子さんの実家は好きな外泊先だ。弟さんはホントのお兄さんみたいだ。

家は広く、天井も高い茅葺きの屋根。

柱も梁も真っ黒で光っている。囲炉裏には自在鍵に鍋がぶら下がっている。川魚が竹の棒に付いて炙られているのを見た事もある。檜の大きなお風呂も好きだ、大き過ぎて危ないから裕美子さんと入る。

石鹸箱に手拭いを被せ山盛りの泡を作くってくれる。

おじさん、おばさんの方言が解らないと、裕美子さんが通訳だ。物怖じしない事、めったに泣かないので、どこでも歓迎される。話し方はゆっくりだが、大人にも聞いてもらえ、答えてももらえた。

翌日、裕美子さん出勤する時に連れ帰ってくれた。事務所を通る時、ストーブの囲いが広く大きくなっているのに気付く。

昨夜遅くまで従業員おじさんと父とで作り直していたと、母から聞いた。


 数ヶ月後、裕美子さんは寿退社して行った。写真で花嫁姿を見た。緊張しているようだが、とても綺麗な花嫁さんだ。

「お姉さんには近付いちゃ駄目よ」と最後の言葉を残して行った。


 


「アスター」


     一


 小学校二年生、家の都合で転居転校した。

父方の親類の多い地域だ。

江戸っ子の母と祖母の言葉を聴いて育った私達姉妹は、方言が半分くらいしか解らない。

 初めは転校生ゆえに珍しがられ、休み時間には、他のクラスの子達も見に来た。方言なので会話が成立しない。

着ている服も、皆と違っていた。洋裁の出来る母が、東京の親類からのお下がりを可愛く仕立て直して着せてくれるのだ。学校で浮いた存在となった。

お姉ちゃんは中学一年生、制服だ、もう同じ学校ではない。

担任先生とも相性が悪く、新しい学校に中々馴染めなかった。


     二


 四年生に進級する時、クラス替え。担任先生も替わった。池本先生という。方言にも大分慣れ、友達も出来始めた。

自分の中で組み立てからじゃないと話せないのは幼児の頃と変わらない。

他人からは、理屈っぽい子と見えていたようだ。同年の子と喧嘩にならない。池本先生は私を、個性的な子だと見ていたが職員室でも注目の的だったらしい。ある日、池本先生から職員室に呼出。

「ホームルームで、佐々木さんからは発言しないでくれっか」「どうしてですか?」

私が発言すると、それが説得力有り過ぎて、話し合いの場で無くなってしまうのだという。

「ホームルームは皆が意見を出し合う時間だ」。

「解りました」と返事をして、教室に戻ると友達数人が心配して寄って来た。

「叱られたの?」「んー、ちょっとね」。

その日から発言しなくなった。

男子と女子とに二分して口論となった。どちらも折れない、結論が出ない口論だ。司会の学級委員長は困りきって「佐々木さんはどう思いますか」と私に振って来たが黙って下を向いたままで居た。

後ろから先生の声。「佐々木さん意見が有れば話してください」。

それまで、じっと両者の意見を聞いていたので、両方の意見を入れた折衷案を話せた。

両者納得して上手く纏まった。

相変わらず浮いていたが、イジメとかカラカイ回数は激減、一目置かれるようになった。揉めて結論が出ない時等、男子であれ女子であれ「佐々木さんの意見は?」と求められる。

病気がちの私は、休み時間窓から校庭を眺め元気にボール遊びに興じる皆が羨ましく思う。

 放課後、教室に野鳩が飛び込んで来た、「窓閉めてェ扉閉めてェ」と叫んだ、皆で協力して追いかけ回しやっとのことで、野鳩を捕まえたが。

週番先生が巡回して来た、空っぽにしたランドセルに鳩を押し込んで隠した。

下校時間は過ぎている、その場に居た者の名前をメモッただけで、叱られずに帰宅させられた。

「明日登校したら、乱れた机は直すよう」と注意された。鳩は私のランドセルの中だった、私が持ち帰って飼うことになった。翌朝の会で池本先生から事情説明を求められた。「私が皆に協力してもらって鳩を捕まえました、鳩を飼いたかったからです、皆は悪くないです」そもそも悪いことをしたという自覚が無かった。下校時間を守らなかったのがいけないのだろうと。

再び職員室へ、事の次第を知った他の先生方、「よく捕まえられたなァ」と拍手。

「困ります、厳重注意で佐々木さん呼んだのですから」と池本先生は困惑顔。

「佐々木さんの言うこと行動はクラスの皆への影響が大きいのだから、よく考えてください」と。

数週間後の家庭訪問で、母に「まさか佐々木さんが言い出しっぺとは考えられなかったですよ」と。

母は恐縮している。

 先生は、空家の犬小屋を転用して鳩小屋となった物を覗いて、私の頭を撫でて帰られた。

半年くらいで、鳩を放した。時々戻って来て小屋の上に止まっているところを母は、数回見ている。

 




    三



 六月頃、母は寝付いた。

体中に痛みが有り、特に関節が痛いという。

通院の結果「関節炎リュウマチ」と診断された。が、誤診だったと判明するまで七・八年かかった。

関節炎リュウマチの服薬するも、悪化する一方だった。民間療法も試してみたが、効果は無い。

親類で「タンポポの根の佃」が良い、「トウモロコシのひげ」「猿の腰掛」だ漢方薬「八味地黄丸」だ。

良いという物は試した。

ステロイド剤が出始めていた、処方の仕方も解らぬままに医師は母に服用させた、乱用だ。

ムーンフェイス、ステロイド剤の副作用。

目の周りの赤み、医師は見落とした、膠原病のひとつの症状である。


 一見すると顔色も赤みを帯びてふっくらした顔で病人には見えない。

父は母を、「怠け病だろう」と責めた。

ある日、虫の居所の悪かった父は、母を蹴った。二度三度、エスカレートして行く。

見た私は母に覆い被さった、私も蹴られた。

翌日、母も私も痣が出ていた。帰宅した父にその痣を見せて

「好きで病気になる人なんて居ない、お母さんの肘の周りに爪跡が沢山あるのを知ってる?痛みに耐えられず自分で爪をたてているんだよ、病気なのは確かです。薬も沢山処方されて飲んでるでしょ、そのお母さんを蹴ったお父さんを軽蔑します、私の痣は我慢します、お母さんに謝ってよ」。

父は気まずそうに俯いたままだ。

引き下がれない、「お父さんは好きで胃炎なの、違うでしょ?私だって時々病気で学校休むけど、いつの間にか病気になってるんだよ、好きで病気になってない」。

言い募ったが、父は謝らないままだ。(後日、私の居ない所で、悪かったと言ったと。美沙は怖い、俺を見透かしているような目で見る。美沙は時々鋭い目をする。俺が悪いんだけど。)

今でいう、DV、モラルハラスメントに近い。


姉は、高校生になっていたが、相変わらず休日は男子生徒と外出している。

家事の殆ど、炊事、洗濯、掃除は私がやった。

身長が低いので、布団干しやシーツを物干し竿に広げるのは難儀した。

近所のおばちゃん達が助けに来る、とても助かった。

「お姉ちゃんは?」と聞かれても答えられなかった、どう言えば良いのだろうか。

布団干しは父が居る時に、手伝ってもらおう。

 母の具合の良さそうな時、ノートを持って一緒に台所に立った、料理の手順や材料の量を聞いた。

この時、調味料は、「さしすせそ」の順で使うと教わった。

 母は姉を呼んで、「家事全部を小学生の美沙独りにやらせるのは可哀相だし無理だから、掃除だけでもやって」と話しているのが聞こえた。

その日から姉は自室に籠り、夕食にも出て来なくなった。遅く帰ってくる父と摂る。

お盆に配膳して姉の扉前に置いておく。食器が流しの洗い桶に漬けてあるのを見て悲しくなった。

朝食作りの前に一つ作業が増えた、毎日のことなので姉が疎ましく思えた。

父は、自分の使った食器は洗って水切り籠に入れて有った。桶に姉が漬けるのは深夜だ。

食事時間は二つに分かれてしまった。深夜ラジオを聴いて夜更かしの姉は朝寝坊だ、寝癖直しで長時間洗面所を占領する、朝食を一緒に摂ることはない。

お弁当箱に乱暴に詰めて持って行く、学校に着いてから食べるのだ。

当然のようにお弁当箱も洗わなかった。

洗い物を減らすため、「お姉ちゃんの夕食用にもう一つお弁当箱を買って良いか」母に聞いた。

呆れていた。

夕食用は私が詰め味噌汁と一緒に置いておく。

朝は、お皿に数種のおかずを乗せ、お弁当箱と並べて炊飯器の傍に置く。自分で詰めてと。

それを見た父は、姉を嗜めるどころか、自分も「夕食用に作って欲しい」と言い出した。

じゃ、母の昼食用も作ろう。

両親用各一つ、姉用二つとなった。姉は直ぐに食べるから良いが、両親とくに父は時間が経って

から食べるので、傷まないか心配だ。

味を感じない程度のお酢を入れてご飯を炊くと良いと母に教わった。

ゆかりご飯か梅干の日にもして工夫した。

母の昼食用は、枕元の手が届く所に置いた、フォークと一緒に。

母は食欲の無い日は残した、済まないねと目で言う。

気にしないで、食の細い私も給食残して注意されているよ。

食べ盛りの男の子に「いただきます」の前に、そっと分け移しておくのだが、池本先生は見てみぬ振りをしてくれる。表面上は完食出来るのだ。


 私は帰宅すると一番に母の様子を見に行く。

眠っていない時は「ただいまー」眠っている時は、そっと閉めて出てくる。

やらなければならない事が沢山あるのだ。

洗濯物取り入れて畳む、まだ湿っている物のアイロン掛け、風呂掃除してから水を入れる、風呂焚きの準備、当時は薪で沸かしていた。

献立は前日に考えてあった、買い物係りの姉が帰宅してから取り掛かるが、お米を磨いだり母のお弁当の始末をしたりと忙しい。献立を考えるのがむずかしい。友達に相談しても、食べたことのない郷土料理のこともあれば、カレーかコロッケ。コロッケを手作りするのは、時間が掛かるので休日に作った、揚げ物は慎重にやらないと怖い。

たどり着いたのが、学校給食だ、一週間前の物を作ればいい。コッペパンをご飯にすれば良い、作り方の解らない物は給食のおばちゃんに教えてもらった。三日分の材料メモを父に渡す、材料の使い回しや代用出来る事に、気が付いた。

買い物、父か姉がするのだが、行く回数が減るだろう。

近くの八百屋さんの前を通ると、「お姉ちゃんの手伝いしなよ、このりんごあげる」と渡される。

違うのになー。私がやってるんだよ、まあどうでもいいか。「ありがとう」言って帰る。

今まで、我が家の食卓に乗らなかった物が、度々出るので両親ともに訝った、種を明かしたら、

「良いこと考えたなァ」と感心されて得意になった。

 池本先生の所へ、給食のおばちゃんが行き「毎週、教えを請いに来るが、何か有ったの?」。

 また職員室に呼ばれた。

事情を話すと、「お姉さんも居るだろう?」と。

その事情も説明した。先生は暗い表情で、佐々木さんは今大変頑張っている、これ以上頑張らなくていいんだぞ、「体に気を付けてな」と。


 母は這ってトイレに行くが、それも無理な時は、寝床の上で尿瓶排泄してらった。厚いガラス製なので重かった。

零さないようトイレに運び始末し、お風呂場で洗って布で水を拭き取り再び母の寝床の下方に置いた。

汚いとは思わなかった、

だって自分も、尿と便は出すのだから。生きている者は全て同じ行為をするものだ。

 母は済まないと思うらしく、「ゴメンネ」を繰り返し言う。今日はお風呂どうする?

入れないと言う日は熱めの湯でタオルを絞って体を拭いた。気持ち良いと言う。

下着と寝巻きを交換した。


     四


 夏休み直前、母が入院した。

姉の高校の近くの大きな県立総合病院だ、洗濯物は姉が下校時に寄り道して持ち帰ることに決めたのに、

一度行っただけだ。

「病院も病人も汚いから嫌だ」と言い張る。

父は呆れ言葉も出なかった、昼休憩に取りに行った。私が行きたいが小学校からは遠い。

 夏休みに入り、一週間した頃、池本先生から電話が来た、様子伺いだろうか、宿題は半分くらい終わっていると報告した。

「俺の実家に泊まりにおいで、お父さんには連絡してあるから」と。翌日、迎えに来てくださった。

私のお泊りセットを見て、何が入っているの?「飲み薬、下着、パジャマ、ブラウス、半ズボンが一枚ずつ」と。

それで充分だと言ってくれたが、「宿題は?」には、「先生に教わってやったと思われたくないから、残り半分は帰ってからやります絵日記だけもって行きます」と返事。

「佐々木さんらしいな」、と笑っていた。

 一週間泊めて頂いた。

絵日記帳には先生の実家の畑の作物の事や、清流でヤマメを釣ったことなどを描いた。

野菜の出来るまでや、お米の事などを先生のお父さんに質問攻めにしたら、大笑いしながらお母さんも

一緒に教えてくださった。

大きな庄屋農家で、水田も畑もとても広い。私のことは先生が事情を話してくれてあった。

「こんだ、ちっけえくて、不憫だなあ」と泣き出されて困った。

どこか懐かしいと感じていた、黒光りする柱を見て思い出した、事務員の裕美子さんの実家と似た作りなのだった。

その事を話した。

「んだべ、ここらの子と違ってからな、はなすもうめえしなー、あちこち泊まってんだ」。

「私って可哀相な子なの?」先生は黙って首を横に振った。先生も声が出せなかったのだ。

「自由工作もやるか」問われたので、「私専用の大工道具で作りたいからいいです」と答えた、

「そんなの有るのか」と。いきさつを話した。ついでに、左手指の傷跡を経緯は抜きで見せた。

それまで目頭を押さえていた二人が驚いて笑いだした、先生も笑っている。

「ホント佐々木さんは個性的だな、男の子に生まれれば良かったな」

「先生、その言葉、耳にタコが出来るほど聞いたよ、褒め言葉だよね?」でまた大笑いされた。

 父から電話が来た。

「明日迎えに行く、そのままタエお祖母ちゃんのところへ連れて行くけど、何か要るか」と聞かれたので

「夏休み宿題帳」を持って来てと頼んだ。それを聞いていた先生一家の心配そうな目と合った、「私は幼児のときからアチコチに泊まっているし平気です、人気者なんですもう子供じゃありません」。

先生は笑いながら、「まだ子供だ」と。

「来年もおいで」先生のご両親がおっしゃる。

 後で知ったのだが、私だけが先生の家に泊まりで行ったのではエコヒイキになるからと、三名ずつ一泊をクラスの希望者に行ったと。

先生も忙しい夏休みになってしまったね。

 母の病院へは誰が行っているのか心配で、聞いてみた、お父さんだ。

日曜日に纏めて掃除洗濯しているが、「洗濯ってたいへんだなァ」「小寺先生の家には、

洗濯機が有って粉の洗剤少し入れてスイッチで回り、その後脱水してから水だけで回し、また脱水して

干すんだよ。冬、手で洗濯出来るのか不安だよ」と聞いてもらった。

「美沙が全部やってたんだな、お母さんが治るまで我慢してくれ」。

相変わらず、姉は手伝いをしていないようだ。自分の下着だけ入浴時にやっているとのこと。

父は仕事人間だ、姉の事には無関心と決めたようだ。

 タエお祖母ちゃんの家に喜枝お姉ちゃんは居なかった。林間学級と村の子供達のキャンプに行っていて留守なのだ。

遊び相手が居ないので終日、宿題をやっていた。早朝の畑には付いて行きトウモロコシを取ってきた。

それが私の朝ごはんだ。

朝しか畑に付いていかないのでお祖父ちゃんは物足りない様子。五日程で宿題は終わってしまった。

 「美沙ちゃんの集中力はスゴイ」と美枝叔母さんが褒めてくれる、うふふと笑った。

喜枝ちゃんの三毛猫と遊んでいて、猫を飼いたくなった。


 お母さんに会いたい。


 帰りたいと父に電話をしたら、母も二日後退院だと言う。

迎えに行けないが、独りで列車に乗れるかと問われた。不安だったが、「乗れる」と返事した。

慌しく帰宅の用意をした、りんご箱二つに、お土産の野菜、トウモロコシ、マクワ瓜と持って来た物でいっぱいになった。

列車の時刻確認して切符を買い、荷物を貨物便で送った。明日には向こうの駅で受け取れる。

 翌朝九時半、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに見送られて、独りで乗車した。

通りかかる車掌さんに、「あとどれ位で到着しますか」尋ねた。

数回目からは、切符を見て「あと幾つの駅だよ終点までだから心配しないで」と言われた、安心したら、少し眠くなったが車窓を我慢して二時間くらい見つめていた。お祖父ちゃんから連絡を受けた父が、改札の所に立って私を探していた。

小さいので大人の陰になってしまい父からは見えないのだ。

子供用巾着袋一つの私に、荷物無いのかと言う。

全部、昨日送ったよ、発送時の証明書みたいな紙を渡した。

昨日発送した荷物を受け取り、帰宅した。

 まず驚いたのは、親類から中古の洗濯機を譲り受けたことと、お風呂がバランス釜に変わっていた

ことだ。嬉しかった。

 「美沙の仕事、少し楽になるだろ」。

母に言わせれば、自分でやってみて「家事労働も楽じゃないと解ったのよ」と笑う。

 家中の窓を開け換気したが、何かが変だ。

お姉さんの部屋、内側から施錠出来るようになっている事に気付いた。貯めたお金で便利屋さんにやってもらったらしい、父の承諾無しにだ。男ばかり六人兄弟で育った父は「思春期の女の子のすることにお手上げだ」と言う。

「美沙もあと数年で思春期だ」とポツリ。

 祖父母に、無事に帰ったと電話している。

替わると、「次からはいつでも独りで来られるなァ」と笑っている。

喜枝お姉ちゃんに替わると、怒って居る「留守の間に来て帰ってしまった」とをだ。

「お母さんに会いたかったから」と答えると許してくれた。

 退院して来た母に会ったら、涙が溢れた。

母は気丈に明るく振舞っているが、具合悪そうに私の目には映る。

特に脚の浮腫に驚いた、腎臓機能が低下しているとのこと。

病院での食事は減塩食だったと言う。我が家でもそうすることに決めた。早速父から不満が洩れた、

塩分が足りない時には醤油を少し使ってもらうようにした。小言を言いつつ、久しぶりの家族揃っての夕食だ、終始笑った。珍しく姉も。

おかずが三品も有るなんて、お母さんの退院祝いだなとご機嫌だ。

お素麺と、お茶漬けで過ごしていたと言う。

 翌日から、また母の枕元に貼り付いて、外泊のことを話し続けた。自由工作も完成した。

池本先生のご両親にお礼の手紙を出した。

「お母さん、退院おめでとう良かったね。来年もいらっしゃい待っているから」と葉書が。




     五



 私の成績は中の上位で、波も有った。

六年に進級しても、クラス替えも無く担任もそのままで嬉しかった。

小テストで三回続けて百点を取った。全教科でも九十点を下回ることが無くなった。

一学期の通知票、体育は1だが他は全て5が並んだ。

減点された処は、解るまで先生に質問を繰り返した。

クラスメートも最初は驚いたが、そのうち当たり前となった。

子供でも、やる気にならない日は有るものだ、口々に同じことを言う。

「美沙ちゃん、先生に何か質問してよ」と。

私の質問が始まると授業にならないのだ。

その間、静かだ、一緒に聞いたり本を読んでいて騒ぐ子は居ない。

クラス毎に出すクラス総合点が学年でダントツの一番になり、池本先生は首を傾げている。

正の連鎖だと思う。

先生は考えた、小テストの返却は最後の授業終了してからとなった。

「質問の有る人は、放課後職員室に来るように」と。素直に守る。

 通知票を父に見せた。褒められなかった。

不思議そうに眺めた後、先生に電話をする。

「今年からは、1から10に変わったのか、誰かと取り違えていませんか」。

「間違いじゃありません、六年生になって学力急に良くなって僕も驚いて居ます」って言われて大喜び。

ご褒美に何か欲しい物有るか問われたので、大きな国語辞典、大人が使うやつ、と答える。

姉の使い古るしを与えられていたが落書きが沢山有って集中しにくいのだ。

「また、美沙にだけっ」姉が言う。「淳子にも参考書買ってやる」「要らない」と。

 「今年も泊まりに来い」と言ってくださる。

病床とはいえ、母は在宅しているのだ、迷っている旨話すとクラスメート女の子と共に、三人で一泊することになった。学校に集合。

先生のご両親も歓迎してくださった。一泊だけと知り「がっかりねェ」と。

その夕方蛍を見に行き、夕食後線香花火をしたこと。鮮明に覚えている。

 休み明け、先生の家庭訪問があった。

「佐々木さん、塾に通わせていますか?」

「手伝いとの両方では体が弱いので心配なのですが」。

「えっ?」母の表情。

私は、思い当たることがあるので、六年生のドリルを持って来て先生に渡した。

「一頁目出来なくて、主人が深夜まで特訓したんですよ、心配でした」と母が話す。

先生は一頁を見て驚く。分数の掛け算、割り算だった。

「まだ教えていません秋に教える単元です、出来なくて当然ですよ」

母は、「何故習っていないと言わなかったの」

「だって一頁目で五年生の復習って書かれているよ、分数の足し算引き算はやったから」。

先生は得心した。「出版社も悪いですよね、でも地域によって学習進捗要領違うので、仕方ないですが、

春先に頑張った甲斐があったじゃないか、勉強が面白くなって良かった」。と。

職員室通いが始まった、佐々木さん専用机用意するかとカラカウ。

私が欠席日数多いのは他の先生も知っている。

質問に来る私を見て、「佐々木さんの成績が良い理由が解った気がするよ」。

 よく両親に言われたのが、美沙のことは叱れないんだなァ。

「要領がいい訳でもなく、ずる賢い訳でもないのに、叱るネタがないよ」。

どうしてだろう。失敗も間違いもするのになァ。母は気付いた。

私は失敗の言い訳をしないが自己申告する際、はじめに「ゴメンナサイ・・・・しちゃった、次は気をつけるね」と話す。

玄関入るなり第一声がゴメンナサイから始まる、親は重ねては叱れないのだろう。

 私の日課には家事一際と宿題のほかに復習予習が加わった、特に予習をしてから授業に出ると良く理解出来る。朝食の下ごしらえをして、夜遅くまで学習したが、また熱が出るから寝なさいと父が心配する。

「勉強を止める親っているの」と言ったら「参ったなー」とブツブツ言いながら部屋を出て行った。

父の帰りを待って、家中の戸締確認してから休んだ。

酔って帰った日には私が、小言を言うから、「俺には女房が二人居る」と苦笑する。

薪釜がバランス釜に変わって、お風呂の湯沸かしが楽になった、丁度良い湯加減になるまでの時間を測り時計を見て確認しに行く。季節により時間は違ったが楽になった事は確だ。

一番風呂は姉だ、「病人の後は汚いから嫌だ」と言い張る。「良いよ良いよ」と母。

食後、休憩してから母と一緒に入った、母が心配でたまらない。

母が休憩して居る間に、食器洗いを済ませる。

姉の扉の前にはお弁当箱が置かれたままだった。風呂から出ると無くなっている。

益々、姉との溝は深まって行く。


     六


 姉高校三年生、私中学一年生。

家の中に険悪な空気が漂っている。

姉は東京への進学を希望し、父は反対する。

高校にも行かせてもらえない子が居た時代だ。

「跡取り娘だ、家事手伝いをして、縁有る人を婿に迎えたい」と父は譲らない。

とうとう根負けして、受験だけならと折れた。姉は成績良くないから受からないと高を括ったのだ。

四校受験して、一校から合格通知が来た。合格したら、行きたいと言うに決まっている。

ギリギリの期日で入学金を納めた。

「卒業したら、戻って来るように」言い聞かせて送り出した。

都会生活に馴染み、お正月にしか帰省して来なかった。


母の繰り返しの入院にも帰って来ない。





     七



 私が中学三年で高校受験、志望校に関して父は数回、担任から呼び出された。

「美沙さんを説得してください」と。

「姉と同じB校にします」と言って譲らなかった。

「偏差値の高いA校に学年トップの佐々木さんなら百パーセント合格します、太鼓判押します。

お父さんから説得してもらえませんか?」

「嫌です、お姉ちゃんと同じB校に行きます」

 担任教師間でA校に何人合格させたかの競いも有ったのだろう。

「学年トップの女子がA校受験しなかった」と後々までの話題となったらしい。

「レベルを下げた方が無難ですと親を説得したことは有っても、上げてくださいと頼むのは

長い教員生活で初めてです」。

頑なな私に、先生も父も根負けした。

 母には本音を話して有った。「A校に行ったら許さない」と姉が言って上京したと。

母は悩んだ、「B校で我慢出来るの?」

「B校行っても勉強頑張るから、我慢する」。

父は、「A校行ってくれれば親類で自慢出来るのに」と、いつまでも愚痴っていた。

 B校にはダントツの成績で合格したらしい。

面談で担任教師からA校に行かなかったのは何故だと問われた時に知った。目が潤んだ。

 卒業まで、学力トップを守り抜いた。

放課後、近くの県立病院に入院している母の病室に行き、私物の整理、排泄介助、清拭。

ベッド横に座って宿題をしてから帰宅した。

父と二人きりになるのは、苦手だ、蹴り上げ事件が頭を過ぎるのだ。帰宅時間の遅い父が丁度良かった。

食事、入浴が済むと自室で復習、予習に励んだ。

父の入浴が終わるのを待って洗濯をする。洗濯物は、部屋干しだ。

母の所から帰る頃には陽が陰っている。

生乾きの物にはアイロンを当てた。二層式洗濯機が来てから楽になった。

風呂掃除、朝食準備を終わらせる。

私独りでは寂しいだろうと、お父さんが子猫を持って来た、育児放棄されたらしく、目が開きかけの雉トラメス猫。名前をマリと付けた。

丸まって眠っているのが毬みたいで可愛い。

一緒の布団で寝た、潰しそうなので胸の上で眠らせた。ミルクとスポイトを買って来て飲ませ育てた、

無駄に鳴かない利口な猫。

躾も身に着けた、卓袱台、テーブルには決して乗らないので安心だ。

しかし、自分を猫とは思っていないフシがみられる。関心を引く行為をする。樹の高い所まで登り、悲しそうな声。梯子を掛けて迎えに行くと肩にしがみ付き喉を鳴らす。ある日、板張りの床の節が抜けた、縁の下から風が吹き込むのを感じてグルグル廻っていたが、前右足を突っ込んで何か探っている。

ギャッと鳴くので父と見に行くと、その足が抜けない。どうした物か考えた床板外すしかなく、一枚外し鋸で穴の近くまで切り、割って足をぬいた。マリは神妙にしていた。

「人も猫も好奇心旺盛も良し悪しだ」と父。

マリのトバッチリを受けた気分だ。前右足を上げたまま父に擦り寄ってニャンと鳴く。

上げている足を触るとギャッと鳴く、腫れているのだ人間用の塗布薬を着け包帯を巻いた、舐めてしまうからだ。

一週間経っても三本足歩行だ、腫れも引いているのに。悪戯心で左足に包帯を巻いてみたら、包帯を見たマリは包帯足を上げて歩く。「ん?」と父。四本足に包帯を巻いたらどうするのだろう、興味深そうに父も眺めている。

床に下ろしたら暫らく硬直してドタッと横に倒れた、包帯イコール怪我なんだね。父と二人お腹を捩って笑った、笑い過ぎて涙が出た、母の発病以来初めて笑った気がする。

包帯を取ると気まずそうに、寝床に駆け込んだ、マリの怪我完治。

マリの好物はチョコレート、離乳食で与えたからだ。

ある日の夜、父のパチンコの景品にチョコレートが有った。

私の枕下に置かれていたらしいが翌朝起きて無残な物を見た、アルミホイルに反応するマリだ、叱っても無駄だろう。

父には、「戸棚に仕舞って置いて」と頼んだ、齧りかけのチョコレートは少しずつマリに与えた。

放課後いつものように病室に行くと、意味有り気に母が笑った、「朝から泣いたんだって」と。

「泣いていない」と返事したら、母は「そういうことにして置きましょう」。笑いを堪えている。

「早くマリに会いたいわ」と笑顔だ。

父との会話にも困らなくなった、マリのお陰。

家族の中心にマリが居る。





     八



 母が退院して来た。

マリが興味深そうに覗きに来た。お母さんだよと聞かせるがキョトンとしている。

新しいベッドに横臥した母の元に行きジャレ始めた。

昼間は母の所、夜は私の所で勉強の邪魔をして寝ようとしない、やはり猫は夜行性か。

辞典の箱カバーに入って騒いでいる。

父は時々「ミマリー」と呼ぶ、猫と同格?







 「ユキヤナギ」




     一


 高校の卒業式直後、小学校の池本先生から手紙が届いた、懐かしかった。

「卒業おめでとう、大分欠席が減ったようですね、お母さんの様子はどうですか。佐々木さんを担任出来て良かったです。教師新米の僕は教え方のコツを佐々木さんから学びました」。と書かれていた。

先生は気に掛けて下さって居たのだ、懐かしく嬉しかった。返事を書いた、進路のことと母のこと。

 

 インテリアデザイナーになると決めていた。

しかし、進学校は父が独断で決め譲らない。

関東地方北部の短期大学。また我慢して従った、「卒業してから考えよう」母と交した。

 母を残して行くのが心残りだ、「大丈夫よ」と言う、家事もそうだが、機嫌の悪い時の父の暴言が

可哀相だ。


 短大入学前、身の回りの物と、中古冷蔵庫を小型トラックに積んで父が運んでくれた。

北関東の三月に残雪が無いことに驚いた。

「お母さんとマリのこと宜しくお願いします」とお願いした。

大家さんに挨拶して帰って行った。

その短期大学向けの新築アパートだ。学校までは徒歩通学。

同級生は、地元と近県からの入学者が多かった。

自炊だが、実家でやっていたので苦に感じなかった。

だが一人分作るのは難しかった、中途半端に余分に出来てしまう。

隣室の里子さんは同じ学部で、直ぐに仲良くなり、おかずのやり取り、当時中古であっても持っている家庭は少ない冷蔵庫に預かり物をした。また、効率の良い単位の取り方等を相談し合った。

連休があると一人旅に里子さんは行った、土産話が楽しい。

思い出すことはあったがホームシックには罹らないで過ごした。

 実家からの仕送りだけでは、参考書が買えない。土曜日曜にアルバイトを始めた。

平日に復習予習、レポートをやれば時間はある。

洋品店でのアルバイト仕事は楽しかった。

パートのおばちゃんから可愛がられ、三シーズン経っても売れない服やエプロンを頂いた。

当時のアルバイトは時給六百円位だったと思うが、私は一割安い所で働いていた。

重労働は無理で、ウエートレスも無理、何より楽しいのが一番。

月に八千円位になった。

子供の頃ほどには病気しなくなったが、背が低く華奢で体力も無かった。

力仕事とレジは男性店員とおばちゃんが遣ってくれる。

私は、店頭回りの掃除と店番、たまに接客も。

「佐々木さんは中学生くらいにしか見えないから働かせるの可哀相になっちゃうよ」とキツイ上州弁で庇ってくれる、有り難く甘えた。

 私は群れるのが嫌いだ、どのグループにも属さないで通した。仲良しの子は居る。

短大は、女子ばかりだ。

いつの間にか数グループが出来ていた、誘われもしたが生返事を繰り返した。単独行動を選んだ。

和子さんとはよく隣同士の席に着いたので、色々な情報に不足は無い。月に一度位の頻度でアパートに

遊びにやって来た。

実家から通う彼女にはアパートで暮らす憧れが有ったようだ。

卒業後のこと、結婚のことなど隣室の里子さんも交えて話し込んだ。

私も教職課程を取る。二人とも郷里で教員となった。短大二年の時、高校生の教壇に立ち教育実習、二つか三つしか年齢が離れていないのだ、遣りにくくて仕方なかった。

 私は、悩んだ末、東京の建築デザイン系の会社のOLに就いた。

日曜日はアルバイト、二年ほど節約生活してお金を貯め四年制大学の夜間部に入学した。

母には話してあるが、父には内緒だ。

教員採用試験受からなかったと嘘をついた。知名度のある会社だったので承諾してくれた。


 姉は、三年前結婚し翌年長男を出産した。

出産は短大卒業後、就職まえの春だった。二十日程、手伝いに呼ばれた。

不平不満でヒステリーを起こす。

私を帰した後、「普通は実家で出産するでしょ」と父を責めた。

病身の母が、上京して姉の世話をしていると聞き驚いた、

度々のヒステリーに手を焼いている、こちらで人工透析受けるのは無理(電子カルテ等無かったし主治医からの紹介状を持って来て居ない)。母を詰る姉。

頑張ったが一週間で体調不良となり、父が迎えに来た。姉は二人に罵声を浴びせる。

母を抱き抱えるようにして帰郷して行った。





     二



 「姉の淳子は跡取り娘、次女の美沙は嫁に出すから」と言いて続けて育てた父は、今更私に戻って来い

とは言えなかったのだろう。


 母は「女でも自活出来た方が良い、自分は自活出来るだけの能力がないから我慢している、

病気しなかったらお父さんとは離婚していた。暴力暴言に耐えている」と嘆く。

「美沙は帰郷しなくて良い、自活出来るようになりなさい」と。

 昼間OL夜間は学生。両立が辛くて止めようかと思うことも有ったが、クラスメートが

「中退はするな」と声をかけてくれた。

夜間部建築系ということもあり、当時は百二十のうち女子は私一人だけだ。帰宅方向のグループが出来、

そこに混じった。誰も私を女子と見て居ないのが良かった、皆、昼間働いている。

助け合った、代返代筆、欠席した時のノート貸借。

私の欠席は少なかったものの遅刻がちであった、出欠取っている頃に後ろ扉から入室。名前が呼ばれた、

私と同時に野太い声がした。

助手が、「佐々木の場合代返はバレるぞ、女子は一人なんだから」と笑った。

出席日数、テスト、レポート等々クリアしないと進級出来ない。友人同士励まし合った。

テスト前の週末は、深夜喫茶で始発電車が出るまでコーヒー一杯で粘った。ノートを見せ合ったり、

テキストを見ながら山賭けした。

八人のグループだったが、卒業できたのは四人だけだ。

学生課の掲示板の求人票に女子も「可」は皆無で、どうしたら良いか解らなかった。

やっと卒業できたのだ、夢は叶えたい、インテリアデザイナーになるんだ。

今の会社を辞めた、事務職から技術系への異動の前例が無いと断られたからだ。

夜学の先輩の紹介で就職出来る事になった。お母さん、帰らないでゴメンナサイ。





     三



 アパートのピンク電話に、母が危篤だと一報が入った。翌朝、上野駅から会社の留守電にメッセージを入れておいた。

まだ出勤時刻ではないからだ。

夢に近付いている、叶った姿を母に見せたい。まだ道半ば、お母さん頑張って。


駅から病院までが長く感じられた、病室に駆け込んだ、まだ意識は戻って居ないが危険な容態からは脱していると。

父が耳元で「美沙が来てくれたぞ目を開けろ」と繰り返す。

暫らくして覚醒した、彼岸には行かず戻って来てくれたと安堵して涙が溢れた。

「アラ、美沙、池本先生の所へ泊まっていたんでしょ」意識混濁?

「そうよ、でもお母さんが心配で帰って来た」と合わせた。その夜は私が付き添い泊まった。

翌朝、母の意識ははっきりしていた。もう大丈夫と医師に診断されるまで付き添った。

銀行でお金を引き出し、うち三千円分は十円玉に両替して病室に戻る。電話したくなったら使ってねと、

床頭台の引き出しに入れた。

「電話しても良いのかい?」

「夜八時過ぎならアパートに仕事持ち帰っているから良いわ」。

「仕事大変なんでしょ?」

「女は男の三倍やって、評価されるのよ、それに、国家試験受験しようと考えてる」。

「美沙は子供の頃から勉強好きだったものね」

 父に、「入院費の足しにして」と現金を渡し、駅まで送ってもらった。

実家には寄らずに帰ったので猫のマリには会っていない。





     四




 職場に戻り、忙しい生活に変わりは無い筈なのに職場の雰囲気がどこか可笑しい。

忙しい中、欠勤して迷惑かけた為かなァ。

数日後の昼食時、「佐々木の姉さんって色っぽいよな、お前はオンナじゃなく鉋だもんな」

お姉さんが、私の帰省中来たと言う。何故?

母の危篤も怪しい、姉が来るという事はズル休みかと疑われたようだ。

「あの子は手癖が悪いので・・」と有りもしない事を言ったと知る。

負けず嫌いの私だ、同期の男性社員と仕事で比較されて嫌だった。

雑用、お使い、お茶汲みは女がするものとされている。

それに加えての仕事だ、連続徹夜も愚痴らずやった。

男性社員は寝袋で仮眠するが、私は寝ずに仕事をこなした。

だからお前は、女じゃねえと言う。仕事振りが男より男らしいと揶揄される。

 私の職場に来る時間が有るなら、母の所へ何故行ってくれないのか。

こういう事の回数が増えると居辛くなる。

指導してくれる先輩社員の大田さんに相談した、

「皆冗談で言ってるのだと思うけど、聞く方は嫌だよな、盗み癖なんて無いんだから。

他の奴には言うなよ、正直に言うけど佐々木の発想力に嫉妬することが俺には有る。

雑用もきちんとやりつつ、ユニークで個性的なデザインをする、その上努力家だ。男社会でも特に封建的業界だ、出来る女は煙たいのさ」。

数週間後、「辞めることにします」と言ったら、大田先輩は、友人の会社を紹介してくれた。

 国家試験、一次二次とも合格した。

母から電話が、「お正月帰って来るの?会いたいわ」。

「もちろん帰るわよ。お土産何が良い?」

東京育ちの母は名店を良く覚えている。

「貝新のアサリの佃煮と塩昆布が食べたい」と言う。減塩食に閉口しているようだ。 

御用納めの翌日、帰省した。

 母と一緒に御節料理作りながら、国家試験合格し資格取得出来たことを報告、年明けから職場が変わることと、その経緯を話した。近い将来、独立するのだとも聞かせた。

 佃煮も重箱に詰めた。

「一食に、一片だけにしてね腎臓悪くなって困るのは自分だよ」。

 母が泣いている、キツイ事言ってしまったからかと、ドキドキした。

姉が未だに私を困らせ続けて居ることが情けない、「美沙ゴメンネ」母のせいじゃない。

病状は安定していて、大分元気になった。

父からは、「倒れて救急車で運んだ、高血圧だったが降圧剤服用するようになり落ち着いて来た」と聞いていたが母には黙っていた。

 お酒が呑めるようになっていた私は、父への土産にジョニ黒を持って来た。

二人で呑んだが、酔うほどに。

「美沙が男だったら・・」。

「お父さん、それは聞き飽きた耳にタコ」。

母との約束を、お酒が忘れさせた。国家試験合格を報告してしまった。「何で受験出来たんだ?」

OLしながら夜学に行ったこと、実務経験年数で受験資格出来たので、試しに受けてみた。

「一回目では中々合格出来ないんだよ、スゴイでしょ」

「なんだ、じゃあ短大は遊びだったのか?」

「違うわよちゃんと、教員免状も通知票も見せたし、この家に置いてあるじゃない」

「最初から、志望を言えば良かっただろ?」

「だって、お父さんが短大を決めて聞いてくれなかったじゃないの」

「初志貫徹した訳か、お母さん知ってたか?」

「うーん何と無くね」

「二人に騙された、美沙の頑固さは高校受験で手を焼いたものなァ」

「お父さんも頑固でしょ、だから言うこと聞いて短大行きました」

「美沙には参るな、気持ちがブレないから」

「親の顔が見たいねェ、アハハハァ」。

久し振りに、猫のマリを抱いて賑やかな夕食。

 お正月、父の親類にお年賀の挨拶回りに付き合った。振袖を母に着せてもらう喜び。

どこに行っても、「スゴイ資格取ったんだって?」お年玉とは別に、お祝いを頂いて帰って来た。

三分の一ずつ、分けて両親に渡した。マリは帰省した日から、べったり纏わり付いて離れない。

トイレも風呂も一緒に入ろうとするのを、無理やりドアの外に出すが哀しげに鳴く。

一度マリが寂しがっていると言うので、電話で「マリ、マリ」を連呼してやった。

それ以降電話が鳴ると大騒ぎするらしい。違うと手で合図すると鳴き止む、利口なマリ。 

帰京が近くなると、解るのか大甘えになる。母も、落ち着かなくなってしまう。ごめんね。

今回の帰省は少しゆっくり出来た。十日から入社と約束してあったからだ。

七草粥を食べてから帰京した。





     五



 当時は、今で言うセクハラ、パワハラ、モラハラ等当たり前のように横行していて社会問題にも成っていなかった時代だ。

私は実力主義、頑張れば切り抜けられると考えていた。

歯を食い縛って頑張る時、頭の中で「フレーフレー美沙、ガンバレー!」と叫んだ。

 紹介して頂いた新しい職場にも慣れて来た。

雑用とデザインと両方やる事が条件なので守った。服装は自由で、Tシャツかトレーナージーンズで済むので助かる。

ジャケットを羽織れば役所へも行けた。男性社員もスーツ着用者はいない。

新築物件も、改修物件も手がけた。

 姉がやって来た。姉五歳から始まった確執、事件を知らない父が勤務先を教えてしまうのだ。

甘辛両方の入った菓子折りを持って来て、愛想良く「妹とは歳が離れているので、気に掛けています。

宜しくご指導くださいね」。

近くの駅まで送った、職場には来ないでと釘を刺すが無駄だろう。

「何言ってるの、たった一人の実の姉なんだから当然の行為よ」。

数ヶ月後またやって来た、私の留守に。

前の職場と同様の事態が起きた。いくら否定しても揶揄されたり、

「おーい、何か無くなっていないかァ」と。悔しかった。

居にくくなった、十四ヶ月で退職した。

 女性を雇ってくれる所は資格を持っていても無い。アルバイトで食い繋いだ。

先の事務所の大田先輩から連絡が有り、久し振りに会った。呑みながら話すうち、泣き出して、姉との確執を話す。

「お姉さんて美人なのに性格は、佐々木とは真逆で怖い人だなァ。何とかに棘って奴か?きっとこれからも悩まされると思うぞ。まだ半人前だけど、いっそ独立しちまえよ。佐々木なら能力は有る、少し経験不足だけど、フリーランサーで、下請けから始めたらいい。それだったら、女でも実力さえ有って誠実な仕事ぶりなら、固定客つくと思う、今止めたらもったいない」。

背中を押された。また大田先輩に助けられた、少し恋心が芽生えた。

あちらこちらのインテリアデザイン事務所に声を掛けてくださった。

小回りがきいて、丁寧な下請け仕事をする奴が居ると過大評価だ。

保管して有った名刺の方達へも営業する。徐々に依頼が来始めた、大田先輩が良い評判を撒いてくださったのだ、裏切る訳には行かない。依頼された物は出来得る限り請けた。締め切り日が重なっても逆算して自分流の工程表を作り前日には渡せるようにして、チェックにチェックをかさねた上で提出に行った。

いつも五物件位を抱えて居た。出来そうもない物は、依頼を鄭重にお断りする。

何故なら安請け合いで締め切り間際に断るのは言語道断。先方に対して不誠実だと思うし、迷惑だろう。

それが私の信念である。段取りが全てだ、逆算工程表で動けば何時までに何をして置かなければならないかが解る。

かつ、正確で綺麗で有ることも忘れてはならない。請けた仕事は何日完徹しても、納期を守った。

単独の仕事では無い、専門セクションとの連携で動く、相手が遅れればしわ寄せが私に来るが対応出来るように配慮している。仕事内容に満足してもらえた、呼び水となり仕事量が増えたので、アトリエ部屋を借りた。

母には都度報告してあった、喜んでくれた。私の体を心配するが、発熱・嘔吐・下痢も稀になった。

風邪引き易いのだけが残った。

「忙しいが、年末には帰るね」五日程アトリエに泊り込んで、いつでも提出出来るようにしてから大晦日に帰省。

 父も機嫌良く、「一国一城の主となったか」と喜んでくれる。

「まだ、家来はいないけどね」

「そのうち出来るさ」

「お母さんの様子、ホントのとこどうなの?」

「昨日、透析して来たから今は元気だ、完治する病気じゃないからな膠原病は。

腎臓がいつまで持ってくれるかなァ」。

吹雪の中、自宅までの車中の話だ。

 父は昨年退職した、世間一般で言うところの停年だ。老害になりたくないと譲った。

退職金で新しい仕事を立ち上げていた。

転居もしている。

「生活費足りているの少しなら仕送りするわ」

「バカ、美沙は自分の事だけ考えていなさい」

「それより、結婚はしないのか?」

「えっと、考えたこと無かったよ」

「見合いしてくれ、出身はここだが、東京の商社に勤めているそうだ」

「余計なお世話だなァ」

「俺も断れなかったんだよ」

母は笑って聞いている。

 後日、東京の喫茶店で二人だけで会った。

 趣味は麻雀だけ、三十分で喫茶店を出た。

 父に「断って」と経緯を話した、解ってくれた。

マリが出てこない、珍しい。

母が言いにくそうにしている。急かすと、父が「ゴメンな」。

転居の時、父方の従兄弟誠一が手伝いに来てくれたのだが、マリは誠一を以前から嫌いだ。

逃げ出たまま戻って来ないのだと。

良く、猫は家に付き、犬は人に付くと言うので近所の人に見かけたら知らせてくださいと

頼んであるが、帰った様子はないと。

「私が抱いてさえ居れば・・・ゴメンネ」と。誰かに飼われて居れば良いが。

しんみりした年末だった。





     六


 

 大田先輩と久し振りに呑んだ。

「仕事、順調らしいな」

「先輩のお陰です、ありがとうございました」

「良い噂の方が多いが、悪い噂も有るぞ、女にとっては、何かと面倒くさい世の中だな」

「褒めてくれますか」

「まだ早い」

「ケチッ、悪い噂ってどんなの?」

「時間が無駄だ、男の嫉み妬み」

「それより、一人雇え。僕の後輩なんだ」

「で?」

「ゼネコンのデザイン室に居るんだけど水が合わんらしい」

「で?」

「良い奴なんだけど、誰かに似て変人かも」

「変人は困るわ」

「自分のこと解ってないだろ」

「ひどい」

「ひどくない女でここまで渡って来た変人さ」

「で?」

「女に生まれて気の毒だ」

「確かに」

「来週、電話してから行かせるよ」

「了解。食事摂りながら面接するわ」

「何で?」

「食べ方で嫌ない人、千人に一人居るのよ、上品に食べろっていうんじゃなくて、相性?」

「ふうん、自分で決めろ」

早速、電話が入った。定刻で退勤出来る日を聞いて木曜日十八時半に来訪お願いした。

当日、何を出前取ろうか迷ったが、私の好物にした。赤だし付きの握り寿司に決めた。

 履歴書を持って緊張しながらやって来た。

「橋本です、大田先輩から空腹で行けと言われましたが、どうしてですか?」

「特に理由は無いの、いつも一人だから。それより、緊張しないでよ噛み付いたりしないわ」

「大田先輩が、頭悪いけど勘の良い姉御だって聞いています」。

有名美大卒業で、私と同年だった。

私が四年遅れて夜学に行ったので、キャリアは私より多いということだ。

驚いた、ゼネコン退職と書かれている。

問うと、「佐々木さんが駄目と言っても、退職予定でしたから今日、辞表出して来ました」

出前が届いた、食べながら話しながら時間が過ぎた。気が合いそうだ、どうにかなるだろ。

「仕事は、元請が三分の一、あとは下請けですが、私、自分にも他人にも厳しいですよ」

「大田先輩から聞いています」

「いつから出勤できますか?」

「明日から」

「え、デスクとドラフター、貴方の分ないんですけど」

「届くまで、資料整理とか掃除してます」

「もし、断っていたらどうするつもり?」

「家賃半分払って部屋半分借りるかな」

「じゃ、そうする?」

「困ります、仕事がありません」。

 翌朝、出勤すると、橋本さんともう一人玄関前に立っている。

来訪者の予定は無い筈。兎に角中へ入ってもらった。コーヒー飲みながら話を聞くと、

橋本さんと同じデザイン室の二年後輩だと。

「橋本先輩に付いて来ました。辞表も出しています。永井です」と履歴書を出す。

本気かァ?

「うーん、碌な給料払えないかも」

「三ヶ月四ヶ月は食って行けます」

「生きて行く最低限しか払えないかも・・・」

「仕事の依頼、断っている物も有るって?」

「出来ない物は初めから請けない方が、誠意ってことも有るのです」

「でも、手が増えれば請けること出来ますよ」

仕事のレベルもみなければならない。

「試用期間、二人とも四十五日ね」一般的には三ヶ月なのだが・・・。

「了解です、普通は三ヶ月ですよ?」。

「私のセンサー反応早いの、そちらもそれで見極めてください」。

 事務機器販売店に二セット注文。明後日届く。

其の外の用具は午後から二人で買いに行ってもらうことにした。

駆け出しの個人事務所だ、「贅沢は出来ないが、使い勝手の良い物を買ってください」と、

三万円渡した。

「領収書忘れないでね」。

現在進行形の物件八つ、過去の物件等見せた。

二人ともキャリアは少し長いがレベルは少々下かもしれない。

大手の会社に居ると中々、レベルアップさせてもらえないのだ。

昼食は近くの定食屋で摂る。問題なし。

「社長、行って来まーす」

「待った、社長と言われて喜ぶほど馬鹿じゃないわよ、名前で呼んでください」

「はい」

 買って来た量が少ない、「どうしたの?」

前の職場で私物が多かった、「貸与されるのは少しでしたから、手に馴染んだ私物を使います」

中々、良い感触。

ホワイトボードも二台購入。請けている物件名と工程表を二ヶ月分書く為と打ち合わせ用。

暫定の給料を決めることにした、全員同額、通勤定期代支給、残業代は無し。

徹夜になる日も有れば、日がな一日することが無い日も出てくる業種だから。

そういう日には、誰かが電話番に残り用の無い者は自由帰宅可にした。

「帳簿開示します」。

「仕事は全て、私がチェックしてからの納品とします、私の名前で請けていますから」。

「給料に不満は言いませんが、佐々木さんだけは多目にしてくだい逆にプレッシャーです」

「では、一万円多く頂きます」

「もっと」

「軌道に乗ってから考えます。ボーナスに関しては、現時点での約束は勘弁してください」

「解りました」。

 空きがたくさん有った部屋が急に狭くなってしまった。三人分の製図台、デスク、打ち合わせ用

デスク等々搬入したからだ。横歩きしなければ通れない場所もある。

「太るの禁止だァ」。

仕事は増えるだろうか、納期守れるだろうか、チェックミスしないだろうか、資金繰りは。

思案に耽っていたら、橋本さんが気使う。

「いざとなったら、僕たちバイトしますよ、佐々木さんは、営業頑張ってください」

「そうだね、考えてもしょうがない、今日からスタートだ、乾杯しに行こう」

「え、佐々木さん呑めるんですか?」

「この業界、呑まずに渡れるかァ」

「はい、行きましょう。安くて旨い肴の店知っていますか」

「任せて」。


 橋本さんは、デザイン力は有るが、仕事遅い。

永井さんは、逆かな。どちらも丁寧な仕事だ。

まずは、安心。あとは、経験を積むことだ。

私は、電話や訪問で営業した。納品前のチェックでダメ出しもした。

三人で遅くまで作業し、翌日担当した者を連れて行った。

納品、翌日朝の場合、持ち帰り直行したいが、禁ずることにした。万が一の紛失を恐れた。

三人でも手一杯の仕事量となった、私が留守中に入る依頼を全部引き受けてしまうからだ。

 この仕事は、ゼネコンや大手デザイン事務所が向くタイプと一匹狼タイプが居る。二人とも後者だ。

 仕事内容によっては、まだ早いかなと思うレベルの物も任せる、育たないからだ。

「解らない事は、一回自分で調べてから質問してください。有耶無耶にしないで聞いて下さい、

聞いた方が早く解決する事も有ります」

集中していて、今は声掛けないでの合図はZライトに紐を結んだ。その後質問を受けた。

二人とも責任感が強く、頼りになるパートナーになってくれた。

給料も世間並みに渡す事が出来てホッとした。

気が付けば初対面から二年経っている。

 母が危篤だとアトリエに電話が入った。仕事の段取りを付け、後を二人に任せ、終列車で帰省した。

病室に着いたのは、深夜だ。当直医と看護師だけだ、主治医は母の蘇生を確認して帰ったという。

「明朝には、目を覚ましますよ」と看護師さんは言う。

父と帰宅した、「美沙には忙しい思いをさせてしまったなァ、淳子は子供二人の世話で来られないと

言っているし、美沙が頼りだよ」。

食事も早々に、入浴せずに休んだ。翌朝、病室に行くと母は起きていた。

「アラッ、美沙来てくれたの」と嬉しそうだ。

まだ、顔色は冴えないが笑顔だ、胸を撫で下ろす。

四日ほど世話をし、落ち着いたのを確認して帰京した。

十円玉を沢山置いて来た。

地酒を一本買う、アトリエの二人へお礼に。

 五日振りに出勤。アトリエに誰か増えてる。

助っ人でも頼んだのかな。

「入社しました」と言うではないか。

どうして?

二人の友人だと。決定権は私ではなく当人?

アトリエのスペースが問題だ。当面は私の所を使ってもらい、私が打ち合わせテーブルを。

私が居候みたいだ。

エイッと引っ越す事に。

2LDKのマンションを借りた。同時に同じマンション1LDKに私も転居した。

「泊まり込みの際、シャワーが使える」と男性陣が喜ぶ。

私も通勤時間ゼロになって、その分仕事に当てられて助かる。意外にも男性陣、調理が上手だ。

誰かが夜食を作る。

大型冷蔵庫に適当に食材買って入れてある。

 淳子姉さんへ毎月五万円の援助も始まっている。心だけの恋愛なら許せるが、不倫は絶対に許せない。

その為の五万円ではないのだ。

生活が苦しい、義兄の収入だけでは生活費、家のローン返済が成り立たないと言うのだ。

義兄のボーナスで返すからが始まりだった。

返してもらえない。子供の頃から姉は浪費家だ。ブランド物ではないが良い品を身に着けている。

気持ちが私には理解出来ない。





     七



 どの企業も官公省庁も、フロッピーディスクでの提出に切り替わった。パソコン導入されたからだ。

当時は一セット五・六十万円要したがアトリエでも導入を迫られた。全員分用意するのはキツイ。

三セット購入、二人で一台、残りの一台を共用とした。帳簿開示しているので納得してくれた。

半年分の経費プールが必要な訳も説明した。

仕事の質、量共に私が一番多い、加えて諸雑用もある、ボーナス出せるまでに大きく育った事務所だが、

私の負担を軽くする為に給料アップさせボーナス無し、年収で見てもらうこととした。

個人事務所のままだ。

全員に辞められても慌てないよう覚悟を決める。いずれは彼らも独立して行くであろう。

 一つ大きな物件の納品が終わった後、打ち上げと称して居酒屋で飲み会を催した。

ご苦労様の気持ちを込めて。

常時二十物件が動いているのだ、息抜きも必要だろう。

スタッフとのコミュニケーションも大事だ、私も息抜きしたい。

そこで宣言した、「事務所はこれ以上大きくしませんメンバーも増やしません」。

私の目が届くのは、今が限界、気力も体力も。

「佐々木さんもっと食べて、寝てください」。

徹夜の時、私は食べない、眠くなるから。

「だから女はダメだ」に抗って、男性の二倍三倍と働いて来た。

 パソコンのOSがWindowsに切り替わった。

今回は銀行が融資を申し出てくれている。一人一台欲しいよね、

融資を受ける事にした。

デスクトップ型とノート型の希望を聞いたら全員ノート型と返事。打ち合わせに持って行けるからだ。

今回の共用物PCは見送った。

 男同士の諍いも皆無では無いが、仕事以外の事には干渉しない。ややこしくなるからだ。

リーダーの橋本さんに任せている。治まらない時だけ、私はピエロを演じる。

橋本さん、永井さんと三人で苦労した時期が有った、二人の間で諍いは無い。

私をいれて六人の所帯だ。五人は男性。後から入って来た者達への指導も出来ている。

男だけで何処かに行く相談を楽しそうにしている処に私が入って行った「私も行きたい」。

一瞬静まって「女人禁制だからダメ」と。あァ、そういうことかと引っ込んだ。





 「カンパニュラ」



 母、七回目の危篤の一報。

すぐには、駆けつけることが出来ない。心配。

役所から直に請けた仕事で、私は席を外せないのだ。数日の打ち合わせが終わり、段取りだけして

橋本さんに後を託した。

少しでも早く着くにはには、夜行寝台列車で行くのが良さそうだ。早朝五時に駅に着いた。

タクシーで駆け付ける。病室に母の姿は無かった。既に地下の霊安室に移された後だった。

母の日に贈った、薄紫の花柄パジャマで横たわっていた。

顔の白布を取ると、安堵したような微笑んでいるような顔だった、苦しまなかったようだ。

私が着く二時間前に息絶えたという。

父が「美沙が来るぞ」と繰り返したが今回は戻って来なかったと肩を落とす。

母のベッド周りを片付けていたら、ずしりと重い巾着袋を見つけた。

中を見たら、十円玉と大量の薬がバラバラ出て来た。

 姉は「自殺行為だね、頭おかしくなっていたのかねェ、いまさら誰に話しても亡くなった者は戻って来ない。美沙、黙ってなよ、これは処分して置くから」。

 病院の薬は飲んじゃ悪い、とマインドコントロール掛けたのは、お姉さんあなたでしょ。

あまりに辛くて、悲しくて涙が止まらない。


母沙江、享年六十四歳。

 



「パンジー」



 次男の甥子、孝次から度々電話が来た時期が有った。お強請りだ。高校生の時は進路相談だ。

姉は私に電話する事を禁じた。嫉妬だ。


 度々起こすヒステリーが怖い。突然起こすので予防が出来ない。鎮まるのを待つしかない、宥めると逆効果なのだ。

 母と同じ膠原病発症してから、一層怒りっぽくなった。母は既に亡くなっている、死への恐怖心があるのだろうか。それをぶつける相手は私しか居ない。

毎日、携帯電話にかかってくる一日に数回の日も有る。

出た途端に罵声を浴びせられる。

「実の姉が病気で寝込んで居るのだ見舞いに来い。ご飯作りに来い」

「あと十分でタクシー着くわ」

「来るなッ。夫の浩一が帰って来る。夫は、あなたを嫌っているから来ないで」。

振り回され続けた、貸したお金は戻って来ない貸しっぱなしだ。義兄は知らないのだ。

私の前では常に女王様。義兄の前で良いお姉さんを演じ続けた。


 その姉も逝った。享年六十六歳。

母も姉も平均寿命より二十年早死にだ。


 悲しいが、考えようによっては病気の辛さ苦しさから開放されたのだ。

天国で二人、会えたでしょうか。

冥福を祈ります。





第三章 「クレマチス」





第一節 グロリオサ


第二節 センニチコウ


第三節 マーガレット


第四節 アルストロメリア



















 「グロリオサ」




     一



 記憶には無いが、関東大震災を二歳で経験したと、母と祖母から聞かされている。

近くに大きなお寺さんが有って、その境内の床下に潜り込み難を逃れたという。

母タエと祖母ミヤと三人で。

近隣の人達と床下で、余震に怯えたと。母は身重の大きなお腹での非難したことになる。


 私、沙江は佐々木家の長女、二歳下に妹美枝が居る。

東京下町、深川で芸者置屋が家業である。

女が継ぐのだ、女の子二人生まれてミヤは喜んだ。祖父は既に他界している。

実父は美枝が生まれてすぐ病死したので顔を知らない。

庭師で来ていた男性と数年後母は再婚し義父が出来た、出身は東北の片田舎。

田舎の事をよく話してくれた。何度聞いても飽きない、この深川の賑わいとは全く違うので面白い。

 太平洋戦争末期、義父は「もう東京は危ない」と言って田舎に母と行った。

一家で疎開する為の準備をする為に。

私は、女学校を卒業し商事会社で事務員をしていた。随分前に芸者置屋は廃業している。

気丈だが高齢のミヤの世話は妹の美枝が主にやり、家計のやりくりは私の僅かな給料と間貸しの収入、

義父からの仕送りで凌いでいた。

食糧も配給制となった。ある日、ミヤが孫の私達に「お母さんの所へ行きなさい」と言う。

自分の余命と敗戦を読み取っていたのだろう。

数日後、三回続けて失禁した。風呂に入りたいとポツリ。

美枝とお祖母ちゃんを入浴させた、「あー気持ちいい」が最期の言葉であった。

湯船の中で息を引き取った、老衰である。

下町深川は人情味あふれた町である。

戦時下若い女二人の世帯、町内の世話役さんが、通夜、告別式などの全てを仕切ってくれた。

両親に電報打ったが、列車の切符が取れない。姉妹と世話役のおじさんとで、本郷のお寺に納骨した。

連日の空襲に妹と二人心細く片寄せあって、過ごしていた。

二月初め義父から電報で、早く田舎に来いと。

佐々木家のお位牌数個と、ごく少量の身の回りの物を持ち、残りの家財道具は貨物便で出し、

なんとか列車に乗り込んだ。

立錐の余地もないギュウギュウ詰めの満員だ。美枝は名残惜しそうにホームを見ている。

なんとか義父の田舎に辿り着いた。農業を営む伯父の家の離れに落ち着いた時には、

疲れて声も出せなかった。

翌日、朝食後一家四人で、お母屋の伯父さんに挨拶に行った。

ここでの暮らしはいつまで続くのだろう。

カビ臭い離れを大掃除してから、伯父のお下がりのお仏壇にお位牌を納め、灯明とお線香を

あげ四人で合掌した。

 一ヶ月ほど経った頃、東京大空襲の記事の載った新聞を伯父さんが持って来てくれた。

祖母が存命で有ったなら私と美枝も、惨事に巻き込まれて居ただろう。

やはり、お祖母ちゃんは解っていた、孫を守ってくれました。

お仏壇の前で合掌し報告した。有難う御座いました。今頃になり涙が出始め嗚咽した。

芸者置屋の女将だ、躾は厳しいが孫の私達を可愛がってくれた九十歳の大往生だった。

その年八月六日、九日、人類初の原子爆弾が広島、長崎に投下され、二十万人を超える犠牲者が出た。

全世界で五千万人以上が命を失った戦争。軍人よりも民間人の犠牲が多かった。

八月十五日、日本は敗戦降伏。戦争って何?

以降、何が有っても八月十五日の昼食、我が家では「すいとん」を出した。

当時食べていた物よりずっと美味しく豊富に具を入れたが。




     二



 佐々木家は代々女の子しか生まれず、入り婿を取ってきた家系だ。

家業柄それで良かった。私が家督を継ぎ、義父の籍に美枝は入った。

 世話してくれる人が居て、見合いののち淳也と結婚したのは、敗戦後三年目の春だ。

何の財産も無いのに、私の籍に入ってくれた。

両親と別居して新所帯をかまえた。

夫淳也は農林業関係の会社を始めた、私は内職で洋裁に励んだが食糧事情は苦しい。

 私は、二人の子を生んだ。

邪気の塊の子と、無邪気の塊の子だ。

長女を淳子と命名、夫の名から一文字貰った。

その後、数回流産を繰り返し、やっと安定期まで持ち堪えた子は、淳子出産から五年経っていた。

お腹を庇いながら、暮の大掃除を無理したのがいけなかった。

気難しい淳也「妊婦は病人じゃない」の言葉を聞きたくないために。

夜、布団の中で、お腹の痛みを堪えた。

夜明け頃、我慢出来ずに、淳也に産婆さんを呼びに行ってもらった。

産婆さんが慌てた、予定日より一ヶ月早いのに、生まれそうだ。

生まれた子は女の子。

真っ赤なお猿さんのようで、グニャリとしてとても小さい、生きて行けるのだろうか。

私の名から、一文字取って美沙と命名。


 淳子の赤ん坊の頃、夜泣きには梃子摺った。

泣き出すと、淳也が煩いと怒鳴る。背負ってネンネコを羽織って、外に出なければならない。

泣き止んで、眠ってから戻り、布団に入れるとまた泣き出すのだ。寒空の外へ。

掴まり立ち歩きは、平均より早いと言われた。

その頃、製材所に加え材木店も開いた、貯めたお金では足りず、兄達から借金して開店。

淳子は「社長さんのお嬢さん」とチヤホヤされて育った。

淳子四歳の時やっと妊娠、生まれた時は五歳になっていた。ブリキやセルロイドで出来た玩具を

次々と欲しがるがすぐに飽きてしまう。

明治女のミヤに躾けられた私は、子供を甘やかして育てたくないのだが、淳也は跡取り娘だからと

猫可愛がりする。

しかし、子育てや家事に口出しはするが手伝いはしない人だ。

淳子は危険なことや、人様に迷惑かける事を平気でする。

口を酸っぱく何度も言い聞かせるが、治らない。

体は細いが、身長は平均的で素走しっこい、大した病気もせずに育った。

偶然だが、妹美枝の処にも、義兄の処にも、第一子が生まれた。第一次ベビーブームだ。

親戚が何かと比較して来るのが煩わしい。

母のタエは美枝夫婦と同居している。

「美枝の娘、喜枝の方が賢い」と言う。

それも仕方ない面が淳子にはある。口から生まれたのかと言われるほどお喋りだが愛嬌がない。

美人顔なのだが子供らしい表情が無い。

女王様気取りで、男の子とばかり遊んでいる。

 夫の仕事はまだ、軌道に乗らず苛々していることが多い。私に当り散らす。

淳子を可愛がるが、子煩悩と言われたいから。

第二子を本当に望んでいるのだろうか。望まれて生んでやりたい。

美沙がお腹に居る時、淳子は膨らんだお腹を不思議そうに見ていた。

 美沙は泣かない子だ、食が細く発育も遅い。早産で生まれたせいなのだろうか。

タエが来て付ききりで見守っている。

口元が動いた、足が動いた、声を出した、顔色が悪い、一喜一憂する。

母乳の出が悪くて、粉ミルクを使ったが吐いてしまう。

砂糖水、スリオロシりんごの果汁のみ少し飲ませたが、蛋白質不足だ。ヤギの乳も受付けない。

産婆さん、診療所の医師、保健婦さんにも相談したが良い物が出て来ない。

近所のお豆腐屋さんから声を掛けて頂いた。

「豆乳ならどうだろう、畑のミルクだぞ」。

恵利は勢い良く飲んだ。夜明け頃にお豆腐屋さん通いが日課となった。

顔がフックラしていていつも笑っている。

これで一安心。

母タエは二ヶ月ほど我が家にいて帰って行った。





     三



 美沙、生後四ヶ月経った頃、最初の事件が起きた。淳子が寝ている美沙の顔に乗っている、私の頭の中が真っ白と成る咄嗟に淳子を突き飛ばした。息をしているのか解らない。背負っている時間が勿体無い、小脇に抱えて裸足で診療所へ駆け込んだ。何とか一命は取り留めた。緊張が解け床にへたり込んだ。

看護婦さんが、私の足を指す、擦過傷で血だらけだ、まだ残雪の有る道を走ったのだ。

手当てしてくれた、下駄を借りて帰ったが美沙は一晩診療所に入院した。

先生に頼み込んで、強い引き付けを起こした事にして頂いた。直ぐに激昂する夫が知ったら困るからだ。

淳子は、「お母さんが突き飛ばした」と言うばかりだ、「淳ちゃんとみいちゃんとどっちが、好き、可愛いの?」と。

淳子が怖い、目が離せないと思った。どう育てれば・・・。


 危惧していた二度目の事件が起きた。

淳子八歳、美沙三歳初夏、淳子が美沙を小川に突き落とした。

珍しく、淳子がままごと遊びに混ざって居る声が聞こえている。同姓との遊びも大事だ。

美沙は淳子のことを好きだが、淳子は邪険にして面倒をみない。

「おねーたん、まって、連れて行ってー」連呼しながら後追いするが、振り切ってしまう。

近所の女の子が我が家に「美沙ちゃんおんぶさせて」と連日来る。子守を頼むことも。

美沙は四・五歳年長者の背中で擬似体験する。

 美沙はミヨコねえちゃん、まぜてーと入って行ったようだ、拒否される事は無い。

女の子の遊びに淳子は飽きた、美沙を引っ張り出して、小川に水汲みに行ったらしい。

美沙にやらせてあげるとブリキのバケツを渡した。三歳の子に、満杯のバケツを引き上げる力は無い。

淳子は美沙のお尻を突いた。

数日後、美代子ちゃんが見ていたと教えに来てくれた。

子供達の異様な騒ぎ「おばちゃん、たいへんだー」と。美沙ちゃんが川に流されているー

最後まで聞かずに私は飛び出した、淳子が視野に入ったが、今は構っていられない、川下に向かって走った美沙の服が見えるが流れが速くて追い付けない、騒ぎを聞きつけ近所の人も出て来た、一緒に追いかけてくれる。

米屋の若い衆が二人、自転車を飛ばした、先に待ち構えて美沙を川から引っ張り上げてくれ、お腹と胸を押して飲んだ水を吐き出させた、良かった生きている。

「早く先生の所さ運ばねばー」びしょ濡れで運んでくれた。

「意識はある、大丈夫だろう。川の水を飲んでいるから腹下しするかもしれない」と。

深夜から発熱、嘔吐、下痢が始まった。それが、疫痢発症だ。治るまで、暫らくかかった。

淳子は、「美沙が自分で川に入った」と言い張る。

美沙には「お姉ちゃんと二人きりにならないように」と話したが解っただろうか。


 三度目の事件が起きた。

美沙は、淳子に指を切断されそうになった。

子供用大工道具を工場の従業員に作ってもらった。使い方を習い美沙はご機嫌だ。鋸の練習している時、淳子が背後から覆い被さり鋸を握って美沙の指に刃を当てた、出血量に驚いて、淳子は逃げた。

見ていた従業員が応急手当をして、連れて来てくれたが「医者に行った方が良い」と言う。

傷口大きいし骨が見えたと。美沙はめったに泣かない、此の時も顔色は悪かったが、泣かなかった。

美沙にとっての宝物を取り上げられたくないからだろう。三針縫ってもらい帰って来た。

化膿することもなく傷は塞がったが跡は一生消えないだろう、心に傷は出来ていないだろうか。

「お父さんには言わないで」と請う。台所の手伝いをしていて怪我したことにした。

淳子は「知らない」と言い切った。

 我が子ながら、薄気味悪い子だと思う、私がおかしいのだろうか。

相変わらず男の子を引き連れた遊びをして、服はアチコチ破いて帰ってくる、繕っても追い付かない。

女の子らしく過ごしてくれたら妹へのお下がり服とするのに、捨てる事に。


 四度目の事件が起きた。

真っ赤になっている薪ストーブに美沙の手を引っ張り淳子は触らせようとした。

事務所から裕美子さんの大声「奥さん来てー」。

事務所に顔を出す寸前、沸騰している薬缶が落ちて転がった音を聞いた。

私が口を開く前に夫が帰って来た。

惨状の原因を裕美子さんから聞きだし、淳子をキツク叱った。

謝らない淳子の頬を平手打ち、いつもならお尻を叩くのに。再び手を上げようとした夫の腕に美沙がしがみ付いた「私が悪いの、二人きりになったから」と泣く。

夫は理解出来ないだろう、前の三件は内緒にしてある。子供の言うことだ、別の意味に取ったようだ。

淳子をお母屋に連れて行く、何か言い聞かせるのだろう。夫は激昂すると、子供であれ手を上げる。

私も付いて行った。

事務所の片付けは裕美子さんに任せた。

美沙も手伝っているようだ、笑い声が聞こえる。火傷も無く怪我も無かった。淳子が強く握った美沙の手首に痣が出ているが問題無いだろう。夫の処へ来て、「今日は裕美子お姉さんの家に泊まりに行ってもいいでしょ」と。

夫婦して裕美子さんに礼を言った。

「美沙ちゃんなら、両親も弟も大歓迎です、気にしないでください」

 私は淳子との時間を作るようにいているが、妹への嫉妬心は消えない。憎悪に近い感情。

淳子はよく喋る子だが会話のキャッチボールは二・三回で詰まってしまう、気持ちが散漫だからだ。

五歳下の美沙との会話は長く続く、次々質問して来るのだ。

事務所の電話番した時の話等話題が尽きない。

この子五歳かなと不思議。淳子の五歳時とは、あまりにも違う戸惑い。

風邪や腹痛なども重症化するが、ある時発熱した美沙の手を引いて徒歩で通院したら、

「三十九度もあるのに歩かせるなんて何考えているのだ」と私が厳しく叱られた。

帰りは、会社の車に迎えに来てもらい美沙を抱いて帰った。不調の時でもグズらない、親が気を付けて見守るしかないのだ、特に扁桃腺肥大傾向なので発熱しやすい。

病気等では手がかかったが生活面では淳子より大人かもしれない。


 もう事件は終わりにして。

 無防備な美沙の命が危険に曝される。




「 センニチコウ」



 膠原病発症は四十二歳、病名が判明するまで七・八年かかった。初めは、関節炎リュウマチと誤診され、ステロイド剤の乱用で腎臓が壊れた。

全身がだるく特に肘関節が痛い。爪を立てる。

傷だらけだ。ムーンフェイスで顔も赤みを佩びて病人には見えない。

夫は怠け病だと責める。蹴ることも度々だ。

会社は軌道に乗りつつあるが、何かで苛々が始まる。ある日、美沙が見ている時に私を蹴った。

美沙が私に覆い被さり、夫を諌めたが美沙まで蹴った。美沙は怒ると冷静になる。

美沙流の理屈で夫を責めた。夫も美沙の理屈は通っている、反省したのか下を向いていた。

「お母さんに謝って」と食い下がる。「今日のことは絶対許さない、一生忘れないから」。

忘れた方が良い事もあるのよ。病人を蹴るなんて絶対許せないと泣いた。

十一歳の子供だが、本気で口論すると、大人でも負ける。

話の順序と理由を上手に組み立ててから話すので一見おっとり見えるが鋭い子だ。屁理屈は言わない。

後味の悪い負けではない、ウーンなるほどなァとなるのだ。

話し合いが終わると笑顔が戻る、根は笑い好きのお茶目さんだ。


小学五年生、母親の病気に心を痛めている。

なるべく入院はしたくない、家の事が心配だ。姉妹を二人きりにするのは危険だ。

淳子に美沙をどう思っているのか問うてみた。

「居ない方が良い、死んじゃえば良い」と。


淳子は言葉巧みに人を操る、美沙は心で動かす、その差は大きい。

淳子の殺意は、今は美沙に向けられているが、社会に出た時、人様に向け犯罪者に成らないか

とても心配だ。



 


「マーガレット」




     一



 横臥したままの生活、トイレに這って行く。

食事は小学生の美沙が作り、口元までスプーンで運んでくれる。

五歳年上の淳子は何も手を出さない。自室に籠るようになった。

美沙がお盆に乗せて、扉の前に置いてたり、遅く帰る夫と摂ったり。

朝はお弁当にして学校で食べる。自分の食器もお弁当箱も洗わない。

美沙が「二度三度手間だからお弁当箱を増やして良いか」と聞いて来た。

「良いよ、お父さんに買って来て貰いましょ」

「じゃあ、お父さんも夜、会社で食べるから二つか、それでは、お母さんの昼用も、だから三つ買って来て」全部で四つお弁当を作り出した。淳子の分が二つ、両親の分が一つずつ。

夕食は美沙と二人だ、卓袱台を私の枕元に置き、起き上がれる日は布団に座って、起き上がれない日は美沙がスプーンで上手に食べさせてくれた。小さい頃から体の弱かった美沙は、寝たままの食事を経験している為か、介助が適切に行える。

「美沙ゴメンネ」と言ったら、涙目で「ゴメンは言わないで」と強く言う。

「誰も好きで病気する訳じゃないでしょ、だからゴメンは言わないで」。

 時に排泄の世話もしてくれる。

「お世話する方より、される方が辛いんだ」。

どこまで人の心を掴む子なんだろう。

華奢な体で、頑張ってくれて居る、感謝。体調どうにか立てる日には、台所に立つ。

美沙も見よう見真似で手伝ってくれ助かる。

野菜は、硬くて火の通りにくい物から煮ていくのよとか、鯵のハラワタとゼイゴを取って、塩を振ってロースターで焼くか小麦粉振ってムニエルとか南蛮漬けにもなる等教える。

調理実習で習った物に、私が教えた物を加えたレパートリー。調味料の「さしすせそ」も教えた。

ふーん、全部いっぺんに入れちゃダメなんだ。

翌日、嬉しそうに帰宅するなり、順番の理由が解ったと。「理科室の先生に教わって来たよ。

分子の大きさが違うんだって、分子模型で説明され面白かった。大きい分子が先で、隙間に小さい分子が入るんだ」と。

私も、そういう事かと理解出来た。納得するまでトコトン調べるのが美沙流だ。

もうすぐ夏休み、何処にも連れて行けなくてゴメンネ。

夏休み、結局私は入院した。

 美沙は担任の池本先生の実家と母タエの家に泊まりに行った。

美沙は得な性格している。

私の退院に合わせるように帰って来た。数日で残りの宿題を終わらせた。

あとは、私の枕元で外泊中の出来事を楽しそうに聞かせてくれる。

「池本先生の実家は大きくて、裕美子さんの家に似ていた」。

次はお姉さんの番よ、呼んで。呼びに行ったら部屋に居ないと。

陽が暮れる頃、自転車で帰って来た。疲れが見える、食事も摂らず、入浴して籠って居る。

強く出られない自分が情けない。

我が子なのに淳子が怖いのだ。





     二



 一年が経ち、美沙はまた池本先生の実家に一泊させて頂いて帰って来た。

 池本先生の家庭訪問で、また驚かされた。

「六年生になって急に成績が伸びた、塾に通わせていますか?」

「えっ、そんなに良くなって居るのですか」

「突然クラスのトップに、連続なんですよ」

訳は恵利が、ドリルを先生にお見せした事で解った。

半年先の算数の勉強を春休みにやってしまったのだ。

全体が見えるようになり、理解出来、勉強が楽しくなったのだ、だから通知票で体育以外の

全てが5だったのだ。

夫も先生に間違いじゃないのかと電話していた。

オハジキ使って深夜まで特訓されたけど良かったね。

「美沙、勉強も家事も頑張り過ぎよ、家事は手を抜いて良いのに。泣きごと言って良いよ」

「お母さんの病気が治ったら纏めて言います」





     三



 中学生となった美沙、暗い表情で帰って来た。問うたら、イジメられている子を庇ったら、私に矛先が向き、方言が解らない事を理由にイジメられた。

「何人に?女の子?男の子?」

「初めは、先の男の子三人だったのだが、何時の間にかクラス全員になってた」

「どうする?」

「でね、テストで勝負する事にした。今度の中間テストで私より上位の人がいたら、私の負けで方言勉強する。私が一番上位なら、皆が東京弁で話すって事になった、イジメもしないと約束した」。

さあ大変、クラス全員敵に回して見得を切って来た、小学校とは違うのに科目も増えてる。

正義感強いのも良し悪しだわ、どうなるかな。今までより、勉強時間長くなった。

翌朝食の下ごしらえしてから、就床し始めた。

「もし、寝坊したら皆が困るから」と、私は泣いた。

 問題の中間テスト、今日点数順に張り出される日だ、美沙は大丈夫だろうか。

一学年二百六十人居た、一斉テストだ。

百番くらいから見て行ったと言う、「中々名前が見つからなくてドキドキしたよ」と。

「先頭が煩いので見に行ったら、私の名前が最初に書かれていて、二番の人と大きな点数差だった、

ほぼ満点に近かった、ホッとした」と笑ってる。

教室に戻ると、全員が「ゴメンな、東京弁教えてくれっか」「じゃ仲直りね、もう誰もイジメないでよ。

また誰かをイジメたらまた勝負よ」。

テレビがやっと各家庭に普及し始めていて標準語やイントネーションも聞ける。

「私も方言覚えるわ、教えてね」。


 方言ノートを美沙は作った。最初に書かれているのは「むじる」。意味は曲がるだそうだ。

私も方言ノートを重宝した、夫の兄達の話す方言での問いかけに、笑って誤魔化して来たからだ。


 負けず嫌いの美沙は口論で、負けた事が無いが最終的には仲直りが出来る勝ち方をする。

相手を徹底的にはやり込めないのだろう、踏み込んではならない一線が解るようだ。

計算しているわけじゃなく、自然に身に付いたようだ。相手を傷付けないで勝つ方法を。

毎度口論で勝っても、誰にも憎まれない。どのグループにも属さない中立を守っている。

担任の先生が言うには「佐々木さんは特別扱いされる存在なんです。と言って浮いているのでも無く、

変な表現ですが小柄なのでペットのような・・・」。

生意気なペットだこと、イジメの加害者でも被害者でもなくて良かった。

 淳子の担任の先生とは、こんなに親しく話したことは無い。通り一遍の話で帰られる。


 夫がすぐ上の兄と大喧嘩をした、美沙が幼児の時にも有ったが、養女の話を持って来たのだ奥さんの

お兄さんの処で、「一人息子が亡くなったから、美沙を養女にしたい、先方は庄屋農家であるが農作業は

しなくて良い、金持ちだぞ沙江さんの病院費用出すと言ってる、良い話だろ美沙を養女に出せ」と。

夫は激怒した、「美沙は売りもんじゃない、相手が貧乏だろうが金持ちだろうが養女には出さない、兄貴の

家には男ばかり四人子供が居るだろ、そっちで出せよ。二度と敷居跨ぐなァ」。

 生涯、仲直りしなかった。


 私は、再び入院した。

淳子の高校の近くの県立総合病院だが、淳子は顔も出してくれない。

洗濯物取りに来て欲しいのに、「病院は汚いから行きたくない」と言い張り来ない。

夫が時間を作ってどうにか来てくれる。差し替えの洗濯されたパジャマにはアイロンが当てられている。

美沙だ。

日曜日が待ち遠しい、夫と一緒に美沙が来てくれる。愛嬌があるので、病室が明るくなる。

笑い声を聞き付けて、医師や看護師さんらが集まってくる。

美沙は生まれてからずっと医者とは縁が切れない。

大きな病院の医師でも物怖じしないで話す。

「私もお医者さんになろうかなー」

「ほう、学年で一番か、高校はA校に行って一番なら医学部受かるかもな」

「うーん、お姉さんB校なんですよねェ」。

「まだ時間はたっぷりある、ゆっくり考えな」

「そうだ、私が医学部行ったとしてもインターンとか色々時間かかるでしょ、先生がお母さん治してください、その方が早いです」。

「ふーん、一理有るが、難しいな」

「病気の勉強してください」

「参ったな、美沙ちゃんには負けるな」

「センセ、一本とられたね」と看護師さん。

他の病人付き添いさん達も笑ってる。

一週間分の下着とパジャマを置き、汚れ物を纏めて持ち帰った。

隣のお婆ちゃん、「美沙ちゃん帰ったら寂しくなっちまったなあ」と。

母タエが家事をみに来てくれたのに、淳子が度々暴言を吐くので、勝手にしなさいと、帰ってしまった。




     四



 何度目かの退院、治った訳ではない自宅療養となっただけだ。こんなに難しい病気だとは思っていなかった。

高血圧気味、尿蛋白の数値も大分高い。

家に着いてホッとする。長くは起きて居られない、小ざっぱりした部屋の布団はお日様のにおいがする。

美沙ありがとう。

淳子は東京、美沙は中学三年。

美沙が貯めたお金を出して、お母さん立ち上がれるようにベッドにしてと夫に渡したと言う、

「気が利かなくて悪かったな」と夫が笑う。今度の日曜日に届くぞ。

 夫が、美沙の担任先生から呼び出された。

「高校受験志望校B校と言ってますが、A校にするよう説得してください」結局先生と夫が折れて、B校受験してトップで合格した。卒業までトップを死守した。自慢の美沙。

美沙が涙を飲んでB校に行った理由を私は知っている、淳子がどんな仕打ちをして来るか恐れたのだ。

淳子の妹だと先生に気付かれるまで暫らくかかったようだ。

「なんだ、佐々木は淳子の妹かー」。

教員室でも今年度の入学者一番の子は、変わっているらしいと話題になっている。

早熟な姉とは、間逆の美沙と結び付かなかったらしい。

度々、何故本校に入学したのか問われる度、姉と同じ学校が良いんです、と繰り返した。

 古典の先生が特に目をかけてくださっているようだ。淳子の担任をした事がある。


 淳子がクラス会で帰省した折、古典の先生と顔を会わせ、美沙がいかに努力家で根気強いか褒める言葉を聞かされ、帰宅後美沙に当り散らして、「A校に何故行かなかった?」と詰め寄る。

「A校に行ったら許さないって言ったのお姉さんじゃないの」。

夫がそれを聞いて合点がいったらしく黙って肩を落とす姿が可哀相だった。

淳子は美沙の古典辞書をビリビリに破いて、二泊で帰京した。

「お小使いで買えなければ、お金貸してくれる?」

「いや、全額お父さんが出してやるよ」。


同じ両親から生まれた姉妹の性格の違いに途方に暮れる。




     五



 美沙が久し振りに発熱して学校を休んだ、

猫のマリはチョッカイして叱られた、昼間寝ている美沙が珍しかったのだろう。

一緒に昼食を摂った、二人とも食欲が無いので「ニュウ麺」で済ませた。

うとうとしていて、胸が苦しくて目が覚めた、

マリが胸の上で眠って居るのだ、美沙に話したら、「ゴメン赤ちゃんの時潰しそうで胸の上で

寝かせたのよ」と。

マリの好物のチョコを使って躾け直した。利口なマリはすぐに覚えた。

 早朝、「ギャー、ワー、マリ来ないでェ」の大声「お父さん、助けてー」と美沙の叫び声で、

夫が行ってみると、美沙の布団の横の床に、鼠、雀、蜥蜴の尻尾などが並べられていた。

死骸に傷は無いショック死だろうと。

マリは得意気に目を輝かせて美沙と夫を見ている。大好きな美沙に贈り物をした心算か。

赤ちゃん猫の時から、人間と同じ時間帯で生活しているが、フッと何かを切っ掛けに野生が覚醒

するのだろう、捕獲物は食べない。動く物を捕まえるだけだ。

 美沙、高校二年の時、私は再び入院した。

学校へは自転車通学している。乗れるようになるのは遅かった。反射能力鈍く、石などを避けられず転んでくる。

「頭と手と同時に働かないんだよ」と膝を擦る。

学校帰りに毎日病室に来る。来ない日は、美沙も具合悪くしているってことだ。

排泄、清拭、着替え、夕食の介助など手馴れたものだ、さっぱりしてウトウトする。

ベッドの横で、宿題、復習を終わらせて帰宅する。

仲良くなった私の主治医と美沙の話声で目を覚ました。

「美沙ちゃんの好きな科目は?」

「数学と化学は、答えがはっきりしているから好きです。古典も解釈が色々有って面白い、

先生は何が好きだったの?」

「僕も、数学、化学は好きだったよ、ベンゼン核描けるか?」

「もちろん」

「そうか、理数系人間か」

「僕、国語系は現代も古典も苦手だったなあ」

「お医者さんて何でも出来るのかと思ってた」

「赤点は取ったことねえぞ」

「お医者さんの国家試験て難しいんでしょ?」

「ものすごーく、難しかった、僕は一発合格さ」

「ふうん、先生頭良いんだァ」

「お褒め頂き光栄でございます」。

着いて来た看護師さん笑いを堪えている。

付添婦のおばちゃん、「先生も形無しだね」。

 (当時まだ、ヘルパーさんは居なかった)。

「美沙ちゃんに褒めてもらった、僕の頭は良いんですから」

「じゃ、医者の腕前は良いの?」

「参りました」。

病室中、大笑いだ。

湿っぽい場所を明るくするのが得意な子だ。




     六


 人工透析が始まった、一日置きだ。

通院が億劫だが浮腫がひどいので仕方がない。

美沙が付き添ってくれる事もある。心強い。


 美沙、高校三年。進路に悩んでいる。

淳子は東京の専門学校に行き、そこの講師と結婚した。

夫は、美沙に跡を取らせれば良いと考え、淳子と本田浩一の結婚をすんなり許したのだ。

将来の事は、美沙の意思に任せてあげて欲しい。頑張りと我慢の子を卒業させてやって。

 就きたい仕事はインテリアデザイナーだと。

私の看病の為、家から通える学校を探しているがみつからない、東京に集中していると。

そんなことお構いなしに夫は、独断で短期大学を決めた。

「二年間我慢して、のんびりする心算で短大行きなさい、近県だから、夏休み冬休みに帰って

来てくれれば良いわよ」。本音は側に居て欲しいが、娘には娘の人生があるのだから。

この所、美沙の病気の間隔も長くなって、大分健康になって来て嬉しいわ。

小さい頃から考えのブレない子だったもの、通信講座でも、夜学でもその気になれば出来るわよ、

美沙なら大丈夫、自分を信じなさい。





     六



 まさか本当に大学の夜間部に通うとは。

二年間掛けて初年度の学費を貯めて、入学するなんて。

昼間働き、夜は学生、日曜日はバイトなんて生活続く筈ないと思っていた。

美沙は四年間頑張った、貴女には脱帽です。


 途中、私は危篤状態に陥った。何度目かしら。

美沙の声が聞こえた。目を開けると本当に美沙が居た。嬉しかった。

「元々、華奢なのに会う度に痩せて行くように感じる、頑張らないで」

「お母さんは頑張ってね、向こう側に行くの早すぎるわよ」。

「ええ、でも疲れてしまったよ」泣き言を。

この娘を産んでおいて良かった。

体調安定するのを見届けて帰って行った。


 就職先に苦労して、やっと就けたのに、淳子がとんでもない悪行をした。

また次の職場が決まって働いても、淳子が邪魔をする。

何度か繰り返した後、美沙は独立した。美沙の性格だ、頑張り過ぎないでと祈る。

夜、ナースステーションの赤電話から美沙に電話する。恋しいのだ。十円玉は沢山有る。

「ゴメンネ、忙しいんでしょ」また美沙に叱られる。

「ゴメンを言うなら、電話しちゃダメでしょ」

「はいはい、そうでした」

仕事も順調だという。面白くて、やりがいが有る。満足そうに笑う。

「貴女が社長さんなら、解雇に出来ないものね、淳子も手出し出来ないわ、頑張った甲斐が有ったわね。

男社会で窮屈だろうけど、上手くやるのよ」。

 「毎月の仕送りありがとうね、それと色々な菓子や服、お父さんの物までありがとう」。

 「いいのよ、お姉さんにも援助してるしね」

 「えっ」

 「お家買って、ローン返済大変なんだって、お義兄さんには内緒で五万円位ね」。

 「たまーに来てくれるけど、話しぶりだと、ずっと自分が親の世話して来たみたいな言い方を

浩一さんにするのよ、腹が立つわよ。高そうな服着ているわ、妹に借りてまで贅沢するものじゃない。

淳子の浪費癖は子供の時からよね。身の丈に有った生活して欲しいわ」

 「貸した物はあげた物と思うようにしてる」

 「淳子、腕時計買ってくれたりするのよ、浩一さんの前でだけ、良い娘演じているわ。病床の私には必要ないもの」

 「今度の母の日、プレゼント何が良い?」

 「んー、貴女の顔とパジャマ」

 「はーい」。


数日後、二着のパジャマが届いた。十円玉も入っていた。夫が持って来てくれた。

ピンクとパープルだ。派手じゃないかしら。

「パジャマくらい明るい色が良い」とお隣から声掛けられた、自慢したい、娘が高島屋で買って送ってくれたのよ。

 今夜、ありがとうの電話しよう。


  



 「アルストロメリア」




 私はどうしたらいいの?美沙助けて。

淳子は医療知識が有る。病院の薬は飲まない方が良いのだと言う。

ステロイド剤で痛い目に会っているから、薬は止めた方が良いのかしらね。お医者さんと看護師さんは、これは食前、こっちは食後と言って置いて行く。

私には、解らないの、美沙、誰の言葉を信じれば良いの?


巾着袋には、飲まなかった錠剤が溢れている。


 美沙、まだ着かないの?



 暗闇に大きな虹が架かっている。




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