第3章 つかの間の休息(3)
ラオがすっと立ち上がると、ハウトの正面を向いた。
「それはできんな」
「いや、おまえさんが俺を心配してくれているのは良く分かっているんだが、やっぱり巻き込むわけにはいかんだろうし…」
ハウトが言う言葉を、ラオが横からさえぎった。
「もうアレスに忠誠は誓った」
「はぁ?」
ハウトが驚いた顔をする。
「いつ?」
「三週間ほど前だ」
その言葉になおさらハウトは驚いた。ほぼこの家に来たばかりのときと言ってもいい。ルツアもエフライムも知らなかったのだろう。同様に驚いた顔をしている。
「なんで? どうして? おまえさん、全然アレスと接点がなかっただろうに。どういう心境の変化だ? しかも、そんな時期に」
矢継ぎ早の質問に鬱陶しそうな表情でハウト見ると、ラオはそのまま暖炉の炎に視線を落とした。
「頼まれたからな」
ぼそりと答える。
「誰に?」
返事がない。
「おい。俺は何も頼んでないぞ」
ハウトが言う。ラオは片頬で笑うと、ハウトの顔を見た。
「おまえじゃない」
「はぁ? じゃあ、誰が? アレスか?」
「まあ物理的にはアレスだが、根本はアレスに憑いているものだな」
「憑いているものって、おまえ…」
なんとなく察するものがあったのだろう。どさりとソファに身体を投げ出すと、ハウトは天井に目をやった。そして笑い出す。
「ハウト?」
ルツアが心配そうにハウトを見た。まだ笑っている。
「巻き込まれたか…」
ハウトが呟いた。
「そのようだな」
ラオが静かに返す。ハウトが真顔になった。天井を見たまま、ぼそりと呟く。
「フェリシアだけは巻き込みたくなかったんだが…そういう訳にも行きそうにないな」
しばらく天井を見つめていたが、瞳に力が宿ったと思った瞬間に、がばっとハウトは身体を起こした。
「よし、休息は終わりだな」
ルツアとエフライムに座るように合図する。並んで暖炉の前に座り込んだ二人の目を見ながら、ハウトは尋ねた。
「おまえさんたち、『白いじいさん』で思い当たることはないか?」
「は?」
とっさに言われて、二人とも目を合わせる。
「それは何ですか?」
エフライムの問いに、ハウトも視線をそらす。
「俺もわからんが、俺達が助かるための鍵だ」
「白いじいさん…」
そのときに、台所の方のドアが開いて、フェリシアが入ってきた。
「フェリシア…。眠ったんじゃなかったのか?」
ハウトににっこりと笑うと、ソファの隣に座る。そして皆に向かって言った。
「ねえ、ブレイザレク卿のところへ行きましょうよ」
唐突なフェリシアの言葉に、みな一瞬、雲をつかむような表情になってしまった。その中でフェリシアが一人だけニコニコと笑っている。そしてもう一人、居間にアレスも戻ってきた。
「アレス、おまえ…」
夢を見ているような様子で、アレスはルツアのそばに座り込んだ。
それは、フェリシアとアレスが部屋に引き上げたときだった。まだ眠れなくて、しばらくベッド上でおしゃべりでもしていようということになり、アレスはフェリシアにいろいろと話始めた。
ベッド脇の壁に二人でもたれかかって、話をしているのは、アレスにとっても楽しい時間となりそうだった。もともとフェリシアのことはアレスも気になっていたのだ。父に仕えていた遠見。いつも父の前で跪いている姿しか見られなかった。そしてフェリシアが来るときには、アレスは王の間から追いやられてしまっていた。だからこの美しい遠見と話したことがなかった。
それが一緒に生活してみて、思っていたとおりに優しい人だということがわかって、アレスには嬉しかった。きちんと自分を一人前として見ていてくれる。だからこそ、アレスはフェリシアにも自分のことを敬称で呼ばないようにと、お願いしていた。最初は不思議そうな顔で見ていたが、フェリシアはすぐににっこりと微笑んで、アレスを名前で呼び、普通に接してくれるようになった。
「今日ね、畑の向こうの森で、ウサギの親子を見たんだよ」
他愛の無い話でも、フェリシアはきちんと聞いてくれる。しかも嬉しそうだった。
「まあ、ウサギの親子!」
瞳をキラキラと輝かせて、アレスに話の続きを促す。
「うん。すごくかわいかったの。子供だけかなと思ったら、向こう側におかあさんだと思うけど、一緒にいたよ」
「まあ!」
と嬉しそうに言った後で、ふと眉をひそめる。
「でも、それはハウトやエフライムには言えないわね」
はっとアレスも気づいたように言う。
「うん。そうだね。あの親子が捕まらなきゃいいんだけど」
暗くなってしまったアレスをみて、フェリシアの目がぱっと見開く。
「明日、ハウトとエフライムに言っておくわ。今後はウサギをとっちゃ駄目って」
とっても良いことを思いついたようにフェリシアが言う。その言葉を聞いて、アレスも笑ってしまった。
「でもフェリシア、そんなことをしたら、僕たちの食べるものがなくなるよ」
「それはそうねぇ」
アレスと話をしているときのフェリシアは、まるで子供のようだった。アレスよりも年下なのではないかと錯覚してしまいそうなときもあるぐらいだ。あまりにも、うさぎのことでフェリシアが落ち込んでいるので、アレスは気の毒になってしまった。自分が話をしたばっかりに…。そんなフェリシアをなんとかしたくて、つい言葉がこぼれ落ちた。
「フェリシア、僕が守ってあげるね」
そしてぎゅっとフェリシアの腕に抱きつく。さすがにその腕の中に入ることは、ハウトのことを考えてやめることにした。そしてフェリシアのきれいな紫色の眼を覗き込むと、アレスは続けた。
「僕はまだ弱いけど。きっと。もっと強くなるから。今はみんなに守ってもらわないと生きていけないけど」
「アレス…」
フェリシアがアレスの言葉を聞いて、さびしげに微笑む。アレスもその微笑に気づいて、視線をそらした。
「分かってるんだ。僕。みんなに守ってもらえないと、まだ生きていけない。子うさぎと一緒だって。すごく悔しいけど」
肩が温かくなる。フェリシアが肩を抱いてくれている。こうしているとフェリシアの方が大人なのだと思った。
「フェリシア、バルドルって知ってる?」
「バルドル?」
「うん。ブレイザレク卿。僕の先生みたいなことしていた人。フェリシアが来たときにはいなかったのかな? とってもいい人だったんだよ。年だからって引退しちゃったけど。バルドルってね、白いって言う意味なんだって。でも名前だけじゃなくて、髪も白くてひげも白くて。なんか精霊の長みたいな雰囲気だったんだ。お祖父様の親友だったらしいよ」
フェリシアは黙ってアレスの言葉を聞いていた。
「僕が生まれてしばらくして、お祖父様は亡くなってしまったから、お祖父様のことはよく覚えていないんだけど…。でも、いろいろ教えてくれた。街に一緒に行って、いろいろ見たりしたとかね。あとフェリシアのお父さんと会ったときのこととか」
アレスはフェリシアの眼を見る。フェリシアはにっこりと微笑んだ。その笑顔に安心する。
「バルドルがね、いろいろ教えてくれたんだけど。いつも言っていたのは、何もできない人は尊敬してもらえないっていうことだった。王様は王様でいるだけじゃ、尊敬されない。ちゃんと王様としての役割を果たさないとだめだって。僕は王様になるんだから、いろいろできるようにならないといけないって。
でも、こういうことになって、僕はもう王様にならないだろうな…って思っていたらね、エフライムが言うんだ」
「何を?」
「僕に王様になれって。ラオも言うんだ。王様になれって」
ラオの名前を聞いて、フェリシアはちょっと驚いた表情になった。もしかして、このことは言ってはいけなかったのかもしれない…。アレスは急に不安になってきた。
「僕が言ったこと、内緒にしてくれる?」
フェリシアがにっこりと笑った。
「もちろん」
その笑顔を見て、アレスはほっとした。
「よかった」
フェリシアはその表情をみて、もう一度クスリと笑う。場の空気が和んだところで、アレスはまた話はじめた。
「でもね、王様になるんだったら、もっともっとバルドルに教わっておけばよかったなって思ったの。だって、本当に僕は何もしらないんだもん。バルドルの後に来た人は、王様は作法をちゃんとしないといけませんって言って、礼儀作法しか教えてくれなかった。どうやってお辞儀するかとか、そんなのばっかり。バルドルみたいなことは教えてくれなかったんだ」
アレスはまじめに考えているようだった。黙り込む。
「いい人だったのね?」
「バルドル? うん。すごくね。どこかの山奥にいるんだと思うな。お屋敷は全部売るって言っていたもん」
「そう」
「会いたいって思うよ」
フェリシアがアレスの言葉を聞いて、いたずらっぽく笑った。
「どこにいるか探してみましょうか?」
「ほんと?」
アレスが身を起こして、フェリシアを見る。
「私を誰だと思っているの?」
くすくすと笑いながら、フェリシアが言った。その笑い声はとっても優しくて、アレスをからかっているような口調だった。アレスも思い当たる。
「そうだね。でも、どこにいるか分からないんだよ? それでも本当に見つけられる?」
「ええ。あなたが強く思っていれば…。多分わかるわ」
フェリシアはふと思いついて、アレスに言う。
「あまり人前で行ったことがないんだけれど…その人のことを思って、私の手を握って」
アレスは姿勢を正してフェリシアを見た。フェリシアの紫の瞳が力強くアレスを見返している。それは透き通ったアメジストのような色合いで、まるでその先までもが見通せそうな色をしていた。
「わかった」
頷いて、フェリシアの横に来るアレスに、フェリシアは微笑むと、ベッドの脇に立った。そして優しくアレスの手を握ると、そのまま自分の両手で包むようにして、祈りの姿勢をとる。アレスは言われたとおりに、バルドルのことを思った。静かになる。
何が始まるんだろう…とアレスがそっと薄目を開けてフェリシアを見つめる。フェリシアの表情がすっと消えていく。閉じられた睫毛がふるふると震えている。窓からの月光にシルエットのように見えるフェリシアの横顔は、本当にきれいだった。まるで神話に出てくる女神のようだと思いながらアレスは目をはずせなかった。
ふと気づくと、フェリシアが光っているように感じる。なんとなくぼんやりとフェリシアの身体の輪郭が光を持っているような気がする。不思議な光景だった。はっとして目をこすったが、もう光は見えなかった。フェリシアがいつもと変わらない雰囲気で、アレスを見て微笑んだ。その情景の美しさは、まるで夢の中にいるようで、アレスはぼーっとしてしまった。
「ここからずーっと東にいらっしゃるわ。多分、馬で二週間ぐらいかかるのではないかしら」
フェリシアは東の森に向かって指を伸ばした。アレスがまだ夢の中にいるような感覚でフェリシアの言葉に頷く。
「ねぇ、アレス、バルドル…ブレイザレク卿のところへ行きましょうよ。きっとアレスがそこまで言うなら、私達を匿ってくれるかもしれないわ。私、ハウトに言ってみるわ」
アレスが返事をする前に、フェリシアはにっこりと微笑んで居間に行ってしまった。本当に自分より年下なんじゃないだろうかと、アレスはフェリシアの行動を思いながら、ぼーっと考えた。そしてまだ先ほど見た光景が信じられずに、放心状態のまま居間に向かったのだった。
アレスの状態から、ハウトはすぐに気がついた。軽く舌打ちをする。遠見の力を使う瞬間を見せたな、と。実を言えば、あれでハウトはフェリシアに落ちたのだ。抗いがたい魅力。もともと幼馴染ということもあって、フェリシアは大事な人ではあったのだけれど。遠見の力を使う瞬間の彼女の姿が、ハウトにとっては本当に衝撃的で、あれ以来フェリシアには勝てない。だから他人の前で絶対にやるなと言って約束していたのに…。思わずフェリシアを横目で睨む。
「フェリシア」
その雰囲気に、フェリシアも気づいたのだろう。あっというように手を口に当てる。
「約束は?」
思わずハウトの口調がきつくなる。その矢先に、フェリシアがぱっと頭を下げた。
「ごめんなさい!」
皆ことの成り行きが分からずに、二人の会話を見守っている。そのことにハウトも気づいて、これ以上追求することは止めた。ハウトの表情が緩んだのを見て、フェリシアはほっとしたような顔をした。
「で、ブレイザレク卿っていうのは?」
ハウトが尋ねた。その言葉に答えたのは、ルツアだった。
「バルドル・ブレイザレク卿。アレス様の教育係だった方よ。ネレウス王の右腕だった方とも聞いているわ。お年を召されたので、引退されて。今はどこかにこもっていらっしゃるとか。そういえば、数年前、すでに髪もひげも真っ白になられていて…」
その言葉を聞いて、ラオがうなった。
「バルドル…白か」
「ああ」
ハウトも頷いた。そして、フェリシアに向かって尋ねる。
「どこに住んでいるって?」
「ここから東のところよ。多分馬で二週間ぐらいかかるわ」
「往復で一月か」
フェリシアが問うように見る。その視線に気づいて、ハウトが笑った。
「まさか突然行くわけにもいかんだろう。向こうの状況も見えていないし…な。まずは偵察と先触れを出しておく必要があるだろう?」
「それはそうでしょうね」
ルツアは言った。しばらくハウトは考え込んだかと思うとパンと手を叩いた。
「よし。決めた」
ソファの中で身を起こす。
「フェリシア、おまえ、地図を描けるな? ブレイザレク卿の館までだ」
「え、ええ」
フェリシアが頷く。
「よし、往復に一ヶ月だ。俺だったら、一ヶ月かからないだろう。それで帰ってきたら、すぐに出かけると思っておいてくれ。それまでにここでできることはやっといてくれよ。エフライム」
「はい」
「おまえさんは、引き続き、物品調達と資金調達、情報収集を頼む。特に城で動きがあったときのためにな」
「了解」
エフライムが頷いた。
「それからラオ。おまえさんの素材調達は終わったか?」
「まだだ」
「じゃあ、明日からはフェリシアをつれていって、あと一ヶ月で終わらせるようにしてくれ。ここに追いつかれるぎりぎりまで居たくはないんでな。ちょっと早いが出ることになるぞ」
「わかった」
ラオが頷いた。
「それからルツア。一ヶ月でアレスが馬に乗れるようにしてやってくれ。あと多少は剣を使えるようにもな。どの程度必要かわからんが、森の中の移動は、結構強行軍だと思うんでな。備えあれば、憂いなしだ」
ルツアが頷いた。それを見てフェリシアがふくれたような声を出した。
「あら? 私は?」
ハウトがフェリシアを見て言い放つ。
「おまえは、馬に乗れるだろ? それに俺が守るから、剣は覚える必要なし」
「え…でも、私だって…」
ハウトの眼がすっと細められ表情が引き締められる。視線が真っ直ぐにフェリシアの瞳を射た。
「いいか。剣を学ぶっていうことは、殺すっていうことだ。おまえ、相手が人間にせよ、動物にせよ、命を奪うことができるか?」
すっとフェリシアの顔色が青ざめる。
「だから、そういうことは、俺に任せておけって言っている。だけどアレスはそういうわけにはいかない。王座というのは血塗られるものだ」
アレスの方にハウトの視線を向けられた。痛いほど強い視線だった。
「わかっているよな」
ハウトの有無を言わさない口調にアレスははっきりと感じた。同じことを言っているのだ。エフライムが言ったこと、ラオが言ったこと。そして今、ハウトが自分に、アレスに、玉座を手にしろと言っている。
「はい」
重い一言だったが、答えてしまった。もう後戻りはできない。ハウトがニッと笑った。
「よし」
そしてソファから立ち上がる。フェリシアもつられて立ち上がった。
「じゃあ、フェリシア、地図を頼む。俺は明日の用意をする。明日、朝一番でブレイザレク卿の館に出発する。ルツア、卿に手紙を書いてくれ。どこの馬の骨が来たかと思われるのは嫌だからな」
「わかったわ」
ルツアが頷いた。フェリシアも頷く。居間を出ようとして、ふと振り返ってハウトは、エフライムとルツアを見た。
「俺がいない間は、フェリシアのことを頼むな」
「了解」
「わかっているわ」
二人の頼もしい返事をきくと、満足そうに頷いてハウトは出て行った。