第2章 それぞれの決意(2)
ラオのかすかな笑みは、それでもアレスが勇気を奮い立たせるのに十分だった。
「ラオさん」
ラオの目がアレスを見ている。ラオの目は色素の薄いきれいな瞳だった。フェリシアは紫の瞳を持つが、ラオの瞳は水色だった。その瞳に促されるようにアレスは続けた。
「僕はさっき居間での会話を聞いちゃいました。ごめんなさい」
ラオの顔に動揺が走る。さすがにこの少年の生き死にの話を、本人に聞かれると思わなかった。
「ルツアとフェリシアはまだ沢にいて、僕だけ先に帰ってきちゃったから…。それでも。僕はお願いがあります。ラオさん。僕を助けてください。僕は、僕は…」
涙が溢れそうになるところを、こらえながらアレスは続けた。
「強くなりたい。みんなを守れるぐらい強くなりたい。ここで死んでしまうのは嫌です。僕を殺せば、みんな助かるというのも聞いていました。あなたやフェリシアがいないと駄目だというのも。でも、でも…。だから…」
アレスの大きな茶色の目から涙がこぼれてきた。それでも何とかこらえている姿を見てラオははっとした。アレスの後ろの空間をみる。アレスの肩から頭上にかけての位置を見る。うっすらと見えるあれは…。(助けろと言っているのか)ラオは心の中で呟いた。
「エフライムは、レグラスが国を傾けるだろうと言いました。僕はこの国が好きです。お祖父様が、お父様が大事にしたこの国が。荒れていくのは見たくない!」
この言葉は、アレスの言葉でもあり、アレスの言葉ではないのだ…とラオはアレスの後ろの空間を見ながら思った。歴代の王の言葉。ラオの父を重用し、マギと遠見を迫害から救ったネレウスの言葉。なぜなら、彼は今、アレスの後ろにいるのだから。
もう決めなければならない。猶予はないのだとラオは悟った。そのことをアレスの後ろにいる存在は告げている。この少年に自分だけではなく、フェリシアや、ハウトの命運もかけてしまうのか? そう思いつつ、アレスの後ろを見る。彼がいなければ、我々はとっくにいなかったのだと思う。唯一、マギと遠見が静かに生きていける土地。ヴィーザル王国。その場所を作ってくれたのは、この少年の祖父だった。
その思いに至ったとき、ラオの気持ちは決まっていた。決まってしまえば、自分でも驚くほど気持ちが穏やかになってしまった。自分の父も今、自分のところにいるのかもしれない…。
ふっと視線をアレスに戻す。少しだけ微笑んで、アレスの手を取った。目線にあわせるように片膝をつく。
「わかった」
短くアレスに返事をする。そして、視線をアレスの後ろの空間、頭の上のあたりに固定すると、ラオは言い放った。
「フォルセティの息子ラオは、父や我々に施してくださった、あなた様のご恩に報いるために、アレス様に忠誠を誓いましょう。ネレウス王よ!」
森の中に声が飲み込まれていく。アレスはいきなりのラオの言葉にびっくりした表情をしていた。しかしラオの視線はアレスの上に固定されたままだった。ラオにはネレウスが微笑むのが見えていた。声が届いたのだ。
「お祖父様?」
アレスは後ろを振り返った。ラオは膝についた草を払うと、立ち上がった。ぼそりとアレスに言う。
「おまえには見えん」
その言葉にアレスがむっとした表情をする。
「さっきの口調とだいぶ違いませんか? ラオさん」
「ラオでいい。俺を『さん』づけで呼ぶ奴はいない。だが、おまえには敬語は使わん。おまえが王になるまではな」
アレスは驚きに目を見開いた。その大きくなった茶色の目を無視して、ラオは続ける。
「忠誠は誓った。俺はおまえを守ってやろう。だから王になれ」
それはすごい交換条件なのではないかとアレスは思ったが、ラオの表情が真剣だったので、黙っておいた。その代わりにちょこんと挨拶する。
「よろしくお願いします」
自分の目の前に晒されたアレスの白い首筋を、ラオは複雑な表情で見ていたが、その後に吹っ切ったようにかすかな笑みを浮かべた。
「ネレウス王に直接頼まれたら、嫌とは言えん」
ポンとアレスの頭に手を置くと、庵へと向かう。そうと決まれば色々とやっておかねばならないことがある。ここで過ごせる時は三ヶ月しかないのだから。
三日後、かなり暗くなってからエフライムは帰ってきた。馬に乗せられるだけの小麦と幾ばくかの干し肉と、そして数枚の金貨を持って。
「まあ! エフライム。いったいこれをどうやって手に入れたの?」
ルツアが驚く。
「まあ、ちょっとね。大丈夫。正統な手段で手に入れていますよ。ここで争いを起こしたら命取りですからね」
ハウトとラオが視線を交わす。ほらね、と言いたげなハウトの視線を受けて、ラオも頷いた。
ラオはアレスに忠誠を誓ったことをハウトには告げていなかった。どうするかはハウト自身、そしてフェリシア自身が決めることだと思っている。自分がハウトやフェリシアを見捨てられないのと同様に、口では何とでもいいながら、ハウトも自分のことを見捨てられないことはわかっている。それでも、今はハウトから言い出すまでは黙っていようとラオは決めていた。
夕食のときに、フェリシアはまだ城では動きがないことを告げた。彼らの脱出は発覚していないようだった。
「追っ手も何もないようよ」
というフェリシアの声に、エフライムとルツアは安堵の表情を見せた。しかし、その表情を横目で見ながらハウトが続ける。
「だが、この状況も三ヶ月だけだ。そうだな? ラオ」
「ああ。多分な」
ラオが短く答える。
ルツアとエフライム、そしてフェリシアの表情が変わった。ハウトはラオが話を続けるかと思って待っていたのだが、一向に話す気配がないので、自分で話を始めた。
「多分、三ヶ月後にはここに追っ手がくる。つまりここを出る必要がある。俺達はまず、三ヶ月以内に次の場所と、これからの用意をしないといけないな。次の追っ手は、俺達が生きていることを知っているだろうから、ちとやっかいだぞ」
「行き当たりばったりでは、逃げ切れない…ということですね。それは」
エフライムがハウトの雰囲気を察して言った。
「まあ、そうだな」
ハウトは否定しない。ルツアとフェリシアの瞳がすっと細められた。
「どうするか、だな。まだ時間がある。それぞれ備えるとしようや」
そこには言外に、ここから一人で逃げても良いという含みを持たせていた。ルツアが何かを言おうとする。それをハウトは手を広げて押しとどめた。
「まだここではどうするかを言わないでくれ。それぞれで考える時間が必要だろ?」
ルツアが押し留まった。その代わりに隣に座っていたアレスを抱きしめる。絶対守るという意思表示でもあった。そのルツアをエフライムはじっと見つめていた。その姿は言外に絶対にアレスとルツアを守る決意をしていることが明らかだったが、やはり何も言わずに押し黙ったままだ。そして、その話題はそこで終わりだった。
その後、三週間程度は変わらない日々が過ぎた。
「三週間だぞ。三週間」
ハウトがエフライム相手にぶつぶつと言っている。久しぶりにエフライムが帰ってきて、二日間の長居をしていた。普段は、どこかへ行ってしまい、数日後に服や酒など、なにかしら土産を持って帰ってくると、またすぐに出て行くという生活を繰り返していた。
夕食後の時間だった。フェリシアとルツアは沢で片付けをしており、ラオは馬の世話をしに行き、アレスはそれについて行ってしまった。のんびりとハウトとエフライムだけが暖炉の前にいた。ハウトはソファに座り込んでいる。エフライムは暖炉の前に椅子を置いて、座っていた。
「僕だって遊びに行っているわけではないですよ。物資調達で仕方なくです」
実際にエフライムは、呆れるほど次から次へと色々なものを調達してきていた。しかし、ハウトはぎろりと横目でエフライムを見る。
「でも街に出てるんだろう?」
「そりゃあ、街に行かないと物資は調達できないですからね」
「俺はじっとしているのは苦手なんだ」
「おや、ルツア様がアレスさ…アレスに剣を教えていると言っていましたよ。あなたもルツア様やアレスに教えたらどうです?」
「そういうことじゃない」
「ちなみに、家主殿は何をしてるんです?」
「昼間はどっかに出かけているな。森の中で薬草とか取ってるんだろう。籠いっぱいにして夜に帰ってくる」
「そうですか」
エフライムはにっこり笑った。
「みなさん、準備は着々という感じですね」
ハウトは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「俺の本分は攻撃だ。防御じゃない。攻撃は最大の防御ってね」
「でも、今は攻撃するのは無理ですよ?」
「だーっ。分かっているって」
ハウトが吼えた。
「だから俺だって、我慢してるんだろうが。こんな森の中で。おまえ、遊びにも行けず、酒もろくなものがない」
エフライムが黙って、琥珀色の液体が入ったビンを足元から持ち上げた。それを見て、ハウトが片手をひらひらと振ってみせる。
「わかっているって。おまえさんには感謝しているさ」
「しかもフェリシア様だっているでしょう」
ハウトがエフライムを睨んだ。
「その名前は出すな」
「まさかハウト…」
「なんだ」
「フェリシア様とはまだ?」
ハウトが押し黙った。
「彼女はあなたの奥方だと思っていましたが?」
「違う」
「でも、ラオは義理の兄弟って…」
「俺はラオの親父に拾われたんだ。兄弟みたいにして育ってきた。フェリシアとも。まあ、その、今は…フェリシアとは…気持ちは通じていると思う。いや、多分」
「ふーん。確実ではないんだったら、僕にもチャンスがあるわけですね?」
言い辛そうに口ごもるハウトに笑いがこらえられず、思わず笑みを含んだ声でエフライムは返した。ほんのちょっとした悪戯心だ。ところがハウトは、その言葉を聞いたとたんにそらした視線を戻し、エフライムを睨みつけた。
「いくらおまえでも、フェリシアに手を出したら殺す」
「おお、怖い」
エフライムが微笑んだ。
「わかっていますよ」
その声音に、ハウトは自分がからかわれていたことを悟る。思わずため息をつきながら、ハウトはどさりとソファに横になった。そして天井を見ながら、手を頭の後ろにやり落ち着きやすい位置に頭を持っていく。
「いいから、何も言わずに俺を街に連れてけ」
エフライムの喉からくっくっという笑い声がもれてくる。
「そのうちにね」
この三週間、表面上は本当に穏やかな日々と言ってもよかった。
一方、レグラスが乗っ取った城では、新たな秩序が作られつつあった。トゥールは次々と殺してしまった諸侯の代わりのものを決めていく。それは近衛も例外ではない。
「お呼びと聞きました」
ダークブロンドの髪に、ダークブルーの瞳。鼻梁の高い鷲鼻で、つり目気味の男がレグラスとトゥールの前に跪いている。トゥールが口を開く。レグラスは興味がないような雰囲気で、心はここにあらずという状態だ。
「おまえがオージアス・ザモラか」
「はい」
「年は?」
「今年で二十三になります」
跪いたままで、その男、オージアスが答えた。
「顔を上げろ。おまえを近衛隊長に任命する」
オージアスが驚いたように目を見開く。なぜ自分が…という問いが浮かぶ。
「副隊長はおまえが決めろ。レグラス王に忠誠を誓うように」
オージアスはひっかかるものがありつつも、この場をやり過ごすように忠誠の言葉を言う。
「我々は王に忠誠を誓うものです。我らの王に忠誠を」
それはトゥールの望む言葉とは違っていることは分かっていたが、あえて気づかぬふりをして言う。とりあえず合格点をもらったようだ。トゥールが満足げに頷いた。
トゥールとしては、ギルニデムに傾倒していない者を隊長に据えたかっただけだった。ギルニデムは多くの近衛に慕われていた。そんななか、ある程度の経験があり、それでいてギルニデムに対立する立場を取っていたのが、オージアスだと聞いたので任命しただけだった。
「退出を許す」
その言葉を聞いて、オージアスは頭をさらに下げてから謁見の間を立ち去った。その足で、近衛たちがたむろしている酒場に向かう。
ざっとごった返した酒場の中に目を走らせた。いつもよりも人がまばらな気がするのは、気のせいではないだろう。そのおかげで目指す相手は比較的すぐに見つけられた。
ハニーブロンドの髪とひげのがっしりした男の背に後ろから近寄って、肩を軽く叩いた。まるで誰が叩いたかわかっていたような表情で、明るいブルーの瞳が振り返った。見上げる目に笑みが浮かぶ。いつ見てもこの男は楽しそうだ…とオージアスは少し忌々しく思いつつも、声をかけた。
「ユーリー、ちょっと顔を貸してくれ」
「けんかか?」
弾んだ声でユーリーが答える。このご時勢に、もうちょっと何か考えられないのかとも思うが、そういう能天気なところがユーリーの良いところでもあったので、あえて文句は言わずに、それを静かに首を振ることで否定した。がっかりする顔を見る前に、オージアスはユーリーに背を向けて、扉へと歩き始めた。酒場を出たところで、ちらりと振り返ってユーリー以外は誰もついてきていないことを確認する。さらに離れた木陰まで行って、オージアスがようやく力が抜けたようにため息をついて、木の根元に座り込んだ。
「どうした?」
能天気な表情で問い掛けるユーリーを見ながら、オージアスは眉を顰めた。
「俺が近衛隊長だそうだ」
「なんだそりゃ?」
「さあな。副隊長は決めていいそうだから、おまえやれ」
「げっ」
ユーリーがおおげさに嫌がってみせる。
「俺は副隊長って柄じゃないぜ?」
「俺だって隊長って柄じゃない」
ユーリーは大きくため息をつくと、腕を頭の後ろで組んでオージアスの横に座り込む。
「エフライムがいればなぁ。いい副隊長になっただろうさ」
ユーリーの言葉に、オージアスの心は沈みこんだ。人懐っこそうな笑みを持ちながら、その優秀さゆえに重宝がられていた男のことを思い出す。
「あいつだったら、隊長だってやれたさ。だが…生きちゃいないだろうな」
「ああ」
二人して黙り込む。あの日、近衛の当直だった者はほとんど殺された。隊長だったギルニデムでさえ。そしてエフライムは行方知れず。だが行方知れずとされた者の死体が後から見つかっていた。
結局、行方知れずも殺されているのだ。近衛は王に仕えるもの。だから今でも組織は残っている。残っているが…。
「やだやだ。副隊長なんて」
「文句言うな」
「やだよ~やりたくないよ~」
ユーリーが勝手な節をつけて歌いだした。
「おまえ…。おまえが隊長でもいいんだぞ」
ユーリーの歌が止まる。
「俺が推薦してやるぜ? そうしたら一気に隊長だ」
オージアスの目がきらりと光る。それに答えるように、ユーリーが怯えたような表情を作った。それらの動作の一つ一つが、芝居じみていたが、オージアスはじっとその様子を見るだけに留めた。
ねだるような視線をユーリーが送ってくるが、それをオージアスはあえて静かに受け流した。ここで負けてしまっては、元も個もない。そしてとうとうユーリーが大きくため息をついて、空を見上げた。
「わかったよ。やりゃ、いいんだろう? 副隊長」
「そうそう。やってくれ。そうじゃなきゃ、俺だっておかしくなりそうだ」
なぜ自分なのか。オージアスは不思議に思いつつも、思い当たる節が無きにしも非ずだった。よくギルニデムとはぶつかっていたのだ。オージアスからすれば、お互いの理解があるからこその衝突だったのだが、傍目から見れば反ギルニデム派と取られていたのかもしれない。
「とりあえず隊を整えるからな。手伝えよ」
「ああ」
二人はしばらく木の下で、それぞれの思いと共にぼんやりと座りこんでいた。