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ヴィーザル王国物語  作者: 沙羅咲
一角獣の旗
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第1章  反乱(3)

 ようやく一番上が見えてきた。牢屋の格子が開かれていて、若い女性が立っていた。アレスも見覚えがある女性。濃い金髪の柔らかな巻き毛が、肩からゆったりと流れているはずだが、それはしっかりと後ろに結わかれていた。


 男物の服装をしているが、見間違うはずがない。それは父が遠見として重用していた女性、フェリシア。遠く離れた場所を心の目によって見ることができる能力を持つ者。それが遠見だった。


 フェリシアはその遠見たちの間でもかなり強い能力を持っていると聞いたことがある。だからこそ、王に仕えているとも。フェリシアの父もまた遠見で、その血をひいたのだろうと、城の者たちが言っていたのをアレスは思い出した。ルツアも気づいたのだろう。


「フェリシア…」


 ルツアの声が終わるか、終わらないかのうちに、フェリシアは泣きそうな顔になると、ハウトに飛び込むようにして抱きついた。ハウトの返り血も気にせずに、力強く両腕を背中に回して、その胸の中に顔をうずめている。


 ハウトは苦笑いすると、一瞬血で染まった手を見たが、そのままおずおずと両腕でフェリシアを抱きしめた。ハウトの両腕がフェリシアの背中に回ったところで、フェリシアがぱっと顔をあげて、ハウトと視線を合わせる。


「ハウト! よかった…よく無事で…」


「フェリシア」


 その二人の様子に、アレスは思い出していた。


 そうか、フェリシアと一緒にいたところを見たことがあるのだ。だからこの黒髪に覚えがあったのだ…と。人から隠れるように裏庭で語り合っていた二人を見かけたことがあった。


 あまりにも嬉しそうなフェリシアの表情と、まるで見てはいけないものを見てしまったような感覚から、そのときは音を立てないように、そっと二人から離れたのだった。


「おい、俺の香の効果も限りがあるぞ」


 一同があっけにとられるフェリシアとハウトの熱い抱擁の後ろから、冷たい声が響く。皆の視線が、壁にもたれて立っている銀髪で黒尽くめの男に向かった。


 本当に薄いブルーの瞳。この明かりの中では、まるで色素がないような瞳がこちらをじっとみている。そして肩から後ろに流れる長めの銀髪は、無造作に後ろで結わいてあった。


「ラオ。来てくれると思っていたぜ」


 ニヤリと笑ってハウトがフェリシアから離れた。


「礼はフェリシアに言え」


 まるで愛想のない口調で、ラオと呼ばれた男が答える。ふと気づくと、牢番もみな眠りこんでいる。くらりとするような感覚をエフライムが覚えたのを見抜いたのか、ラオがぼそりと言った。


「鼻と口を覆っておけ。倒れるぞ」


 慌てて、一同が袖口で鼻と口を覆うと、フェリシアが身を翻した。


「さあ、こちらへ!」


 フェリシアの金髪が壁に灯された蝋燭の明かりの中でキラキラと光っている。道標としては完璧だった。フェリシアを先頭にして、ハウト、そしてエフライムとアレス、ルツアとラオが続く。


 誰とも会わないことを確信しているように、フェリシアは進んでいった。そして廊下の突き当たりまでいくと、石を動かす。ハウトも手を貸して動かすと、その後ろに、新たな道が見えた。


「こちらよ。はやく」


 またフェリシアが先頭になって導いていく。後ろでラオとルツアが石をもとどおりに閉める音が聞こえた。


フェリシアが用意してきた蜀台の蝋燭に火をつけてハウトに渡す。真っ暗だった通路が何とか見える程度に明るくなる。多分、城の壁の裏側なのだろう。こんな通路があったのか…と誰しも思いながらフェリシアについて、右へ左へと歩いていく。


かなり細かいくもの巣のように道が通してあるようだ。何も知らずに迷い込めば、出ることができないだろう。


大きな岩の前でフェリシアは立ち止まった。ハウトに頷いた。ハウトも頷き返して、蜀台をフェリシアに預ける。エフライムとラオにも視線で促して、三人で岩を動かし始めた。


 ごろんと鈍い音がして、岩の扉が開いた。森の中の湿った空気が鼻に流れこんでくる。そろそろ夜明けなのだろうか、地平線にうっすらとした光が見え始めていた。皆が出て来たところで、また岩の扉を元に戻す。フェリシアが森の方へ身を翻した。


「急いでこちらへ!」


 フェリシアが森の奥に向かって走っていく。続いて森の奥へ奥へと入って行くと、馬が見えた。三頭の馬が木につながれている。


「まずはこれに乗ってください」


 フェリシアが手綱をはずして、一頭をラオに、一頭をエフライムに預ける。ラオは軽々と馬に乗ると、そばにいたルツアに手を差し出した。


 ルツアは一瞬躊躇したようだが、剣も持たぬこの男なら、何かあっても大丈夫だと判断したのだろう。片手に剣を握り締めたまま、ラオの手を借り、後ろに乗り上げた。エフライムはアレスを前に乗せると、ハウトの隣に馬を進めた。ハウトの後ろにフェリシアが乗る。


「このまま山沿いに東へ抜けます」


 フェリシアがはっきりとした口調で言う。


「我々や馬の足跡で追っ手がかかるのでは?」


 エフライムがいぶかしげに言った。フェリシアがにっこりと微笑む。


「あとしばらくもすれば、このあたりは雨になりますわ。牢にあなた方の死体がないことがわかったころには、すべて水で消えて無くなっていることでしょう。さあ、雨に追いつかれないためにも急いで!」


 その言葉が終わらないうちに、ハウトが馬を走らせ始めた。エフライムがアレスに声をかける。


「しっかりつかまっていらしてくださいね! やぁ!」


 馬に声をかけて、ハウトに追いつくように走らせ始める。後ろを見るとラオとルツアの馬も走っていた。かなりのスピードで走っているようだ。森の風景がどんどん変わっていく。


挿絵(By みてみん)


 朝日とともに目に緑が飛び込みはじめる。山道を抜けて、広い平原にでる。青空が広がり始めた。


 そしてアレスは、ルツアもハウトもそしてエフライムも本当に血だらけであることに、改めて気づいた。まだらと言ってもいい。あまりの血の量と、そして昨日見た光景を思い出し、自分の中で突上げてくるものがある。どんどん自分の中に、何かが溜まっていく。


 言ってはいけない。口に出してはいけない。でも、心の中に、頭の中に溜まっていく思い。


 血が見える。ルツアの血。ハウトの血。エフライムの血。そしてギルニデムの血。ふと自分の手と服を見ると、それも血だらけだった。…お父様とお母様の血。首。


「うわーっ!!!」


 いきなり声が出た。何も考えられない。血。血。血。この血が嫌だ! ちがう。こんなの嘘だ。夢だ。違う!


「違う! 違う! こんなの違う!」


 大声が出る。


「暴れないで、アレス様」


 エフライムの声が聞こえた。それでも叫びつづける。疾走する馬の上で、暴れ、叫び続けるアレスを見て、ラオが舌打ちをした。馬のスピードを速めて、エフライムと並ぶ位置までくる。エフライムの馬は、少しずつ速度が落ちている。ラオは片手で胸元から何か布を出すと、アレスの口を覆った。


「何をなさるの!」


 ルツアが止めようと伸ばした手を払いのけて、ラオはアレスの口を覆い続けた。とたんにアレスの目の焦点が合わなくなる。


「一時的に動けなくなるが、大事はない」


 暴れるのが収まったころ、ラオとエフライムの馬は立ち止まった。ハウトも戻ってくる。


「落とせずにいけるか?」


 ハウトの問いを受けて、エフライムは自信なさげに微笑んだ。


「まあ、多分。多少ゆっくり行ってくれると助かります」


 一行は意識のないアレスを落とさないように馬に乗せながら、走りつづけた。そして夜が来て、野宿をすることになる。焚き火の周りに座りながら、お互いに疲れ果てて黙り込んでいたところで、フェリシアが口を開いた。


「目的地まで、あと少しですから」


 そう言って東に見える鬱蒼とした森を指差した。ラオが続ける。


「この先に、俺が夏の間に寝起きしている庵がある。そこなら誰もこないだろう」


 ハウトが一瞬虚を突かれたような顔をしたが、ニヤリと笑い返した。


「なんと。そりゃ、なかなか皆来ないだろうなぁ」


 一言ラオにおかしそうに言うと、ハウトはごろりと焚き火の傍で横になった。エフライムとラオもそれに続き、いつのまにか焚き火の周りは静かになって夜が更けていった。







 森の中は本当に鬱蒼としていた。皆、なんとなくこの方向に行ってしまって良いのか…という不安を漠然と感じていた。今はラオが先頭になって、どんどん暗い方へ、暗い方へと進んで行く。


 木漏れ日が所々に見えるなか、よりいっそう寂しく感じられる方へゆっくりと馬を進めていく。すると、ちょっと開けた場所に小さな庵が見えてきた。その瞬間に重苦しい雰囲気は一層された。


 みな同じ気持ちだったのだろう。一斉に安堵の息を吐く。庵の裏には一応馬小屋もあるらしい。庵の前で、それぞれ馬を降りた。


 もう昼はとっくにすぎていた。ラオの薬の効果は切れたはずだが、疲れからか眠ったままのアレスを腕に抱いたままエフライムは庵の前に立ち尽くした。


 つたが屋根まで覆っている。両側から大きな木が覆い被さるように屋根の上に伸びているので、まるで木の中に庵が建ててあるようだった。


 ハウトが馬をつないでくると、ラオが扉をあけていた。冬の間は誰もいなかったことを証明するように、中に入ってみるとうっすらと埃が溜まっている。すべて閉まっていたよろい戸をあけると、窓から柔らかな陽が差し込んできた。


「ヴァージの館にご招待か。くくく。そりゃあ、いい選択肢だ」


 ハウトの言葉にエフライムとルツアが驚く。ヴァージの館というのは、精霊を操り、魔道によって人々に不幸をもたらすと言われているマギの棲家のことを指すからだ。エフライムも実際にマギに会ったことがないから本当かどうかは知らない。マギは森の奥深くに住み、めったに出てこない。しかもヴァージの館があるといわれる場所は、行った人が戻ってこないとか、記憶を失って帰ってきたと言われることから、恐れられていた。


 フェリシアが奥の部屋より服をもってきて、それぞれに渡しながら言った。


「古着なのですけれど、まずは着替えたほうがよいかと思いますから。裏に沢があります。水はまだ冷たいかもしれませんけれど、どうぞ水浴びをしてきてくださいな」


「ルツア様からどうぞ」


 エフライムがルツアに促した。フェリシアが頷いて、案内するべく腕を伸ばした。


「どうぞこちらへ」






 ルツアが沢から戻ってくるのを待って、ハウトとエフライム、そしてようやく目が覚めてきたが、ぼーっとしたままのアレスが水浴びに向かった。ラオはまだ肌寒い庵の中をあたためるべく、暖炉に火をくべている。そこにフェリシアはルツアが着ていた血だらけの服を放り込んだ。


「もういらないでしょう」


「そうですね」


 二人して燃えていく服を見ていた。そこへハウトたちも戻ってくる。ハウトたちの服も受け取ると、フェリシアは火にくべた。


「もう大丈夫ですよ」


 フェリシアは振り返ると、皆ににっこりと笑った。


「追っ手は来ませんか?」


 エフライムがまだ不安そうに尋ねる。ハウトが暖炉からは離れた位置にあるソファにどさりと身を投げ出しながら答えた。


「しばらくは来ないだろうさ。牢に残っていた死体の半数は首を刎ねておいた」


 その言葉に皆一斉に振り返ってハウトを見た。ハウトは自分の手をじーっと見つめている。うつむいているせいで表情は見えないが、肩が強ばっているのは分かった。


「あの中から、俺達の死体を探し出すにはしばらくかかるだろうよ」


 絞りだすような声を聞いて、フェリシアが静かにハウトの横に座り、その強ばった肩に手を置いた。そのままハウトはフェリシアの肩に頭を預ける。フェリシアはそっと、彼の頭を両腕で抱きしめた。


「ここは普通には来られん」


 暖炉の前でしゃがみこんで、火かき棒をもったままのラオが言った。


「ヴァージの館」


 エフライムが呟いた。


「周りが勝手に呼んでいるだけだ」


 抑揚のない口調で返事をして、ラオはエフライムを見た。


「あなたは…」


 マギなのですか? とエフライムは問おうとして、言葉を止めてしまった。マギ。知識としては知っていても、実際に目にするのは初めてだった。


「ラオは俺の義理の兄弟で、フェリシアの兄貴だ。まあご覧のとおりとっても怪しい奴だな」


 フェリシアの肩に頭を預けたまま、けだるそうな声でハウトが言った。ルツアがラオを見つめる。


「それは否定できないな」


 ラオがまじめな顔で答えた。それを聞いて、フェリシアがくすりと笑いの声を漏らす。


「フェリシア様のお兄様?」


 ルツアの問いにラオは黙って頷いた。兄妹と言っても、フェリシアとラオの年齢はちょっと離れているようだった。むしろハウトとラオの方が年齢的には近そうだ。銀髪のせいで年齢を推し測るのは難しいが、ラオの方がちょっと年上というところか。


 ルツアよりもやや年下ぐらい、ちょうどルツアの弟と同じぐらいの年齢だと思われた。ルツアはまじまじとラオの顔を見、そしてフェリシアを見、アレスを見た。張っていた気が緩んだのか、そのままアレスの横に座り込むと、ルツアは放心したように炎を見つめ、次第に涙を流し始めた。


 その涙を見て、アレスも刺激されたのか、一緒に泣き始める。それを見て、さらにルツアは涙を流し、二人は抱き合うようにして泣き始めた。


 残りは顔を見合わせた。そっとラオが暖炉から離れる。


「何か食事が作れるか、畑を見てこよう」


「私も行きますよ。場合によっては、狩が必要でしょう?」


 エフライムもラオに続いて部屋を出て行く。ハウトもゆっくりと立ち上がった。


「エフライム、俺も…」


 笑顔でハウトの言葉を押し止めて、エフライムはちらりとだけフェリシアを見ると出ていった。


「気を利かせているつもりらしい」


 頭をぽりぽりと掻くと、フェリシアに手を差し伸べる。


「あなたは少し眠るべきだわ。疲れたでしょう?」


 フェリシアがやさしい声で言いながらハウトの手をとり、立ち上がった。


「奥にベッドが用意してあるから、そちらへ」


 そのまま二人はアレスとルツアを残して、奥の部屋に入り、ドアを閉めた。部屋に入るなり、ハウトはまたフェリシアを抱きしめる。華奢な身体を腕で感じながら、ハウトはそこにフェリシアがいることを実感した。ハウトの腕の中で、フェリシアは半分涙目になりながらささやく。


「無事でよかった…」


「フェリシア」


 感情を抑えきれずに、ハウトは唇をフェリシアの唇の上に重ねた。しばらく後、ゆっくりと身体を離しながらフェリシアはハウトをベッドのほうに促す。


「本当に眠ったほうがいいわ。どうせ寝たフリをしながら、一睡もしていないのでしょう?」


 その言葉を聞いて、ハウトは苦笑いをする。


「おまえには隠し事ができないな。ま、多少は寝たさ。エフライムがいたからな」


 そしておとなしくベッドに横になった。天井を見上げたままハウトはぽつりと言う。


「だが…どうやって生き延びるかは、考えていたさ。かなりやばい状況なのはわかっていたからな。ま、それでもおまえが来ると思っていたし、万が一、おまえが来ない場合の逃げる手も考えては、あったけどな」


 ハウトはいたずらっぽくフェリシアに笑って見せる。フェリシアもそれに答えて微かに笑みを浮かべた。しかしその微笑はすぐに消え失せた。


「でも、なぜあなたまで。あなたはただの傭兵だったはず」


「わからん」


 フェリシアはベッドサイドにひざまずくと、ハウトの黒い瞳を見ながら片手を掴んだ。その手をそのまま自分の頬に持っていく。フェリシアの目は少し潤んでいる。


「でもあなたは帰ってきたわ。私の腕の中に。あなたがあの場所にいると知ったとき、本当に生きた心地がしなかった。ラオに連絡をとって、急いであの場所に向かったのよ」


 ハウトは自由になる方の腕をあげて、フェリシアの頭をやさしくなでた。


「おかげで助かった。おまえこそよく逃げ出せたな」


 フェリシアの視線がふっとそれる。


「わかったの。感じたの。でも、誰も助けられなかった。自分が逃げるのに精一杯で。ごめんなさい…」


 こらえていた涙がこぼれ始める。最後の謝罪の言葉は、救い出せずに亡くなってしまった人たちへの言葉だった。ハウトはそっとフェリシアの涙をふき取ると、頬に触れた。フェリシアの視線が戻ってくる。


「いいさ。おまえは助かって、そして俺を助けてくれた。十分だ」


 ふぅーっと大きな息を吐くと、ハウトは目をつぶった。フェリシアがやさしくキスをする。


「お休みなさい」


 そしてドアの閉まる音がしたとき、ハウトはもう半分眠りこんでいた。







 ハウトの目が覚めたとき、横に何かいるのに気がついた。アレスがハウトに寄り添うように眠っている。普段だったらいくら殺気が無くとも誰かが来たら気づくのに、ラオの家ということで、よっぽど気を許してしまったらしい。


(俺としたことが…)


 苦笑いしながら起き上がると、ドアの向こうから良い匂いがしてくる。アレスを起こさないように、そっとベッドを抜けるとドアを開けた。暖炉の前にはささやかながら夕食の用意がされていた。


「目が覚めたのね。ハウト」


 フェリシアが声をかけてくる。


「食事の匂いで起きてくるとは、さすがですね」


 ひとなつっこい緑の瞳を輝かせながら、からかうようにエフライムも笑いかけた。


「おっ、もう一人、匂いで起きてきた方がいらっしゃいましたよ」


 エフライムが楽しそうに続ける。アレスも起きてきたのだ。ルツアがスープを器に取り分け始めた。


「エフライムの狩りの腕が役立って、ウサギのスープですよ」


 ルツアはアレスににっこりと微笑んだ。先ほどまで身も世もないように全身を震わせて泣いていたのが嘘のようだ。まだその目元は赤かったけれど、いまは普通の食卓を用意する乳母の役目に徹していた。思い思いにルツアからスープを受け取り、テーブルから一切れのパンをとると、一同は食事を始めた。すっきりとした味のスープは、久しぶりの食事にちょうど良かった。食べ終わった後、なぜか胃のあたりがすっとする。ハウトが意味ありげにラオを見たが、ラオは知らぬふりをしていた。


 食事の後は、それぞれベッドや椅子に寝そべって、眠ることにした。何しろ本来であれば、ラオとせいぜいフェリシアが来るぐらいの庵なのだ。ベッドが足りるわけがない。そこで適当に長椅子やソファで眠るという形に落ち着いた。






 アレスは夜中にふと目が覚めた。隣ではハウトが眠っている。小さいから長椅子でも何でも良いと言ったのに、皆からベッドを譲ってもらったのだ。ハウトと一緒ではあったけれど…。ハウトを起こさないようにベッドを抜け出すと、居間に行った。エフライムが窓から月を見ている。細い細い三日月。まるで空に飾りつけたようだ。


「エフライム?」


 ひそかな声にエフライムは振り返り、アレスだと気づくと、にっこりと微笑んでくれた。


「どうされました? こんな時間に。アレス様?」


 アレスは答えず、エフライムの隣に立った。


「あのね。エフライム」


「はい?」


「僕のこと名前で呼んで欲しいの。様をつけないで欲しいの。敬語もいらない」


 その言葉に怪訝そうな顔をして、エフライムはアレスを見た。アレスの顔がうつむき加減になる。


「バルドルが…前の前の国務大臣…というよりも僕の教育係だけれど。バルドルが言っていた。『何もできないものは、尊敬される資格はありません』って。僕は何もできなかった。エフライムが、ルツアが、ハウトが、血まみれになって僕を守ってくれるときに、僕は…、僕は…」


 涙声になってしまって、後が出てこない。あの牢の中でアレスもわかっていたのだ。ここで三人に見捨てられたら、自分は生きていられないということを。あんなにも大勢の人間が殺意を剥き出しにして、この幼いアレスを狙ってきていたということを。


「アレス様…」


 アレスが首を振る。


「アレスでいい。僕には尊敬される資格はないもの…」


「アレス様…」


「アレスでいい」


「殿下」


「アレスだってば!」


 癇癪を起こしたように、アレスが強い口調で言う。エフライムは、しゃがみこんでアレスの目線に合わせると、アレスの瞳を見て言った。


「アレスさ…」


「アレス!」


 エフライムは諦めたように首を振った。


「分かりました。アレス。強くなりなさい。もっと強く。あなたはいずれお父様の国を継ぐのですから」


「エフライム?」


 エフライムの緑の眼がアレスをまっすぐに見ている。吸い込まれるような瞳だった。


「きっとレグラスは国を傾けるでしょう。名誉や名前だけで動かせるほど簡単な国ではないのですよ。ヴィーザル王国は。あなたのお父様やお祖父様の努力の賜物なのですから」


 それはとても強い、引き込まれるような視線。


「強くなりなさい。そして王国を取り戻しなさい」


 アレスはエフライムの視線を外せずに、じっと見つめていた。


「アレス。私は戦う者です」


 唐突な言葉にアレスが不思議そうな顔をする。それには答えずにエフライムは続けた。


「王をお守りするのが私の勤めでした。しかしグリトニル王は守れなかった…。だからあなたは私が命に代えてもお守りします。そして私がお教え出来る事は、すべて教えましょう。その証に今日、このときからあなたをアレスと呼びましょう。あなたの命に従って。敬称はつけません」


「エフライム…」


 ふっと、エフライムの視線が緩んだ。痛いほど強い眼差しで見つめられていたことに、アレスは初めて気づいた。


「さぁ、もう今日は眠りなさい。大丈夫、眠れますよ」


 にっこりと微笑んだエフライムの瞳を受けて、アレスはふらっとするのを感じた。急に眠気が押し寄せてくる。眠い…。ふらふらとベッドに向かうアレスの後ろ姿を、エフライムは笑みの消えた目で見ていた。


 泣きそうな気持ちになりながら月を見る。自分に支えられるのだろうか、この時期、この事態を。だがやらなければ。エフライムの脳裏にはるか昔に死んだ妹と母親の面影がよぎる。そして赤毛の男の姿が浮かんだ。


「ギルニデム様…」


 彼の上司でもあり、尊敬する先輩でもあった人の名前を呼んでみる。彼がいたらどう動いていただろうか。


 自分が生き残る為であれば、非情なこともやむをえない。そうやって生きてきた。だから…あの牢獄で、トゥールの声がしたときに、部屋の隅にいた文官に代わりに行かせた。助かるぞと声をかけて。本当は知っていた。助かるはずがない。トゥールには助ける気はない。みすみす死地に行かせることは分かっていた。だが、誰かが行かなければ皆殺しだった。だから行かせた。耳元でささやいた。「あなたがやったと言えば…助かりますよ」と。


 そんな自分に、ここにいる資格があるのだろうか。


 考えても仕方がないことだ。頭を振って、自分の思いを打ち消した。


「アレス王子は、あなたに代わってお守りします。ルツア様も…」


 月に向かってエフライムは呟いた。





イラスト:青魚 様

 

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