第1章 反乱(2)
ふと涙の跡がついているような気がして、手でごしごしと頬をこすった。そして、おずおずとハウトを避ける形でエフライムの横に座り込む。エフライムはアレスにちらりと視線をやっただけだった。
「えーっと、エフライムさん?」
「エフライムとお呼びください。アレス様」
顔は正面を向いたままで、エフライムは答えた。名前を言い当てられて、アレスはびっくりする。
「僕のこと知っているの?」
「私は近衛ですから。お顔は存じて上げております」
ルツアたちを起こさないようにか、注目されないようにか、ひそやかな声が返ってきた。場にそぐわぬのんきな調子で、エフライムは答える。
なんでもいいから話したいと思う反面、いったい何を話したらいいんだろうと、アレスは考えていた。頭の中からは、父と母の最期の姿が離れない。でも声に出すと本当のことになってしまいそうで、実感をもってその光景が蘇ってくるような気がして、その話をするのは嫌だった。
「ルツアのことを知っているの?」
「ルツア様のご主人は近衛隊長殿ですから存じ上げております。ギルニデム様には眼をかけていただきました。特に私が近衛で新任の小隊長になったばかりのころには、小隊長の心得を聞きに、お屋敷までよく遊びに行ったものです」
エフライムはホールの方から視線をはずさない。アレスもその方向をみると、あちらこちらで小さなグループができていて、こそこそと話し合っていた。
皆、着の身着のまま放り込まれたようだ。寝巻き姿の者もいれば、正装して帯刀している者もいる。
ふとエフライムとハウトに目をやると二人とも剣を腰に提げていた。ハウトにいたっては、腰の周りになんだか布で包まれた物も巻きついていた。
「なんでみんなここにいるんだろう…」
独り言のように、アレスは疑問を口に出してみた。答えは期待していなかったが、しかしエフライムからは確信のこもった声が返ってきた。
「御しにくい人たちでしょう。まあ、なりゆきで入れられた人もいるみたいですけれど」
後半は付け加えるように言って、ちらりとハウトの方に視線をやる。アレスは驚いて、エフライムを見た。
「だからもうひと波乱くるんです。きっと奴らは我々を無事に出そうとは思っていないでしょう」
先ほどよりはくだけた調子で、しかし、いっそう声をひそめてエフライムは答えた。
「でなければ、帯刀したまま、すべてを持ったまま、牢に入れたりしない。出す気がないからですよ。ここは自然の牢獄です。窓はあいているけれど、断崖絶壁。出口までは長く険しい階段が続くから、脱走しようとしても、登っていくうちに、上から射かけられて殺されるでしょう。歴代でここに入れられた者は、窓から飛び降りるか、射かけられるか、または餓死か。そんなところです」
はき捨てるように言う声を聞いて、アレスは身体が震えてくるのを感じた。
「おいおい。あんまり子供を驚かすな。エフライム」
寝ていたはずのハウトがのんびりとした声をかけてくる。
「寝ていたんじゃないんですか? ハウト」
「声がうるさくてな」
片目だけ開いて笑ってから、寝転んだままの姿勢でハウトはアレスのことを見つめる位置に顔を動かした。両方の目で見つめられる。漆黒の髪と漆黒の瞳だ。吸い込まれるような視線をアレスは感じた。ハウトの表情が厳しくなる。
「生き残りたかったら、無駄なエネルギーは使わないことだ。まず力を蓄えなければ生き残れない。」
アレスはじっとハウトの瞳を見返した。漆黒の眼は生きようとする意思があふれる強い瞳だった。そのハウトの表情がまた緩む。にやりとアレスに癖のある笑いを見せた。
「階段から降りてきたのが誰だか分かった瞬間に、エフライムがおまえさんたちを助けたいって、そりゃうるさくてな。だから俺もおまえさんを助ける方に加わるさ。俺に義理はないんだが、エフライムには借りがあるから、ここらで返しておこうというわけだ」
「そうそう。ようやく返してもらえるんですよ。貸してばっかりで、ちっとも返してもらえなかったですからね」
エフライムもニヤリと笑って、一瞬だけハウトを見ると、また元のようにホールを見る姿に戻ってしまった。
「そりゃあ、返すさ。俺は律儀な男だぜ」
「どうだか」
笑いの含んだ声だけが返ってくる。すっとハウトの目に強い光が宿る。
「ひと波乱さえ抜けられれば、きっと勝機はあるぞ。エフライム」
エフライムは振り返ってハウトを見た。視線が合う。
「あなたがそういうなら。賭けてみましょう」
「おまえも俺に賭けるなら、この賭けは俺達の勝ちだな」
ふふっと笑って、ハウトはそのまま目を閉じた。その様子を見てからエフライムはアレスに微笑した。緑色の瞳にひとなつっこそうな表情が浮かぶ。
「さあ、彼の言うとおり、とりあえず少しだけでもお休みください。大丈夫ですよ。この男がああ言うからには、何か当てがあるんでしょう」
エフライムの声に促されて、アレスは壁際のルツアの隣に戻ってくると、そのままルツアに寄りかかって寝ようと努力した。彼らはよくわからないけれど、とりあえず守ってくれそうだし、何よりもルツアがそばにいることが安心できた。
まだ眠るには神経が高ぶりすぎていたけれど、まずは眠っているふりだけでもしたほうがいいと、幼いながらに判断したのだった。
アレスは喉が渇いて目が覚めた。もう昼過ぎぐらいだろうか。横穴から差し込む光が強かった。アレスの動きに気づいたようにハウトが振り返る。眠っているふりをしているはずが、いつのまにか眠ってしまい、眠りこんでいる間に見張りは交代したらしい。
さきほどハウトが寝転んでいた位置でエフライムが寝ていて、ハウトがそれを背にして座り込んでいた。アレスはお腹がすいていることにも気づいた。最後に食事をしてからどれぐらいの時間がたっているのだろう。
ふとみるとルツアも目を覚ましていたようだ。アレスのことを見ていた。ハウトが後ろ手になにか押しやってくる。銀色をした水筒のようだった。
「周りに見つからないように飲め。一口だけな」
ひそやかな声が返ってくる。言われるままに、ハウトの背に隠れるようにして、そっと飲んだ。のどに生ぬるい水が入ってくる。本当はもっと飲みたいところを、そのまま返した。後ろ手に受け取って、ハウトは腰の周りに結び付けていた布の下にそれを隠した。
そして夕方になり、夜になる。星だけの暗闇の中で、うとうとしながらじっと待っていると夜が明けて、朝が来た。
その間、水も食料も一切与えられない。ハウトが持っていた水筒の水だけが頼りだった。それももう残りが少なくなっている。牢獄のあちこちでうめくような声が聞こえはじめる。そしてまた夜が来た。
ガシャンと扉があくような音がした。それと同時に上から何か降ってくるような音がする。何事かと目を覚ましたエフライムと共にハウトが立ち上がった。目の前に重い音がして何かが落ちてきた。ガチャーンという大きな音が響き渡る。ルツアも立ち上がった。そこに上から声が降ってきた。
「囚人ども。剣をとれ!」
はっとした表情で、エフライムとハウトがお互いを見る。そこに、また声が振ってきた。
「おまえたちの中に、先の王、グリトニルの息子、アレスがいるようだ」
冷たい笑いを含んだ声が振ってくる。一人残った裏切り者の大臣、トゥールの声だった。
「アレスの首を持ってきたら、ここから出してやろう。それ以外は、このまま飢え死にか、自害をするがいい」
その声を聞いたとたんに、ルツアが剣の束に走り寄った。剣を一本抜く。そして、それをまだ事態が把握できずに動けないでいる他の囚人たちに向けて突きつけると、はっきりとした声で言い放った。
「アレス様に手をかけるものは、私が許しませんよ! 私の命に賭けてもお守りします。この剣の山には誰一人として触れさせないわ!」
くくくと、上からトゥールの笑い声が降ってくる。
「勇ましいことですな。ルツア様。しかし多勢に無勢ですぞ。しかもあなたはか弱い女性だ。水も食べ物も何もないこの牢獄の中で、皆が出たがっているのですよ。アレスの首さえ差し出せば出られるのですからな。それをよく考えることです。いくらがんばっても水がなければ、そうそう長くは生きられない。女子供を手にかけて助かるのであれば、そのほうを選ぶのでは?」
再び冷たい笑い声が降ってくる。囚人たちの目がルツアとそしてアレスに集まった。
「そ、そうだ…。俺はここにいるのは嫌だ…」
ぶつぶつとした呟き声が聞こえたかと思うと、うぉーとも、やぁーともつかない声がして、ルツアの脇を抜けようとした武官がいた。もともと帯刀していた剣を握っている。その首筋に向かってルツアは剣を降ろした。赤い液体が吹き出し、その男の身体は倒れて動かなくなった。ルツアの見事な剣さばきにハウトは目を見張った。
「やるねぇ」
ルツアを見つめつつ、感嘆の声をあげる。エフライムが答える。
「ギルニデム様が教えていらっしゃいましたからね。私も一回お相手をしたことがありますが、なかなか」
その言葉に、ハウトはニヤリと嗤うと、足を踏み出す。
「エフライム。坊主は任せたぞ」
ハウトが剣を構えてルツアの左側に立った。手首を返して剣の動きを確認するかのようにくるりと剣を回すと、もう一度構えなおす。
「了解」
エフライムは短く返答すると、空気のかすかな動きと共に身体の前に剣を構えて、アレスの前に移動してきた。背中を向けている三人以外の目は、すべてアレスに向けられている。多勢に無勢なのだ。
アレスを殺せば逃げられる……そうトゥールは言った。最初の一撃で、みな水を打ったようにシーンとなっている。ルツアが剣を使えることを見てしまって、躊躇しているのだ。そこにまたトゥールの声が振ってきた。
「皆でかかれば、ひとたまりもあるまい…」
視線を交わす動きが見られる。じりじりと、右端から動いてくるのが見えた。じわじわとそれぞれの壁際から動いてくるのが見える。しかしルツアは剣の山から動こうとはしなかった。ハウトはその横で左手に剣を構えたまま、右手でもう一本剣を山から引き抜いて握った。
その瞬間はきた。じりじりと進んできたものが、一斉にルツアとハウトに襲いかかる。いや、脇を抜けようとするものに、ハウトとルツアが襲いかかっているのだ。
ルツアは見事な剣さばきで次々と男たちを倒していった。その動きはまるで踊っているようだった。長いスカートが舞う中で、血しぶきが次々とあがっていく。
一方のハウトも相当な使い手のようだった。両手に構えた剣が次々としなるたびに人が倒れていく。ぶんという剣が空を裂く音が響き渡り、そのたびに赤い飛沫が上がる。
襲撃者は、この二人をうまく抜いても、エフライムがその後ろに立ちはだかった。すでにちょっとした死体の山が築かれつつある。
エフライムは確実に相手の致命的な個所を突いていた。頚動脈を切り、心臓を刺す。あまり派手な動きでは無いが、その攻撃箇所が的確で、いつの間に剣が動いたのかと思う速さで仕留めていく。
アレスは壁の前で頭を抱えて座り込み、震えていた。見たくないのに、目が離せない。ルツア、ハウト、そしてエフライムの三人に返り血が掛かっていくのを、震えながら見ていた。
足に、手に、震えがくる。涙が出てくる。人が切られていく音が怖い。涙と鼻水が出てぐしゃぐしゃになりながら、エフライムの背中を見ながら震えている。声が出てしまいそうになるのを必死で堪える。
ふいに近くから声が聞こえた。
「覚悟!」
アレスの目の前に来た男が剣を突き出そうとする。アレスは息を呑んだ。悲鳴をあげたくても上げられない。喉が締め付けられたように声が出ないのだ。その刹那、エフライムの剣がきらめいた。男の目は一瞬にして色を無くしていく。胸にはエフライムの剣が突き刺さっていた。難なく剣を抜いて、エフライムが再び構える。
「アレス様、ご用心ください。あの二人がいくら強くても、多勢に無勢なのですから!」
背中を向けたままエフライムが早口で言った。アレスはエフライムの背中を見つめた。ふと横をみると、にじり寄ってくるものがいる。どうやら先に死んだものたちを隠れ蓑にして匍匐前進しながら、ルツアとハウトの剣を抜けたらしい。
「エ、エフライム! 左!」
アレスは指差しながらエフライムに叫んだ。いや、叫んだつもりだった。喉からはかろうじて息のような、情けない音が出た。それでもエフライムには聞こえたようだった。にじり寄った男の方に振り返る。
男が身体を起こしてきりつけようとする間際だった。シュッと風切り音がして、その首に剣が突き刺さる。
飛んできたほうを見ると、ハウトが死体の山の中から剣を投げたポーズのまま止まっていた。首に剣を受けた男は、そのまま前に倒れた。目を見開いてアレスを見たまま、ゆっくりと倒れていく。目の光が失われていく光景に耐え切れずに目を逸らした。
ホールに視線を移すと、ルツアが最後だと思われる男の胸から剣を抜くのが見えた。
そのまま周りを見回すと、残るのは文官と思われる二人の男が壁際で震えているだけで、後はすべて床に血を流して倒れていた。そして立っている三人は、返り血を盛大に浴びてしまって、真っ赤に染まっていた。
「さぁ、誰が首を持ってくるのだ?」
戦いが終わったことを察知したようにトゥールの声が響く。上からでは様子が見えないので、どのように決着がついたのかわからなかったのだろう。
ついっとエフライムが動いた。手近にあったアレスのように茶色の髪を持つ、小柄な男の死体を起こすと、その首を剣でなぎ払う。冷たく凍りついたようなエフライムの横顔が見える。
アレスは思わず視線をそらした。そしてエフライムは、そのまま壁際で震えて座り込んでいる男のところへ歩いて行った。肩に手をかける。びくっとして、蒼白な顔とおびえた目でその男はエフライムの緑の瞳を見た。
エフライムが何事かその男の耳元にささやいている。さらに男の視線にあわせるようにしてしゃがみ込み、頷いた。手にしている血だらけの首を震えている男に押し付けて立たせると、階段のほうへ押しやった。
男はふらふらとまるで催眠術にかかったようにして、階段を登っていく。しばらく経って、上の方から歯の根が合わぬような声が聞こえてきた。
「わ、わ、わたしが、こ、ころ、ころし…」
全部言い終わらないうちに、トゥールの声がする。
「そうか! よくやった。約束どおりここから出してやろう」
牢に残ったほうの文官が、その声に反応して上に目をやり、うらやましげな、あさましげな、そんな表情になった瞬間だった。何かが上から落ちてくる音がした。びしゃっ…と嫌な音がして、血と肉が飛び散る。先ほど上っていった文官の首だった。
「ひーっ」
残ったほうの文官の目が首にくぎ付けになる。トゥールの声が降ってくる。
「身体は出してやろう。ははは…。命を残してやるとは言ってないからな」
生き残った文官の目が遠くなった。顔から表情が消えると、そのまま爆発するように笑い始める。恐ろしいほどにゆがんだ顔で、笑いつづけている。ルツアが身を翻すとアレスの前に戻ってきて、とっさにアレスを抱きしめて視界をさえぎった。
「ははは…ははは…ぎゃあははは…・」
笑いながらぐるぐる回り始めたと思うと、ぽっかりとあいた窓の方に走り出す。闇の帳に、星明りでシルエットが映し出される。両腕を振り回して、ぐるぐる回りながら窓へ、窓へと近づいていく姿が見えている。
アレスから見えないのは幸いだった。見たくもなかった。本当は声も聞きたくない。だが、身体が硬直したように動かなかった。耳を覆うこともできずにいた。
「ぎゃははは…。うぁはははは・・」
そしてそのまま、その文官は窓から下へと落ちていった。静寂が戻ってきた。
「誰か残っているか?」
トゥールの声が響く。ハウトは指を立てて唇に当てている。声を出さないようにということだ。ルツアも心得たように頷いた。
「終わったな。明日の朝になったら片付けろ。もしも残っている者がいたら全員殺せ!」
トゥールの声が聞こえ、足音が去っていった。そして上から聞こえてくる音はしなくなった。代わりに強くなった風が牢の中に入り込み、風の音が響きわたる。わんわんと自然の洞窟でもある牢には音が響き渡りつづけた。
ハウトがふらふらとアレスのところに戻ってきた。そしてエフライムも。ルツアはアレスを見ると無理して微笑み、そして血だらけの腕で抱きしめた。アレスもぎゅっとルツアに抱きつき返す。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていることに気づいて、顔を拭きたいと思ったが、適当なものが見つからない。仕方なく袖口で顔をぬぐった。エフライムがアレスの横に座り込んだ。
「それで、このあとの首尾は?」
エフライムは、まだ立ったままのハウトを見上げながら言った。ハウトもエフライムの隣に座り込む。
「待ちだ」
「待ち?」
怪訝な顔をして、エフライムがハウトを見る。
「夜明けまでは、まだ時間がある。闇にまぎれて…。今晩中には来てくれないとな…」
独り言のように呟くと、ハウトはエフライムから視線をはずした。そして剣を近くの死体が着ている服で拭う。アレスは思わず見咎めるような視線を送ってしまったのだろう。それに気づくと、ハウトはまじめな顔になった。
「きちんと手入れしておかないと、次に使えないからな」
次があるのだろうか…。まじめな視線に耐え切れずにアレスは目をそらす。同じようにして、エフライムもそしてルツアでさえも剣の血のりを取っていた。ルツアはその剣を持っていくつもりなのだろうか。
ふらりとハウトが立ち上がると、死体の中から剣を二、三本拾い上げて、見比べてから一振りすると、一本を選ぶ。その剣の血を丁寧にふき取ってから、やはり落ちていた鞘を拾ってそれに収めた。そしてルツアの前にその剣を差し出す。
「戦いの女神フレイム様に」
ルツアはちょっと驚いたような顔をしたが、疲れた表情にもなんとか笑顔を浮かべてハウトからその剣を受け取って、胸に抱きしめた。そのルツアを見たあと、ハウトはそばまで来ていた死体の服を剥しにかかる。
「何をしているんです?」
エフライムが尋ねても黙っている。そして上下一式脱がすとルツアに渡した。
「私の服をここに残す必要があるということですね?」
ルツアが服を受け取りながら答えた。ハウトは黙って頷く。
「わかりました。着替えます」
ルツアは、何も文句を言わずに、すっと服を脱ぎ始めたのを見て、ハウトもエフライムも慌ててあらぬ方向をむく。
「どうぞ」
脱いだ服をハウトに渡したルツアは、少し大きめの男の服を着ていた。首から肩にかけて、かなりの血がついているが、それは仕方がない。もともと着ていたルツアの服も同じようなものだった。ハウトは受け取った服を、こんどは死んだ男に着せていく。着せ終わるとアレスの方を向いた。
「あんまり子供に見せたい光景じゃないからな。目をつむっていろよ。俺も本意じゃないんだが、追っ手を少しでも遅くするためには仕方がない」
そういうと、疲れた身体を引きずって、死体の山の方へ向かっていく。何をしているのかと思えば、剣を振るう音がかすかに聞こえてきた。多分、上には風の音にまぎれて聞こえないだろう。そして、ごつごつという音も。エフライムはハウトが何をしているか気づいて、アレスに見せないように、アレスの視線をさえぎるように、目線を合わせてきた。
「さあ、緊張してお疲れになられたでしょう。少し目を閉じていらっしゃってください。私とルツア様でお守りいたしますから」
ルツアもアレスを抱きしめた。ルツアの服からは、知らぬものの匂いがしていた。
暗いことは幸いだった。しばらくすると、かなりの血をあびたのだろう。文字どおり滴らせながら、ハウトが壁際に戻ってきた。血のにおいは鼻に触ったが、あまりよく見えない。またその向こうにあるはずの死体は輪郭しか見えなかった。死に顔を見なくてすむのは助かる。
アレスはどこか気持ちが壊れてしまっているのを感じた。あまりの衝撃に、逆に感情が消えてしまっているようだった。皆そうなのだろうか。剣を抱いたままルツアも呆然としたような様子で押し黙ったままだ。そして、ハウトもエフライムも。
どのぐらいじっとしていただろうか。どこからか不思議な香りがしてきた。それに気づいたのか、ハウトの顔が明るくなり上を見上げた。
呼応するように上からひそめるような静かな声が降ってくる。静かだが、はっきりと通るその声は、女性の声だった。
「ハウト。 聞こえる?」
ハウトが立ち上がった。エフライムも続いて立ち上がる。
「聞こえる」
静かだがはっきりとそういうと、ルツアとアレスを立ち上がらせて、階段のほうへ向かい始めた。ルツアが死体の山をアレスに見せないように、身体で視界をさえぎりながらハウトに従う。そしてエフライムも。
「お迎えがきたようだぜ。さあ、行こう!」
ハウトがそういって、階段を上り始めた。長い階段だ。降りるのも大変だったが、上るのはもっと大変だった。エフライムがアレスの脇にいて支えてくれる。そして足元に気をつけながら上っていった。
「下をご覧になっては駄目ですよ。アレス様」
エフライムの声にアレスは頷いた。下に見えるもの、それは奈落の底と横たわる死体なのだ。まだ星明かりだからはっきりとは見えないだろう。しかし、それでも…。