いつの日か(10)
「お前さんにはセレーネの身の回りの世話をしてもらおうと思っておってな」
突然出てきた副総司教の名前に、リーザは目を見開いた。セレーネ・シャイン。名前だけは知っている。総司教同様、雲の上の人だ。女神のように美しいということと、目が不自由ということを神官たちの噂から聞いていた。
「下手なしがらみがない者が良い。性格は素直な者。年は問わない。そして出すぎない者が良い」
条件を並べながら最初に握られたイエフの指が順番に広げられていくのを、リーザはじっと見つめていた。大きいが年齢を感じさせる皺と節がある指が、親指から順番に広がっていく。小指を残して指が止まる。
「この大神殿にも、それなりに良さそうな者はおるが、皆優秀すぎる。それゆえに、少しばかり自意識が強いというか、『自分が』『自分が』と出ていくものが多くてな。ちーっとばかり、わしが望んでいる者とは遠いのじゃ」
そういう意味で言えば、リーザは条件に当てはまるだろう。我知らずリーザの瞳に力が宿る。
「あの…私でお役に立てますでしょうか」
「立ってもらわねば困るのお」
おずおずと口にしたリーザに、ひょうひょうとした態度で総司教は答えた。
「あの子が疲れたときには茶を淹れてやって、愚痴の一つでも聞いてやってくれたらそれでいいのじゃ。わしには立場上、こぼしにくいこともあるじゃるろうて」
それだけでいいのだろうか。そう問おうとした時だった。
「一つ覚えておいてほしいことがあるんじゃが」
イエフがリーザの視線に合わすように、体を屈めたかと思うと、そのまま耳元へと顔を近づけた。
「セレーネが漏らした愚痴は外へは出さぬこと。傍にいることで知るどんな情報を、誰にも話さぬこと」
突き刺さるような声音に、とっさに反応した。
「言いません! 絶対に。誰にも」
ふさりと衣擦れの音がしたかと思うと、頭の上に温かいものが置かれた。老人の大きな節くれだった手がリーザの頭を撫でていた。
「よい子じゃ。さすがは陛下が気にかけていた子じゃ」
その言葉に、ふわりと心が温かくなる気がする。
「アレス…陛下が?」
気安いころのまま呼び捨てにしそうになって、辛うじて敬称を付けた。それに気づかなかったかのようにリーザを咎めることなく、イエフは深く頷く。
「そうじゃ。今までに何度か尋ねられたぞ。リーザは元気かと。さすがに直接会いに行くには、ちと身分が邪魔して難しかったようじゃが」
今もアレスは自分のことを気にかけてくれている。あの苦しい日々の中で、唯一の救いであった彼が、今も見守ってくれている。そう思うと気分が高揚し、頬が熱くなるのをリーザは感じた。
「ここにおれば、いつかは陛下と会えるかもしれんのぉ」
「陛下に…」
「そのためには、しっかりと務めることじゃな」
「はいっ」
リーザは顔をあげて、しっかりと返事をした。いつかまた会えるかもしれない。もう雲の上の人だけれど。その希望がリーザの心に小さな火を灯したのだった。
セレーネの傍にいる生活は穏やかとは言い難かった。大神殿にいるものたちは優秀なものばかり。その中で聖歌の音程を間違えることもあり、聖句の暗唱も覚束ないリーザは水面下で冷たくされることも多かった。さすがにセレーネの傍にいるリーザに対して、表立って馬鹿にしたり蔑んだりするものはいない。
しかし彼女に聞こえないところで「何か音を外していらした方いらっしゃったような気がしましたが」「まさか。この大神殿で」という会話が聞えよがしにされることは日常茶飯事だった。それならと声を小さくして歌えば「聖歌を歌わないなど、神々への冒涜ですね」と、リーザがいる場所で言われたりする。そんなときには唇を噛みしめて黙り込むしかない。
聖歌も聖句も練習していないわけではない。それでも大神殿にいる者達のようにできないものはできないのだ。悔しい思いをして、セレーネの身の回りの世話が終わり、自室に戻ってから毎晩暗唱をした。それでも覚えられない。何度となく歌う聖歌なのに、それでも音程が外れる。情けなくなるがそれが現実だった。半年経ち、一年経ち、自分よりも後に大神殿に来たものが、軽々と自分ができないことをやってみせる。
しかしリーザはセレーネの前では、何でもないふりをして笑顔をみせた。セレーネはセレーネで別な問題を抱えていたからだ。彼女は副総司教と持ち上げられつつも、お飾り的に扱われることに心を痛めていた。しかもそれを正面切って訴えることもできない。表面上では綺麗なことを述べていても、大神殿にいる多くのものたちにとって、男性であり老齢であることは権威と同義と言ってもよかった。それを女性の神官たちも容認する。
リーザにはセレーネに対して、彼女を慰めるような気の利いた言葉をかけることはできなかった。落ち込んでいるときにお茶を出すのが精いっぱいの慰めだった。
そんな大神殿の中でイエフ・シャインはセレーネの一番の理解者といえるだろう。しかし数年後、そのイエフ・シャイン総司教が亡くなった。イエフの亡骸に縋りついて涙を流すセレーネを傍で支えながら、リーザは自分が、そしてセレーネがこの後、どうなっていくのか想像もできず、ただただ悲嘆に暮れるだけだった。
ヴィーザル王国物語 ~外伝:いつの日か~
The End




