第2章 覚醒(4)
翌朝、マリアはベッドを見て血の気が引いた。眠っているはずのアレスがいなかったからだ。長旅と途中の夜中の防護で、すっかり疲れきっていたこともあって、思わず居眠りをしてしまった。普段ではありえない失態だ。
「おはようございます」
交代するために静かに入ってきたライサを見て、マリアは駆け寄る。
「陛下が…陛下がいらっしゃらなくて」
部屋の中にもアレスの姿が見えないことを確認すると、ライサは駆け出そうとした。その手をマリアが捕まえる。
「待って。どこへ行くの」
「バース様にご報告を」
口に出してから、エフライムが重症だったことが思い出される。ライサはますます青くなって、おろおろとした。
「まずはラオのところへ行きましょう。彼なら見つけられるわ」
「そ、そうですね。…でも、ラ…クレテリス候はどちらへいらっしゃるか…」
「病人のところでしょう」
口にしてからマリアは気づいた。結局エフライムがいる場所に行くのには変わりない。
「では、すぐに」
ライサがくるりと振り返って、部屋を出ようとしたところで、誰かにぶつかった。
「あ、いた」
鼻をぶつけて、思わず泣きそうになる。すでに低めの鼻でもこれ以上低くなったから困る。
「す、すみません」
目の前に立っていたのは、ここへ来たときに案内してくれた護衛官のボリースだった。その腕にアレスが抱えられている。
「陛下っ」
顔色を変えて駆け寄ったマリアにボリースが、困ったような笑みを浮かべた。
「あ、眠っていらっしゃるだけです。昨晩、あの…黒い服装をした銀髪の方と一緒に、看病されていたみたいで…」
黒い服装に銀髪とは、ラオのことだろう。マリアは安堵して、ボリースのためにドアを大きく開いた。
「失礼します」
部屋の奥にしつらえたベッドにアレスを寝かせると、ボリースはマリアにぺこりと頭を下げた。
「あの…ラオ…えっと、陛下と一緒に居た方は…」
「ああ。すみません。陛下の横で、その…床で眠っていらしたんですが…まだそのままです。今、男手がほとんど畑のほうへ行っちまって、おっと、行ってしまって」
口の悪いほうが彼の普段の口調なのだろう。慌てて言い直したことに対しては聞かなかったふりをして、マリアはボリースに礼を告げた。
ベッドで眠るアレスは無防備にぐっすりと眠り込んでいて、起きる気配がない。着替えさせようか、どうしようかと迷っていると、後ろからライサが声をかけてきた。
「あの…私…どうしましょうか」
振り返れば、言いにくそうにライサがさらに言葉を重ねる。
「交代に来たのですが…」
ライサの顔を見ながら、マリアは考えた。昨日の武官たちの状態はラオから聞いてしっていた。そして今日、今、このときにも命が失われていっているだろう。
そのことに気づいているからこそ、ライサの顔色も青白かった。ライサをじっと見る。自分より10も年下で、取り乱しやすいことは知っている。薬草の知識は多少あるようだが、ラオの手伝いに差し向けても役には立たないだろう。
「ではここをお願いします。私はクレテリス候のお手伝いをしてきます」
そういい置いて、マリアは部屋から出た。
廊下を歩きながら、心の準備をする。人が死ぬところを見たことがないわけではない。そう死ぬときは死ぬのだ。今できることをするしかない。
彼らがいるはずの扉の前で、大きく息を吸って深呼吸をしたときだった。
「こんなことはありえないっ!」
バタンと大きな音をさせて扉が開かれる。そこから飛び出てきたのは、昨日も来ていた医師だった。扉の前に立っていたマリアに向かって、縋るようにしながら部屋の中を指差す。
「み、見てくれ。こんなことは、起こるはずがないっ」
何を見ろというのかといぶかしく思いながら中を見ると、目に映ったのは大きく伸びをしたり体を起こして屈伸したりしている近衛の者たちだった。すっかり回復したとしか思えない動きだ。
「重症だったんだ。こんな…一晩で治るなんて…」
そう口にした瞬間に、医師は別な可能性を思いついたらしい。
「まさか…マギ」
マリアの肩に置かれた手はそのままに、医師は恐ろしいものを見るように、部屋の中を覗き込んだ。
「一体…誰が…。いや、いい」
医者は慌てて部屋から背を向けた。
「と、とにかく、私は不要らしいから帰る。帰ったと伝えてくれっ」
案内のものも待たずに、医師はその場から立ち去ってしまった。マリアは意思の言葉も、現在の部屋の中の様子も、今ひとつ理解できずに呆然と佇んでいた。
「おい、大丈夫か?」
部屋の中から声がかかる。見れば奥からユーリーが手を振っていた。
「ラオの…なんだっけ。あ、そうそう。マリアだ」
意味ありげに笑みを浮かべながらの思い出し方に些か不満を覚えつつも、マリアは部屋の中へと足を踏み入れた。
ぐるりと見回せば、昨日まで唸っていたはずの病人はもういない。大きく窓が開けられており、血と膿の匂いは大分薄れていた。
見れば部屋の隅で、死んでいるように横たわっている男がいる。ラオだ。近くで膝をつき、顔を寄せれば呼吸があるのが分かった。ただ眠っていた。
「起こしても、起きないんだ」
ユーリーがマリアの傍に来て、立ったまま上から覗き込んだ。
「あなた…身体は?」
「それが起きたら問題なし。俺の体力のおかげかと思ったが、オージアスのやつもピンピンしている」
ユーリーは親指で窓際を指す。その先には首の筋を伸ばしているオージアスの姿があった。そしてその隣に少しばかりぼーっとした風に座っていたのはエフライムだ。
「バース様…一番酷かったって…」
マリアの呟きを拾い上げて、ユーリーがにっと笑った。
「そうらしいな。まだ身体がうまく動かないって言ってたぜ。けど、悪いところは無い。左腕の傷も治ってた」
「傷が?」
「ああ。俺もだけどな。足とか、腕とか、傷が開いて腫れてたところが綺麗さっぱり」
ユーリーは引っ掛けていただけの上着の右腕をまくって筋肉質で太い二の腕を見せた。
「ここ、引っ掻かれたんだけど、綺麗に治ってる。あ、これは古い傷だから違う。こっちも違う。ここだ」
ユーリーの毛深い二の腕にはいくつもの傷があり、一体どれが今回の傷なのか分からない。マリアは見極めることをあきらめて、深く眠るラオの顔を見つめた。
「それって…」
「ああ、ラオだろ? それ以外に考えられないし。しかし…凄いな」
ユーリーの最後の一言には畏怖が篭っていた。
「ユーリー」
窓際からオージアスが呼ぶ声がして、ユーリーはマリアに「じゃ」と軽く挨拶すると行ってしまった。
ラオの寝顔は安らかで、子供のような表情をしていた。微かに笑みまで浮かべている。
「あなたは…やり遂げて満足なのね? 困った人」
マリアは苦笑を浮かべた。桁外れな力を持つマギ…その力を恐れる人もいるかもしれない。それでも…。
「私は、あなたの傍にいるわ。二人なら…怖くないもの」
投げ出されていた彼の手をそっと握り、マリアは立ち上がってエフライムがいる窓際のほうへ向かった。




