序章 それは昔の物語
「私から一つ議案があります」
国務大臣トゥール・ド・ヴェルダロスは、重々しい部屋の中でその低い声を張り上げた。その瞬間に皆の視線が彼に集まる。昼下がりの光が溢れる部屋の中、衣擦れの音が彼の耳に届く。
ヴィーザル王国を支える重臣たちの会議。それは王の前で自分たちの能力を示す格好の場所となっていた。特に武官と違って、自分の能力を発言と行動から示すしかない文官にとっては、大きな舞台でもある。
細かいものは毎日行われるが、武官文官ともに集められて、多くの人数で会議を行う場合、そこで良い意見を出したものが、重要な役目に抜擢されることもある。
「リドモアの住人からヴィーザル王国への保護して欲しいとの訴えが来ています」
トゥールは、手元にもった資料を見ながら議案を出した。そのとたんにグリトリル王の眉が顰められる。
「餓死者が出ている上に、流行病のために人々が次々に倒れているため、助けが欲しいとのことです」
「馬鹿なことをおっしゃいますな」
この日のためにヴィーザルの各地から集まっていた七大公爵のうちの一人、ミスラ公ガラディールが苛立ちを含んだ声をあげた。
「助けを求める相手を間違っています。そんな訴え退けるしかないでしょう」
「しかし、ここで恩を売っておき、実質的に支配権を取るという方法があるのでは? 何も戦を行うばかりが領地を広げる手段ではございません」
トゥールの言葉に、その場にいたものが息を呑む。リドモアはヴィーザルの国境に接した村で、トラケルタ国の領地だった。トラケルタ国の領地でありながら、都から離れているために打ち捨てられているような土地だ。
だがトゥールの話は、王の関心を引くまでには至らなかったらしい。グリトニル王はちらりとトゥールを見てから、すぐ隣にいた財務大臣ベイセル・セイデリアの方を向いた。
「ベイセル、他国に情けをかけるだけの国庫の余裕はあったかな?」
名前を呼ばれて、ベイセルは緑の瞳をちょっとだけ細めてから自分の手元にある資料をパラパラとめくる。
そんなことをしなくても、本当は頭に入っているのだろうが、イリジア公爵でもあるトゥール・ド・ヴェルダロスの手前、無碍に却下するわけにもいかないからだろう。ちらりと考えるような様子を見せてから口を開いた。
「今年はかなり凶作で、都市部での貧民への救済活動をやっておりますので、他国まで援助するだけの余裕はございません」
うむ、と分かっていたであろう回答を得て、グリトニル王は頷いた。そしてトゥールのことを見る。
「他国の村よりもわが国への貧困者への対応が先だ」
トゥールは黙って頭を下げながら、唇を噛んだ。今ここで恩を売っておけば、実質的にわが国に組み込むことができるはずだ。そう思いつつも、王の決定に自分以外、誰一人として異を唱えない以上は、食い下がっても無駄だろう。
「そういえば、リドモアから国境を越えた場所は、イリジア公の土地でしたな」
ベイセルが皮肉な笑みと共に、意味ありげにトゥールを見る。
「私の土地だけのことを言っているのではありません。戦わずして領土を得ることが可能であると言っているのです」
トゥールはピシリと言い返した。たしかにリドモアがヴィーダル王国に加われば、トゥールの土地となるだろう。だが、話しているのはそういうことではかった。
「戦わずして…か。果たしてそうだろうか」
王がポツリと呟いた言葉に、皆の視線が集まる。しかし今呟いた言葉の真意を説明するつもりはなく、グリトニル王は今度こそはっきりと終了を宣言した。
「本日はここまでとしよう」
ベイセルもトゥールも思うことはあったが、すぐに頭を下げた。
ここでトゥールが言い争っても勝ち目はない。決定権は国務大臣であるトゥール、財務大臣であるベイセル、軍事の長である近衛隊長ギルニデム・グルベンキアン、紛争仲裁や司法を司る総司教イェフ・シャインの四人と王が持っていた。ただし王の権利は三人分。よって王が決定したことに、重臣の一人でも賛成すれば、王の決定がそのまま決定となる。
夕闇が迫り、室内の蜀台に明かりが灯される時間となって、その他の議題も出尽くし、会議は終了した。しかしトゥールの気持ちは晴れることがなかった。
「ヴェルダロス殿」
会議の後、広間を抜けて廊下に出たところで、後ろから声をかけてきたものがいる。
聞き覚えのある声に振り返ると、王の兄オレーンの息子であるレグラスだった。代々王の家系は長男が王位を継いでいる。そのしきたりに従えば、現在の王であるグリトニルは、本来は王位を継ぐはずではなかったものだ。
本来であれば、今、目の前にいるこのレグラスの父が王になり、レグラスは皇太子となっているはずだった。しかし彼らの祖父、時の王だったネレウス王がグリトニルを次期王と定めたために、レグラスは継承権第二位の地位に甘んじることとなっていた。
名君と誉れの高かったネレウス王が、何を考えてグリトニルを王にしたのかはトゥールの知るところではない。ただネレウス王は血筋よりも資質で人を選ぶ王だったことを考えれば、グリトニルがオレーンよりも王としての資質があったということだろう。
「これはレグラス様」
第二とは言え皇太子は皇太子だ。十八歳になったばかりの若者を前に、トゥールはさっと頭を下げて礼の姿勢をとった。その姿をレグラスは満足するように頷いてから、頭を上げるように言ってくる。トゥールは言われるままに顔を上げてレグラスに対面した。問うようなトゥールの瞳にレグラスの薄い唇の両脇がわずかに持ち上がった。
「今日の会議の件は残念だったね」
リドモアの件を言っているのだと分かった瞬間に、トゥールの頬に赤みが差す。却下された意見のことを蒸し返されるのはあまり好きではない。その案を出した自分が、まるで馬鹿のように思えてくるのは嫌なものだ。
「その件は…」
もう触れないでいただきたいと言おうとしたトゥールを遮って、レグラスが言葉を続けた。
「私も同じことを考えていたんだ。戦わずして得られる領地ならば、得てしまえばよい。そのための援助であれば安いものだ」
トゥールははっとして、レグラスの顔を見た。自分の意をきちんと受け止めてくれている。
「皆、先のことが見えていないんだ。国庫が足りないなど、そんなの詭弁さ」
トゥールは急いであたりを見回した。幸い、人影は無いようだった。このような王への批判とも取れる言葉を聞かれたら、後々大変なことになってしまう。だが、レグラスの言葉はトゥールの言葉でもあった。もっと話をしていたいと思う心を押し留めて、失礼かとも思いつつ、トゥールはレグラスの背に手をやり、廊下の端へ寄せた。
「レグラス様」
息だけで諭すように声を出す。レグラスはかすかに眉をひそめたが、意図は察したようだ。トゥールが自分の体に触れたことをとがめる言葉は出てこなかった。
「大丈夫さ。偉大なるグリトニル王は、このようなことぐらいで我々を罰したりはしない」
「しかし、どこかから面白くない噂が立っても…」
眉をひそめるトゥールに対して、レグラスはにやりと笑ってみせた。
「なんと。ヴェルダロス殿は心配症だ。まあ、いいさ。ただ私は貴公の考えを支持すると言いたかっただけだ」
そう言うと、レグラスはくるりとトゥールに背を向けて、ひらひらと片手を振りながら行ってしまった。彼の父とも、現在の王とも、そして名君ネレウス王とも同じ色をした茶色の頭髪が揺れているのが見えた。そう。あの若者はトゥールが言いたかった言葉をストレートに吐き出しただけだ。
その背中を見ながら、トゥールは息を止めていたことに気づき、ふーっと長い息を吐き出した。自分の考えを王が理解してくれたなら。いや、王がもっと自分を重用してくれたなら…きっと、もっと自分の意見を慎重に吟味してくれるに違いない。
地位こそは国務大臣という、この国でもっとも高い臣下の位置にいながら、トゥールの心は満足していなかった。自分の意見を聞いてくれないグリトニル王。そしてその王から寵を受けている財務大臣ベイセル。自分が一番この国のことを考えているという思いがトゥールの中にはあった。
今の土地だけではなく、もっと領土を広げていきたいという願いが何故いけない? リドモアはその第一歩だった。今年はどこも凶作だ。だが来年は? その次は? リドモアは辺境にあり豊かな土地とは言えないが、悪い土地ではない。リドモアで前例にして周辺の土地に助けの手を延べることで、実質の支配を広げていき、もっと豊かな土地が手に入れば、もっと国は豊かになる。そしてそれは国に力をつけることになるだろう。さらに国に力がついていけば、他国すらも…。
トゥールは首を振った。今考えても仕方がないことだ。いつか。いつか自分を認めてくれる日がくればいい。考えていたことが、周りの人に聞かれたかのような錯覚を覚えて、ぐるりと辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、トゥールは大きなため息を一つつき、帰途についた。
その夜、トゥールは珍しく寝る前に側仕えに酒を頼んだ。だが、飲んでも飲んでも酔いが訪れない。レグラスと会った後に自分の中に渦巻いた感情が交錯する。
なぜ自分は重臣という地位にいながら、王に重用されないのか。能力だった武術だって、他の誰かに劣っているとは思えない。あのベイセルに対してであれば、なおさらのことだ。明らかに自分よりも劣ったものが、王の寵を受け、そしてその発言に重きが置かれている。何をやればいいのか。どうしたら王は自分を認めてくれるのか。それすらも分からなかった。
ふと窓の外の月が見えた。
「王よ・・・。息子もあなたのために犠牲にしました。それでもなお、まだ、私は足りませんか?」
息子が生まれたときの予言。父であるおまえを殺し、そして王になる…と言われたときの衝撃を思い出す。自分にはまだ野心があった。そして良心のどこか片隅で「王のため」という大儀名分があった。だから自分は自分の息子すら手にかけた。幼かった息子がどのようにして死んだのかは聞いていない。ただ命じた。だがそれすらも、妻亡き今、どれほどの後悔に繋がっただろうか。妻も子ももういない。ただ自分ひとり。
グラスの液体を喉に落とす。もう何杯目だろう。それでも酔いは訪れなかった。
「酒すらも、私を見放すか」
くっとグラスを干した指に力が入る。
「いつか。いつか。王に認めさせる」
暗い表情、暗い瞳で呟いた誓いが、静かな闇にまぎれていった。
そして数年が過ぎていく。