ふりしきる雨は秘事をかくす
夕暮れ時の街を降りしきる雨が暗く支配していた。
一本の人気のない路地を、真紅の傘が雨を弾いて移動していく。
亜麻色の髪を揺らしリアは家路を急いでいた。
雨にたたかれる路地は晴れた日であれば行き交う人の姿がまばらながらに見られるのだが、今は足早に歩くリアの姿しかない。
「こんな予定じゃなかったのに。あのおばさんたら話しだすと長いんだから」
切らした日用品の買い出しをすませたらすぐに帰るつもりだった。小一時間もあれば終わるはずの用事だったのにおしゃべり好きな女店主につかまり、昼過ぎに家を出て今や夕方だ。その上崩れた天気のせいで夕暮れ時とはいえあたりは夜のように薄暗かった。跳ね返る雨に足元が濡れる。
リアは焦っていた。
人通りの少ない路地を一人で歩くには、この街は今物騒だった。
この一月の間に九人もの人間が不審死を遂げている。みな一様にその体からは血を抜かれ、蝋人形のように白く変わり果てた姿で、路上にあるいは建物の影に隠れるように打ち捨てられていた。
穏やかで平穏な街に似つかわしくない猟奇的な事件。
殺人犯は目星すらつかぬまま、その鉤爪にかかった人間の数だけが増えていく。
被害者は若者が多い。娘たちは昼のうちには買い物を済ませ、夜はきつく戸締まりをして家を出ないのが最近の常識となりつつあった。
普段であればリアも用心して新しくできた習慣にならっている。
今日はまったく運が悪かったとしか言いようがない。
白昼の陽気な喧騒の中ではおしゃべりに励む雑貨屋の店主もまさか自分たちが陰惨な事件の被害者に選ばれるとは思わなかったに違いない。
相手の勢いにのまれ、急速に崩れだした天気に気づくまでリア自身も時間を気にしながらも危機意識は希薄だった。
雑貨屋で急ぎ買った赤い傘をさし、雨に打ちたたかれる薄暗い石畳の路地を一人っきりで歩く今になって心臓がどきどきと震えてきた。せめて大通りを行ければいいが、リアの家にはこの路地を抜けねば辿り着かない。
雨は激しさをますばかりで左右に連なる建物からはところどころに明かりがもれども人が出てくる様子はなかった。
今にも建物の切れ目の路から殺人鬼が飛び出してきそうで、リアはますます家路を急いだ。
しとどにけむる雨のにおいとともに激しい音を響かせて進む先の路を雨粒が激しく打ちつける。にじむ視界を瞬きで晴らしながらリアは暗い路地を目をこらして進んだ。
進む目線の先にかすかにうごめくものを捉え、リアは息を呑んだ。路地の端で建物の影に混ぎれるように、わずかに動くものがある。足早に進んでいた歩みを止め、息をこらしてリアは暗闇にじっと目をこらした。
殺人鬼だったらどうすればいい?
にわかに恐怖がわき上がったが、それは長くは続かなかった。
路地の端、建物にもたれかかるようにしてうずくまっていたのは華奢な見た目の少年だったのだ。
その顔色の青白さに気づいたリアは今度は別の意味で青ざめた。
もしかして自分は殺人鬼ではなく被害者の方に出会ってしまったのじゃないだろうか。
「だ、大丈夫ですか!」
リアは慌てて駆けよるとスカートが濡れるのもかまわず少年の隣りに膝をついた。その上半身を支えるように抱き起こす。
少年は華奢なリアと比べても変わりないほど痩身だった。白髪頭にも見えるくすんだ銀髪が印象的な十代後半ぐらいの男の子だ。
リアは少年の顔色を見て再度ぐっと息を呑んだ。
皮膚の下の細胞が透けて見えそうなほどに白い頬にはまるで血の気がなく、そのせいで鼻の頭を中心にして浮いたそばかすが余計に目立って見える。
力なく路地に横たわる少年は降り落ちる冷たい雨に濡れ、今にも力尽きそうだった。
恐ろしい予感に襲われながら、リアは反応の薄い少年にもう一度強く呼びかけた。
「大丈夫ですか。私の声が聞こえる?」
呼びかけ続けると緩慢な動作で少年はリアを見上げた。
視線が交わった瞬間、リアの心臓が凍ったようにぎゅっとしぼまった。痛いほどに息がつまる。ややしてそれは燃えるような心臓の熱さに打って変わった。
胸が焼けるように熱くて、逆に凍ったように感じたのだとリアは遅れて気づいた。
少年の瞳は路地に潜む闇のように黒かった。交わった眼差しは生気を欠いているにもかかわらず引きずり込むような誘力がある。しばらく魂を引きぬかれたように呆然とリアは少年の瞳を見つめ続けた。リアを見返す少年が緩慢な動作で一度まばたいて、その動きでリアは我に返った。
茫洋として冴えない風貌の少年だ。今にも消えてしまいそうな儚い姿で雨に打たれているというのに、なぜだかリアの体は再度交わった少年の眼差しに凍えるほどの怖れを覚えた。
どうしようもなくひとりでに震えだす体を抑えてリアは反応を返した少年にさらに訊ねかけた。
「大丈夫? 誰か人を呼びましょうか?」
まっさらに透けた顔色を見ればとても大丈夫とは思えない。
しかしリアは混乱したまま、少年に訊ねるしかできなかった。
少年が唇を動かした。
雨にかき消され、かぼそい声はリアには届かない。
疲れたきった顔で少年は目を伏せる。
わずかに下がった顎に合わせて少年の青白い顔に影が落ちた。今にも死の手が少年にせまり降りそうに思えてリアはちいさく震えた。
「大丈夫よ、大丈夫だからね」
ほとんど自分自身を励ます調子の言葉が口から漏れる。
これほど弱っている人を見るのはリアにとって初めての経験だった。そのせいで自分はこんなにも混乱し震えているのだろうか。あるいは少年に危害を加えたかもしれない殺人鬼がまだあたりに潜んでいる可能性に怯えて震えているのか。それ以上のもっと別の理由のせいか。平静さを欠いた今のリアでは判別がつかない。
とにかく不安と恐ろしさでいっぱいで、今すぐ少年を抱えて暖かで安全な部屋の中へと逃げこみたかった。
何かを伝えようと力を振り絞ってこちらを見上げる少年はしかし先程以上に声を出せないようだった。
訴えるように見つめられる。その漆黒の瞳に自分が写っていることになぜだかどうしようもない不安を覚えながら、リアは少年の声を聞き取ろうとその口元に耳を近づけた。
寄せた耳元に少年のかぼそい吐息がかかった。
「ありがとう、やさしい娘さん。あなたはなんて清らかで、かぐわしい女性なんだろう」
リアの耳に艶っぽくもぞっと底冷えのする声が吹き込まれる。
溶けて朽ちてしまいそうになるほど甘やかで親しげであるのに、悪びれずに毒を盛るような誠意のない声だった。
言葉が身に染み込んだ瞬間、リアの身体は氷のように冷たく凍え一切の熱を奪われた。少年と初めて視線が交わった瞬間に与えられた痺れるほどの熱とは真逆の感覚が支配する。
身体が心よりもはやく恐怖に骨抜きにされてしまったようだった。
統率を失くして崩れ落ちるリアの身体を、抱き起こされる側だったはずの少年の腕が支えた。下から抱き抱えるようにしてリアを受け止め、耳に唇をつけたまま少年はリアの頭をなでた。
自分がどういう状況にあるのかわからない。
心が石に変じてしまったようにリアの中で恐怖や、こんな場面ですらかすかに感じる恥じらいが身体の外の遠いところで揺れている。感情が掴めないのになぜか瞳から涙があふれた。
「おやすみ、娘さん。もしも僕らの相性がよければ眠りから目覚めた時、もう一度逢おうか」
耳につけた唇がすべり、リアの華奢な首筋をたどった。リアは大きく目を見開いて、はっきりと感じる感触に身体をふるわせた。首筋の、少年の唇が触れている箇所に硬く鋭いなにかがあてがわれる。冷えた身体をなすすべなく少年にあずけることしかできないリアの、感覚ばかりが鋭利な身体にそれは穿たれた。
「ひ、あ、いあぁぁ」
唇から零れ落ちる甲高くふしだらな声が自分のものだとはリアは思わなかった。事実に気づくよりも前に視界が闇に落ち、それきり自分の身体も少年の身体も世界も、すべてが混濁となって沈み落ち、意識は途絶えてしまったからだった。
血の気の失せた少女の身体を見下ろして、少年は憐みを混ぜたごくささやかな笑みを浮かべていた。
血管まで透けて見えそうな白い頬にそばかすが浮いている。その茫洋とした顔立ち。
冴えない見た目にかかわらず少女を見下ろす眼差しはしとどに色気を含んでおり、見る者を跪かせる征服者の品格がある。
まっさらな顔色の少女は冷たい雨に打たれて地面に横たわり今や呼吸が途絶えていたが、これがベッドの上であればただ静かに眠っているだけにも見えた。
「どちらに転んだものだろうな」
無感動に一人こぼした少年は少女の胸にふと十字架が下げられているのに気づき、苦笑する。
餞別とばかりに首元から光る十字架を取り上げて腕に巻くと、振り返ることもせず歩き去っていく。
雨は夜が深まるにつれてさらに激しさを増した。
少女の身に起きたできごとを包み隠すように降りしきる雨を連れて、市街の夜は明けていく。