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橘(たちばな)

月は、ある日気がついた。

中天に居て、背を向けいているその先に、自分と同じ身のものが居る。

もう一つの自分は、しかしこちらに気付いていないようだった。まどろんでいるような、それとも光が激しすぎて、こちらのような影には気付かないのかもしれない。

それでも、もう一人の自分に、月は想いを寄せ、いつしか会いたいと望むようになっていた。

祈る念は、なぜか表の主には届かぬようだった。

それでも、いつもいつも、月は表に向けて語りかけていた。


そんなある日、地上から微かな声が聞こえた。

今までも地上からは数限りない声が話しかけていたが、月にはなんのことかわからなかった。聞き続けているうちに、やっと念の意味がわかるようになり、こちらから念を返しても、あちらの小さな存在は、こちらの声が聞き取れないようだった。

あきらめて眺めているだけだった地上から、自分の声に向けて何かが応えたように思った。

《我になんと申したのか?》

月は聞き返した。ただの気のせいかもしれない。しかし、地上の声は言った。

「あなた、誰かに会いたいの?ずっと会いたいと言っているわね。」

月は驚いた。

《我は、我の背の君に会いたいのじゃ。》

声はまた言った。

「背の君?まあ月も結婚をするの。」

月は声の出所を探った。人が多く住んでいる場所より少し離れた野に、一軒の館が建っている。そこに座ってこちらを見上げる人が、声に答えているのだ。

《結婚とはなんじゃ?我の背と向かい合わせになっている、表の光の君とお会いしたいと申しておるのじゃ。》

この頃、結婚相手のことを背の君と言っていた。月は文字通り背中合わせの君と言ったつもりが、人には違った意味合いに取られたらしい。ため息をついて人は言った。

「月にも悩みは尽きないのですもの、私に悩みがあるのも道理ね・・・。」

彼女の座る屋敷の対屋の庭には、橘の木がたくさん植えてあった。ゆえに彼女は、橘の君と呼ばれているのだと、月は聞いた。

「月に呼び名はあるの?」

月は戸惑った。

《そのようなもの、ない。我は月、ではないのか。》

橘はしばらく黙って、月を見つめた。

「今日は美しい若月よ。あなたのことは、若月と呼ぶことにするわ。」

月にとって、どうでも良いことであったが、同意した。

《主がそれがよいと申すなら。我は若月でよい。》


それから若月は、橘と毎夜話した。自分の声に人が応えることが、これほどに気持ちを明るくさせるとは、思いもよらなかった。

話すうちに、橘は都人の中将の、脇腹(本妻ではない人から生まれた)の娘らしかった。母の身分が低いため、このような都の外れの屋敷に、一人住んでいるのだという。母は昨年亡くなり、父はこちらに来るのも間遠になっていた。

それでも、使用人達は何人かおり、世話をする女房(女の使用人)も居て、そこまで生活には困ってはいないようだった。

若月は橘を通していろいろな人の世のことを聞いた。人の世とは、なんと不便なことよといつも思っていた。

また、橘は若月の話もよく聞きたがった。背あわせの光の君のことを、若月はよく話した。

「まだ見ぬおかたに恋をしているのね、若月は。」

《恋とはなんじゃ?我のこの気持ちのことか?》

若月はそうたびたび橘に聞いた。そうすると橘は、いつも笑った。

「ああ、若月、私にも分からないの。私もまだ、恋というものをしたことがないから。」


ある日の夜、いつもと同じように、若月は橘に話し掛けた。

《橘よ、我の声聞こえておるか?》

いつも上げてある御簾が、今日は降りている。しばらくして、橘が、今まで出て来なかった庭へ降りて来た。

「若月…」橘は泣いていた。「おもう様(お父様)が、病で今朝亡くなったの。」

若月にはかける言葉がなかった。人の死というものが、よく分からなかったのだ。

《我にはよく分からぬ。なぜそのように悲しむのじゃ。》

橘は言った。

「もう、二度とお会いすることは出来ないの。眠りについて、二度と起きないのよ。」

《消滅…か?》

若月は自分にわかる言葉を探してそう言った。橘は頷いた。

「若月には分からないのかもしれない。でも、とても悲しい事なのよ。」

そしてまた泣き崩れた。その姿を見て、若月もとても悲しくなったのだった。


それからの橘の屋敷は、日に日に寂しくなって行った。父の庇護がなくなり、使用人達もやめて行き、屋敷は荒れて、橘は本当に一人になってしまっていた。残っていたのは年老いた女房が二人ほどで、橘は14歳であったが、世捨て人のように暮らしていた。

「女房達が殿方を通わせろと言うの。」橘は若月に言った。「でも、私は暮らしのために背の君を無理矢理選びたくない…。」

《恋を…したいのじゃな?橘よ。》

橘は恥ずかしそうに頷いた。

「ええ。私はまだ文も交わしたこともないのだもの…。」

若月には、なんとなく橘の気持ちがわかった。あれほどこがれた恋というもの、させてやりたい。若月は本当にそう思っていた。


一年後、いよいよ生活は苦しくなり、橘は見るからに痩せていた。寒い冬も、火桶に入れる炭すら工面することができず、着物を何枚も重ねて暖を取る姿を見ていた。庭は荒れ、あれほど美しかった橘の木も伸び放題で、雑草が生い茂り、落ち葉も散るに任せ、人が立ち寄らない屋敷になってしまっていた。

都で流行病が出たと聞いた時も、このような寂びれた場所には病魔も来ないであろうと、若月は思っていた。しかし、橘はある日、若月と話している最中に、気分が悪いと床に伏して、それから起き上がれなくなってしまった。

そんな時も、橘は少し御簾を上げさせ、若月に向かって途切れ途切れに話してくれた。しかし橘は、弱っていく一方であった。

《許せ、橘。我には何もしてやれぬ。》

若月は絶望的な気持ちで言った。このように若くして、消滅して逝かねばならぬとは。人の儚さに、若月は痛みを感じた。どこが痛むのかわからない。が、とても痛かった。

「最期まで、一緒に居てくれたじゃない、若月。」橘は虫の息で呟いた。「私が助からないとわかった二人の女房たちは、もう暇を取って出て行ってしまったわ。」

若月は、人が泣く意味を知った。この痛みに耐え切れなくて、人は涙を流すのだ。

《主は恋がしたいと申していた。我にはそれを叶えてやることも出来なかった・・・。》

「ああ、若月」ハッとしたように言った。「あなたは背の光の君に会いたいと言っていたわね。」

若月はびっくりした。なぜ今それを言う?

「背中合わせて会えないのなら、地上で会えばいいのよ。私からは表の光の君が、毎日見えているのだから。」橘は力の抜けた手を必死で上げた。「私の体を使うことは出来ない?あなたは死なないのでしょう。私の心は消滅しても、この体はあなたが恋を叶えるのに使えるはず。」

若月はうろたえた。そのようなこと、考えた事もなかった。

《確かに、我は死なぬ。そういうものではないゆえに。しかし橘よ、我がその体に入れると、本当に思うのか?》

橘の頬に、少し血の気がさした。

「あなたが私の体を使ってくれたら、こんなにうれしいことはないわ。私が叶えられなかった恋をして、あなたは幸せになって欲しいの。私はずっとあなたと共に生きるのよ。」

若月は決心した。やってみよう。橘の夢を叶えてやるため、あの体に降りて、我と共に橘を生かして行くのだ。

《約束しようぞ。我は主の体と共に、生きよう。もう老いることもなく、病に苦しむこともない・・・主の体、守って行く。》

橘は頷いた。目から涙が伝って落ちる。「ありがとう。きっとよ。」

その言葉を最後に、橘の上げた手はポトリと(しとね)へ落ちた。生気の尽きたのを感じた若月は、ためらいを捨てて、光の玉となって橘の体へ降りた。

それは夜空に明るく光輝いた。若月は橘の体で起き上がり、その重さにふらふらとしながら立ち上がった。視野が狭く、回りが全く見渡せない。しかし近くのものは、驚くほど鮮明で、色があり、美しかった。人の目から見ると、世界はこれほどに鮮明であるのか。

若月は、いつも橘がしていたように、御簾を巻き上げて空を眺めた。そこには、あれほど焦がれた背の光の君が、白い光を出して輝いていた。

若月は、自分の頬に涙が流れるのを感じた。

「ああ光の君」若月は呟いた。「なんとお美しい姿じゃ。橘よ、礼を申すぞ。」


若月は続けた。

《あのあと、橘を見捨て出て行った女房達が引き返して来たのじゃ。今の世のように人は大勢居らず、また地の光も少ない頃、我が橘に降りた光は都の隅々にまで見え、照らしたのだと言う。それから都より大挙して人が来始め、我は月の神の使いと称され、奉られた。》

遙は泣いていた。まだ自分と同じぐらいの歳であった橘の、孤独な死にショックを受けたのだ。維月は言った。

「それがあの月の社の場所なの?」

若月はかぶりを振った。

《あの場所ではない。あれはその後、我を封じた人が作ったもの。》若月はうつむいた。《あれから千年経った。今我が体を離れれば、橘は霧散して塵になってしまうであろう。我は・・・我は橘を生かすため、体から離れることは出来ぬのじゃ。》

涼が若月に言った。

「でも、今その体はエネルギー体よね?」

若月は答えた。

《そうじゃ。橘の人の体、我がついているものは、塚の中に今も眠っておる。当主に解放され、我の思念はこのように自由に外を動けるようにはなり申したが、体はあの中にあの時のまま封じられておるのじゃ。》

維月は若月を気の毒に思った。橘に約束したために、月に帰らず、まだ橘の体についているのだ。力が十六夜に匹敵しないのは、おそらく長く人につき、月から離れているからなのだろう。

「とても長い間、本当によくがんばったわね、若月。私達と共に、来る?」

維月は言った。その言葉と共に、若月の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それを見た遙が、若月の背を撫でた。若月は頭を下げた。

《前当主、維月様。我は行けませぬ。我にはまだ、せねばならないことがありまする。十六夜様のお力を借りれればと思い申したが、我のことを信じてはもらえませぬゆえ。しかし、当主が我を自由にしてくだされた。我一人でも、出来ると思いまする。》

「何をするの?」

若月は首を振った。

《これは我自身のこと。お手を煩わせることになっていけませぬゆえ、ここでは申せませぬ。》

若月は口をつぐんだ。維月は詮索しないでおこうと決めた。

「では、何か助けがいる時は呼んでちょうだい、若月。私達にはあなたの声が聞こえるのだから。」

若月は頷いて頭を下げ、そのままの姿勢で姿が薄れて、消えていった。


明日は、家に帰る。

維月は、十六夜に今の話を伝えておこうと思った。



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