家出
維心は、龍の宮で月を見上げていた。
今頃は里で、式が無事終わり、宴も終息して行っていることであることだろう。維月の気を探ると、その気は覚えのある熱を帯びていた。
十六夜か…。
維心は思わず月から目を逸らし、庭の方へ目を向けた。わかっていたことだ。自分も同じことをして、おそらく十六夜は毎夜同じ思いでいただろう。それとも、十六夜はこちらは見ないようにしていたのであろうか?その方が賢明だと維心は思って、気を探るのはやめた。
僅かな間のこと。もう会えないのだと思っていた頃を思えば、幾分痛みは薄れると思ったが、それでも傍に誰もいない虚無感は、拭い去ることは出来なかった。
後ろに気配がした。振り返ると、洪が頭を下げて立っていた。
「洪か。何用ぞ。」
洪は思い切ったように、維心に言った。
「王よ。維月様は、申し分のない妃であられまする。」洪は言葉を探した。「ですが王よ、あえて我の申し出をお受け頂ければと思い、参りました。」
維心は体をそちらへ向けた。
「なんの話だ。」
維心に凝視され、洪はたじろいた。が、言った。
「維月様はこのように…これからもお留守をなさるとお聞き申しております。そして、あのお方は月の妃としてこの宮で挙式されたお方。今更王の妃としてお披露目することもかないませぬ。」
維心はじっと聞いている。その表情からは、考えは読めなかった。
「我ら、方々探し回りまして、王の気に耐えうる女を探し当てましてございます。」維心が息を飲んだのを、洪は見逃さなかった。「見目も麗しく、王の妃に申し分ない女と思い、王にお引き合わせいたそうと、本日次の間へ控えさせてございます。」
維心は洪から目を逸らした。おそらく、維月が留守にするこの日を待っていたのであろう。維心は、洪に背を向けた。
「…我は会わぬ。」
洪はもう一度頭を下げた。
「王、この女は、維月様がいらしゃる時には一切こちらへ寄りつかぬと約束させてございます。我らも一切この女の存在を維月様に知らせることなどございませぬ。どうか、お留守の間のお慰めにでも、お傍に置いていただけませんでしょうか。」
維心は黙った。洪は必死の形相でこちらを見ている。おそらく、維心のことを思って、その女を探して来たのであろう。維心の維月に対する執着を見、それが居ない時の維心のつらさを少しでも紛らわそうと、総出で探し出して来たのだ。
維心が黙っているので、洪は召使いに指示し、居間の扉を開けさせた。そこには維月の着物にそっくりの物を着せられ、同じように髪を結われた、女が一人、膝を付いて頭を下げていた。
洪は、その女に合図した。女は膝まづいたまま、顔を上げずに維心に言った。
「維心様、明蘭と申しまする。」
維心は眉を寄せた。皆、王、と呼ぶのに、こやつは名で呼ぶ。どこまでも維月と重ねようという気持ちでおるのか。
洪は言った。
「どうか維月様のお身代りにでも、お傍へ置いていただければと思いまする。」
維心は黙っていた。洪は他の召使いに頷くと、その場を離れようとした。と、維心は言った。
「…連れて行け。」
洪は驚いたように振り返った。
「王?!」
維心は洪に背を向けた。
「我はかようなもの、必要ではないゆえに。」
洪は食い下がった。
「しかしながら王よ、これほどまでに美しい女はまずおりませぬぞ。」
維心はちらりと振り返って言った。
「そう気に入ったのなら、主が迎えれば良いではないか。二人居れば三人も同じであろう。」
「我のことはようございます。何がお気に召さなかったのでございまするか?…人では王の気に耐えうる者もおりませなんだ。」
維心は苦笑した。我が人を好むと思うておるのか。確かにそうかもしれぬ。
「話すことはもうない。下がれ。」
「しかし、王…!」
「うるさい!」維心は押さえていた感情が一気にあふれて来るのを感じた。「主が出て行かぬなら、我が出るわ!」
維心は窓枠に手を掛け、見る間に龍身を取って夜空へ飛び上がった。洪は慌てて窓へ駆け寄った。
「王!!お戻りくださいませ!どちらへ…!」
維心はそれには答えず、夜空へ消えて行った。
炎嘉が、言っていた。
『妃は最初、おとなしく控えめであるのに、気が付けば我を我をとしゃしゃり出て来て、正妃との間もそれで冷え切ってしもうた。その寂しさを埋めようと他の女を求め、気が付けば10人になっていた。そこからはもう後戻り出来ず、21人の大所帯になってしもうた。主のように、一人を愛するなら、その妃にも愛され、幸せであるのよ。我は先に逝った正妃を、未だに愛しておる。だが、きっと我が逝く時、迎えに来てはくれまいな。最後まで我を許してはくれなんだのでの。』
「我は、他は求めぬ。一時の慰めなど、自滅を招くだけよ。」
維心は炎嘉の、取り留めのない話だと思っていたことが、今これほどまでに役に立つとは思ってもいなかった。炎嘉は酒の席で、いろんな自身の話をしてくれたものだ。今居れば、酒でも飲みに行けたものを。
気が付けば、月の里の上空にいた。
何も考えずに飛んでいたら、ここへ着いてしまった。今はもう人型で浮いていた維心は、寝間着姿で家の前に座る人影を見つけた。
「維心様…!」
そこへ降り立った維心を見て、その人影は小声で叫んだ。
「維月」維心はたまらず抱き寄せた。「朝に別れたばかりなのに、我は主に会いとうて、ここまで来てしもうた。このように冷える所で…何をしておる?」
維月はびっくりしたまま、答えた。
「なぜだか胸騒ぎが致してございます。それで気を沈めようと、外へ出て参ったのですわ。」
維心は頷いた。
「…洪が、我に他の妃をと連れて参った。」
維月はさらに目を丸くした。まあ、今朝別れたばかりなのに、まるで待っていたかのように。維月は維心から目を逸らした。
「では…こちらへいらしていてはいけないのではありませんか?」
維月が微かに震えているのを感じた維心は、微笑した。
「案ずることはない。我は断った。あまりにしつこいので、宮を飛び出してやったのよ。」
維月は維心を見た。
「まあ維心様…。」
維心は維月に深く長く口付けた。なんと愛おしいことよ。
後ろから、声が飛んだ。
「おい維心、それはルール違反だろうが。」振り返ると、十六夜が部屋の窓に肘をついてこちらを見ていた。「まだまる一日も経っちゃいねぇのに、ほんとにお前は我慢ができねぇな。」
上に着ているシャツの前合わせが乱れている。維心は維月を離さず言った。
「…確かに主の言う通りだ。だが我は…こういうことに慣れてはいないゆえ。」
十六夜は苦笑した。
「ともかく、入りな」十六夜は戸を示した。「今更飛び出して来た宮へも帰れんだろうが。」
維心はためらった。
「しかし…」
十六夜はフンと鼻を鳴らした。
「安心しな。もう事は終わってらぁ。」
「十六夜!」
維月は咎めるように小声で言った。維心は複雑な心境になりながら、部屋へ入った。
十六夜が、少し不機嫌に寝台に座っていた。
「維心、オレが同じことをしたら、お前怒っただろうが。オレは元々月だから、こういう必要性は感じない生まれだ。そういうモードに切り替えようと思えば、それでなんとかなるんだ。だからこれで済んでるが、本来なら即、封じてるぞ。お前以外なら、有無を言わさず消しちまうところだ。」
維心は頷いた。
「わかっている。ここへ来るつもりなどなかったのだ。だが宮を飛び出して、気が付くとここにおった。」
十六夜はため息をついて、傍の椅子を指した。
「座りな。気持ちがわかるだけに、これ以上咎める気にもなれねぇ。」と維月が入れたお茶を飲んだ。「で?新しい妃はどうするつもりだ?ストライキ起こすなら手伝ってやってもいいが、蒼の家のほうへ泊る方がいいぞ。ここはオレと維月が居る。オレもそうそう我慢はするつもりはねぇからな。かといって、気の拡散は、オレでもあの最中は押さえられねぇからな。」
維月はあまりの恥ずかしさに席を外そうとした。
「こら、どこへ行く?」
十六夜がグイと手を引っ張って止める。
「だって十六夜、そんなことをぽんぽん言うのだもの、私いたたまれないわ。」
十六夜は眉を上げた。
「ああ…すまねぇ。神の間じゃはっきり言うのが通例でな。最近は神と話す方が多かったんでな。だがお前も少し慣れろ。月なんだから。」
「無理よ!」
維月はぷうと膨れたがそこへ座った。維心が言った。
「他は分かったがストライキとはなんだ?」
十六夜は頭を抱えた。
「なんでぇお前、人のことを学べと言ったろうが。そうだな、本来の意味は集団で自分達の主張を通す為に仕事しなかったりすることだ。お前の宮で言うと、もしお前が悪い待遇でやつらをこき使ってたとして、もっといい待遇にしてもらうために全員が働かなくなることだな。だから、お前は新しい妃を迎えたくないなら、迎えろと言って来る間は宮での仕事をしないってことだ。」
維心は感心したかのように頷いた。
「人はいろいろ考えるものよの。」
十六夜はあくびをした。
「とにかく、お前が決めな。お前が妃を迎えるなら、維月はここへ置く。オレが神のところへ行く時は全部連れて回る。一人置いておくのは心配なんでな。お前がこんな状態は耐えられないと言うのなら、それもいいんじゃねぇのか。」と寝台にへ横になった。「今日は本当に疲れたんだ。長く人型で居るのも久しぶりだったもんでな。オレも今日はもう我慢してやるから、お前もここへ来て寝な。ただオレの横で始めやがったらただじゃおかねぇぞ。」
奇妙なことだが、維心の父の記憶を見た時以来の三人並んで横になると、なぜか落ち着いた。十六夜が一番奥に居て維月、そして維心と並び、思っても居なかった穏やかな気持ちで、そのあとぐっすり眠った。
朝目覚めると、とても不自然に三人並んで、どちらもが維月の手を握って眠っていたのがわかった。維月はそのせいで寝返りをうつのも大変で、かなり寝づらかったらしい。
両方が目を覚ましたのを見た維月は、二人に言った。
「蒼の所から朝ご飯の準備出来たとさっき言って来たわ。」
その際の侍女の驚きようはすごかったらしい。
何しろ、自分達の王がそこに居たのだ。
維心は起き上がると維月に水道の使い方を習い、十六夜から借りた人の服装で蒼の屋敷へ共に渡った。
「我はどちらでも良いのだがな。」
維心は朝食を前に言った。
「オレだってそうだ。だがな、人の習慣も知っておいて損はねぇぞ。」
朝食はいつもより数段豪華だった。どうも侍女達が、王がお召しになると、慌てて作り足したようだ。
維心は仕方なく箸を器用に使い、食べ始めた。そしてふと、顔を上げて、前で緊張気味に食べている、蒼と瑤姫を見た。
「そういえば蒼よ、子が出来たそうだな。めでたいことよ。」と瑤姫を見、「主、体調は良いのか。」
瑤姫は頷いた。
「はい、お兄様。お気遣いありがとうございます。」
普通に黙っていれば、普通の人の家庭の朝のシーンなのに、この二人が話すと、ランクアップしてしまう。蒼はその緊張感が居づらかった。
「維心様には、こちらにしばらく居られるとのことですが、お部屋をご用意させましたので、またご覧になってください。」
蒼が言うと、維心は頷いた。
「世話を掛ける。」
いやいやオレ達のほうがずっと世話になってるから、と蒼は思ったが、黙っていた。
母が箸を置いた。
「ご馳走さまでした。」
維心がそれを見て、気遣わしげに言った。
「維月よ、いつもの半分も食していないではないか。具合でも悪いのか?」
維月が困ったように微笑むばかりなので、十六夜がしびれを切らして不機嫌に言った。
「お前のせいじゃねぇか。早々に子を作ったかと思えば、生んですぐまた作りやがって。」
維心は箸を落とした。召し使いも盆を落とした。瑤姫も箸で掴んでいた卵焼きを落とし、蒼は開いた口が塞がらなかった。
やっと口が動いたのは、蒼だった。
「…母さん、ほんとに大丈夫なんだね。」
「その話題はやめて」
母は蒼を睨んだ。維心は維月の腹に手を当てた。
「…確かに我の気が混ざっておるな。」
十六夜はフンとあちらを向いた。
「帰す前に確かめとくのが普通だろうが。さ、オレも終わった。向こうへ戻るぞ、維月。」
維月は仕方なく立ち上がり、維心に頭を下げて十六夜について行った。
その日の午後、龍の宮の臣下達が勢揃いして月の宮へ訪れた。
瑤姫の侍女達が、ここに王が居ることを伝えたからだと蒼は思った。とりあえず神社の広間の方へ一同を通した蒼は、維心にそのことを伝えた。
維心は頷いて立ち上がった。
「蒼、迷惑を掛けるの。あやつらはもしかしたら、ここへ居着くかも知れぬ。」
蒼は頷いた。とりあえずそのつもりで皆に言おう。
臣下達と一緒に、維心の世話係の召使い達も到着していて、その数30人。瑤姫の侍女と合わせて40人で、召使いだけで蒼の屋敷はいっぱいになりそうだった。
維心が入って来ると、臣下達は頭を下げた。畳の間なので、皆座った状態だった。しかも人目に触れる可能性があるとのことで、皆が皆「人」のスーツを着ていて、ぱっと見はおじさんサラリーマンの集団のようだと蒼は言っていた。維心は、父の記憶の中で、北の社にこもった父に会いに来た臣下達を見たが、まさにこんな感じだった。ただ、皆こんな格好ではなかったが。
「何用ぞ。」
いつもは先頭に居る洪が、今は後ろへ下がっている。前に居る公李が、維心に言った。
「この度は、王に大変に失礼があったとのこと、我ら臣下一同うち揃って、謝罪に参りました。」
維心は黙っている。見た感じは普通の「人」のような格好をしているが、その気はまさに王のものだった。
「なれど王、我らが心底王のことをご心配申し上げておりまするのは、ご理解いただきたく思っております。」
維心は胡坐を組んで座っていたが、脇息に肘を付いて聞いている。まだ維心が何も言わないので、公李は冷や汗をかきながら続けた。
「何卒、宮へお戻りくださり、我らの道を示してくださりますよう。」
沈黙。
そのまましばらく黙っていた維心は、言った。
「…言うことはそれだけか。」
「王!」翔羽が叫んだ。「女は下がらせましてございます!我ら、王にお許しも得ぬまま、あのようなことを致しましたこと、大変心苦しく思っておりまする。どうか、どうかお怒りをお静めになり、我らが宮へお帰りくださいませ!」
全員がもう一度頭を下げた。維心はため息をついた。
「主らは少し我が宮を空けただけで大騒ぎをする。我の父など、しょっちゅうふらふらと一人で出掛けておったわ。我が生真面目に宮に居っただけよ。居らぬ間ぐらい、主らで宮を守らぬか。」
公李が言った。
「…なれど、王がご不在と聞きつけた他の神が、我が宮を襲わぬとは限りませぬ。王が居ってこその、宮の平和なのでございます。」
一同は頷いた。維心は再度ため息をついた。炎嘉が死に、我もいつそうなってもおかしくはないというのに。こやつらは小さき頃から我が王であったゆえに、この力に頼ることになれてしもうておる。
「そうよの、では維月が戻る時、共に帰ろうぞ。」
臣下達は顔を見合わせた。
「それでは…一月も宮を離れられると?」
維心は頷いた。
「我は人の生活に興味を持ったのよ。それに、維月の居ない宮におれば、いつ主達がまた女を連れ込んで来るかわからぬゆえな。そんなことで、維月に不興をかって戻って来ぬようになれば、腹の子にも会えぬようになる。」
臣下達はびっくりして尻餅をついた。
「なんと、この前生み参らせたばかりであるのに、もうお子が!」
「ほんによう励んでおられたゆえに、次の子もとは思うておったが、既にとは!」
維心は眉を寄せた。
「主らがあと一人でも二人でもと申したのではないのか。」
臣下は慌てて頭を下げた。
「いやいや、おめでたき限りでございまする!」
公李が言った。
「然らば王よ、尚の事お早くお戻りいただかなければなりませぬ。王のお子に何かありましては、一大事でございまするゆえ。」
維心は手を振った。
「良い。我がついておったら何も起こらぬ。」
ーー確かにそうだが。臣下達は行き詰った。
「…では、王。我ら王を連れてでなければ宮へは帰れませぬ。しばらくの間、我らも共にこちらに厄介になりましょうぞ。」
皆が一斉に頷いて、維心を見た。
予想通りだと、維心は再びため息をついた。そして心の中で蒼に詫びたのだった。




