呼ぶ声
暖かいが、仄暗い闇の中で、維月は微睡んでいた。
気が付くと、そこは居心地はいいが、誰も居ない空間だった。なぜ、自分がこんな所に居るのかわからない。でも、それが心地よく、留まりたい気持ちにさせる。
日にちの感覚はまったくなく、たまにどこかから何かが呼ぶような気がするが、それは遠いどこかで起こっていることのようで、維月には煩わしいばかりだった。
何か気に掛けていたことがあったような気がするのだが、そんなことは、忘れてしまった。いや忘れていた方がいいと思っていた。自分はここに居るのだ。何も考えることは要らない…。
そんな中に、一羽の鳥が舞い降りた。大きな鳥だった。
維月は好奇心で、その鳥に近付き、そっと眺めた。
《なんと…こんな所にいたのか。》
聞き覚えのある声で、その鳥は話し掛けて来た。維月は恐る恐る聞いた。
『あの…私を知っているの?』
その鳥は見る見る人型になった。若い武将だった。
《会ったのは二度きりぞ。だが、話したのだぞ、維月。》
維月は不思議だった。鳥が人になるなんて…。
『何を、話したの?』
相手は微笑した。
《そうよの、主の夫のことに関してだ。偏屈な我の友人よ。》
維月は胸がズキンと痛んだ。なんだろう、それは聞きたくない。
維月は踵を返してその場を離れようとした。その武将は維月を止めた。
《なぜに逃げるのだ。主は、思い出さねばならぬ。》
維月はしゃがんで耳を塞いだ。
『やめて!私はここに居るわ。』
武将はこちらへ近付いて来た。
《ようわかるぞ、維月。主は二人の間でその身をどうすれば良いか、判断がつかなかったのだろう。我を見よ。》
維月はぼんやりと浮かんで来る記憶に、苦しさを感じて後ずさった。
『え…炎嘉様…。』
涙が流れて来る。炎嘉は頷いた。
《我を覚えておるの。主は今、己れを封じて、その身は抜け殻となって生きておる。主を殺したと、主を愛する者達を苦しめながらな。》
維月は黙って炎嘉を見返した。十六夜…維心様…。
『私は…帰らなければならないのですね。』
炎嘉は頷いた。
《維月よ、主はもはやどちらを選ぶ必要もない。あの二人は互いを認めておる。互いの中で主に対する立ち位置を決め、主が帰るのをただ待ちわびておるのだ。》
維月は首を振った。
『私が…いけないのですわ。戻ればまた…。』
炎嘉は維月の手を取った。
《王は我が儘ぞ。月も元より王のようなもの。双方が主を求め、主はそれに応じただけよ。我は主に頼んだの。我の友はもう、今はただ一人よ。》
維月は目を見張った。
『炎嘉様?!』
炎嘉は笑った。
《そうよ。我は今あちらへ逝く途中であるのよ。迎えに来た父が文句を言いながら待っておるわ。》
維月は炎嘉の手を握った。
『それなのに…来てくださったのですね。』
炎嘉は手を振った。
《何でもないことよ。我は維心があまりに不器用なので、心残りでならんかったのでな。これは我の為だ。》
維月は立ち上がった。
『炎嘉様…私、戻りますわ。必ず誰をも不幸にしないよう、お約束致します。』
炎嘉は満足そうに頷いた。
《主は強いの。次に我が世に出た時は、我が主を求めるかもしれぬ。》
維月が目を丸くすると、炎嘉は笑った。
《冗談だ。我はいつの世も、維心には勝てぬゆえな。》
炎嘉は維月を抱き上げ、上へと飛び立った。段々と黒い境界のようなものが見える。
《…さあ、出ようと念じよ。ここからは主の力で行くのだ。》
炎嘉は維月を離した。維月はその場に浮いたまま、出ることを念じた。
何かが割れる音がする。彼方に光が見えた。
《さあ、あちらへ行け。また会おうぞ、維月。》
『炎嘉様!』
光に吸い込まれるように上がって行く維月の目に、炎嘉と、その隣によく似た武将が見えた。
二人は維月を、満足げに見送っていた。
「王!維月様が!」
召し使いの声に、維心はそちらを慌てて見た。維月は涙を流していた。
「維月?!」
維心は慌ててそちらへ駆け寄った。維月は涙を流しながら、維心を見た。
「維心様…。」
「おお」維心は思わず維月を抱き寄せた。「気が付いたのか。」
維月は涙を流しながら、維心に言った。
「炎嘉様が…。」
「炎嘉?」
維心はまさにその炎嘉の葬式に出て来たところたったのだ。
「炎嘉様がいらっしゃいましたの。」
維心は言った。
「そうか、炎嘉が…。」
維心は涙が込み上げて来るのを感じた。維月は維心を見て言った。
「あちらへ逝く途中だとおっしゃいました。維心様が気掛かりでならないと、おっしゃって、お父上様もいらした。」
維心は笑った。
「やはり我は、あやつには勝てぬ。」
維月は維心を見上げた。
「炎嘉様もそのようにおっしゃいました。維心様には勝てないと。」
維心はかぶりを振った。
「我はいつも、やつが羨ましかったゆえな。」
維心は維月を抱き上げた。
「さあ、こちらで休むのだ。まだ気が付いたばかりなゆえ。」
奥の部屋に戻りながら、維心は言った。
するとそこに、十六夜が到着した。
「…気が付いたのか。」
維心は振り返った。
「十六夜、炎嘉だ。炎嘉が行ったのだ。」
十六夜は頷いた。維月は十六夜を見て、維心に言った。
「私を下ろしてくださいませ。」
維心はためらったが、維月を下ろした。維月は十六夜に歩み寄った。
「十六夜…」
十六夜は維月を見た。
「…すまなかった。オレがあんなことを聞いたばかりに。」
維月はかぶりを振った。
「私が悪いの。はっきりしない…どっち付かずで…。」
十六夜は維月を抱き寄せた。
「オレはわかっていたんだ。オレと維心はよく似ている。お前が選べなくなる可能性のこともな。それなのにオレは聞いた。はっきりしなくてもいいことだと、もう思っていたにも関わらずだ。」
維月は驚いた顔をして十六夜を見上げた。
「十六夜…どういうこと?」
十六夜は維月を抱き寄せたまま言った。
「お前の言う通りだ。オレはもっと神の世界を知らなきゃならねぇ。維心はオレと同じ時期に世に出て、責務を果たして来た。オレは今まで何もしなかった。この1500年を、取り返さなきゃならねぇんだ。」
維月は維心を振り返った。維心は頷いている。
十六夜は続けた。
「維月、ここに居て維心に守ってもらうんだ。オレはその間いろいろ学ばなきゃならねぇ。お前から目を反らすこともあるだろう。維心なら、それでも守り抜いてくれる。」そしてチラッと維心を見た。「だが、オレもお前に会いに来る。そこは譲れねぇからな。」
維月は驚いて言葉を失っている。十六夜は笑った。
「あのなあ、オレも神の一種なんだよ。やらなきゃならねぇ事があるなら、我満しなきゃならねぇ事もあるのはわかってらぁな。だが、お前を愛してるのには変わりねぇ。ほんとなら維心にだって譲りたくはねぇ。しかし、オレは遊び過ぎたんだ。これから取り返すさ。」
十六夜は、維心が居るにも関わらず維月に深く口付けた。そして離したのち、維心に言った。
「お前も少しは慣れな。オレはずっとこれに耐えたんだからな。闘気は出すな。」
維心から、ゆらっとほのかな闘気が立ち上るのが見てとれた。
十六夜は笑った。
「今日はこれで帰る。あと一ヶ月は顔を見せないでおいてやる。だが、蒼の人の結婚式もあるし、一ヶ月後には一度里へ戻せ。しばらくはオレに返してくれてもいいだろう。」
維心は眉を寄せたが、頷いた。十六夜は窓へ歩み寄った。
「十六夜…。」
維月が呼び掛けると、十六夜は振り返ってもう一度深く口付けた。
「一回帰って来い。その時までオレは我満するさ。」ますます闘気が膨れて来るのを感じ、十六夜は笑って窓から飛んだ。「維心!一ヶ月後までに我満を覚えておけよ!」
光の玉に戻った十六夜は、月へと帰って行った。
背後に、維心が立つのを感じた維月は、振り返った。
「…無理だ。」維心は呟いた。「我にはそのような我満は無理だ。」
維心は維月を抱き上げた。
「維心様?」
「奥へ戻るぞ。」
奥の寝台へ放り投げられた維月は、維心を振り返った。維心は喪に使う着物を上着に着ていたが、それを乱暴に床へ落とした。
「十六夜め、我が我満出来ぬのを知っておってあのように目の前で。」
維月はびっくりしてただ後ずさった。いつもは穏やかで取り乱すことさえないのに…。
維心は維月を組み敷いた。
「誰にも触らせたくないのは、我とて同じよ。維月、我と居る時は我のことだけ考えよ。」
深く口付けながら、維心は維月と心もつないだ。そして、体も重ねたのだった。
維心は、炎嘉の初七日の法要へ出掛けて行った。相変わらず、すぐに帰ると言い置いて、少し不機嫌に居間を後にして行った。
維月は、一人で昼食を取ると、庭の方を眺めていた。ふと、入り口辺りに気配がする。維心はまだ帰って来るには早かったので、誰だろうと見ていると、臣下の内の三人が、入って来て頭を下げた。多分、洪と公李と兆加だったと思う。いつも維心が話しているが、維月は話したことはなかった。洪は、維心の父の代からもずっと仕えている臣下の一人で、父の記憶の中に見たあの洪とは、孫に当たるのだと維心が話していた。
三人が入って来たにも関わらず、黙って頭を下げているので、維月は困った。そして、ハタと思い当たった。王の留守に、妃に話しかけることは禁じられているのだ。維月から声を掛けねばならない。維月は言った。
「え…っと、ごきげんよう、洪、公李、兆加。」
「ははー!」
維月はこちらがかしこまりたい気分だった。私、王族じゃないのに。
その声を聞いた召使い達が、慌てて部屋へ駆け込んで来た。それも一人や二人ではない。維心の世話係は全て集まったといった感じだった。壁際に並び、皆立っている。いつもなら来客があると、茶を出したりした後は部屋に入って来ないのに、維心が居るのと居ないのとでは、これほど変わるのかと維月は驚いた。
「維月様に於かれましては、将維様をお生みくださるという大役を果たして頂き、また、このたびは我が王の妃としてこの宮へお留まりくださるとのこと、王よりお聞き申しまして、御礼に参りました。」
洪が頭を下げたまま口上を述べた。維月はどうしたものやら困った。いつもは維心様はいいように答えてくださるのに。私、こんなのわからないわ。
「でも、蒼の人の結婚式にはあちらに戻らなければならないのです。」
洪は顔を上げて頷いた。
「それは存じておりまする。蒼様と瑤姫様の晴れの日のこと、存分に祝われていらしてくださればと。」
なんだかめんどくさいこと。維月はいいや、と思って、人と同じようにしようと思った。
「では、こちらに来てお茶でも頂きませんか?お話するのは初めてですもの、いろいろ宮のことも教えていただかなければならないから。」
召使い始め、臣下の三人は仰天して頭を下げた。
「そんな滅相もない!我が王のお留守に妃と同席したなどどいうことが、王のお耳にでも入れば…我らは大変な罰を受けまする!」
維月は眉を寄せた。なんでそうなのかしら。
「では、同席しなければ良いのでしょう。私は元々人なのです。神の間のことは良くわからないわ。維心様には私から申します。それで怒るようなら、貴方達が私に言ってくれればよいのです。維心様に意見申し上げますから。」
それでも渋っていた三人だが、渋々維月から離れたテーブルに付き、そこでお茶を飲み始めた。
維月は三人に話し掛けた。
「でも、維心様はそんなに恐ろしいかしら。初めてお会いした時から、穏やかな人で滅多に怒ることなんてないように思うのに。」
臣下達は顔を見合わせた。兆加が言う。
「なんの、維月様、王は大変に恐ろしいかたでいらっしゃいまする。維月様がいらしゃって、不機嫌でいるのはほとんどございませぬが、ご無礼を致しますと、女でもご容赦いただけませぬ。」
「でも」維月は言った。「無礼なことをする人なんて、こちらには居ないと思うけど。」
兆加と公李が洪を見た。洪は頭を掻いた。
「…それが維月様、王があまりにも妃を娶らず、またそばに女もお召しにならぬので、我ら策を講じまして…。」
公李が頷いた。
「洪殿が宮で一番美しいと言われる女を、王の奥の部屋の寝台に、入れておいたことがありました。」
維月は扇で口元を押えた。
「まあ」
公李は慌てて手を振った。
「今はそのようなこと決してございませぬゆえ。」
維月はふふと笑った。
「なんだか目に浮かぶわ。」
兆加が続けた。
「王が寝所に入られたので、我ら外で様子を伺っておりましたところ…」
兆加は身震いした。維月は眉を寄せた。
「…まさか殴ったりしてないわよね?」
洪がまた慌てて言った。
「まさか!王は直接手を下したり致しませぬ!」とため息を付き、「気が付けば王が気でその女をがんじがらめにし、同じく気で頭の上に翳して持ち、我らの潜んでいる真ん前にお立ちになっておりました。」
維月は声もなかった。公李は肩を落とした。
「あの時の王の形相たるや…二度と見とうはございませぬ。」
維月はほほほと笑った。なんだかその様子が手に取るように見えて、おかしかったのだ。
「笑い事ではございませぬ!我らがどれほどに恐ろしかったか…」
「しかし」兆加が皆を見て頷いた。「維月様が来られて、王は変わられ申した。いつも不機嫌なお顔をしておられたのに、それもなく、庭になど出ることもなかったのに、維月様となら散策され、また、維月様をお部屋に帰すことは未だ一度もなく、いつもご自分の寝所にお連れになって。」
維月は真っ赤になった。そんなことも知っているのね。洪が構わず続けた。
「…そうであるのに、維月様のお部屋はご自分の背向かいにわざわざ設えさせ、お着物やかんざしまでご自分でお選びになられて…。」
公李は涙も流さんばかりの表情になった。
「これならばお子もと思うておったら、こちらへ入られて一月もせぬ間に身籠られて。我ら、どれほどまでに安堵いたしたことか。」
洪は頷いて維月を見た。
「この上は、もう一人でも二人でもお生み頂きたくお願い申し上げます。王のお子なら何人生まれても良い。」
「…ほう。我もまだまだがんばらねばならぬの。」
「はい、王よ。」
と答えて洪は振り返り、びっくりして飛び上がった。「王!」
維心がそこに立っていた。いつもなら先触れがあるはずなのに、その先触れが息を切らせながら向こうから走って来ている。
やっと到着した先触れが、はあはあ言いながら維月に言った。
「王が、ご帰還であられまする…」
「維心様」維月は立ち上がった。「まあ、どうなさったの?先触れが来る前にこちらにいらしているなんて。」
後から入って来た義心が言った。
「王が結界に入った辺りからすごい勢いで飛ばれて険しいお顔をなされていたので…。」
どうやら結界に入って、居間に維月以外に男の気がしたのを感じたらしい。維月は維心に歩み寄った。
「三人が挨拶に来てくれたので、私、人の対応しか知らないから、一緒にお茶でもって言ったのですわ。でも、とても激しく断られたので、仕方なく離れてお茶を飲んでたんですの。」
維心は無表情で頷いた。
「それで、子をもっと生む話になっておったのだな。」
三人は膝をついて頭を下げている。
「申し訳ございませぬ!我ら維月様とつい、そのようなお話に…。」
維月は腰に手を当てて言った。
「まあ謝ることなどないわ!私が話したかったのですもの。何が悪いのかしら。」
維心は維月に言った。
「臣下と話したいのなら、我の居る時にせよ。こやつらだったから良いが、我は誰が居るのかと胆を冷やしたゆえに。」
維月はぷいと横を向いた。
「維心様、お心が狭いですわ。そのようなことで、臣下を叱ったりなさいますの?」
維心は、少し戸惑った。
「そうではない。もし主に何かあってはと、我は心配で…。」
「ご自分は私を置いてお出掛けになるのに」と維月はさっさと歩き出した。「私の部屋へ帰りまする。」
維心は追い掛けた。
「維月、次は連れて行くゆえに。今日は堅苦しい儀式であったのだぞ。主が来ても退屈であろうが。」
「もう、よろしいです。」
維月は出て行く。維心はそれをさらに追おうとして、ハタと足を止めた。臣下がこちらを見ている。
「王…。」
維心はフンと横を向いた。
「以後、気をつけよ。もう下がれ。」
維心は維月を追って、居間を出て行った。洪は、つぶやいた。
「王が…なんとお変わりになったことか。」
皆は、女とは恐ろしいものよと頷きあっていた。
維心は維月に追い付いた。
「待つのだ維月」と腕を取った。「主、我と共に来たかったのか?」
維月は頬を膨らませる。
「維心様は、私をお連れになりたくなかったのでしょう?」
維心は首を振った。
「違う。今日は炎嘉の初七日ぞ。そんな宴席なども…ないことはなかったが、我は女と飲むことはないゆえに。」
「男のかたがおっしゃることなど、あてにできませぬ。あの炎翔様が開かれた宴ですもの。私はお邪魔になりますものね。」
維月は維心に背を向けようとした。維心はしっかり腕を掴んで離さない。
「我は酌もさせてはおらぬ。早々に切り上げて帰って参ったのだぞ。我から香料の匂いもせぬであろうが。」
必死な維心を見ていると、維月はなんだか自分がいじめているような気がした。
「維心様…。」
力を抜いた維月を見て、維心はホッとしたような顔になった。
「…我は主が怖くてたまらぬわ。炎嘉の言っておったことが、今更ながらに身にしみるものよ。」
維月は維心を睨んだ。
「まあ!私よりずっと力をお持ちのくせに。」
維心は笑って維月を抱き寄せた。
「そうではない。主の心を失うのが怖いのよ。里へ帰って、もうこちらへ戻らなくなるのではと不安になる。我は…これではいけないのであるが。」
維月は維心に口付けた。それに応えながら、維心は言った。
「…我には主より他はおらぬ。さあ、我の部屋へ行こうぞ。臣下もそれを望んでおるのだからな。」
維月はびっくりして離れようとした。
「まあ、維心様。まだ日が高こうございます。」
維心はニッと笑って抱き上げた。
「何度も言わせるな。我は主の誘いは断れぬ。」




