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藤の中将 2

若月は幸せだった。

月の光の君を想っていた頃とは、違う想いだった。藤の中将は、毎日のように若月の所へ通い、若月は愛情というものを知った。

なんと、苦しいほどに甘美で、また喜ばしい気持ちであるのか。橘に話してやりたくて、我が身を鏡に映しては、語り掛けた。


しかしそんなある日、都より、流行り病が出たとの知らせが来た。しかし闇のせいで無ければ、若月にはなす術もない。瞬く間に病魔は広がり、しかも気の流れが不安定で大きな雹が降ったり、落雷が内裏にあったりで、ついに都を移して吉方の恩恵を得ようということになった。

遷都の知らせを真っ先に伝えて来たのは、中将であった。しかもそれは、急を要していた。

「月の上、早く支度を!ここから出るのです!」

いつも穏やかな中将のただならぬ様子に、若月はうろたえた。

「中将様?どちらへ行かれますのじゃ。」

中将は回りの女房達を急かした。

「主上から見付からぬ場所へ。」と中将は外の様子を見て舌打ちした。「しまった!もう来たのか…っ!こちらへ!」

若月は訳が分からず、中将に手を引かれて馬に乗った。中将は鞭を振るった。「はいっ!」

掛け声と共に駆け出した馬に、その場に居た何人かが気付いて追って来るのが見える。若月はただ中将に抱きつき、目をつぶっていた。


どれぐらい走っただろう。中将は海の近くの池で、馬に水を飲ませた。若月を馬から抱き下ろし、中将は言った。

「主上があなたを、新しい都の人柱にすると申したのです。あまりにひどい被害に、新しい都には、悪いものを何一つ入れはせぬように。」

若月は驚いた。人は、神すら封じてそこを守らせるのだという。ならば、我が選ばれるのも道理じゃ…。

「今日は満月」中将は空を見上げた。「あなたの力は使えない上に、明るすぎて逃げおおせるのも困難ですね」

中将は寂しげに笑った。それでも、中将様は我と逃げてくれたのだ。我を見捨てることなくー。若月はこんな時なのに、とても暖かい気持ちになった。

ふと、中将が険しい顔をした。何かが近付いて来る。彼は何か決意したような表情になり、若月を馬に乗せた。

「よろしいですね。ひきづなを、決して離してはなりませぬよ。」

「何を申されます?」

「私がここで彼らを引き付けます。その間に、あなたは馬で逃げるのです。」

若月は首を振った。

「そのようなこと、出来ませぬ!」

中将は馬の尻を叩いた。「はいっ!」

馬は勢いよく走り出した。必死で馬にしがみつきながら、若月は見た。藤の中将はたった一人でたくさんの役人と渡り合い、刀を振り回している。どこかから飛んできた矢が、彼に当たるのがおぼろげに見えた。

そして倒れた彼に、皆が一斉に縄をかけている…。

そこで、若月は馬から落ち、気を失った。



《…気を失っていた我は捕らえられ、気がついた我の目の前で、まだ息のあった中将様は、人柱として、あの場所へ埋められ申した。我は…我は中将様をお守りすることもできなんだ。月でありながら、あの満月の夜、力を使えない間に、かの人は封じられ、我もまた、離れた月の社へ封じられ申したのじゃ。》若月は泣き伏した。《我は今一度中将様にお会いしたい…!声を聞き、その身に触れて、共に逝きたいのじゃ。置いて逝かれるのは、我慢がならぬ…。》


蒼は、あまりの出来事に、口を開けなかった。人はなんと残酷になれるのだろう。そして、千年という月日、あそこに封じられたまま、別々に封じられた人を想い、過ごして来たなんて…。


あの旅館が見えて来た。皆で楽しく入った露天風呂は、めちゃめちゃになっていた。

あの時、隣りの風呂から聞こえて来た、母の笑い声が聞こえるような気がする。

若月が先にたどり着き、佇んでいた。崩れた岩の間に進み、回りの闇をまるで埃でも払うかのように余けた。

《我は十六夜様とは違い、光は扱えませぬが闇を操ることができ申すので、人に闇をつけ、このように…。我の浄化は闇を引き剥がす方法ですのじゃ。しかし、人を使って物は壊せても、封印は我では解くこと叶いませぬ。その力が欲しいばかりに、あの祟神の甘言を受入れ、力を借りる事と引き換えに、封印を解き申した。同じ月であるので、我にはあれを解くことが出来申したのです。それが、あのようなことになろうとは…。》

若月は、後悔しているようだった。

若月の視線の先には、あのとき岩風呂の底に見た、細い光が漏れている箇所があった。蒼は思った。あれだったのか…。

若月はそこに手をついた。

《ああ、我に力のある時であれば!我の身だけで済むことであったならば!かの君をこのような所に千年もおこめすること、ございませんでしたものを…。我はかの君さえご無事で、お幸せで居て下さるのなら、我が身が封じられようと構わなかったのじゃ。》

《それでは、私が不幸になり申そう》精悍な男声が響いた。《先に逝かれたあなたを思うあまり、私まで鬼になっておったかもしれぬ。》

若月は手の下から聞こえる中将の声に答えた。

《ではどうすれば良かったと申されるのですか。我に中将様をお守りする力さえあれば、満月の夜でさえ無ければ、あのようなむごい最後にならずに済んだであろうに。》

中将の声は優しかった。

《あなたは悪くはない。そのようにご自分をお責めになるのを感じる度、私はとてもつらかったのです。私こそ、あなたを守りきることも出来ず、ここに篭められてしまったのだから…。》

若月はその岩に顔を伏せて涙を流した。

《我も共にお連れ申せ。どうか、一人逝っておしまいにならないで。我は…我はもう、これ以上、一人残されるのは耐えられぬ…。》

それを聞いた十六夜は目を反らした。

「蒼、さっさとやってしまおうや。」

蒼は頷いて手を上げた。十六夜から降りた光が蒼より流れ出し、封印場所の上で、何やらウロウロとした。その後やはり、平たく広がると、星印が描かれ、その上に覆い被さるように降りた。

ジュッ…という音がして黒い霧がパラパラと崩れ落ちる。光は、あっさりと消えた。

若月が呼び掛ける。「藤の中将様…?」

岩は亀裂が入り、その隙間から、狩り衣姿の男性が光と共に姿を現した。

《月の君…!》

《中将様!!》

若月は迷いなくその腕に飛び込んだ。蒼はそれを見て、千年ぶりかと思うと、感無量だった。

《お会いしとうございました!もう叶わぬのかと…何度…。》

《あなたを悲しませてしまった。しかし、私は逝かねばならない…共に参られるか?》

若月は頷いた。

《我は不死の身でありまするが、手助けしてくださる神がおります。》

そして、十六夜と蒼を振り返った。

《我らと、龍の君の所へ共に参りませんか?》

蒼はあの滝を思い出した。

「若月を守っていた、あの龍神様のことか?」

若月は頷いた。

《はい。当主蒼様、龍の君は全てをご覧になっていて、ご存知でいらっしゃいまする。》

蒼は十六夜を振り返った。

「十六夜、オレは行くよ。最後まで若月を送ってやりたい。」

十六夜は溜息をついたが、頷いた。

「そうだろうな。お前はそんなヤツだ。連れて行けって言うんだろう?」

蒼は手を差し出した。十六夜はその手を取って、呟いた。

「オレも龍神には聞きてぇ事があるからな。」

若月と中将が飛び上がった。蒼も十六夜につかまって夜空へ飛び上がったのだった。


夜の滝は一層温度が低かった。

蒼は少し身震いして、滝の前に進んで行った。そこには、龍神が、もう人の形をとって待っていた。

《当主よ、礼を申すぞ。》龍神は言った。《よくぞこれを解放してくだされた。》

「龍神様こそ」蒼は、皮肉でなく真面目に言った。「ずっと若月を守っていてくださった上、助けてやろうと考えるなんて…神様は、他の神様に興味ないと思っていたのに。」

龍神は笑った。

《長く居ると娘のように思えるものだ。まして我の庇護下より出られぬとあってはの。》

そして若月を見た。

《逝くのか。》

若月はにっこり笑った。

《はい、龍の君。我を中将様と共に送ってくだされ。》

蒼は龍神が頷いたのを見て驚いた。月に寿命はないのではないのか…。

それを読み取ったかのように、龍神は蒼に言った。

《当主よ、我はなんの神と聞いておる?》

蒼は看板に大きく書かれてあるものを指差した。「子宝・安産の神様?」

龍神は鼻を鳴らした。

《フン、人はそのように言っておるだけだ。それだけではない。我は命のことを司っておるのよ。》

蒼は微かに希望の光が灯るのを感じた。

「母さん、母さんを生き返らせることは出来ますか?!」

龍神は首を振った。

《死んだものを蘇らせることは出来ぬ。命というものは一つなのだ。前当主は、既にあの体での生涯を閉じられた。再び開かれることはない。例えば他の命があれば別だがな。当主、自身の命、母のために差し出すのか?》

蒼は真剣に考えた。母さんはオレのためにでも命を投げ出す人だった…ならオレも…。

十六夜が後ろから蒼の腕を掴んだ。

「やめろ。それは維月が絶対に望まないことだ。それで蘇っても、維月は苦しむだけだ。」

「十六夜…。」

「維月がオレに約束させたことを思い出せ。あいつはオレに、お前を守りきれと言ったんだ。」

十六夜の記憶の中の母さんは、確かにそう言った。蒼は口唇を噛んだ。

龍神は若月の方を振り返った。

《後悔は、ないな。》

《何を申されまするか。》若月は嬉しそうに笑った。《愛しい人に死に遅れるのは、苦しいこと。そして残して逝くのも苦しいことでありまする。我らは共に逝ける。これほどの幸福がありまするでしょうか。》

「龍神。」十六夜が龍神に声を掛けた。蒼は意外だったので、びっくりしてそちらを見た。「ではオレのことも送れるのか?」

龍神が明らかに驚いた顔をしてこちらを見た。《月は、死にたいと望むか?》

「…もう全てに飽き飽きしてただけだ。同じことの繰り返しで、オレは死ぬこともねぇ。せめてこの意識だけでも、殺しちまってもらえるものならと思ってな。オレが居なくても、結局月はあそこにあるんだ。それは変わらねえんだよ。」

蒼は十六夜に向き合った。

「何言ってるんだよ!ずっと千年生きて来たんじゃないか。オレ達は傍に居て欲しい。無駄なことなんて何もないんだよ!」

十六夜は蒼を見て微笑した。

「何を言ってるんでぇ。お前も何十年ほどで、オレの前から居なくなっちまうくせに。」そして呟いた。「もう置いて逝かれるのには、こりごりなんだよ。」

龍神は厳しい顔で言った。

《主を送ることは出来る。だが共に逝けるかは分からぬぞ。かの者は先に逝っておるゆえな。》

龍神が誰のことを言っているのか分かった。十六夜は笑った。

「すぐ追い付くさ。」

《そのことでございまするが》若月が言う。《龍の君にお頼み申そうと思っておりました。》

龍神は顔をしかめた。

《お前までなんだ?》

若月は十六夜と蒼のほうを見、こう言った。

《我は不死の身でありまする。我を送ったら、我の命残りまする。その命、維月様にお渡しして頂けませぬか?》そして龍神を見、《お出来になられるか?》

龍神は心外な、という顔をした。

《出来るに決まっておるであろう。だがこれは、人に人の命を与えるのとは訳が違う。意味が分かるか?のう、月よ。》

振り返ると、十六夜が難しい顔をしている。蒼は、希望が見えて来たのに、なぜそんな顔をするのかと訝しんだ。それを察した龍神が蒼に言った。

《その苦しみは、それを感じたことのあるもので無ければわかるまいな。》

十六夜は明らかに迷っている。龍神は、姿を龍へと戻した。

《すぐには答えは出まい》そして若月達にも言った。《明日、この時間にここへ来るのだ。》

若月達は頷いた。

《我らは、急ぎませぬゆえ。》そして蒼を見、《では、明日また。》




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