遙
その数時間前、遙はリュックに荷物を詰め、二階の部屋から庭の植え込みに向かって投げた。
そして、何気ない振りをして庭へ出、隙を見てリュックを拾い、家を飛び出した。
大丈夫、貯めてあったお金は持った。携帯の電源も切ってある。今日は月も母さん達に告げ口出来ない。遙は調べてあった電車を乗り継ぎ、若月の元へ向かっていた。
《…事情は話した。遙よ、主には関係のないことであろう?我のことは忘れるのじゃ。》
若月は何度もそう言った。だが、遙には事情を聞いて尚更放って置けなかった。
遙には、攻撃の力はないが、守りの力は無限にあった。新月でも自分一人を守るなら、人の手を借りなくても、まず大丈夫なのだ。あの巨大な闇ほどの力でなければ。
感知の能力は人一倍強い。若月と最後に念のやり取りをした場所は、遙には容易にわかった。
バスを降り、歩き出した時には、もう日が暮れ掛かっていた。遙は回りの目を気にした。こんな時間にこんな所で一人で居るのを見られれば、15歳の自分は保護されてしまう。
だがしかし、周囲に人はいなかった。
しばらく歩くと、覚えのある気を感じた。間違いない。あの屋敷に若月がいる。遙は足を早めた。
たどり着くより前に、屋敷の門が開いた。
《遙!来てはならぬと申したではないか。》
若月が驚いて言う。遙は食い下がった。
「ほっとけないよ!私にはあまり力はないけど、それでも、若月をこれ以上一人にしとけない。」
《我は一人ではない。》若月は道を指した。《とく、去ぬるのじゃ。ここに居てはならぬ。》
遙は途方に暮れた。バスももうなく、帰ろうにも帰れない。事情を察し、若月はため息をついた。
《今日は十六夜様もお姿が見えぬのに。主をこのまま帰すことも出来ぬな…。》
若月は空を見上げた。おそらくその辺りに、月があるのだろう。若月は道を開けた。
《さ、中へ。だが決して今夜はここから出てはならぬぞ。》
遙はホッとして中へ入った。きれいに手入れされた庭を通り、屋敷の内へ上がる。若月は食事を用意してくれた。
「ありがとう。」
遙はそれを食べた。思えば腹ペコだった。その姿を見ながら、若月はクスリと笑った。
《ほんに主は、橘によお似ておるなあ…。》
若月の姿が橘のそれというのなら、確かに遙は橘に似ていた。長い髪と切れ長の目、背の高さもちょうどそんな感じなのだ。若月は髪を指した。
《それは最近の流行りか?皆、尼削ぎであるのな。髪は伸ばさぬものなのか?》
遙は髪に触った。
「私、これでも長い方なのよ。尼削ぎって言うの?」
若月は頷いた。
《昔はの、小さき子か尼に限りそのような長さに切ったものよな。主はまだ前髪も上げてはおらぬゆえ、我はまだ裳も迎えておらぬのかと思おておったが、なんと橘よりひと年上だと聞いて驚き申した。》
年より下に見られるのは慣れっこのはずの遙だったが、千年前の人にまでそう言われるとは、なんだか面白くなかった。一息ついた遙は、お茶を飲みながら話題を変えた。
「若月はなぜ、ここに居るの?月の社より離れているのに。」
若月はため息をついた。
《知らぬ方がよい。当主から問い詰められた時に、主は隠し通せるのか?》
遙はぷうっと膨れた。
「蒼のことなんかなんとでも言いくるめるもん。」
若月は首を振った。
《あれは歴代最強の当主ぞ。十六夜様をその身に降ろすことまで出来るというではないか、「人」には不可能であったに。それに大変な善の気に満ちておる。ゆえに曲がった気は、すぐに感じ取って消し去ってしまうのじゃ。いとも簡単にの。甘く見るものではない。例え兄であろうともの。》そして、窓から外を見た。《今日はこちらで休むと良い。とはいえ、まだ時はあるようじゃ。碁でも打つか?》
遙は頷いた。
「ちょっと上達したのよ。」
二局ほど打った時だった。
何やら嫌な風が吹いて来て、碁盤の上の石を散らした。若月が険しい顔つきをしている。
「ああ、石がわからなくなっちゃった・・・」
遙が拾い集めていると、若月は見向きもせずに言った。
《さあ遙、もう休め。我は外の様子を見て参る。》
今日は新月なのに。遙は心配になった。
「私も一緒に行こうか?今日は新月だし・・・。」
若月は厳しく言った。
《いらぬ。我は十六夜様と違おて新月の方が力が強いのじゃ。逆に満月になると地上に対する力が弱くなる。我らは陰と陽じゃからの。それより》若月はさらに厳しく言い放った。《ここには我の守りがある。決して外へは出てはならぬぞ。遙、わかったな?》
遙はその迫力に思わず頷いた。
若月はサッと部屋を出て行った。
遙は横になってしばらく待っていたが、一向に若月が戻ってくる気配がない。心配になり、外に出なければいいだろうと、屋敷の中をあちらこちらと若月の気を探して歩いた。
遙が居たのは表の対だったが、裏側にある対まで歩いた時、そこの庭に若月の気配を感じた。何やら話しているようだが、遙には若月の念しか聞こえて来なかった。
・・・人では無い何かと話してるんだ。
遙は恐くなって、屋敷のうちへ引っ込もうとした。
《遙!》若月の声が背後から聞こえる。《何をする!主には関係のない「人」であろう!》
遙は、何かに体を飲み込まれるのを感じた。寒い。冷たい。そして、苦しい。「若月・・・!」
遙は気を失った。若月の前には、黒く大きい闇の塊のようなものが、遙を巻き込んでその身に飲み込み、歪な形を幾様にも変形させながらそびえ立っていた。
《やつのニオイがする・・・》それは言った。《お前がなんと言おうと、こればかりは離さん。やつのもの、全て滅ぼすと誓った。お前に貸与えた力、必ず明日には返してもらうぞ・・・。》
黒い塊は、見掛けには似ても似つかない動きで飛び上がると、そのまま裏手へ飛び去った。若月は飛んで後を追った。祟神めが・・・!!
そこに、鉄の車が到着したのが見えた。あれは!
若月は急いで引き返し、車から降りてくる者たちを迎えた。
「若月!」
維月だ。若月は天の助けに思えた。
《前当主よ、我の責じゃ。》若月は叫んだ。《遙が祟神に連れ去られ申した。あの裏山じゃ!当主はいずれに?》
維月は裏山を睨んで言った。
「蒼は来ていないわ。動けないのよ、今日は新月でしょう。」
若月は頷いて再び飛び上がった。
《我は先に祟神を追い申す!》
有と恒がその場所を見て、顔色を無くした・・・ここはあの場所だ。
維月が思い切ったように走り出そうとするのを、有が腕を掴んで止めた。
「母さん、ここはあの場所じゃないの!ダメよ、祟神はきっと、月が封じたあの神様だわ!何かで封印が解けたのよ!だとしたら、一番に狙われるのは、母さんよ!」
維月は有の手を振り払った。
「遙がそれに捕らえられているのよ!早く助けないと、生気を全て抜かれてしまうわ!」
維月は走り出した。有と恒は慌てて後を追う。
しばらく走ると、その先に黒い塊と対峙する若月が見えた。以前見た時より力は強くなっているようだったが、それでも十六夜のそれとは比べ物にならない。しかも、彼女の力は、闇寄りの性質のようであった。
維月は、有と恒を振り返った。
「有、恒。母さんは、遙を解放させるわ。そうしたら若月がここへ遙を連れて来るから、あれが母さんに気を取られているうちに、車へ戻って全速力でここから逃れるのよ。」
有は首を振った。
「母さん一人で何が出来るの?今日は新月なのに!」
「若月がいるわ。あの子からは、本当の意味での悪を感じないの。大丈夫、食い止めてみせる。そのまま明日の夕方に蒼の力が復活するまで、必ず逃げ切るのよ。蒼と月が居れば、あんなのすぐに封じるわ。」
維月は立ち上がった。有と恒が引き止めようと身を乗り出す。
「あなた達はあなた達がやるべき事があるのよ。」
維月は二人から距離を置いて前に出て行った。後ろから、恒がか細く力を送って来るのがわかる。それが、ありがたかった。
そして、月のあるであろう方向を見上げた。
「月…もう、心の準備は出来たわね?」
なんだか声が聞こえたような気がした。
その声は必死で維月を止めているようだった。




