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「そう。生身じゃない智恵ちゃんは、俺の目の前にいて身体に戻って行ったんだ。」
微笑んだまま佐野さんに、ふわりと優しく抱きしめられた。
佐野さんから伝わる温もりが嬉しくて、私は力を抜いて腕の中で大人しくしていた。
しばらくして佐野さんが少し身体を離し、手で優しく前髪をあげた。まだ生々しい傷があらわになり、みるみる辛そうな顔になる。
いつもの治療のテープは診察の為に今日は剥がしていた。病院で貼って貰えばよかったと後悔してしまう。
「ごめんな。沢山痛い目させて…。痛みはどう?」
「随分、よくなりました。それに、佐野さんが気にする事じゃないでしょう。」
それになんで私は、またここに来てしまっているんだろう…。
夢のような日々の気持ちまでが蘇って来てしまう。
「じゃあ、まだ痛むんだね…。ちょっと、ごめんね…。」
片手は腰に添えられたまま、前髪を押さえていた手がゆっくりと頬を撫でた。そして、背中に回され少し力を入れて撫でられた。
「さわれる。擦り抜けない。柔らかくて暖かい生身だ…。」
思いがけない呟きに、ぷっと吹き出してしまった。
「なんか言い方が気持ち悪い…。ちゃんと無事に身体に戻れました。」
笑いながら言うと、にこりともせず切なげな眼差しと言葉で返されてしまった。
「薄くなって消えた後、すぐに病室に会いに行きたかった。」
「私は、もう会う事はないと思っていました。」
「智恵ちゃん、冷たいな…。やっぱり、性格も変わってないじゃないか。」
この前の別れの日、最後に寂しいそうで心配そうだった佐野さんは、同じようにぼやいても今はクスクス笑っていた。
会えて喜んでくれている顔を見て、心配してくれてたんだと嬉しかった。
そして、現実のカフェオレタイムをソファーで過ごしはじめた。
「カフェオレ甘くて美味しいです。」
実は飲みたかったカフェオレ。この温もりが好きだった。
「飲むのは初めてだね。あれから、木村から様子は聞いていたんだ。ずっと、会いたかった。
なのに智恵ちゃん忘れてて、佐野悠斗って分かっても思い出さずに親子丼バクバク食ってるし…。」
「お腹グゥグゥだったんですもん。
あの日々も、おぼろげな夢をみた感じの記憶だったんです。全部思い出してみたら、久しぶりな感じもするけど、なんか緊張しますね。」
ふいっと沈黙が訪れて隣を見ると、佐野さんと視線が絡みあった。
佐野さんの顔が近付いてきて、唇に唇が柔らかくしっとり触れ唇が軽く食まれ離れる。
え?
「今は夢じゃないでしょ?唇も、しっかり触れられたし。」
嬉しそうに笑う佐野さん。
そうだった…。
この人は、見ず知らずの女子高生の私に男の事情をベッドに寝転んだままペラペラ話した佐野だった。
「ひどい!初めてだったのに!」
「そうなの?大事な会いたい人とキスは?」
なんなんだ。言う事もする事も色々と突然すぎるこの人は。
「そんなの家族なのに、する訳ないでしょ!」
さらに嬉しそうに笑う佐野さん。
「じゃあ、二回もファーストキス貰ったね。ちゃんと、俺の身体でお礼するから。」
甘く妖しくニヤリと笑って言う。
そんな佐野さんについて行かない方がいいはずだ。
「そんなのいらない!」
「じゃあ、これは?」
ローテーブルに付いている下の棚から、佐野さんが大きな封筒を渡してくれた。開けてみたら中に、あのドラマの渋い弁護士さんのサインだった。
しかも私の名前入り…。
「あのドラマ今度また始まるんだ。それで、会う事があったから貰っておいた。」
思いがけないプレゼントに、顔が自然とにやけてしまう。
「…これでチャラにしてあげましょう。」
佐野さんは、クスクス笑っていた。
「足りないだろ。俺の身体も連絡先もあげるから。」
いらないと断ったのに、連絡先を交換してしまった。
その後、佐野さんのCDアルバムを無理矢理かけてもらい近況報告をしたりして楽しく過ごしていた。
「俺さぁ、ふらふらしてた智恵を呼んだのかもしれない。それで、壁も俺が作ってたのかもしれない。」
は?智恵?呼んだ?
いきなりなんだ?
「幽体離脱って言葉があるだろ?
もし、意識不明の時の意識が、そんな感じで勝手にふらふらしてるんなら俺の所に来たらいいのに。いない時に来たなら、逃がさないように囲っておいて病院に連れて行って身体に返してやるのにって思った時があったんだ。
ほら、智恵がここに来た日の帰りの電話の時くらいに。」
「怒鳴りつけて追い出そうとしたのに?
幽霊とか信じないって言ってませんでしたっけ?」
話しながら一人頷く佐野さんに、聞いてみる。
私が覚えている出会いと、佐野さんの言葉が余りにも違う。
「信じないから、人が入りこんでるのかと思って追い出そうとしたんだ。
ずっと、そんな事を考えていた訳じゃないのに、家に帰ったら智恵がいた。俺の所に智恵は来た。智恵に記憶が無かったし、俺も顔も名前も知らなかったから、すぐに分からなかったけど。
きっと、俺と智恵はすごく相性がいいんだよ。だから、あの状態の智恵の事を何も知らないのに、すぐに受け入れて惹かれて好きになって智恵に落ちたんだな。今日、会ってみてよく分かったな。」
一人で話ながら一人で納得した様な佐野さん。
私も、あの日に帰りたくないと思ってはいたけれど、佐野さんに独り言の様に言われ、どう反応したら良いかわからない。
もし、佐野さんがそんな余計な事を考えてなかったら早く身体に戻れていたのかな?
それとも…。
怖い考えになりそうだったので、考えるのは止めた。
「だから、ゆっくりしていって…。」
そう肩を抱かれ引き寄せられた。
心までは引き寄せられないように、したのに…。
「ゆっくりって言われても…。今日だけですよ。」
「智恵が消えた後、すぐに病院の駐車場までは行った。調度仕事も忙しくなったから、忘れる為にも頑張った。だけど、どうしても頭から離れなかった。」
いくら溜息まじりに甘く切なく言われても、目を合わせてはいけない…。
なのに、そんな私の頬に手を添えられ、目を合わせさせられる。
言葉の響きより切なげに強く見つめる視線に、心までが絡み取られてしまいそうだ。
軽く目を閉じながら近づく佐野さんの唇が、優しくしっとりと唇に何度も触れる。存在を確かめる様に頬にあった手が背中をゆっくりなでる。
やがて、唇は離され
「智恵はこんなに可愛い顔もするんだな。やっと会えた。もう、俺の前から消えないで…。」
掠れた色のある声で囁かれ、また唇が合わさった。
「晩飯作るから食べてよ。」
それから何かを振り切るように、晩御飯を佐野さんが作りはじめる。作れる事も美味しかった事も驚きだ。
外が暗くなった頃、佐野さんが車でマンションの前まで送ってくれた。
「やっぱり、また連れて帰ってもいい?」
慌てて車を降りて家に帰った。
自分の部屋のベッドにほうり投げる携帯が、有名人の個人情報が入った分だけ重く感じた夜だった。