13 ???、???!
真円を描いた蒼月が中天に輝き、放たれる青白い光が、寝静まった街を明々と照らす。街の中央に堂々とそびえ立つ尖塔も又、その輝きにくっきりと照らし出された。
月の輝きが強ければ強いほど、又、影も濃くなる。尖塔の影の部分に取りついた小さな人影に気づく者は誰一人いない。
低層部に大きな石を積み重ねて造られたそれを登る事は困難を極める。大人ではまず無理だろう。件の小さな影はそのような不可能に挑み、少しずつ、着実に成果を上げていた。
時折、警備の為に歩く衛兵たちの松明の光がその影の主を照らしだす。塔への侵入など不可能であるという思い込みから、衛兵たちが上を見上げる事はない。
照らし出された影の主はまだ少年。
暫し動きを止めてやり過ごし、衛兵たちがその場を離れるとほっと一息ついて再び登り始めた。細い指と身軽な身体を存分に駆使して、岩の隙間に指をかけ、ようやく三階の明かりとりの窓へと辿りついた。
身をこじ入れるようにして、中へと侵入する。すっかり人気の途絶えた通路に降り立ち、ほっと一つ溜息をついた。
どこか遠くでゴォーと低い音が響く。聞き覚えのあるような気がしたものの、直ぐに意識から消えた。
通路には松明が点々と輝き、付近に人影は見当たらない。時折、遠くから、非番の兵たちが賭けごとに興じる声が聞こえ、女たちの嬌声がそれに重なった。乱れる呼吸を必死に整え少年は歩を進める。己の心音が、呼吸の音が、そして鼻をすする音すらもが大きく響くように思われた。見つかれば只では済まない。だが、成し遂げねばならぬ理由が少年にはあった。
その街で暮らす少年は、昼間、薬草士見習いとして日々を過ごす。
日頃は通りの市で薬草を売り、時には、怪我の絶えぬ剣闘士達の元へと赴き、品々を売り歩く。この街唯一の娯楽の担い手であるその需要は、自由民とはいえ最下層身分の貧しい少年にとって重要な収入だった。
売り上げの大半を取り上げられる事と引き換えに、少年は師である薬草士より薬草の知識を享受する。それは必要なものだった。どうしても助けたい人がいる――それが少年を突き動かす動機だった。
幼馴染の年上の少女。
病気がちで、幼いころから床に伏していることの多かった彼女は、ここ暫く、日に日に衰弱していた。そう長くは持たないだろう、という師である薬草士の見立ては少年に残酷な現実を突きつけた。
貧しい生まれの病弱な者に、さしのべられる手などありはしない。家族からも不要なものとして扱われる彼女は、それでも己が不幸を決して嘆くでもなく、迫りくる死をものともせずに、日々笑顔で少年を出迎えた。まるでそれが唯一己に出来るこの世での使命であるかのように。
かつて天気の良い日に時折、顔を見せたという、伝説の尖塔の美姫などよりも、少年にとってはその笑顔が愛しく大切だった。
『助ける事はできないのか?』
少年の必死の問いに薬草士は小さく首を振るばかりだった。
『諦めろ。死にゆく命だ。彼女はとうに誰にも必要とされぬ事を納得している』
師の残酷な言葉に大きく動揺しながらも、少年は必死に食い下がった。気の毒に思ったのか、ふと師が漏らした。
『そうだな、あるいは、秘薬でもあれば、奇跡が起きるやもしれぬな』
尖塔の地下宝物庫に眠ると噂される秘薬――いかなる病もたちどころに癒し、活力を与えると言われるそれは残念ながら、少年の身分では手の届くものではない。真に必要とする者の手に決して行き渡らぬそれは、だれも来ぬその場所で永遠の時を過ごし、静かに朽ち果てる。そのような理不尽が堂々とまかり通るのが人の世である。
――どんなにあがいても手が届かぬのならば、いっそのこと奪ってしまえ!
決断した少年はすぐさま行動をおこす。
尖塔に出入りを許される下働きの者達の間を回り、巧みに誘導しながら塔内の情報を密かに集める。そして、計画を立て、実行に移した。もはや後戻りの許されぬその挑戦に、少年は敢然と挑むのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その街の支配者はすでに狂っていた。
溺愛した娘が、世を儚み、遥か塔の最上層より身を投げたその時から、全てを投げ出し、只、その躯とともに日々を過ごす。一見、穏やかなその街の政情はすでに、様々な混乱の種を内包し、外敵の密かな謀略により、すでに内応者も多いという。
だが、そのような事情など少年には預かり知らぬ事。彼は己の目的の達成のためにのみ只、走った。
三階から二階へ、そして一階へ……。
堅固な守備を誇るその建物の内部の警備は恐ろしいほどにゆるい。侵入者をわざとおびき寄せるためではないかと疑いつつも、少年はひた走った。目的の地下倉庫を目指し、冷たい石の床を裸足で走り続ける。
その目的を阻む最大の難所は一階にある警備詰所だった。そこには常に二人の人員が配置され、地下の倉庫の鍵が置いてあるという。番兵に気づかれることなく鍵を抜きとり、地下へと辿りつく事は、戦いの術すらしらぬ非力な少年には不可能といえた。
半開きになった扉の隙間から少年は中の様子を窺う。
詰所にいる二人の番兵は、すっかり緩み切った様子で雑談に耽っている。街の大人達とほとんど変わらぬ話の内容に耳を傾けつつ、少年は逸る気持ちを抑え、懐に手を入れる。
取り出したのは一つの包み。中に入っているのは師の家の薬品棚から拝借した、強力な眠り薬だった。
扉の隙間から腕を伸ばし、入口の側にある大きな水甕にそれをそっと注ぐ。
気付かれることなく作業を終えた少年は、ひたすらに時を待つ。
彼らが席を立つたびに、緊張し、呼吸が荒くなる。
幾度も落胆を重ね、永遠にも感じられる長い時間が経過した後で、ようやくその時は訪れた。机に突っ伏したまま眠りこむ二人の男の姿を確認し、少年は音もなく部屋へと侵入する。
部屋の壁に無造作にかけられた鍵束を見つけ、震える手でそれを奪う。こすれ合う金属の音が妙に大きく響き、その心胆を寒からしめた。
――うまくいきすぎる。これは罠ではないのか。
――男達は寝たふりをしてるだけでは……。
――扉の向こうに別の兵が立っているのでは……。
次々に浮かぶ不安を振り払い、少年は最後の行動を起こす。手の中の鍵を使って目的の物を見つけ回収し、少女の元へ。
儚い笑顔が眩しく輝き、二人で過ごす、より明るい未来を胸に、地下への階段を駆け降りる。
階段を駆け降りる瞬間、再びゴォーと低い音が耳朶をうつ。何かの警告に思えたものの、振り返ってもそこには何もない。
直ぐに脳裏からそれを打ち消し、逸る気持ちを抑え、夢中で駆けこんだ地下に広がる大空洞。
その場所で想定外の事態を目のあたりにして、少年は呆然と立ち尽した。
おそらくは宝物庫であろうと思われる扉が複数。この中から目的の物を見つけるのは一苦労だろう。その作業には根気が試され、それなりに時間を取られる事になるはずだった。だが、そのような煩わしい作業に取り掛かることすら許されぬ事態が目の前に立ち塞がっていた。
――予期せぬ一人の番人の存在。
両足に鉄球の枷を取り付けられ、首の枷から伸びた鎖は、壁に頑丈に固定されている。
あたかも石像の如く隆々とした筋骨を誇るその巨躯は、武器である巨大な戦鎚を片手に堂々と立ちはだかる。地下室の壁面で心もとなげにゆれる松明の輝きでは、十分な光量は得られず、その表情は見えづらい。
ふらふらと数歩踏み出した少年のそれ以上の前進を阻むかのように、番人は厳かに告げた。
「知らぬ顔だな……。何者だ?」
感情のこもらぬその言葉は形式だけの問いである。
常の少年ならば適当なウソを並べて、相手を翻弄する場面である。だが、眼前の番人の全身から放たれる重苦しい気迫がそれを許さなかった。震える声で少年は言う。
「そ、そこを通せ! ボ、ボクはお前の後ろにある宝物庫に用があるんだ!」
番人はクツクツと笑う。
「成程、盗人か……。待ちに待った初めての仕事が、子供の相手とはつくづくツキのないことだ」
巨大な戦鎚の石突きを強かに床にたたきつけると、番人はつまらなさそうに言った。
「宝が欲しければ押し通るがいい。ただし、我が戦鎚の一撃で醜い肉片となることを約束しよう」
明確な殺害予告のあとで、さらに続けた。
「少年、悪いが貴様のような子供が相手ではなんの張り合いもない。疾く去ね。見逃そう」
優しげな言葉とは裏腹に、仄かな明かりに照らし出され一瞬垣間見えたその表情は、平坦そのものだった。名も知らぬ者達との命のやり取りが当たり前の世界で生きてきた者のみが持つ無慈悲な感情。
少年にとっての番人が障害物であるように、番人にとっての少年も同じである。
それでも少年は前に進まねばならない。
求める物はすぐ目の前にあり、それを手にするにはこの難関を越えなければならない。
首輪で移動を制限された番人の隙を窺うように、恐る恐る、一歩また一歩と先に進む。
不意に強烈な戦鎚の一撃が眼前の床石に叩きつけられた。打撃音が反響し、地下室全体が揺れる。
余りの迫力に少年は慌てて後方へと飛び下がった。全身の毛が逆立ち、下半身が縮みあがる。圧倒的な力の差に理性よりも本能が、これ以上、その場に留まる事を拒絶する。
「聞こえなかったのか、少年。それとも命が要らぬのか? 酸いも甘いも噛み分ける程には、まだ生きておらぬだろうに……」
「それでもボクは、その向こうに行かなければならないんだ!」
「そうか。では次の一撃で終わらせよう」
感情もなく番人は少年に言い渡し、そのまま黙した。
ふと、番人の腕に刻まれた罪人の証が目にとまった。何らかの罪を犯しその償いとしての役割を果たそうとしているのだろう。
「お前、どうして、この場所にいる?」
番人の返事はない。少年は続けた。
「そんなに強いんだったら、その鎖を断ち切って逃げだせばいいじゃないか! アンタほどに強ければどこでだって自由に生きられるはずだ」
――そう、お前さえここにいなければ、ボクの望みは叶うんだ!
あらゆるものを凌駕するほどの圧倒的な強さ。仕事がてら、幾人もの剣闘士達を見てきた少年の目から見ても、眼前の番人の放つ気配の強さは群を抜いている。
もしも己にそれほどの力があれば、この程度の困難など難なく乗り越え、幼馴染の少女を救う事ができたはず。彼女を連れ自由気ままに生きる事すらも。それが無い物ねだりと分かっていながら、己の非力さに唇をかみしめる。
「自由か……。詰まらぬ幻想だ……」
番人はぽつりと呟いた。
「何者にも束縛されぬ自由など只の苦痛でしかない。得られるのは緩慢な死のみ。人は何かに束縛されるからこそ生きていけるのだ」
「そんなのウソだ! 皆、それを求めて出来ずにいるってのに……」
「出来ぬのではない。只、憧れに留めているだけだ。あらゆるものからの解放とはすなわち死。皆、言葉では分からずとも、その事に気付いているからこそ、人は望んで何かに縛られるのだ……」
「そんなのボクは認めない!」
目の前にいる番人は唯の臆病者。己の意思のままに生きてその願いをかなえる為に足掻く事から逃げ出した卑怯者。
――そんな奴にボクの望みが阻まれる事など許せない。
ふと脳裏に一つの光景が思い浮かぶ。
どんな事をしても守りたかった女性。腕の中で存在そのものが消えていくその瞬間が蘇る。
――モウ、アンナオモイハ、タクサンダ!
それは少年のものではない、もう一人の彼の無念。
それらが重なった瞬間、あるはずのない物が少年の手の中に現れた。
少年は無我夢中でそれを投げ付け目を閉じる。突如として、まるで太陽が現れたかのような閃光が地下室の中で輝き、番人の視界を直撃した。
薄らぐ光の中、苦悶の声を上げる番人の姿を見咎めるや否や、少年は勇気を振り絞り、まっすぐ走りだす。にぎりしめた鍵束を手に大切な少女の為にひた走る。無事に駆け抜けようとしたその瞬間、苦悶する番人の手に握られた巨大な戦鎚がうなりを上げ、足元に叩きつけられた。
石床が割れ、ぽっかりと生まれた穴に小さな少年の身体は飲み込まれる。
足場を失い、バランスを失った少年は水の流れる音を耳にした。次いでその身体が冷たい水面に叩きつけられ、水路の中へと消えていく。
「運のいい奴だ。今度現れたなら、我を出し抜いたその命、確かにもらいうけよう」
地下水路の強い流れの中で天井に空いた穴から番人の声が聞こえた。さらに何かを言うかのようなその声も、激しく流れる水音にかき消される。
――チクショウ、あと少しだったのに……。
悔しさをかみしめ、再戦を決意しつつ、少年の身体は街の水源地へと流されていく。幾度も溺れかけながら、再びゴォーと低い音を耳にする。それは何かの雄叫びのように思えた。
その正体にようやく気付くと、彼の意識は徐々に遠ざかった……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
中天に煌々と輝く蒼い満月。
その怪しい蒼光に照らし出された街の建物の窓には、まだ所々に、光がともっている。
無数の明かりの数と同じだけの数の人々が己が足元で暮らす姿を、彼女は遥か高みから見下ろすだけである。
対等な者すらいない孤独な日々。
お付きの者にかしずかれるだけの彼女は『姫』とは名ばかりの生きたお人形だった。
つややかで豊かな黄金色の髪にシミ一つない滑らかな白磁の肌。蒼月の輝きを思わせる怜悧な美貌と伸びやかな四肢をはじめとする均整のとれた肢体。
過保護な父王に塔の上層に押し込まれ、彼女は何不自由ない不自由な日々を送る。退屈なだけの教師達の相手をしながら、時折、国の柱としての王の威厳の傍らを飾りたてるだけの日々。国の至宝と謳われるほどの美姫である彼女に必要とされるのは人形としての役割だけであり、その感情は国の繁栄には必要とはされない。
父王は時折、彼女を伴い、自由をかけて戦う剣闘士達が奮戦する闘技会の観覧に興じる。
天幕に覆われた観覧席の中から、筋骨隆々とした男達が血を流し合う様を目にするのは彼女にとって苦痛でしかない。
悪戯な風が天幕をひるがえした拍子に偶然目があった、巨人をも思わせる一人の剣闘士の姿に、彼女は慌てて眼を逸らす。
――あれは人というよりは野獣ね。
湧き立つ観衆の中で、懸命に物売りに励む子供の姿の方が、彼女には逞しく見えた。
そのような彼女の願いは唯一つ。
いつか、才気あふれた逞しい若者が固く閉ざされた己の部屋の扉を開き、緑の野へと己を連れて逃げること。
己の部屋の窓から見える遥か街の外に広がる緑の草原や山々に、彼女はとりとめもない想いを馳せる。いつかその場所に立った彼女は、若者に手を取られて胸のすくような大冒険の日々を送るのだと……。
だが、彼女を取り巻く日々は至って平凡なものだった。
『まあ、姫様、まだ起きておいでになられたのですか? 夜風は御身にさわります。姫様にもしものことがあっては私が叱られてしまいます。ご自重を……』
人の良い笑みを浮かべた侍従が、彼女を窓際から立ち去らせ、寝間へと手を引いた。
――私はもう子供ではないのよ!
幾度も重ねる抗議もあっさり聞き流され、彼女は瞬く間に寝間へと誘われた。
身にまとった薄絹をはらりと脱ぎ捨て、一糸まとわぬその身を寝台へと滑り込ませ、彼女はその目を閉じる。彼女の脱いだ薄絹を手にした侍従は、一礼するとそのまま立ち去った。
目を開けば又、今日と変わらぬ明日が来る。
――ソウ、ソレハ、トテモ、タイクツナ、ヒビダッタ。
ゴォーと耳鳴りのように響くその音と共に、誰かがそう呟いたような気がしたのを耳にしながら、彼女は眠りについた。
夜半、ふと、彼女は眼を覚ました。まだ周囲は暗いままである。寝台の上に起き上がり、耳をすませた。
どこか遠くで人々の争うような音がする。
それはさほど珍しいことではない。近頃何かと不穏なうわさのある国の内外の問題を巡って、家臣たちが絶えず紛糾している事は、浮世離れした日々を送る彼女ですら気付いている。
だが、その夜のそれは何かが違った。
一糸まとわぬ姿でするりと寝所を抜けだした彼女は、おそるおそる扉の向こうの気配を窺う。自分では決して開ける事の出来ぬその扉の向こうで一体何が起きているのかと困惑する。
遥か塔の階下では争うような声と同時に悲鳴が起き、幾つもの金属音が衝突する。
――何かが起きている、それも尋常ではない何かが。
全く変わらぬ平凡すぎる日常に浸りきったその感覚が、起きつつある異常な事態に強烈な警報をならす。
慌てて寝所に立ち戻り、部屋の扉を閉ざす。もっとも鍵すらついてないその扉などあってなきがごとし。
落ち着かぬ様子で寝所の中をうろうろと歩き回ると、彼女はふと思い立ち、薄い掛け布をその裸身に巻きつけた。歩くのに邪魔な部分をひざ上まで引き裂く。いつもなら直ぐにかけつけるはずの侍従も何故か一向に姿を見せない。
初めて感じた不安と緊張に彼女は癇癪を起した。
――一体、何がどうなってるの?
身の周りの何もかもを周囲の者達にまかせっきりの日々は、それらを突如として奪われてしまった彼女を木偶にする。いつもの彼女からは想像もつかぬ悪態が自然に口を突いて出た。
不意に、遥か階下に足音を聞く。
石造りの建物に響く聞きなれぬそれは、一歩一歩確実に彼女の部屋へと近づいていた。塔の上層階にある彼女の部屋からは長い螺旋階段を通じて、屋上へとつながるのみである。
足音の主は、ほぼ間違いなく彼女の部屋に向かっているのだろう。
過去幾度も夢想した、己をこの場所から連れ出すはずの若者の軽やかな足音と全く違うそれは、重々しく、オドロオドロしい。まるで死の国からの使者をも連想させるその響きに、彼女は恐怖した。
――どこかに、隠れなければ。
いつも連れ出される事を夢見た緑豊かな草原の光景など浮かぶはずもなく、彼女は混乱する頭で周囲を見回す。
着実に近づいてくる足音に恐怖し、彼女は無我夢中で身を隠した。
やがて、足音の主は彼女の部屋の外で立ち止まる。暫しの間を置いて、凄まじい音と共に扉が破壊され、その様子は隠れている彼女の耳に届いた。
扉を破壊するや否や、侵入者は彼女の部屋を物色する。目的のものが見当たらぬのか、しばし立ち止まると、再び歩き始め、寝所の扉の前に立った。即座にそれを蹴り開け荒々しく侵入する。
己の居場所を土足で踏みにじられる怒りよりも、その傍若無人な振る舞いに彼女は恐怖した。
寝所内の水甕を叩き割り、寝台に近づいた侵入者はそれに手をかけると凄まじい膂力でひっくり返した。その下に隠れていた彼女の姿が露わになる。
怯えた彼女の視界に入ったのは、巨大な戦鎚を手にした巨漢の男。その顔に彼女は見覚えがあった。
あの日、闘技会の会場に吹いた悪戯な風のせいで偶然目を合わせた野獣のような男。名前すら知らぬ見覚えのあるその男と向き合い、彼女は怯えた。
二人の間に僅かな沈黙が訪れる。やがて男はすっくと手を差し出した。
「来い。欲しいのは自由であろう?」
全てを見透かされたかのようなその言葉と男の視線に彼女はうろたえる。
それは彼女が長年、望んだはずの状況だった。だが、荒々しさばかりが目につく男の行為はただ彼女の嫌悪感のみを刺激するだけだった。
――こんなのは……、私が望んだ出会いではない!
気付けば彼女は、高らかに叫んでいた。
「下がりおれ、下郎。我はこの国の至宝。貴様の如き下賤な輩が気安く手を触れて良いものではない!」
差し出された手を跳ね除け、己の力で立ち上がり、それでも遥か高い場所にある男の顔を睨み返す。
男はその姿にくつくつと笑う。
「面白い奴だ。只の人形ではない訳だ。では、その至宝、強引にでも頂いていく事にしよう」
男の放った『人形』という言葉が彼女の怒りに火を点け、己を捕らえようと再び差し出された手をかいくぐり、彼女は寝所を走り出た。ちっと舌打ちする男の気配を背で感じつつ、彼女は部屋を飛び出した。
飛び出したその場所で彼女は嗅ぎなれぬ不快なにおいに顔をしかめた。それが闘技会の会場に充満した血臭である事に気づき、彼女はそこから逃げるように上へ上へと塔の螺旋を登っていく。
ひたひたと裸足で走るその足音に、荒々しい男のそれが重なった。巨大な戦鎚を片手についてくる男の影におびえつつ彼女は螺旋をかけのぼる。徐々に重くなる足を無理矢理進ませて、彼女は、只、やみくもに逃げまどった。
やがて辿りついた最上層の扉に寄りかかり、全身で押しあける。扉が開いた拍子につんのめり、彼女は屋上の床を転がった。国の至宝と謳われた白磁の肌も美しい足も擦り傷だらけで、その時、彼女は痛みというものを初めて知った。
尖塔の屋上には鐘楼があり、僅かな奥行きが広がるだけある。慌てて扉を閉めようとした彼女だったが、直ぐ背後に男の気配に驚き、後ずさる。狭い区画のその場所で直ぐに逃げ場を失った彼女は、尖塔の壁石の上に追い詰められた。
相変わらず、救出に赴く家臣たちの気配はなく、空に輝く蒼月のみが頼りなげに佇む彼女の姿を見守った。
壁石の上に立った彼女は初めて男と真っ直ぐ視線を合わせた。もっとも月明かりが逆光となってその表情は読めなかったが……。
「死にたいのか、お前?」
蒼い月の光にその美貌を輝かせる彼女に男は静かに尋ねた。
その言葉に息を飲む。己が死ぬなどという事態など想定したこともない彼女は、図らずも身を置くことになったその状況にただ困惑する。
いかなる身の支えもないその場所でふと振り返れば、遥か足元には見慣れた民家の明かりの輝きがちらほらと見える。
「望むのは生きている証だろう? そのような浅はかな解放ではあるまい。ましてやお前には、その覚悟すらない」
全てを見透かすその言葉が彼女を追い詰める。国の至宝といわれる己の内心を、このような野卑な下郎に暴かれ辱められる事はその誇りが許さなかった。
「他者にかしずかれ人形のように生きる日々よりも、我が腕に抱かれ女の喜びを知り、傷つき血を流すことで生きてみたいのではないのか?」
「黙りおれ、下郎。それ以上の辱めはゆるさぬ! 我を下賤な端女と同じに扱うでない、無礼者!」
屈辱と怒りに顔を赤く染め、彼女は叫んだ。
だが、その内心は大きく揺れる。長く望んだはずのそれがすぐそこにある。だが、己の思い描いたものとは全く異なる実現の仕方に納得がいかず、彼女はその足を踏みとどめた。
――ホントウニ、ソレデ、イイノ?
ゴォーという耳鳴りのような低い音と共に、何者かの言葉が耳に響いた。
――いいに決まっている!
己はこの国の支配者の娘。それに相応しき扱いは当然に与えられるべきである。浮世離れしたその感覚が、己が望みの実現を阻んでいることなどに、気付くはずもない。
一陣の風がふと吹きつける。
尖塔の壁端に頼りなげに立つその肢体がぐらりと大きく揺れ、バランスをとろうと反射的に伸ばした手を、男が慌てて掴もうとする。
だが、その手は届かなかった。
大きく傾いた彼女の肢体は尖塔からふわりと舞い、身を包んでいた薄布が解けて宙に広がる。生まれたままの姿で宙を舞う彼女を包んだ風のざわめきに、黄金色の髪がふわりと広がった。
ゆっくりと遠ざかりゆく世界の中で、蒼く輝く月の光に、男の表情が照らし出された。
初めて見るその驚きの表情の中に、とても悲しい光を宿しているのに気づいたのを最後に、彼女の意識は途切れたのだった。
2013/10/15 初稿