10 カメジロー、そして伝説へ!
無限に広がる白砂原。
最後のチェックポイントを堂々一位で通過したブリトバはその一族の有するカメ《カメガロン》の背の上で、圧倒的なレース展開に、大きく安堵していた。予想されうる全てのアクシデントを見越して盤石な手をうつ。その結果としてのレース展開は客観的にみれば『地味』の一言に尽きるが、実行する側には途方もないプレッシャーがかかる。
このレースに勝つ為にあらゆる手段をとり、名実ともに砂漠の民の長である、酋長職へと就く。それが彼の悲願である。今、それがすぐ手の届くところまできていた。
勝利者とは常に一人。故に孤独である。だが、その孤独と引き換えに得られるものこそが勝利者の特権でもある。
それがブリトバの哲学である。
己が野望を達成する為に、堂々と正攻法でふさわしき座を勝ち取ること――それは長すぎる歴史と伝統を持つ砂漠の民の日常の前には絵空事である。例え、その者が有力部族の出身であったとしても。
長い年月の間、幾世代にも渡って、培われてきたそれらは、変化を嫌う保守的な人間の本能の営みの結晶であり、いかに変革を望む者の言葉が正しく聞こえようとも、積み重ねた日常を破壊するというその一点において、彼らの存在は忌避される。
だが、一見、絶対的とも思えるそれらを、いともたやすく破壊する魔法の如き手段が、世の中には存在する。
――カネである。
空腹と貧困は倫理のタガをいとも容易く破壊し、利潤の取得手段に対して平等であるはずの部族の間に差が生まれ、他者が己よりも裕福であればある程、人の心の天秤は容易に負の側へと傾いていく。建て前が現実とかい離すればするほど、その効果は大きい。
数年前、次期酋長とみなされていたナシェムの父、サジムが病で死んだと知ったその日、ブリトバは狂喜した。
砂漠の民の中で最も影響力のある部族の出身であり、常に野心家のブリトバの前に立ちはだかり、己の行く手を阻む彼が世を去ったことで、人生最大の転機が訪れたのである。
砂漠の民の頂点に立つ事――それが、あらゆる面でサジムに劣っていたブリトバが彼を越えた事を証明する唯一の方法だった。
砂漠の交易が生み出す巨大な利権を餌に、その奪取を目論む《自由都市同盟》と密かに手を結び、有力部族の長達を次々に懐柔する。
老人が頑固なら部族の女衆から、時には弱小部族の不満を焚きつけ、着々と足元を固める。
いかに強固な団結力を誇るように見えても、分不相応な望みを抱える愚か者はどこにでもいる。形ばかりの平穏を望み、困難から目を逸らしたがる老人達に都合よくそれらを解決してやることで、彼は着々とその評価を上げた。そして彼らを取り込み、内部から揺さぶり表ざたにできぬ一族の秘め事を握ることで、既に裏側は完全に抑えていた。後は大義名分が必要なだけであり、それがこの《カメカメレース》での勝利だった。
サジムの死から数年、ブリトバの執念は今、ようやく花開こうとしていた。
己は何者かの意思によって選ばれた特別な存在である――いつしかブリトバは、己の事をそう自負していた。
そのような彼のやり口をよく思わぬ者は当然多い。とはいえ、決定的に勢づいてしまった流れの中では、連帯感を伴わぬ個々人の不満など、砂の大海に放りこまれた石つぶてでしかない。
だが、その全てが彼の目論見通りであった訳でもない。
なり上がりの野心家にありがちな独善的な性格のせい故か、彼の息子達はどれも己の後継者としてその眼鏡に叶うものではなかった。
カメを操る技術や、交易を差配する技術は人並みとはいえ、所詮は部族の長止まり。大局に立って物事を見る戦略眼、異なる立場に立つ人心の裏側を見抜く用心深さには乏しく、後継者には全くふさわしくない愚鈍さばかりが目に付いた。
それが劣等感を心の内側に押し隠す者にありがちな、『近親憎悪』である事に彼は気付かない。己が特別な存在であると自負する彼も所詮は、普遍的な人間の枠の範疇から逃れることなどできはしない。
――だが、それもいいだろう。
人は所詮、孤独である。
己が死んだ後の事まであれこれと思い悩む必要はない。愚か者は愚か者なりに足を引っ張り合って、どうにかやっていくものである。傍らのゲスト席で立ったり座ったりを繰り返し、落ち着かぬ様子の愚息達の姿を目端に捉えつつ、ふと、サジムの息子に思いを馳せた。
一族の若き長でありながら、気弱さばかりが目につくその姿に多くの者達は批判的であるが、ブリトバの評価は異なる。
気弱で無能であると彼自身が認めるが故に増長することなく、彼は周囲と調和し、うまく事を成し遂げて行く術を身につけていくだろう。そしてそれだけの下地が、長い歴史と伝統を誇る彼の一族の中には確かに存在する。『真の名門』とはそのようなものである。
今は彼にとっては試練の刻。そして『時』という師は、未熟な若き弟子を逞しく育てるもの。
だが、彼の成長とその一族の権威の復活を黙認するほど、ブリトバはお人好しではない。
このレースに勝った暁には、彼ら一族を徹底的に追い落とし、カメを奪い、辺境へと追いやり消滅させる――将来において脅威になりかねぬ者達の排除の準備は、すでに万端に整っていた。
「悪いな、サジム。勝つのは俺だ! 恨むなら、先に死んだ己の不甲斐なさを呪うんだな……」
人の価値は能力が決めるのではない。いかに長く生き、ズル賢く、要領よく立ち回るかである。
小さく呟き、薄く笑みを浮かべる。人生最高の時を前に、年甲斐もなく逸る心を押さえつけるかのように奥歯をかみしめた。
ふと、彼は息子達の声を耳にした。
一族初めてのレース優勝を確かめんと、先程から頻繁に甲羅の後方に足を運んでは、後続が迫ってこない事を確認していた彼らが小さく騒ぎ立てる。
「カメだ! 親父、カメだ! カメが来るぞ!」
怯えを含んだその叫びに、一つ溜息をつく。
彼らに迫れる者などありはしない。一族の守り手《カメガロン》は、ナシェムの一族の《カメジロー》に迫る力を持っている。そしてすでに《カメジロー》はトラップによって脱落している。
大局観に立てば、彼らの優勝を脅かし、後で怒りを買うような愚かな真似をする者など存在する訳がない。それが分かるだけの器量ある後継者ならば、今、ブリトバの傍らにしっかりと腰を落ち着けて前を見据え、レース後の展開を考えているはずである。あるいは、さらにその先……、父である己を亡き者とし、際限なく広がる己が野心の実現を夢想する。それこそが、彼が求める後継者の資質である。
――無能な奴らめ!
怒鳴りつける気も起きずに彼らを無視しようとしたブリトバだったが、その肩を一人の息子が掴んだ。
「聞こえないのかよ、親父、カメが迫って来てるんだ! いや、あれはカメなんかじゃない。カメの形をした何かだ!」
恥も外聞もなく怯えた声を上げる彼らの振る舞いについに耐えきれず、ブリトバは立ち上がり振り返った。
ふと、甲羅の中央にそびえる《社》の姿が目に入る。それも又、彼にとって侮蔑の対象である。
語り継がれる一族の歴史と伝統を形あるものにせんと、砂漠の民は《社》に装飾を重ねる。時代が下るごとにそれは過度に、そして無意味に競い合われてきた。時にはその装飾方法の先後を巡りマネをしただのされただのと、族長会議の調停が必要な程の争いを起こすこともある。互いの競争心のみを刺激し合う同族達の愚行の極みとしか思えぬその行為に、彼は常々、冷たい視線を送ってきた。
悲願成就の暁には、この《社》にふんだんのカネを使って、他の部族が決してマネできぬほどの豪華絢爛な物を打ち立て、愚か者達に彼我の差を見せつけてやろう。そのように考え、彼は老朽化しつつあるカメの《社》を放置してきた。
その《社》の向こうにそびえ立つ巨大な砂柱――。
周囲に砂煙をまき散らし、その中心で砂嵐と共に暴走していたのは、一頭のカメだった。だが、その顔に見覚えはない。
きりりと目を見開き、咆哮を上げて突撃するカメの背に砂漠の民の誇りの証である《社》は存在しない。そして、圧倒的な速度で迫りくるその甲羅の上に、仁王立ちする一人の男の姿が目に入った。その姿に驚愕する。
――あれは、サジム! いや、バカな、奴は死んだはずだ!
ゴシゴシと目をこすり、迫りくるものの真実を確かめる。それは……。
カメである。
いや、カメではない。
カメの形をした何か……。
そして、その背の上に仁王立ちして高笑いを上げていたのは……。
「ナシェムか!」
その瞬間、彼の顔面は蒼白となる。それは決してあり得ない、あってはならぬ光景であった。
複雑な人の世で、表情と腹の中の言葉が異なる生き方に染まった者は、醜く浅ましい現実こそが絶対となり、その外側にある人の善意や常識の範疇を越えた奇跡の存在を素直に受け付けられなくなる。その狭間が大きく崩れた時、彼らはただ呆然と立ち尽くし、その現実から目を逸らすかの如く喚き散らすのみである。分別を知らぬ子供のように……。
正気を失い混乱するブリトバ一族を背にのせ逃げるように先をいく《カメガロン》に、《カメジロー》の甲羅が鈍い音を立てて激突する。
それは人の世の枷に雁字搦めに縛りつけられた矮小な存在を、圧倒的に無慈悲な力が弾き飛ばした瞬間だった。同時にそれは、砂漠の民が失いかけていた部族の誇りを取り戻そうとする瞬間でもあった。
カメと共に勢いよく弾き飛ばされ、放り出された浮遊感の中で、ブリトバは無意識に叫んでいた。
「カメだ!」と。
ふと、一つの逸話を思い出す。
子供の頃、気弱で泣き虫だったナシェムを、彼の息子達はよくいじめて泣かせていたという。所詮は子供の世界の出来事と関心を持たなかった彼だったが、ある日を境にその行為はピタリと収まったらしい。
何かの拍子に激昂したナシェムが、《半月刀》を両手に伝説の砂漠の魔人よろしく、彼らを三日三晩、追い回したという事を後で別の一族の者から聞いたブリトバだったが、その時の彼は、その大袈裟すぎる逸話を気にも留めなかった。
――あれは、本当のことだったのか!
ナシェムは気弱な調停者などではない。傲岸不遜な砂漠の覇者である。
彼はナシェムの本質を大きく見誤っていたことにようやく気がついた。だが、時すでに遅し……。
その瞬間において、長年の野望に終止符を打たれたことに、彼がようやく気づいたのはもう少し後の話である。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
複数の甲羅の突起にロープを幾重にも縛りつけて造った簡易ゲスト席に、身をかがめ、しがみつくようにして、三人はカメジローの突撃が生み出す圧力に耐えていた。アルティナが結界を張り、甲羅の上に轟々と渦巻く風の勢いを弱めるものの、効果は薄い。
補助魔法を使って己を強化した三人の冒険者達がようやくの思いで耐えているその場所で、《操作士》のナシェムは高笑いを上げて、仁王立ちしている。今の彼は相棒である《カメジロー》とともに人智を超えた存在となっているようだ。
彼らが《カメジロー》の勝利を確信したのは、走りだしたその瞬間だった。圧倒的な瞬発力と突進力は周囲の環境を容赦なく激変させ、走る厄災と化していた。
先を行くカメ達に追いついては次々に弾き飛ばしていく。悲鳴と共に砂地に頭から突っ込んでいく冒険者達を尻目にザックス達が心配するのは、自分達が生きて帰れるだろうかということだけだった。絶対的な危機の場に立たされた者は他者の不幸に鈍感になるらしい。
カメ達の列を容赦なくなぎ倒し、すっかり前が開けた頃になって、ようやくアルティナが尋ねた。
「ね、ねえ、ザックス、そろそろ、まずいんじゃない!」
「なんだって? 聞こえねえよ!」
不意に彼らを取り巻く風の結界の密度が高まる。
「そろそろ、まずいんじゃないのかって、言ってるの」
「まずいって、何が?」
「あれのことだよ、あれ……」
クロルが指さす先には地平線にうっすらと浮かぶ《サンダスト》の街がある。この《カメジロー》の勢いならば瞬く間に辿りつくだろう。当然《サンダスト》は、彼が乗ったままの《カメジロー》の猛威に襲われ、街は大変なことになるに違いない。
先程、おそらくは最後となるであろうカメを弾き飛ばした後、《操作士席》のあった場所で仁王立ちしていたナシェムの高笑いは収まっていた。ゴールを見据えて、思案しているという風情にも見えるが、何やら様子がおかしい。
三人は顔を見合わせると、意を決し、甲羅を這ってナシェムに近づいた。
ナシェムがアルティナの結界に包まれるや否や、ザックスは恐る恐る呼びかける。
「ナシェムさん!」
だが、返事はない。這いつくばったまま足を引っ張るものの反応もない。
「まさか……」
おそるおそる正面に回って彼を見上げたザックスは、そのまま絶句した。
「どうしたの?」
二人の仲間も同じように見上げ、彼らも又言葉を失った。
カメジローの上で仁王立ちしたままの状態で、ナシェムは気絶していた。当然意識はなく、呼びかけて反応がある訳もない。
そのままばったりと仰向けに倒れるその身体を慌てて三人で受けとめ、そのまま横たえさせる。
「これって、どうなるのかしら?」
「まあ、ナシェムさんが目を覚ますまで、カメジローが走り続けるだけのことさ……」
「そうそう、街がひとつばかり壊滅するってだけの話だから……」
三人は目を逸らし合い、予言者のごとく、予想しうる最も確かな未来を口にする。暫し、思いつく限りの現実逃避をした後で三人は顔を見合わせ、騒ぎ始めた。
「ど、どうするんだよ?」
「し、しらないわよ……」
「無責任だよ、キミ、こういう時こそ、リーダーの出番だろ!」
「無茶苦茶言うな。この状況で何ができるっていうんだ! それより何かいい知恵はないのかよ?」
「そんなに都合よくある訳ないだろ。だいたい、急に頼られたって困るよ。ボク、子供だもん!」
「お、お前、まだ根に持ってたのか……」
三人の冒険者達が、わいわいがやがやと賑やかに責任を押し付け合う間にも、《サンダスト》の街の外観は次第にはっきりとしていた。ナシェムの身体を揺り起すものの反応はない。このままでは一族どころか砂漠の民そのものの滅亡の危機である。
「ええい、もうどうにでもなれ!」
ほとんどやけっぱちで、首にかかっていたナシェムの笛を取り上げ、ザックスは調子っぱずれな旋律を吹きならす。耳の良いアルティナが涙目になって抗議するものの、今は無視である。
だが、カメジローの突進は止まらない。むしろ加速したように感じられるのは気のせいに違いない。
「もう、飛び降りるって訳にもいきそうにないな……」
「どうやら、覚悟を決めるしか……ないみたいね」
「そうだね……」
冒険者になって一体、何度目の覚悟だろう、などと考えながら、横たわったままのナシェムを庇い、三人で身を寄せ合う。
「こういう時、やっぱり、創世神にお願いするべきなのかしら?」
「エルフの姫君がそれでいいのかよ……」
「ボクは別に構わないよ、助けてくれるなら魔王でも、カメ様でも……」
目先の危機を回避する為ならば、人のモラルなど、いともたやすく崩壊するものらしい。成す術もなく悲鳴を上げた三人は、《カメジロー》と共に《サンダスト》の街へと突っ込んでいった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
中天に輝く太陽が僅かに西に傾き始めた頃、《サンダスト》の《カメカメレース》会場で己の部族のカメ達の帰還を待つ人々は、地平線に小さな砂煙が立ち上る様子に湧き立ち始めた。
「さあ、いよいよ、先頭のカメが戻ってきたようです。今年の優勝者は一体誰なのか? 我々は運命と緊張のこの瞬間に、今、立ち合おうとしています」
長時間待たされた鬱憤を観客たちとともに晴らすべく、名物実況である男の弁舌が再び冴えわたる。
「時に、過酷な環境下において予期せぬトラブルに見舞われ、それを柔軟な智恵で乗り切ったのでしょう。あるいは、吹き荒れる砂塵の中、チームワークが乱れ、仲違いしながらも、それでも手を取り合って前に進み、より強い絆で結ばれた彼らにはきっといくつものドラマがあったことでしょう。あらゆる障害を乗り越え、今、砂漠の勇者たちが凱旋するのです。同胞達よ、彼らの勇気と忍耐と団結力を大いに褒めたたえましょう! そしてそれらを支えたカメ達の奮闘に大いなる尊敬と感謝を!」
大げさすぎる出迎えの文句に一つ区切りをつけ、彼はドワーフ郷の名工の手によって作られたという特注の遠眼鏡を覗き込む。
次に彼から言葉が発せられるのを人々は固唾をのんで見守った。会場内に一瞬の緊張と静寂が訪れる。
誰もが、勝利者の名が告げられるその瞬間を、今や遅しと待ちかまえていた。
だが、彼は遠眼鏡を手にしたまま、一向に口を開かない。徐々にざわめきが広がった。
一度、喋りはじめたら止まらない、一晩中喋り続けても翌日はけろりとしているという逸話すらある、《カメカメレース》名物実況の彼が言葉を失っている――その事実が観客達の心にさざ波を立て、徐々にそれは大きく広がっていく。
「おい、どうなってんだ!」
「勝利者は誰なのよ?」
「新たな焦らしテクか? やるじゃねぇか!」
口々に飛ぶヤジにもめげず、彼は一心不乱に遠眼鏡を覗き込む。しばらくして、それを持つ手がわなわなと大きく震え始めた。
突然、遠眼鏡が彼の手から滑り落ち、高精度を誇るレンズが粉微塵に砕け散る。同時に顔面蒼白となった彼に、周囲の者たちは怪訝な顔をした。気遣う周囲の言葉に耳も貸さず、彼は只一言、大きな声で叫んだ。
「カメだ!」と。
場内に爆笑が生まれる。カメが帰ってくるのは当然の事。こいつ一体、何を言ってやがるという失笑に会場内が湧いた。
「バカヤロウ。テメエは初めて来た旅人か?」
「カメなのは当たり前だろ。カメのレースなんだからよ!」
「バカなこと言ってないで仕事しなさい、仕事! クビにするわよ!」
容赦ないヤジなど耳も貸さずに、彼はうわ言のように、「カメだ、カメだ」と騒ぎ立てる。あきれ果てた観衆達は、彼の報告を諦め己れの目で結果を確かめるべく遥か地平線に目を凝らした。
一人、又一人とそれに続き、やがて観客席全体がひと時の沈黙に包まれる。
それからさほど時が経たずして――。
とある一人の男がぽつりと呟いた。
「カメだ!」と。
そしてさらに次の者が続いた。
「カメだ!」と。
やがて次々に「カメだ!」「カメだ!」と呟きが漏れ、それはついに叫びとなって混乱を生み出した。
砂嵐を巻き起こし、巨大な砂柱とともに迫りくる一匹のカメ。
砂漠の民達が見たこともない『殺る気満々』の表情で疾駆し、ゴール地点であるこの場所に接近しつつある。
「おお、カメ様がお怒りじゃー」
突然、眉唾ものの砂漠の伝説を語り始めたとある老人の言葉が、次々に周囲に伝播し、混乱した観客席は阿鼻叫喚のるつぼと化す。近づく脅威と予想される惨禍から逃れるべく人々は一目散に逃げ出した。
蜘蛛の子を散らすように観客達が逃げ出し、無人となったその場所に一人ポツリと取り残され、実況の男ははたと我に返った。
迫りくる謎の圧倒的な脅威。そして、彼の仕事はその真実を余すことなく伝える事。
誇張が過ぎる、喋りすぎだ、中身がない、などと陰口をたたかれながらも、眼前の真実を感じたままに人々に伝えることこそが彼の誇りであり、本来の姿である。だが、今回のレースでは運営側に特殊な指示を出され、お役御免をちらつかされながら圧力をかけられ、彼は不承不承、それに従った。
スタート後のカメ達を見送ったその後で、その心には大きな後悔が広がり、彼はこのレースを最後にこの役目を下りる事を密かに誓っていた。
――これは、喋るだけが取り柄のあまりにもちっぽけな私の人生の中で、二度とお目にかかれぬ最後の大仕事となるでしょう。
彼は一つ大きく深呼吸すると呪文を唱え、再び風術魔法を駆使して、己の使命を果たそうと試みる。
「ついに、ついに最後の、栄光の瞬間がやってまいりました。幾多の猛者を押しのけ現れたのは、意外や意外、正体不明の謎のカメ! 前代未聞で猪突猛進、縦横邁進に獅子奮迅、天下無双の大逆無道、不羈奔放に赫々然々。やれ、根回しだの取引だのと小細工ばかり弄して、父祖が守ってきた伝統を忘れつつある近年の《カメカメレース》参加者と、それを黙認してきた砂漠の民達に怒涛の鉄槌を下すべく、鬼気迫る勢いでゴール地点に突進してきます。今、私の眼前には巨大な砂の壁が立ちはだかり、砂漠の民の傲慢さをあざ笑うかのように圧倒的な力でねじ伏せようとしています。ああ、友よ、妻よ、兄弟達よ、父上、母上、爺様、婆様、そして子供達よ! 私達はカメガメの怒りを前に、もはや成す術もありません。今こそ私達は日々の驕りを反省することで、初心に……、私達のあるべき姿に、立ち返る時ではないでしょうか?」
すでに砂煙は眼前に迫っている。だが、彼はひるむことなく、ゴールの瞬間を人々に伝えようと仁王立ちする。
そしてついにその瞬間が訪れた。
殺る気満々、鬼気迫る表情のカメが大地を揺らし、人っ子ひとりいないゴール地点へと飛び込んでいく。
「そして今、万感の思いを胸に、謎のカメが……、堂々と……、ゴーーーーーーーールッ…………」
それを最後に、砂煙と共に引き起こされた砂の大波が観客席をおそう。頭からそれを被ってそれでも立ち尽くす実況の男の声はついに途絶えたものの、無事ではあるようだ。彼の最後の叫びが聞こえたのか、ゴールの瞬間、《カメジロー》が四肢を甲羅にしまいこんだ。だが、ついた勢いはそうそう簡単に収まらない。
巨大な甲羅が港口から大通りへと滑り抜け、そのまま街の中央目掛けて疾駆する。
そして……。
周囲に路面の砂をまきちらしながら突進する甲羅は、多くの悲鳴を受けつつ、ついに街の中央へと至り、建築中のブリトバの銅像に激突した。大金をかけて絢爛豪華な装飾が施された彼の銅像が音を立てて崩れ、造りかけの頭部がごろりと転がり、二つに割れる。《カメジロー》の甲羅は崩れたそれに乗り上げることでようやくその勢いを止めた。
濛々と湧き立つ砂煙が収まるのにはかなりの時間を要した。
やがて、それが収まり、澄んだ青い空が再び顔を見せた街の中心で、優勝者であるカメの背中の上にふらつきながら立つ四人の姿に、多くの砂漠の民が畏怖し、大いなる荒ぶるカメに向かって跪いたという。
こうして……。
その年の《カメカメレース》は、完走者一組という前代未聞の結末とともに幕を下ろしたのだった――。
2013/10/09 初稿