09 砂漠の民、畏れおののく!
初めて、笛を吹いたのは十の時だった。
《操作士》だった父に教えられるままに旋律を奏で、巨大なカメが思い通りに動いた時の感動は今でも忘れられない。
『カメは守り神であると同時にトモダチでもあるのさ』
部族の伝統を誇らしげに語る父の言葉を胸に刻み、彼は夢中で笛の練習を重ねた。
『でも、カメだけがトモダチであってはいけないよ』
人付き合いの苦手な父がはにかみながら言った言葉も又、胸に刻まれた。
だが、やはり、カメの子はカメであるというべきか……。彼の人生も又、友と呼べる者は少なかった。
人間とカメとでは流れる時が異なる。砂漠中を転々としながら、カメと共に時を過ごせば過ごす程、人の世界の情理が遠くなるのは当然のことだろう。
それでも彼は笛を吹き続けた。交易においても、レースにおいても、おそらく人生という長い旅路の結末を迎えるまでカメとともに砂漠に在り続けるだろう。
――そのはずだった。
「カ、カメだ!」
背後のゲスト冒険者達が騒ぎ立てる。その声を背に受け、「何を今更……」と小さく呟いた。
砂漠に暮らさぬ者達にとって巨大な砂ガメは珍しい。だが、それはほんの一時の事。大人しいカメ達の存在故に、半刻も立たず皆慣れるものだ。
だが、彼らは何故か騒ぎ立てる。
巨大なモンスターなど見慣れているだろうになんと気の小さな奴らなのか……。そろそろレースも中盤から終盤に差し掛かろうという時になって困ったことである。
「お、おい、アンタ、早く逃げろよ! カメなんだよ、カメ!」
血相を変えた一人の冒険者が彼の肩を叩く。
「ああ、分かってるよ、だからゲスト席で大人しくしてな」
前方にも後方にも同じレースを走る数体のカメ達がいる。節度や良識といったものに縁遠い冒険者という人種に、彼はもともとあまりよい感情を抱いてはいない。今日一日の我慢であると割り切っていたのだが、あまりに騒ぎ立てる彼らに苦情の一つも言いたくなるのが人情である。
一つため息をつき、肩を叩いた男に振り向いたその瞬間――。彼は言葉を失った。
その顔に張り付いていた表情は尋常でない恐怖だった。
大の男が、しかも荒事に慣れているはずの冒険者が恥も外聞もなく訴える程の恐怖とは、一体何なのか? 笛を吹く手を止め立ち上がると、つられるようにその視線を彼が指さす方角に向ける。そして……、再び言葉を失った。
カメの背にある《社》の向こうにあったのは巨大な砂嵐だった。その中に彼は何かの影を見た。
かつてないほどの速さで迫りくる砂嵐に一つ、又一つ、後続のカメ達が巻き込まれては、玉突きの玉のごとく、背の冒険者もろとも次々に弾き飛ばされていく。ひっくり返った甲羅がくるくると回転しながら砂地を転がっていくその姿は、脅威だった。
――逃げなければ! あれはヤバいものだ!
砂漠の民としての、否、人という生き物の持つ直感がそう告げる。あれに決して逆らってはならぬ、と。
だが、身体はすくみ言う事を聞かない。直ぐ傍らに立つ冒険者も又、同様だった。
そして、その巨大な砂嵐は彼とそのカメにも迫り、ついに彼らを巻き込んだ。
弾き飛ばされる瞬間、砂嵐の中に彼は確かに何かを見た。そして彼は夢中で叫んだ。
「カメだ!」と。
次の瞬間、彼は気絶し、救助された後の記憶はあやふやであったらしい。
その後、レースが終わってからしばらくの間、彼は笛を吹く事ができなかった。何か心に大きなトラウマを抱えたせいらしく、その克服には相当な時間がかかった。代わりに彼には人間のトモダチが多くでき、《操作士》として復帰してからのその後の人生は、少しばかり明るく楽しいものになったという。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
冒険者になったのは出会いを求めての事だった。
母方の祖母が流浪のエルフだったせいか、彼女の容姿にはその影響が濃く出ていた。だが、マナの扱いはさほどでもなく、彼女の冒険者としての能力は並み以下であった。
その目立つ外見から、冒険者としての能力に過剰な期待を寄せる者達も多く、勝手に期待し、勝手に落胆しては離れていくその繰り返しに、いつしかうんざりしていた。
フリーの冒険者としてどうにかクエストにありついて日々を送る中である日の事、彼女は少し毛色の変わったクエストを所属する酒場の店主に押し付けられた。
砂漠で行われる《カメカメレース》でのゲスト参加。ゲスト席に只座っているだけでよいという実に単純なものだった。
報酬額と依頼内容の単純さに首をかしげつつそれを引き受け、その場所に向かったものの、依頼主からはさらに奇妙な要求を受けた。依頼内容と実体が異なるというのはこの手のクエストではよくあることである。
「レース中、カメの乗り手達を誘惑しろ!」
似たような境遇の女性冒険者達と共に抗議したものの、聞き入れられる事はない。とはいえ、そこそこ報酬額がよかっただけにキャンセルはできなかった。世の中にはもっと破廉恥極まりない依頼もあるだけに、この程度で憤慨していては、今後の冒険者としての生活は成り立たなくなる。
一つ、彼女の興味を引いたのはゲスト参加者の中に《魔将殺し》なる者がいたことである。
最近、あちらこちらで何かと話題となる人物だけに、その興味はつきなかった。新たな出会いを期待したといってもよいだろう。
種族の異なる三人で知恵を絞り、仮装まがいの格好で挑発してはみたものの、引っ掛かるのは品位と知性にいささか以上に欠ける男達ばかりである。何よりも、美形というには程遠いが、冒険者としてよい面構えをした当の《魔将殺し》の傍らには、己など足元にも及ばない程に輝く美貌に恵まれた生粋のエルフの存在があった。
――あれには勝てないわ、絶対に……。
本能的に負けを認め、大きな傷を負わぬうちに早々に試合場から立ち去る事にする。
如何に人目を引く容姿とて、所詮は月とカメ。
上には上がいるという人の世の理をまたもや思い知らされ、すっかり暗い気分でカメの背の上で時を過ごす。このレースで共に知り合った二人の女冒険者達も同様だった。
日が高くなるに連れ、徐々に強くなる日差しに肌が焼ける。日除け外套を羽織れば、暑くてたまらない。
肝心のレースの内容は、ほぼ出来レース。罠にはめられ脱落していく《魔将殺し》達の姿に、人の世の嫌な部分をたっぷりと見せつけられ、さらに暗い気分になる。乗っているカメとその《操作士》は勝負事の駆け引きを楽しむこともなく、只ひたすらに与えられた仕事をルーチンワークのようにこなすかの如く、足を進めるばかりである。
全く面白くなく退屈なだけの時間が経過するうち、皆だんだんと不機嫌になり、カメの背中の上で笑顔すら消えた三人の間に険悪な空気が生まれ始める、そんな時だった。
「カメだ!」
という叫び声が周囲のカメの背中から聞こえてきた。その叫びは次々に伝播し、あちらこちらのカメの上で冒険者達が騒ぎ始める。同行者達と顔を見合わせ、後方を振り向いた彼女が見たのは、巨大な砂嵐だった
もうもうと砂煙をまき散らし、後続のカメ達を飲み込んでは弾き飛ばし、幾つもの悲鳴が砂漠を駆け巡る。
「じょ、冗談じゃないわ」
「何やってんのよ、さっさと逃げなさい!」
「こんな所で死んだら、只の犬死じゃない!」
「ちょっと、それってアタシへのあてつけかしら!」
「うるさいわね、こんな時に種族的偏見なんてどうだっていいでしょう、バカじゃないの、アンタ!」
「ぬぁーんですって!」
唖然としたまま身動き一つしないで立ち尽くす《操作士》を三人で蹴飛ばしながら、互いにののしり合う。巨大な危険が眼前に迫っていても、目先の事でいがみ合ってしまうのが、種族を越えた悲しい女の性である。
そして――。
操作士を踏みつけ取っ組み合いを始めた三人を乗せたカメは、例外なく砂嵐へと巻き込まれる。その中でほんの一瞬見えた巨大な影の姿に、彼女と同行者達は口々に叫んでいた。
「カメだ!」と。
激しい衝撃とともに気の遠くなっていくその瞬間、ああ人生ってこんなものなのね、とどこか達観した思いに彼女は包まれた……。
その後、救助され運び込まれた救護院で彼女は一つの運命的な出会いを果たしたらしい。後になってこの日の出来事を振り返った彼女は、「私はきっとあの時、生まれ変わったのよ」といっては、周囲の者達を笑わせたという。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
《カメカメレース》に参加するのはカメに守護された部族だけではない。レースの裏方としても多くの砂漠の民達が様々な役割に従事する。コース上にある複数のチェックポイントでカメ達の通過を確認する係もそんな仕事の一つである。
毎回レースの度に欠かさず参加し、その仕事に従事する彼は、名もなき小さな砂漠の部族の出身である。
カメすら持たぬその部族は、ラクダを使い《青銅路》と呼ばれる交易路を往復しては、ほそぼそと日々を送っている。若い頃ははるか遠くまで見渡せた自慢の視力も近頃はすっかり落ち、何かと若者達にバカにされる事も多い。
生まれた者はやがて老いさらばえ、死を迎える。それは自然の摂理である。
過酷な砂漠の環境の中ではその摂理さえ守られることなく、老いることなく散る命も珍しい事ではない。過酷な環境下で老いるまで生き抜いた強かさや知恵の価値も知らず、老人である彼を何かとバカにする若者達も、やがては徐々に若さを失い、己のしてきた事の愚かさを、その身を持って知る事になるだろう。
「そろそろ引退かのう」
ポイントチェッカーとして出会ってきた数多くの『砂漠の男とカメ達の物語』を、次代を担う子供達に聞かせてみる――そのような人生も悪くはないだろう。かすむ目で遥か地平線の彼方に目を凝らし、おそらく最後になるであろう己が仕事を全うすべく、白砂原に立ち尽くす。と、彼の周囲に小さな異変が生じた。
「カメだ!」
周囲の若者たちが口々に叫び、怯えの色を見せている。
どうにか目を凝らすものの老いたその目ではなかなか、遥か彼方の事態は把握できない。
若者達は足手纏いの老人を放り出し、一目散になって逃げ惑う。周囲から人の気配がなくなった頃にようやく、彼は異常な現象をその視界に捉えた。
それは濛々と湧き立つ砂煙――。
その人生においてもなかなか経験できぬ程に大きな砂嵐にも匹敵する何かが、凄まじい勢いでこちらに向かってくる。
それを見た瞬間、彼は覚悟を決めた。
老いたその足では、その災いから逃れる事は出来ぬだろう。だが、慌てふためいて、逃げ惑うようなみっともない姿をさらす事は、誇りある砂漠の民として長い間生きてきた矜持が許さない。
ならば――。
とるべき手段は一つである。
口と鼻に布を二重に巻きつけ、外套をすっぽりかぶった彼は、その場に手をつき身をかがめる。
巨大な地響きと共に砂の煙が彼を覆い、やがて彼の小さな身体は嵐の唯中へと巻き込まれていく。
だが、轟々と吹き荒れる風の渦の中で、それが只の砂嵐でない事に彼は気付いた。
砂嵐とは本来、激しく荒々しく、あらゆるものを削り取っていくもの。
長い年月の間に幾度か経験し、時に積み荷の全てを奪いとっていくこともあったその理不尽な悪魔に比べれば、この厄災はあまりにも生温い。厄災とすら呼ぶにも値しないだろう。
とはいえ、吹き荒れる風の向こうで、確かに圧倒的な何かの存在をひしひしと感じる。
長い人生の中で、まだ一度も出会ったことのない砂漠の怪奇現象。この年になって初めて出会ったのは、運が良かった言うべきなのか? あるいは……。
幾つもの疑問が頭をよぎる中、彼は老いたその耳で、一つの高笑いと、三つの悲鳴を聞いたような気がした。そして凄まじい勢いで過ぎ去っていく巨大な何かの存在。その姿を目の端に捉えた時、彼は、本能的に小さく叫んでいた。
「カメだ!」と。
巨大なそれは、あっという間に走り去り、周囲に立ちこめていた砂煙は徐々に薄れ、再び晴れ間が顔をのぞかせる。
一面、粒の小さな砂が降り積もる中、彼はすっくと身を起こし、嵐の去った砂漠のど真ん中に只一人立ち尽していた。周囲を見回し、ほっと一息つく。
まだ生きている――その喜びが年甲斐もなく胸を突き上げる。湧き立つような熱い想いを抑えきれずに、彼は、両手を掲げ、澄み渡った空に向かって一言、高らかに叫んでいた。
「ワシは生涯、現役ぢゃ!」
巨大な未知の厄災に老いた身で只一人、敢然と立ち向かい、生還したその姿に救助にやってきた者たちは皆、感涙したのだった。
後に、彼はその生きた長さと同じだけの時間をさらに生きて、《カメカメレース》の御意見番としての役割を果たしたらしい。
弱小部族の出身でありながら、砂漠に関わるあらゆる伝説に精通する彼は、『砂漠の生き字引』とよばれて、部族を問わず多くの者達に慕われたという。
2013/10/08 初稿