07 ザックス、コケる!
折り返し地点のオアシスに向かっていくつかのポイントを通り過ぎた頃になっても、レースの順位に大きな変動はなかった。
カメ達はそこそこのスピードで走るものの、地平線の果てまで広がる砂漠の景色の変化など望むべくもなく、ゲスト達にとっては実に退屈極まりない。
《カメジロー》の周囲に張り付いた四匹のカメの背中にいる冒険者達も、ヤジを飛ばすのにすっかり飽きてしまい、今は退屈を持て余しているらしく、思い思いに時を過ごしている。
件の『伝統的価値観に基づく女性美を守る乙女の会』の面々も、お色気作戦は時がたつごとに効力が薄くなるということに気付いたらしい。レースの序盤で手持ちの最大のカードを使いきってしまい、その存在価値は今や他のゲストと変わりなく、すっかりだらけきっているあられもない姿は、『はしたない』の一言に尽きる。
時折、前を行くカメに甲羅をぶつけてあおりながらもナシェムは相変わらず忍耐の時間を過ごしていた。その気弱そうな見かけには似つかわしくないほどの我慢強さを内に秘め、彼はカメジローと共に黙々と先を急いでいた。だが、先を行く集団の姿をそろそろ視界に捉えにくくなってきたレースの状況に、内心大きな焦りを感じているのは確かだろう。
第二集団のカメ達は、彼らを出し抜こうと隙をうかがうナシェムと《カメジロー》を囲みの中に完璧に封じ込め、ほぼ同時に中間地点であるオアシスの町に到着した。はたから見ると、終始互いに煽り合うだけの地味な展開のレースだったが、《操作士》席に座るナシェムの緊張は相当なものだったらしく、《カメジロー》から降りるや否や、ぐったりとした様子で木陰に寝そべっている。
先に到着していたカメ達は水飲み場の傍らで横たわっており、《カメジロー》は共に到着したカメ達と共に僅かな水を飲んだ後、頭と手足を甲羅に引っ込めて眠っているようだ。クロルがその様子を興味深げに眺めている。
カメジローの周りにいた四匹のカメ達の《操作士》は、先に来ていたブリトバ達と合流し、ぐったりとした様子のナシェムを窺っているようだ。
「どうやら、みんなグルのようね……」
先頭を走っていた二頭のカメの操作士以外は、皆ブリトバの息がかかった者たちであろう。ちらちらとこちらを見ながら何やらよからぬ企みを企てているようだ。
「御三方ともそのままで、聞いてくださいね」
横たわったままで、ナシェムは口を開いた。
「これから私達は、レース再開と同時に仕掛ける事にします」
三人は顔を見合わせる。
「お静かに、奴らに気付かれないようにしてください。再開地点から暫くすると例の砂の丘があります。今度は少し長い距離になっていますので、上手くすれば集団を引き離し、ブリトバ達に迫る事ができると思います。そこからは……、運任せの展開になりますが……」
どうやら又《甲羅おとし》をしかけるつもりのようだ。仲間たちと視線で了解の意思を確認したザックスは、彼に薬滋水の瓶を一つ渡した。
「おお、これは、なかなか……」
初めて、口にするその味と効能に驚きながら、ナシェムは一息にそれを飲み干した。
「すみません。助かりました。このレースには幾度も挑んできましたが、やはり協力者がいないというのは……、とてもつらいものです」
彼の消耗した様子は振りという訳でなく、本当のことだったのだろう。
――それでも、この人は負けるわけにはいかないのだ。
一族の明日をかけて戦わねばならぬナシェムの背中に、ザックスは眩しい物を感じながら、密かに応援するのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
定められた休憩時間を消化したカメ達のレースが再開した。
ほぼ同時にオアシスに到着した事から五匹並んでのレース再開となったが、合図されるや否や、《カメジロー》がスタートダッシュをかけた。体格で一回り近く勝る《カメジロー》のダッシュ力は他の追随を許さず、他の四匹との距離はみるみる開いていく。
ゲスト席でやったやったと喜ぶアルティナとクロルを尻目に、ザックスは小さな違和感を覚えたものの、今は目先のレースが大事である。先に出発した《ブリトバ》達との距離はずいぶんと開いており、はるか彼方にうっすらとその姿が見えるのみである。
二度目の《甲羅落とし》敢行の為に、登り切った小高い丘の上からは、急な下り坂の斜面が伸びていた。高い場所から見下ろすと、先を行く集団とはさほどの距離はないように見えた。
《甲羅落とし》には絶好の環境であり、成功の暁には、集団の真後ろ近くにつけることができるだろう。《カメジロー》が足場を確かめるのように数度、砂地を踏みしめる。しっかりとタイミングをはかるナシェムの後方でザックス達も身体強化と速度強化の補助魔法と結界を用いて、備えは万全であった。
だが、なぜか、ザックスの脳裏には小さな不安がよぎる。
「ザックス、浮かない顔ね。どうかしたの?」
「いや、なんでもない……」
大きな勝負に出ようとする時に、根拠のない言葉で周囲を不安にする事はよくないだろう。どの道これは最初から不利な勝負、追いかける者としては大きなリスクを冒さねば、勝利はない。そう考えたザックスは、沈黙を守る。
緊張に包まれる人間達をのせた《カメジロー》が、笛の音色に導かれ、小さく助走する。斜面に飛び込むと同時に頭と四肢を引っ込め、巨大な甲羅が滑り落ち始めた。
先ほどと同じ浮遊感が三人を襲う。
《加速》し始める世界の中、周囲の景色がゆっくりと動いていく。と、先ほどとは全く異なる違和感がザックス達を襲った。
「いけない!」
座席の中央に座っていたアルティナが魔法で身体を拘束していたベルトを焼き切り、立ち上がる。
「二人とも、私につかまって……」
訳も分からずそれに従ったのは、それなりの付き合いゆえであろう。ダンジョンの中で凶悪なモンスターに奇襲された時のような、緊張感あふれたアルティナの振る舞いと同時に、浮遊感の中に投げ出されたまま、《カメジロー》の甲羅が左に大きく傾いていく。
アルティナの左腕にクロルが捕まり、ふみしめる足場が全く感じられぬ不安感に混乱したザックスは、無我夢中でその均整な肢体に抱きついた。ザックスの暴挙に抗議する間もなく、僅かに顔を赤らめたアルティナの風の結界が三人を包み込み、バランスを崩して横転する《カメジロー》の背から飛び降りた。
彼女の甘い香りと確かなふくらみの温もりを感じつつ、ザックスの目の端に映ったのは、砂の斜面をあらぬ方向へと転がり落ちていく《カメジロー》の甲羅と雪崩のように斜面を崩れる砂の大波だった。
砂地に向かってふわふわと落下する結界の中から、甲羅の先端に座っていたはずのナシェムの姿を探すがどこにも見当たらない。
「ナシェムさん!」
ザックスが叫んだ瞬間、浮遊感が途切れた。突如、三人を包んでいた結界が消滅し、柔らかな砂地に三人の身体が激突する。
「ンギャッ!」
二人の仲間の下敷きになったザックスは、柔らかなふくらみの感触を顔面で受け止めつつ、蛙の潰れるような声を上げて、気絶したのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
何者かが頬をつねる感覚でザックスは目を覚ました。つねられた痛みの中に少しばかりの悪意が感じられる。
肌理の細かい砂の感触を背中に感じながら、彼は目を開く。抜けるような砂漠の青空が、次いで覗き込むようにアルティナの顔が視界に入った。
途切れる前の記憶を探り、アルティナにつかまったまま、《カメジロー》の背中から飛び降りた所までを思い出して、ザックスは慌てて飛び起きる。
「一体、何が起きたんだ?」
まだはっきりとしない意識を呼び起こすかのように頭を振りながら、ザックスは尋ねた。
「ご、御免なさい。私が結界のコントロールをミスしちゃって……」
申し訳なさそうにアルティナが言う。その顔を暫し見つめていたザックスだったが、おそらく、気絶する直前の事を言っているのだということにようやく思い至った。
「で、でも貴方だって悪いんだからね……。そ、その……急に、だ、抱きついたり、へ、変な所をくすぐったりするから……」
顔を真っ赤にした彼女は抗弁し、プイッとそっぽを向く。
己の傍らで砂の上にちょこんと座りこむアルティナの姿を見つめながら、その均整のとれた肢体につかまっていた時の感触のあれこれがうっすらと思い出された。
「な、何よ!」
己を凝視するザックスをアルティナが顔を赤らめたまま睨みつける。
「い、いや、なんでもない。気にするな」
慌てて目を逸らす。この先のパーティの平穏の為にも、この話はこれ以上、むし返したりしない方が身の為だろう。
「そんなことよりも、クロルとナシェムさんは?」
慌てて周囲を見回す。
「二人とも無事よ。クロルはあそこ、ナシェムさんは……」
少し離れた場所に転がるカメの甲羅の上で何かをしているクロルを指さした後で、アルティナは言い淀んだ。
「何かあったのか?」
ゲスト席と《操作士》席の間にはそこそこ距離があった為、離脱の際にナシェムを連れ出す事は不可能だった。あれだけの勢いである。無事であるという事らしいが、多少の怪我はあったのかもしれない。より詳しい状態を聞き出そうとアルティナの顔を覗き込むザックスから、再び僅かに顔を赤らめた彼女はじりじりと距離をとった。
「ナシェムさん、少し怪我をしてたけど、それは《薬滋水》でどうにかなる程度のものだったから……。でも、彼、すごく落ち込んじゃって……」
「今、どこに……」
「《カメジロー》の側にいるわ。でも、一言も口をきこうとしないの……。声をかけるのも気の毒なくらいに憔悴しちゃって……」
そこまで言って、彼女は不意に小さく顔を歪めた。どこか泣きそうな表情を浮かべたアルティナに「ご苦労さん」と小さく微笑んで、その細く小さな肩を一つ叩くと、ザックスは立ち上がる。
「どうするの……?」
ザックスの背にアルティナが問う。
「とりあえずナシェムさんの所に……。このままって訳にはいかないだろ……。後はそれからだ」
「私も行くわ……」
立ち上がって歩き出したザックスの後をアルティナが追う。
少し離れた場所に転がる《カメジロー》の甲羅。その光景を横目に、レースに参加している後続のカメ達が次々に先へと進んでいく。彼らは誰一人として近づこうとはしなかった。
一つだけはっきりと分かっているのは、ナシェムと《カメジロー》がこのレースに敗北したという歴然とした事実だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
柔らかな砂地を己が足で踏みしめる。一歩踏みしめる度に僅かに沈み込む肌理細かい砂の感触は新鮮だった。残念ながらその新鮮さを楽しむ心の余裕はなかったが……。
アルティナとともに緩やかな砂の大地を歩くザックスは、周囲の光景を見回した。
《カメジロー》が滑り降りようとした丘の斜面は頂上付近から大きく崩れ、横倒しになって転がった甲羅の跡が大きく砂地を抉っていた。
背にあった《社》はバラバラになり、その破片が砂地に点々と転がって、転倒時の凄まじい衝撃を物語っていた。
ナシェムが座っていた《操作士》席は大きな衝撃を受けると甲羅から外れるようになっているため、幌つきの座席がクッションになって砂地を転がったらしい。長年の生活の中で編み出された砂漠の民の知恵と工夫と経験が、彼を救ったといってよいだろう。
「一体、何があったんだ?」
《甲羅おとし》が失敗したにしては、斜面の状況は酷過ぎる。減速に失敗しただけなら斜面の下の方のみが崩れるはずである。首をかしげるザックスの背後でアルティナがぽつりと言った。
「多分、地術魔法を使ったトラップだと思うわ……」
「トラップ?」
「あそこよ……」
アルティナが指さしたのは丘の頂上付近の砂地が大きく崩れている当たりだった。
「転がり落ちる瞬間、異常なマナの気配を感じたの。多分あの場所にトラップを仕掛けて勢いがつきかけた《カメジロー》を転倒させて……。クロルも同じ意見だわ。これを仕掛けた奴らは、最低よ。下手すれば皆、死んでた……」
「そういうことか……」
レース再開直後に感じた不安の正体をようやく理解する。彼らはこうなる事が分かっていたからあえて、《カメジロー》を追わなかったのだろう。否、それだけではない。
ナシェムの一族の有する《甲羅おとし》は《ブリトバ》がレースに勝つ上での不確定要素であった事には違いない。事前に言いがかりを付けて禁止する事も出来た筈なのにあえてそうせずに、ここで確実にナシェムをつぶす事を選んだのだろう。若き族長にもしものことがあれば、まとまりを失った一族は路頭に迷うか、立ち直るにも相当な時間がかかるはずである。
「汚ねえやり口だな……、本当に」
利権を奪いとる、あるいは一族の存続と繁栄をかける闘いというのは、本来そういうものなのだろう。互いの暴走を戒めんがために予め定められたルールを守ろうとする者と、うまく破ろうとする者とが争えば、結果は火をみるより明らかである。
巨大な甲羅の中に頭と四肢を引っ込めたまま動こうとしない《カメジロー》の直ぐ傍らに座るナシェムの側で、ザックスは立ち止まった。
泣くのでもなく怒るのでもなく、ナシェムはただ呆然と《カメジロー》の甲羅を見つめている。その傍らには二つの心を繋いでいた笛が放り出されていた。《カメジロー》は今、いかなる旋律にも反応することなく甲羅の中に身を潜めている。何らかのアクシデントでおそらく眠りについたのだろうというのがクロルの見解らしい。
「ナシェムさん」
小さく見えるその背中にザックスは呼びかける。だが、反応はなかった。それ以上、彼にかける言葉は思いつかなかった。
暫しの沈黙の後で口を開いたのは、ナシェムだった。
「どうして、こうなっちゃうんでしょうね……」
誰に語るでもなくぽつりとナシェムは呟いた。
「頑張ったんですよ、私。そりゃもう必死で……。思いつく限りの事をして。あちこちに頭を下げて。別に私や一族の為だけって訳じゃない。ブリトバのようなやり方を許していたら、いつか必ず砂漠の民の生活全体に災いを招く事は間違いないんです」
その言葉に力はない。ただ諦めと投げ遣りさが感じられるだけだった。
「族長とはいっても所詮は若造。誰も私の言葉なんかに耳を貸す訳ない事だって分かってたんです。伝統だのなんだのと錦の御旗を振りかざしたところで、みんな目の前の繁栄のほうがいいに決まってるんですから。分かってるんですよ、私だって……。長い時の流れの中じゃ、カネや言葉では決して表わせない、伝統の価値や文化の中に根付いた倫理的な正しさが、いかに無力か、ってことくらいね。それでもくじけそうな私をルゼアがいつも励ましてくれて、だからこそたった一人になっても諦めずに、このレースだって勝つための最善の努力を重ねた。その結果が、これなんですからね……」
ザックスの背後でアルティナの小さな嗚咽が聞こえる。
「負けたんですよ……私は。そして砂漠の民は変わっていく。もう、この流れはどうにもならないんです。そしていつかは……」
その先に何が待っているのか、彼は予感しているのだろう。その事を予見しながらも彼にはおそらく何もできない。敗者が何をいっても誰も聞く耳を持たぬのは、世の常である。
乾ききった砂漠を風の音だけが吹き抜け、後には重苦しい沈黙が残された。
永遠に続きかねぬ沈黙――。
それを破ったのは、甲羅の上にいた彼らのもう一人の仲間だった。
「ザックス、アルティナ、悪いんだけどさ……、二人とも、ちょっとこっちに来てくれないかな?」
その場の空気を全く無視するかのようにあっけらかんとしたその声に、ザックスとアルティナは顔を見合わせる。二人が見上げたその先には、《招春祭》で《爆榴弾》の発表をした時と同じように、とっておきのイタズラに目を輝かせたクロルの姿である。
「確かめたい事があるんだ! すぐに上がってきて! いいね、頼んだよ!」
言葉と同時にするするとロープが下りてくる。
ちょっと、待て、と声をかける間もなく、クロルの姿はその場所から消えていた。どうするよ、とばかりに二人は顔を見合わせる。
「とりあえず、行ってみるか……。このままここで何もしないよりは、いいだろう?」
目を僅かに赤くはらしたアルティナと頷き合ったザックスは、伸ばされたロープを手掛かりに《カメジロー》の背中をよじ登り始めた。
2013/10/06 初稿