09 ザックス、転職する!
裏酒場――それは一般的に冒険者協会から認定されていない酒場であると認識されている。だが、冒険者協会の規約に縛られぬその自由さを生かし、通常の酒場では受注されぬ厄介なクエストが取り扱われ、その営業の形態も多岐にわたる。名のある料理人が禁制の素材で腕を振う、そんな幻の名店としてひそかに名を馳せる店も存在する。
その日、《ペネロペイヤ》市内のとある一角に存在するそのような店の一つをまるごと貸し切ったのは、二人のベテラン冒険者だった。
方や、大陸一の冒険者として名を馳せるパーティのリーダーにして最強最高の戦士、ウルガ。
方や、創世神殿高神官でありながら、フリーランスとして最高の腕を誇る冒険者ライアット。彼が手を貸すのは超一流のパーティのみであると噂される。
冒険者の世界に身を置きながら二人の名を知らぬものは、駆け出しかもぐりである。
がらんとした店内の中心に置かれた円卓に座った二人は、次々に運ばれる王侯貴族でもめったに口にできぬ幻の名品珍品に舌包みを打ち、お気に入りの酒をたしなんでいた。周囲の視線を全く気にする必要のないその場所で、二人はざっくばらんに語り合う。年齢差はあるものの、二人は互いに尊敬しあう冒険者としてだけでなく良き友人としての関係である。
つい先日、ウルガ達三人は、難関中の難関といわれる上級ダンジョンを、ライアットの助けを借りて踏破したばかりだった。相当な苦労はしたものの、それなりの身入りはあった。もっとも、真の目的は別のところにあり、レアな換金アイテムによる膨大な報酬もついででしかない。彼らクラスの冒険者ともなれば、わざわざ換金アイテムによらずとも、長い冒険者生活の中で培われた独自の収入の道がある。扱われる額が桁違いな世界で生きる彼らのような存在がある一方で、金策に苦労してすきっ腹を抱えてクエストに走る者達がいるのも又、厳しい冒険者の世界の一端である。
やがて、宴席が終わりに近づいた頃、ふとライアットが尋ねた。
「ところで、何か相談事があったのだろう?」
それなりの付き合いになるせいか、会話の端々に、彼は時折、躊躇いを見せるウルガの様子に気付いていた。まだ、彼の心の中でうまく処理できていない問題らしく、暫しの時をおいてウルガは重々しくその口を開く。
「ああ、実は、ダントンの奴がな……」
自分達の前に突然、現れた規格外の駆け出しの扱いに、仲間内で意見が割れている事を語る。黙って聞いていたライアットだったが再び尋ねた。
「それで、お前たちが己の目的を果たす望みはあるのか?」
「それは……」
ライアットの問いにウルガは口ごもる。たやすく口にする事がなぜか阻まれた。ウルガの迷いを見越したかのようにライアットは続けた。
「冒険者としてのお前の直感は、もうその答えを出しているのだろう。何かを変える奴、駆けあがっていく奴というのは、例え、駆けだしであったとしても、他人とは違う何かを感じさせるはずだ。時としてその余りの異端ぶりに、変化を恐れる凡人は敬遠したり排除するが……。お前はそれを感じ取っているからこそ迷っているのだろう?」
ライアットの言葉は的を射ていた。だが、ウルガの直感を阻む何かがその心を曇らせる。
「怖いのか?」
視線厳しく、ライアットが尋ねる。
「自分達の長い苦悩の時間が、突然現れたポッとでの駆け出しに、あっさりとひっくり返されてしまう事に……」
その言葉に一瞬息をのむ。己が全く考えつきもしなかった理由を、苦笑いして否定する。
「それはありえない。例え、奴がどんなに才能ある異端な駆けだしであったとしても、俺達が多くの者たちと交わり積み上げてきた時間と経験、そして抱えてきた苦悩は俺達だけのものだ」
「では、なぜそいつの力を借りる事を躊躇う。それ以外に実現の可能性はないのだろう?」
ライアットはウルガ達の抱える事情の全てを知っている。そしてその解決に最も合理的な選択肢を示した。だがその合理性こそが、ウルガの迷いの原因であった。
「冒険者になって以来、俺達は、ずいぶんとやりたいようにやってきた。得たものも多いが失ったものも多い。その事に後悔している訳ではない。富、名声、力、あるいはそれらを超えたもの。己が欲望に忠実に生きて、欲しい物を己が力で手に入れる。それが冒険者というものだからな。だが、その理屈が俺達の中で成立していたのは、五年前のあの時までだ」
グラスの中の葡萄酒の水面を見つめ、ウルガは続けた。
「この五年間、俺達と共に行動し、消えて行った奴は多い。その事に俺達三人は少なからず皆、それなりの責任を感じている」
ウルガの述懐をライアットは黙って聞いている。
「エルメラは表面では素知らぬふりを決め込んでるが、俺達三人の中で一番そう感じているはずだ。あれでいて、情が深いからな。ダントンの奴にしてもそうだ。もともと面倒見のいい奴ではあるが、あいつが初心者に構うのは、いなくなった奴らへの罪滅ぼしって意味合いが大きい。死んだ弟への想いやわだかまりってのも、あるだろうしな……」
僅かにウルガの口元が歪む。
「これは俺達の問題であり、俺達自身が決着すべき事だ。ましてや相手は《魔将》と呼ばれる者。そんな俺達の事情に駆け出しでしかないあいつを巻きこむ事に、俺は割り切りがどうしてもつけられない」
吐き出すようなウルガの言葉が広がり、やがて沈黙に消えて行く。
「強者の傲慢……か」
ライアットがぽつりと呟いた。その言葉に引っ掛かりを覚え、ウルガの手が止まった。ライアットは構わず続けた。
「お前達と共に歩み消えて行った者達……。死んだ者、廃業した者――己が予想だにしなかった望まぬ結末に至って、もしかしたらお前たちを恨み呪った奴だっていたのかもしれない。だが、そいつらだって皆、冒険者だったのだろう。お前達に協力した事を選んだのはそいつら自身の選択だったはずだ。大陸一の冒険者とともに行動する事で得られる利益とリスク。その打算の中で行動し、己が身を滅ぼしたところで、それはそいつら自身が決めた事。冒険者であるならば、満足し納得して去った者だっていた筈だ。お前達が徒に全てを抱え、身勝手に不幸だと解釈するのはそいつらへの冒涜ではないのか?」
ライアットの強い言葉にウルガは暫し、沈黙する。
「お前たちは仇敵との因縁にこだわり過ぎて、見るべきもの、選ぶべきものを見失っているように見えるな。確かにお前達が相手にしようとしている《魔将》という存在と戦い生きて帰って来た者の報告例など存在はしない。それはいいかえれば、冒険者の常識にとらわれていては解決のできない問題だという事だ。今のお前達は目の前の未知の事態に対して、なり振りなど構っている場合ではないはずだ」
「そのためなら、例え駆けだしであろうとも利用しろと?」
ライアットは一つ首肯する。
「そうだ。可能性があるのだろう。もしも利用するという事実に抵抗があるのならば、その見返りを十分に与えてやればいい。駆けだしに取って十分すぎる見返りであってもお前達には微々たるものだろう」
「だが、俺は何を奴に教えてやればいいか見当もつかない。ダントンのようにな……」
ライアットは笑った。
「お前が先達として初心者の面倒を見るのか? 冗談はよせ。お前みたいに無愛想で不器用な奴、おそれおののいて、誰も近づきはしないよ」
ライアットの言葉に、ウルガは顔を渋らせる。
「人には向き不向きがあるんだ。お前はお前に出来る事をやればいいのだよ」
「俺に出来る事?」
「そうだ。己が目的を定め、信頼する仲間達と共にひたすらに歩み続けてきたのだろう。だったら愚直にそれを貫けばいい。本当にやる気のある奴、伸びる奴ってのは、そのようなお前の姿に憧れ、それを目標とし、その背を乗り越えようと足掻くものさ。優しく手を差し伸べる事だけが、人を鍛え育てる訳ではない。お前は高く険しく大きな壁であり続ければいいのだ。お前に足りぬところは、二人の仲間達が補ってくれるはずだ。並みの人間には得難いほどの逸材がな」
「どうにも、俺が傲慢であらねばならぬ事が鼻につくな……」
「傲慢であって何が悪い。最後の最後まで傲慢な強者であり続けろ、ウルガ! おそらくお前にしかできぬ事だ。そして、納得がいくまで、しっかり見極めればいい。そいつが己の眼鏡にかなうかどうか、をな。お前がわざわざ足並みを合わせてやる必要などどこにもない。そいつが心ある冒険者ならば、自然と冒険者の流儀に従うはずだ」
ライアットの言葉が、ウルガの中の迷いの澱みを流しさる。久方ぶりの清々しさを覚え、ウルガは笑った。
「分かった。いいだろう。あんたに乗せられてみよう」
「この程度の説教ならいくらでもしてやるさ。これでも一応、本職は神に仕える神官だからな」
傲岸不遜に見える一方で信奉者の多いライアットだが、彼ほどの者でも、目に入れても痛くないほどに可愛い義娘との関係には苦悩するものらしいのだから、人生は奥深い。
「ところで、ウルガ、その駆け出しの冒険者、名は何と言うのだ?」
ライアットの問いにウルガはしばし目を閉じた。彼の顔を思い浮かべ、静かに口を開く。
「ザックスだ。フィルメイア……であること以外は、これといって特徴のない男だが……」
「ほう、フィルメイアか。そいつは珍しいな」
「奴についての詳しい話は、ダントンの方が……」
その言葉をライアットは遮った。
「構わんさ。いずれ出会うならば、その時、己が目で確かめるのも、一興というものだ」
ウルガ達と行動を共にする以上、そのうちいやでも出会うことになるであろう。その異端な駆けだし冒険者の名が、いずれライアットにとって意味深いものとなるだろうとは、彼自身夢にも思っていなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
すでに日は西に傾いていた。
街の北側区画に位置する壮麗な大神殿には西日があたり、建物全体が怪しげにきらめいて見える。
建物内の人気は少なく、時はゆったりと流れていた。転職を希望する者の多くは午前中から昼過ぎのひと時までの間に訪れる。今、神殿内にいる者たちの多くは、純粋に創世神の信者達なのだろう。
《涙禍の迷宮》で伝説的偉業を成し遂げ、帰還の遅れた《ザ・ブルポンズ》の面々が、ガンツ=ハミッシュの酒場にたどりついたのは翌日の夕方近くだった。途中、立ち寄った冒険者協会建物内にあるアイテム換金所において、三度、職員達を混乱させたのも帰還の遅れの原因だった。
Sランククラスの宝珠《喜びの涙》が以前に持ち込まれたのは、百年以上も前らしく、係の者達が総動員されて古い文献をあさった結果、なんと三十万シルバの値がついた。一人分の分け前六万シルバと《ブルポンズ》臨時メンバーとしての協力料、さらに通常換金アイテムの処分によってザックスの懐には七万シルバ以上の大金が転がり込んでいた。
其の晩のガンツ=ハミッシュの酒場は再び大宴会となり、つい先日底を尽きかけた酒のストックをようやく回復したにも拘わらず、再び底を尽きかけていた。大騒ぎする冒険者達を尻目に、仕入れが大変なんだぜと、マスターのガンツは苦笑いを浮かべている。
翌日の昼近くになって自室から起き出してきたザックスは、大浴場で身を清めたその足で、創世神殿へと向かった。目的は《中級職》への転職だった。
「すまない、転職を希望したいんだが……」
すっかり人気のなくなった待合室で、通りすがりの巫女服姿の女性をみつけたザックスは、おずおずと声をかける。
こんな時間帯にのこのこやってきやがって……、そんな色を僅かに見せながらも極めて事務的な口調と微笑を浮かべて、巫女の女性はザックスのステータスを確認した。その内容に一瞬怪訝な顔を浮かべた彼女だったが、直ぐにハッと顔を上げ、ザックスの顔をまじまじと見つめた。途端に愛想よい笑顔を浮かべ、彼女は言った。
「分かりました。お待たせして申し訳ありません。直ぐにお連れいたします」
どことなくうきうきとした足取りで先を行く彼女に若干の不審の念を覚えながらも、ザックスは黙ってついて行く。案内されたのは先日と同じ壁画の部屋だった。
相変わらず圧倒的な迫力で来た者を出迎えるその壁画の下の机に座っていたのは、先日の兎族の少女ではなく、別の女性だった。ザックスと同年代くらいだろうか。心のどこかで少女に再び出会える事を期待していたせいか、僅かな失望が胸の内に広がった。
ザックスを案内した巫女の女性は、意味ありげにザックスに視線を送りながら、室内にいた別の巫女と話を始めた。
机についていた巫女の女性も彼女が何事か囁くと、直ぐにハッと顔を上げてザックスを見つめる。二人の女性から値踏みされるような視線を受けたザックスは、気まずそうに視線を外した。
やがて、彼を案内してきた女性がいそいそと部屋を出ていく。
去り際にそれまでの格式ばった巫女の仮面を外し、「ちょっと待っててね」と親しげにかけられた一言と共に扉の向こうに消えていくその姿を、ザックスは唖然として見送った。
「どうぞ、そちらに掛けてくださいな」
二人きりになった部屋の中でザックスは机についていた女性に椅子を勧められた。整った美貌ではあるものの、その顔に浮かぶ柔らかな微笑みにどこか母性的なものを感じさせる。ふくよかな胸のせいか、その姿をなぜか正視できなくなってしまい、彼の視線はわずかにあらぬ方向へと向けられる。
「ええっと……、《中級職》に転職したいんだが……」
勧められるままに腰掛けたザックスは、意味ありげにじっと彼を見つめる巫女の視線に耐えきれず、用件を述べた。
モンスターの中にはその視線で冒険者の精神にダメージを与えたり、石化させる能力を持つものもいるという。もしかしたらそういった類のスキルを持っているのだろうか、などと考えるザックスに、彼女はにこりと微笑んだ。
「ごめんなさい。貴方の転職のお手伝いは、私にはできませんわ」
こちらの女性も先ほどから実に親しげな様子でザックスに話しかけている事に、ようやく気付く。
「来る時間帯が遅すぎたか? なんだったら、また明日出直すけど……」
ザックスの答えに一瞬きょとんとした表情を浮かべた彼女は、直ぐに破顔した。
「違うの、違うの。そうではありませんの。あなたの転職のお手伝いをする娘は、もう決まっていますのよ」
「ああ、『職』によって役割が分かれてるんだな」
その答えに彼女は再び破顔する。
返答するたびに笑われてしまうのは普通ならば気を悪くするところだが、眼前の女性の笑顔にはそういった感情を消し去ってしまう効果があるようだ。元来、人に好かれる資質をもっているのだろう。くるくると猫の目のように代わるその表情は見ている者を飽きさせない愛嬌と温かみがある。巫女にしておくのは惜しいものだ、と思うのはさすがに不謹慎であろうか?
「ふふっ。では、そういう事にしておきましょう。じきにイリアが参りますので、よければそれまで私と雑談にでもお付き合いくださいな」
「イリア……さん……か?」
知らぬ名を上げられて困惑する。
冒険者達の中には有名どころの巫女の名や酒場の看板娘の名、果ては協会女性職員の名まで制覇している者もいるという。だが、そういった話にとんと疎いザックスには、なじみのない名をあげられても当惑するだけである。
眼前の彼女は、両ひじをつくと顎を乗せて身を乗り出すようにして彼の表情を眺めていた。
「ええ、先日貴方がいらした際にお世話をさせていただいた兎族の娘ですわ」
「ああ、彼女のことか……」
僅かに表情を緩めたザックスは、彼女の名を知ることのできた偶然に小さく喜んだ。
どうやら今日も彼女が転職の一切を取り仕切ってくれるらしい。転職に当たって、少しばかり不安な要素もあって、少しでも顔なじみの人間に任せられるのは喜ぶべき事だろう。
そんなザックスの内心を見透かしたかのように、彼女は微笑みを浮かべて話し続けた。
「あの娘はね……、訳あってこの神殿の高神官の一人が赤ん坊の頃に引き取った娘ですの。幼い時から私達神殿に勤める巫女達にとって、掛け替えのない妹分なのです」
「お、おい、いいのか、そんな話、オレなんかにし……」
不意に温かな感触がザックスの口唇に触れる。彼の口唇を人差指で遮ったまま、彼女は話し続けた。どうやら、黙って聞いていろという事らしい。
「外見が、ああ、ですからね。不埒な事を企む馬鹿な冒険者達も時折現れるし、何よりも兎族ということで、偏見をもって扱う人間なんてのもいますわ」
「ひどいな……」
「それでもあの娘は頑張って巫女の務めを果たそうとしている。あの娘が巫女になる、と言い出した時、彼女のお義父様をはじめとして周囲のみんなが大反対したのだけど、頑として譲ろうとしませんでした。もっと違う……優しい生き方もできましたのにね。あの娘はそういう強い娘なのです」
遠い目で彼女は物語る。その意図が理解できぬまま、ザックスは黙って聞いていた。
「さて、あの娘はまだまだ来そうにないから、今度はあなたの話を聞こうかしら……」
「えっと、俺の事か……?」
「ええ、私の事を聞きたいのかもしれないのでしょうけど、私は生憎とお金持ちのおじさまにしか、興味がありませんの」
「いいのか? 神殿巫女がそれで……」
「そんなこんなで、ある時ふらりと現れた行きずりの冒険者と恋をして、駆け落ちしてしまう、そんな人生にも憧れていますわ」
いたずらっぽく片目をつぶった彼女は、あっさりとザックスの追及をかわす。さほど年が変わらないはずであるが、自身よりもはるかに長く生きているかのような彼女を前に、ザックスの試練の時は続いていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
麦がら入りの枕が、ポフンと壁にぶつかり転がった。
日がな一日、自室の中で貴重な非番の休日をただ悶々と過ごしてしまった事に後悔する。それもこれも占いが悪いのだ、などと思ってはみたものの、後の祭りである。
私は一体何をしているのだろう、とここ暫くの体たらくに兎族の巫女少女――イリアはどっぷりと自己嫌悪に陥っていた。
事の起こりはやはり二週間近く前に現れたザックスと名乗る冒険者のせいであろう。
初めは一風変わった冒険者程度の印象だった。常に好奇の視線を引く自身の姿よりも頭上の世界創造の壁画に目を奪われてしまった彼の反応は斬新だった。さらに冒険者としての彼は、自身の身の上に起こった厄介な運命を嘆くどころか、新たな生き方の楽しみを見つけようと試みる、強い心の持ち主だった。
机をはさんで、その深い赤みを帯びた瞳にじっと見つめられ、彼女の心の臓は早鐘を打つかのようだった。彼が見つめているのは巫女としての自分であり、一人の女性としてではない、という事は十分承知している。神殿に数多訪れる冒険者の中で、彼だけに特別なものを感じ、何かを期待してしまった。その初めての経験に、運命の人との出会いとはこういうものなのだろうか、という思いが脳裏をよぎる。戯曲の中にしか見聞きした事のないその感情は、少女にとって持てあますべきものだった。
気付けば彼の為に役立とうと《初級職》の冒険者に与えるべきものよりも、はるかに多くの加護と祈りを与えていた。
その暴走を姉巫女達は一晩中からかい続けたものの、彼女にとって事はそれで終わりにならなかった。あの時、自分は巫女としての職務を上手くこなしていただろうか、と振り返って不安になる日が続いた。それからしばらくは務めが手につかなくなり、うっかりともいうべきミスの連続に、神官長や巫女長にまでお小言を言われる始末である。
イリアの姿を見かねた姉巫女のマリナが、伝手を頼って彼女の不調の原因であるザックスの所在を調べてきた。彼との接触に最も難色を示していたマリナからの厚意に、イリアは大いに感謝したものの、問題はさらに増えた。
会って何と言えばいいのか。嫌われるどころか、忘れられていたらどうしよう……。
実に少女らしい悩みに再び取りつかれ悶々とする日々が続いた。貴重な非番の休日に意を決して会いに行ってみようかと思ったものの、今一つ思い切れない彼女は、姉巫女の一人に占いを頼んだ。
『待ち人、あらわる』
高名な星詠みの家の生まれである姉巫女の占いの結果に喜び、一日ただ待ち続けてしまったものの、動かぬ者にそうそう都合よく機会が訪れるものではない。人生の真理とその辛酸を舐めながら、暮れて行く日差しと共にたっぷりと自己反省に浸ろうとしたちょうどその時、彼女の部屋の扉が激しく叩かれた。
「イリア!」
飛び込むように入ってきたのは彼女の姉貴分の一人であるエルシーだった。
「どうしたんです? エルシー姉さま……」
息急き切って駆けこんできた彼女は、イリアの驚く様子もそっちのけで口を開いた。
「あんた、何してるの、まだ、そんなカッコして。ほら、起きて、起きて、巫女服はどこ?」
「ちょっと、エルシー姉さま。私、今日は非番なのですよ……」
「ああ、もう髪が跳ねてるじゃない、全くこの娘は。ほら、そこに座って」
巫女服をかぶせられ、鏡台の前に強引に腰掛けさせられた彼女は、訳も分からぬまま自身の髪を整える姉巫女に事情を尋ねた。
「だから、来たのよ、彼が!」
「姉さま、彼って、一体?」
「だから……彼よ、あんたの待ち人よ!」
その言葉に飛び上がる。だが同時に疑問が湧きあがった。いったいどんな理由で彼はここにやってきたのだろう。淡い期待をしながらもそんな想いを言葉に隠す。
「えっ、でもなぜ、彼が来るのですか?」
「なぜって、そんなの決まってるじゃない。冒険者がここに来る理由って言えば、転職以外にあり得ないでしょう?」
「転職? 彼がここに来たのはまだ二週間前の事なのですよ」
イリアの言葉に彼女の長い銀髪を櫛でといていたエルシーは手を止めると、鏡越しにイリアを見つめた。
「その二週間で今の彼のマナLVは24よ。少しばかり裏技使って経緯を覗かせてもらったけど、彼、無茶苦茶な探索をしてるわね……」
「そんな……」
二週間前に担当した時に経験値寄進を行った彼のマナLVは10まで下がったはずだった。そこからたった二週間で24まで上げる事など通常では考えられない。最短でも半年程度はかかるところを彼は僅かの期間で成し遂げてしまったのだとすれば、常識をはるかに超える無茶をしているということだろう。
「ほら、ちょっと待って」
慌てて立ち上がろうとするイリアを、エルシーはしっかりと抱きしめる。
「落ち付きなさい。巫女であるあんたが動揺してどうするの。無茶とはいえ、彼は正当な手段で自身を高め、その代価をここに受け取りに来ているのよ。落ち着いて、深呼吸して、自分が彼の為に何をなすべきか、もう一度考えなさい」
自身をしっかりと抱きしめる腕の強さとその強い言葉が、イリアに落ち着きを取り戻す。いつもの冷静さを取り戻したことを確認するとエルシーは小さく微笑んだ。鏡の中の愛しい妹巫女に優しく語りかける。
「はい、できた! あんたは十分に可愛いわよ。こんな時こそ、その外見をしっかり使わないでどうするの。お行きなさい。今、マリナ姉さまがお相手をなさってるから。ぐずぐずしてると、取られちゃうわよ」
その言葉にイリアはあわてて立ち上がり、脱兎のごとく部屋を飛び出した。そんな彼女の姿を呆れた顔で見送りながら、エルシーはその背に声をかけた。
「頑張ってね、今夜もしっかり報告してもらうわよ!」
一目惚れなどという離れ業を演じる愛しい妹分の恋の行方は、一体どこへと向かうのか?
弄りがいのあるその醜態を肴に再び楽しい夜を過ごすべく、エルシーは少しだけ黒い微笑みを浮かべていた。
2011/07/23 初稿
2013/11/23 改稿




