02 ザックス、デートする!
《招春祭》――。
サザール大陸に春が訪れる事によって始まるこの祝祭とともに、創世神殿を有する諸都市の一年も始まる。春の訪れの早い地域から順に始まる《招春祭》は、創世神殿によっておよそ半月の間、大陸中の諸都市で順次催され、最後の《エルタイヤ》における《大招春祭》によってその幕を閉じる。《転移の扉》を利用してあちらこちらの《招春祭》に赴きそのにぎわいを楽しむ者や、商いにいそしむ者も少なくない。《招春祭》を終えた人々は畑に種をまき、職人達は炉の火を強め、商いは再び本格化する。当然《冒険者》達のクエストも一斉に受注され、自由都市は再び活気を見せ始める。
冒険者協会本部の置かれる《ぺネロペイヤ》では毎年三日間の日程で《招春祭》が行われ、都市内だけでなく周辺の各村々や他都市からの来訪者で活気づく。その盛況なにぎわいぶりは、この街の今年一年の繁栄を予想させるに足るものである。
紆余曲折の末にどうにか冬を乗り越えたザックスは、二日目を迎えた祭りのにぎわいの中をイリアと共に歩いていた。
前日に行われた『シーポン・リサイタル』の準備と後始末に追われ、二日目になったこの日、ようやく初めての《招春祭》を楽しむこととなった。華やかな舞台の裏側での《ザ・ブルポンズ》の奮闘の甲斐あって、無事に終幕したシーポンのリサイタルは実に盛況だった。《調和者》の称号をもつシーポンの歌声に誰もが酔いしれ、即興の新作披露によるアクシデントで倒れる者もいなかった。リサイタルの前座を盛り上げるべく提案されたイーブイ発案サンズ演出のパフォーマンス・ショーが、招春祭実行委員会によって丁重に却下されたのは、僥倖であったといえよう。
ザックスの傍らを跳ねるように歩くイリアも又、昨日は神殿巫女としての役割とその務めにてんてこ舞いだったらしい。神殿によって執り行われる様々な祭事に従事する一方で、空いた時間には老信者の案内から迷子の親捜しまで、てんやわんやの一日だったという。
多くの神殿関係者達が盛大に賑う祭りの裏方として奮闘する一方で、彼らも又交代で休みを取って一般市民達と同じように祭りを楽しんでいた。人々と同じ目線で祭りに参加する事も又、大切な伝統であるというのが、長い時を経ても変わらぬ大神殿の方針らしい。
フィルミナの田舎出身のザックスは、二か月に一度行われる大市の盛況ぶりにも目を見張ったものだが、この祭りの人出の多さにはさらに驚きを隠せない。膨大な群衆の発する人いきれに酔いそうになりながらも、はぐれぬようにとしっかりイリアに手を引かれ、彼はゆったりと動くその波の中に身を置いていた。
『《招春祭》をご一緒しませんか?』
三日前に届いたイリアからの誘いの手紙はザックスのパーティ宛であったが、その内容に目を通したアルティナは、あっさり言ってのけた。
『他人様のデートを邪魔するほど野暮じゃないわ。イリアによろしくね』
前日にクエストから帰って来たばかりの彼女はそう言い置いて、ミン達と共に再びどこかへ消えていった。出立前に比べて少し明るくなったように見える彼女に、せっかくのイリアからの誘いなんだからと食い下がるザックスだったが、そのような彼に四人の女性冒険者達があきれ果てたような視線を送ったことに、理不尽を感ぜずにはいられない。
クロルに至ってはその宣言通りにあれから一切音沙汰なく、『内緒の一大プロジェクト』とやらにかかりっきりのようだった。今朝方、簡潔に時間と場所だけが走り書きされたメッセージがザックスの元へと届き、それを手にして首をかしげたばかりである。
彼の指定した時刻までにはまだまだ十分以上に余裕があることもあって、ザックスはイリアに誘われるままに大神殿へと足を延ばしていた。
多くの人々が集まる神殿とその周囲には、セリルの木々が薄桃色の花を満開に咲かせている。
遠い昔、東の《イスティリア》からとある冒険者が持ち帰ったというその木の苗を、この神殿に携わる者達が長い時間をかけて大切に育ててきたという。甘く妖しく香る花々は春の訪れを告げるべく多くの人を魅了し、《招春祭》を盛りたてることに一役買っていた。土と水が合わないせいか、最高神殿のある《エルタイヤ》にすら根付かないこの美しい木々の演出は、《ペネロペイヤ》の《招春祭》を特別なものにしていた。
さらに神殿前広場に仮設された演舞台では昨日から様々な祭事が執り行われている。
イリアに誘われ、招待席の一角に身を置いたザックスの眼前では、彼の良く知る神殿巫女が一人、《奉神の舞》を披露していた。華やかな衣装に身を包み、柔らかな微笑みを浮かべて舞台の上を華麗に舞うその姿に、それを見つめる群衆の全てが溜息と共に魅了される。神殿巫女の歌や舞いには穢れや災いを払う力があるといわれる言い伝えは、十分に納得できるものだった。
――時に儚げに、軽やかに。
――時に力強く、荒々しく。
――柔らかく、それでいて凛として。
手に持った鈴器を優しく鳴り響かせながら舞台の上を軽やかに舞い、その身にまとった衣装の豊かな色どりは、その場に鮮やかな大輪の花を咲かせたようであった。
周囲の音色と和したその舞いがやがて終息へと至ると、舞台の中央に彼女は軽やかに立ち止まる。優雅に一礼するや否や、水を打ったようにしんと静まり返っていた広場に割れんばかりの拍手と歓声が湧きおこった。
「いかかがでしたか、ザックス様? マリナ姉さまの舞は……」
彼の傍らに座っていたイリアが、我が事のように胸を張ってザックスに尋ねた。
「すごいな……。思わず飲み込まれそうになったよ」
全く非の打ちどころのない、舞手のマリナに対して惜しみない賞賛をザックスは述べる。舞踊に全く知識のないザックスにすら、観衆の全てを魅了したマリナの舞がとてつもなく素晴らしいものであることが肌で感じ取れた。その圧倒的な迫力と美しさに、全身に鳥肌が立つ。
「そうでしょう? 姉さまの舞いは他の誰にも真似ができないと言われるほどにすごいんです」
もともと、神殿巫女の教養の一つとしての武闘訓練を一切しないマリナだが、その舞踊の資質は誰もが認めるものであり、ここ暫くは彼女の舞いの稽古に、イリア自身も付き合っていたという。観衆の熱気に宛てられたかのように、興奮気味な様子でその素晴らしさを誇らしげにイリアは語る。その横顔には冬の初めにあった頃の僅かな陰りは微塵も感じられず、出会った頃の明るさに満ち溢れていた。
――もうすっかり吹っ切れてるみたいだな。
毎年、《エルタイヤ》で行われる《大招春祭》でも舞いを披露していたマリナだったが、中級巫女に格下げされた事で、今年彼女のそれを見る事ができるのはこの《ペネロペイヤ》の祭りだけでしかない。彼女の舞いを目当てにやってきた観客も多いようで、明日の最終日はもっとすごい事になるらしい――マリナの舞いに由来する様々な逸話を披露するイリアに相槌を打ちながら、ザックスは《アテレスタ》での様々な出来事を思い出していた。
《ペネロペイヤ》とは全く異なる環境でのそれらは、その場所に訪れる事になった二人の心に大きな影響を与えていた。ともあれ、何事もなくこうして又、楽しい時間をすごせる幸せをじっくりとかみしめる。
「でもね、ザックス様……」
それまで明るく語り続けていたイリアだったが、その表情に僅かに陰りが生まれた。
「姉さま、こちらに戻っていらしてから少し様子のおかしいときがあるんです……」
小ぶりの耳が僅かに垂れる。
「マリナさんが、か?」
《アテレスタ》から帰ってきた彼女とは一度会っただけだった。その時、確かに小さな違和感を覚えたような気がするのだが、彼女はいつもと同じ様子でザックスをからかい、うやむやにされていた。今日に至ってはたった今、いつも以上の神殿巫女ぶりを見せつけられたくらいである。そのような彼女をイリアは心配しているようだ。いつも身近にあるからこそ気付く微妙な変化が気になるのだろう。
「時折、ふっと物憂げな御様子でいらして……、そんな時には私達でもなんとなく声がかけ辛くて……」
「そりゃ、マリナさんだって人間なんだから、悩み事の一つや二つ、あって当たり前だろ」
「そ、そうですよね……」
イリアの耳がさらに小さく項垂れる。イリアからしてみれば常に先を歩むマリナの存在は大きなものなのだろう。ザックスにとってのウルガのように。
だが憧れは時として、真実の姿を曇らせるもの――。
《アテレスタ》で一度だけ見せたマリナの怒りの表情は、彼女も又決して完璧ではない一人の人間である事をザックスに強く印象付けた。身近であるからこそ見落としてしまう小さな異変も積み重なれば、誤解や軋轢となってしまう事を忘れてはならない。
なんとなくシュンとしょげかけたイリアをザックスは元気づける。
「今は、マリナさんの側にはイリア達が居る。あの時みたいに離れ離れって訳じゃないんだから出来る事は多いはずだろ? これまでマリナさんがしてくれたように、今度はイリア達がそばにいて励ましてあげればいいんじゃないのかな?」
イリアの小ぶりの耳がぴんと立つ。その表情から一瞬にして陰りが消えた。
「そうですよね。ザックス様のいうとおりです。あの頃に比べれば、私達にできることはたくさんあるはずでした」
小さくぺろりと舌を出して、彼女は微笑んだ。
一度、大切な人と離れ離れになったからこそ、今の幸せの価値が実感できるもの。それは、《アテレスタ》に訪れたことで得られたものの一つである。
二人の会話の最中、舞台から降りてきたマリナが優雅な足取りで、招待席の通路を歩んでいた。客席から湧きおこる拍手に迎えられた彼女だったが、ザックス達の傍に近づいた時、僅かに片目を瞑った。神殿巫女の微笑みの中にほんの一瞬垣間見せたいつものマリナに向かって、イリアも又小さく手を振って応えていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
祭事が一段落して神殿前広場を後にした二人は、都市の中心部にある闘技場に通じる通りを歩いていた。そろそろクロルに指定された時刻が迫っていたこともあり、歩みを速めようとしたザックスだったが、賑う人通りで思ったように前に進めない。指定された時間にその場所に到着する事が徐々に怪しくなるに連れ、ザックスの中に僅かに焦りが生じ始めた。
こちらの決めごとにはなかなか従わぬ癖に、自分の誘いを無碍にしたら臍を曲げかねぬのが、クロルである。今一つまとまりという言葉に縁遠いパーティの中で、リーダーにかかる心労は何気に大きい。
「ザックス様、こちらから参りましょう」
《ペネロペイヤ》育ちのイリアの勧めに従って、二人は裏道へと踏み入った。いつも閑散としているはずのその場所を、ザックス達と同様に大通りの人ごみに辟易とした地元の人々が、行き交う。少しばかり混雑気味のその場所を足早に歩きながら二人は闘技場に向かって先を急いでいた。
指定された場所でザックス達を待っていたのは黒山の人だかりだった。大市のときと同じく、様々な露店が立ちならぶその一角に大きく開けた空き地を取り囲むように群れている者達の多くは、ザックスと同じ冒険者達だった。
「ここでいいんだよな」
クロルが送ってきたメモ書きと略地図を、イリアと二人で覗き込む。と、聞き覚えのある芯の通った声が周囲に広がった。
「さぁて、お立会い。いよいよアンタ達お待ちかねの、あの品の登場よ!」
風術魔法による拡声現象を利用したその声に、ザックスは思わず顔をしかめる。
声の主は同じ酒場に所属するミンだった。
事あるごとにザックス達にちょっかいを駆け、アルティナを己のパーティに引き入れようと画策する彼女との関係は、決して良好とは言えない。近頃はアルティナもからかい気味に「どうしようかしら?」などと、迷った様子を見せるものだから心臓に悪いことこの上ない。パーティを率いるリーダーとして圧倒的に経験不足な身としては、仲間の動向は実にシビアな問題である。
『リーダーは辛いよ』
人は、何気ない戯曲の台詞や場面を己の身で経験してこそ、その真なる意味を理解する。やきもきするザックスの心中など気にも止めずに、ミンの声は続く。
「まずは、こっちの彼女にご注目!」
その言葉と同時におお、とどよめきが起こる。はるか後方から声の主の動向を探ろうとするものの、異様な熱気に満ち溢れた集団の織りなす人垣に阻まれた。
「こちらです。ザックス様」
イリアに手を引かれ、僅かに空いた人垣の隙間に二人で身を滑り込ませる。小柄なイリアを抱き寄せ庇いつつ、押しのけ割り込んだその先には、堂々と立つアルティナの姿があった。
「そこの下品な冒険者! あんまり彼女が綺麗だからって涎たらして見てるんじゃないわよ。尤も、その実力を目にしてすぐにアンタのモノが縮みきっちゃうだろうけどね!」
居合わせた一同が大爆笑する。珍しい生粋のエルフの登場とその端正な美貌に多くの者たちが溜息をついた。
愛想笑いをうかべることもなく淡々と空き地の中央へと歩み出したアルティナは、その場所に設けられた訓練用の的の前で立ち止まった。そのうちの一つに向かってミンの合図と共に《火炎弾》を豪快に打ち込む。放たれた《火炎弾》は正確に的に命中し、一瞬にしてそれを焼き尽くした。くすぶるように燃え残った火炎は、続いてすばやく放たれた《氷結弾》によってあっさりと消滅する。その早技に観衆達の間から歓声が起こり、ヤジが飛んだ。
アルティナの実力を知るザックスは、その一撃が十分に手を抜いたものである事を瞬時に見抜いた。表情を変えることなくその場を後にしたアルティナだったが、かなり緊張しているらしい事に気づいたのは、そこそこの付き合いゆえであろう。
再びミンの声が響いた。
「《踏破者》の一人であり、あの《魔将殺し》が率いるパーティの実力派魔術士、アルティナ嬢の妙技、どうだった? でもね、普通のパーティーがこんな優れた使い手に恵まれることなんて滅多にないわ。そうよね?」
彼女の本音が混じったその言葉に、すかさず同調のヤジが飛ぶ。
一般に詠唱士などの魔法職は成長速度が遅い。魔法という圧倒的な火力を有する特殊な技術を自在に扱い、戦術の核とするには、相応の熟達期間が必要である。レベルが上がってより上級者になるにつれ、ようやくその存在感が増していく彼らは、初期のパーティではお荷物的な役回りとなり、パーティ内のトラブルの火種になりがちである。
アルティナという才覚あるパートナーに恵まれたザックスには、今一つその苦労が分からぬものの、周囲の反応からなんとなく想像はついた。
「そんなアンタ達に朗報よ! この鍛冶屋ヴォーケンがついにアンタ達の悩みを一挙に解決するあのアイテムを完成させたのよ。最近少しばかり噂になってたから、皆知ってるでしょ!」
ミンの指し示すその先には、寝不足気味の顔にしかめっ面を浮かべたヴォーケンが腕組みをして立っている。華やかな場所の似合わぬ鍛冶屋も又、実はとても緊張しているようだということに気づいたのは、ザックスくらいのものではないだろうか? さらに彼のとなりに見覚えのある人物の姿がある。クロルだった。
「アイツ、何やってんだ? あんなところで……」
ヴォーケンとクロルの意外な組み合わせに驚いたザックスを尻目に、ミンの導きに従い堂々と歩み出した彼は、アルティナと同じように広場の中央に立つ。同じく寝不足気味のクロルだったが、これからとっておきのイタズラを仕掛ける子供のように目を輝かせている。彼が手にしているのはザックスがこれまで幾度も使用してきた《爆片弾》らしきものだった。ミンの合図でそれをアルティナの時よりも大きな的に向けて投げ付けた。
投げ付けられた《爆片弾》は轟音を上げて破裂し、投げ付けた的とさらにその隣の的をも巻き込んで盛大に燃え上がった。小柄なホビットが放ったアイテムの予想外の威力に会場内がシンと静まりかえる。これまで使ってきたものよりもさらに強力な威力にザックスも又、言葉を失った。燃え上がる炎を再び消し飛ばすかの如くアルティナの《氷結連弾》が後方から続けざまに放たれ、その場に巨大な氷柱が出現した。予想外の光景にしばらく水を打ったように静まり返った観客達だったが、やがて一人の男が口を開いた。
「ちょっと待てよ、ネエちゃん、なんか仕掛けがあるんじゃねえのか?」
人垣の前の方から疑わしげなヤジが飛ぶ。すかさずミンが答えた。
「じゃあ、そっちの冒険者さん、アンタ自身の手でそれを試してみたらどう?」
ミンの誘いにヤジを飛ばした冒険者が進み出る。その姿にザックスは見覚えがあった。彼も又同じガンツ=ハミッシュに所属する冒険者の一人である。
成程、そういうことかとザックスは一つ頷いた。周囲の者たちは、息を潜めて成行きを見守っている。
ミンから渡されたアイテムを手にした男は、おっかなびっくりといった様子でマナを込め、氷柱に向かって投げつける。先ほどと同様に破裂するや否や、氷柱が音を立てて崩れ落ちた。
「すげー!」
驚きはやがて徐々に歓声に代わって観客達の間に広がっていく。
これまでザックスが冒険の中で使ってきた《爆片弾》は、製作者の度重なる改良虚しく、起動時に必要なマナが膨大であるという決定的欠陥ゆえに、日の目を見る事はなかった。だが、何の変哲もない普通の冒険者がいともたやすく、それを起動させたという事実は、もはやそのアイテムに欠陥は存在しないという事を示している。しかもさらなる威力の増大というおまけつきで。
「どうかしら、アンタ達! これが鍛冶屋ヴォーケンの発明品。その名も《爆榴弾》よ!」
歓声にかき消される事なくミンの声がさらに響いた。
「この《爆榴弾》はね、あの《魔将殺し》が手にして幾度も死線をくぐりぬけてきたのよ。言いかえれば、これがあったからこそ彼は《魔将殺し》となりえたと言ってもいいわ。アンタ達だってこれを使えば、明日からのミッションの効率はぐっと上がるんじゃない? 無名の冒険者としてくすぶってるアンタ達が《竜殺し》や《踏破者》になることだって夢じゃないわよ!」
事実とは大きく異なるような気もするが、ここで声をあげるのは野暮というものだろう。ミンの挑発に周囲の冒険者達は色めき立ち始めている。
「お、おい、アンタ、もしかして《魔将殺し》の冒険者じゃねえのか?」
ザックスの周囲にいた者の内の一人が目ざとく彼の存在に気付いて、声を上げた。途端に周囲の視線全てがザックスと傍らのイリアに向けられる。
突然注目を浴びる事になったザックスは戸惑い、思わずイリアと顔を見合わせた。一人の男がすかさず彼に尋ねた。
「な、なあ、アンタ。あの姉ちゃんの言ってる事は本当なのかよ?」
男の問いは周囲全ての人々の問いでもある。
ミンやアルティナ達も又こちらの様子を窺っているらしい。このような状況になる事を見越して、彼女達はザックスを呼び寄せたのかも知れない。
――アイツら、後で覚えとけよ!
小さく抗議の視線を送りながら、ザックスは曖昧な笑みを浮かべて答えた。
「ああ、間違っちゃいないよ」
途端にどっと歓声があがる。
彼の答えは事態を決定的なものとした。小さく勝ち誇るように笑みを浮かべてミンが止めを刺す。
「さあ、アンタ達、あっちのテントに目当ての物は山ほどあるわ。しっかり買いこんで明日からのミッションやクエストに十分に役立てて頂戴。早い者勝ちだから品切れになっても恨みっこなしよ!」
彼女の言葉と同時に冒険者の一団がテントに向かって殺到し始める。ミン達も又売り子の応援に駆け付け、広場は瞬く間に無人と化した。
波が去るかのように周囲から一斉に人影がなくなり、雄叫びをあげてヴォーケンの新商品を買い漁る冒険者達の姿を、ザックスはイリアと二人で呆然と見つめていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「全く……、オレに黙って妙なこと企みやがって……」
「ふふっ。でもみなさん、とても生き生きとしていらっしゃいました。アルティナさんもテントの中で楽しそうにしていたようですし……」
少しばかり羨ましげにイリアが答える。昨夏の大市で臨時に開いたザックスの店で、はつらつと売り子に励んだイリアにしてみれば、彼女達の輪の中に混じってみたかったのかもしれない。
ヴォーケンの臨時の出店には冒険者達が押し寄せ、大繁盛だった。
次々に押し寄せる冒険者達の波を捌くことで手一杯の彼女達にとってザックスの存在は邪魔でしかなく、仕方なく彼はイリアと二人、その場をそっと後にした。
クロルのいうところの『内緒の一大プロジェクト』とやらはこの新製品発表会を指していたのだろうが、一体どうして内緒にしなければならなかったのか? 疑問符ばかりが脳裏を駆け巡る。問いただしたい事は山ほどあったが、その追及はまた後日という事になるのだろう。
再び大通りを神殿に向かって歩き出した二人は途中の出店で昼食を買い、近くの空き地に腰を下ろしていた。周囲には彼らと同じように、屋台で昼食を買って一休みしている人々であふれ返っている。
「では、ザックス様、どうぞ」
恒例となったとある腹黒神殿巫女によってねつ造された由緒正しき作法に則り、イリアが先程露店で買った一包みのパイを手ずから差し出す。その振る舞いに一瞬ぎくりとしたザックスの脳裏に、昨夏の大市での思い出が蘇る。
あの時はイリア手製のサンドイッチだったが、今日は準備をする暇がなかったらしい。
出店で買った物とはいえ、分厚い肉切れと野菜を生地で挟み込んだそれから発せられるふくよかな香りと仄かな熱がザックスの食欲を強く刺激する。周囲の奇異の視線の中、ザックスは意を決すると、眼前にイリアが差しだしたそれに一口かぶりついた。口腔にじわりと広がる肉汁の味を楽しむ事もなくあわててごくりと飲み込む。こちらもどうぞと差し出された飲み物にも口をつけ、再びパイに挑む。
楽しそうに微笑みを浮かべて食べ物を差し出す少女と、『アーン』と口を開くだけの冒険者――断っておくが、彼は決して横着をしている訳ではない。
これは、場に相応しい『作法』であり、それを実行する事は神殿巫女の果たさねばならぬ『義務』である。
少なくともイリアはそう信じ、ザックスはそれに付き合わされている。勿論、少女にそのように吹き込んだのは、言わずと知れたあの女性である。
昨夏と同じく、二人の様子を興味津々に見つめる子供達や、あぶれ者達の冷たい視線を一身に受けて辟易とするザックスだったが、今度は彼らの真似をする男女達までもが次々に現れる始末である。ザックスと同様に羞恥心に耐えかねた男の抗議に、つむじを曲げた女との生み出す諍いがそこかしこで勃発し、周囲には微妙な空気が生まれ始めていた。
やはり、ここは真実を告げて良識ある行動をとるべきではと思うザックスだったが、件の『作法』なるものを信じて疑わず、楽しそうに微笑むイリアを目の前にすると、口まで出かけた抗議の言葉は自然に喉の奥へと引き返していく。
つい先刻、美しい舞いで多くの人々を魅了した神殿巫女の謀略に完全に屈した事を自覚しつつ、幸福な拷問の時間は静かに過ぎ去っていった。
昼食を終えた二人は、漠然と周囲を眺めていた。そこかしこから湧き立つ笑い声や活気に満ち溢れたその様子は、とても心地良い。ふと昨冬に訪れた《アテレスタ》の光景が思い浮かぶ。
ザックスを始めとした多くの冒険者達の活躍によって、この《招春祭》を境に《アテレイヤ》と名を変えるあの街は、ようやく混乱の日々を抜けだすべく、最初の一歩を踏み出そうとしている。だが、長年の混乱によって失った物の代償は高く、そこに暮らす人々が《ペネロペイヤ》に暮らす人々と同じように笑い声をあげるのは、まだまだ時間を要するだろう。物想いに耽るザックスに、ぽつりとイリアが話しかけた。
「ねえ、ザックス様……、私、なぜか、《アテレスタ》の街での出来事が思い出されました」
ザックスは思わず目を見張る。
「ああ、実は今、オレも同じことを考えてたんだ」
イリアはふっと微笑んだ。
「こうして、街の人々が笑顔でいるのは、私にとってとても当たり前のことだったんです。でもそんな当たり前は、あの街ではそうではなかった。私はとても恵まれた場所にいたんですね」
その実感はなんとなくザックスにも分かった。決して裕福とは言えぬ故郷に育ったザックスには、《ペネロペイヤ》で過ごす日常はある意味天国ともいえる。
「ワイアード候爵に言われました。私は多くの暖かさに包まれて幸せに育ってきたのだと。《アテレスタ》ですごした日々は、私にどこか後ろめたさを感じさせました。私は他者が望んでも得られぬ分不相応な幸せを、いたずらに享受してきたのではないのかと……」
語り続けるイリアの横顔に、年相応の少女の物とは少し違う表情が見え隠れする。
「でも、思うのです。私に温もりを与えてくれた人々は見返りを望んでそうした訳ではありません。ただ当たり前に私を慈しみ叱って育ててくれた。だったら私も又、彼らと同じように私が与えられたものを周囲の人々に、あるいは次代の者達へと手渡していけばよいのではないのか……って。幸福を分け与えられた者がそれに胡坐をかくことなく、一人占めせずに次の者に幸福を分け与えること、それが幸福の中に生きる者の義務であり、それが巡り巡って、いつか多くの人々が笑い合える幸せな場所が生まれるのではないのかなって……」
少しばかりはにかんだ笑顔をイリアは浮かべた。年相応の少女の理想は、とても眩しくそれでいて儚い。
世の中とは多くの矛盾をはらみ、様々な軋轢を生みだす。それでも一人一人の小さな希望や好意がいくつも重なりあった拍子に、何かが変わっていくことがある事を彼は体験してきた。青臭い理想論や綺麗事も又、時として世の中には必要なのである。
だが、同時にイリアの言葉はザックスの中に小さな違和感を生じさせた。
目の前の少女――イリアは神殿巫女である。
その果たすべき役割上、様々な特権を許される身でありながらも、その本質は自己犠牲である。ガンツ=ハミッシュに訪れた時のマリナの言動が好例であろう。一人の少女の眩しい理想はその立場に矛盾する――そして、それはいつか彼女を苦しめる事になるのでは……。ふと、そのような思いがザックスの脳裏をよぎる。
――いや、そうじゃないな。
小さくザックスは微笑んだ。
彼女がいつか困った事態に陥れば、周囲の者たちが、あるいは彼自身が駆けつけ、手助けすればよいだけの話である。これまでイリアに多くの笑顔を分け与えられ、それに応えてきたように……。これからもそのようにして、この街で人のつながりのやり取りの中で生きていけばいい。それが故郷を離れて見つけた《冒険者》としての己の新しい生き方なのだ、ということを思い出す。
「ザックス様?」
もの想いに耽っていたザックスの顔をイリアが覗き込む。
「ああ、ゴメン。ちょっと考え事をしてたんだ」
「考え事……ですか?」
「もしもイリアの願いがいつか君自身を苦しめる事になったなら、すぐにオレがかけつければ、何にも問題はないなって話さ……」
考えがまとまらぬままに、何となく口に出して、思わず赤面する。
――あれ? 今、オレはとんでもなく大胆な事を言ったんじゃ……。
いや、そんなはずは、と混乱する思考にやきもきするザックスの傍らで、イリアはその愛らしい顔に鮮やかな花が咲かせていた。
「本当ですよ? 私が困った時には、いつでも、どこからでも駆けつけてくださいね!」
期待に目を輝かせて、少女はザックスの顔を覗き込む。
「お、おう、任せとけ!」
勢いと成り行き任せでドンと胸を叩く。後で一人になって、そのらしからぬ行動にあたふたするであろう己自身には、祭りの興奮にあてられてのことだった、とでも弁明しておけばいいだろう。
少しばかり照れ気味のザックスに、イリアがそっと片手を差し出した。小指だけを立てた見慣れぬ仕草にザックスは小首をかしげる。
「イーブイさんに教えて頂いた異国の風習なのだそうです。こうして……」
ザックスの手を取り同じように小指を立てさせると、自身のそれをザックスのそれに絡めた。
「約束ですよ……。絶対に……」
絡めた小指を通して、イリアの柔らかな温もりが伝わる。
「ああ、約束だ」
絡め合わせた小指を小さく揺らして、二人は……小さな、小さな約束を交わしたのだった。
2013/09/29 初稿