35 ケット・シー もてニャす!
何者かが頬をつつく感覚で目を覚ます。ぼんやりとした視界一杯に広がっているのは、鉢巻きをした猫のぬいぐるみだった。
「う、うわーー」
「ニャ、ニャニャーー」
倒れたまま、慌ててその場から転がるザックスの叫び声に、覗き込んでいた猫も又、驚いて近くのテーブルの下にとびこんだ。
《ミスリルセイバー》を手にしたまま警戒するザックスに対して、テーブルの影から顔を出しこちらの様子を窺う猫……否、猫のぬいぐるみ。
暫しの沈黙が訪れた。先に口を開いたのは猫……のぬいぐるみだった。
「ニャ、ニャンじゃ、お前。他人の領域にいきなり踏み込んできて、そんな物騒なもの引き抜いて……」
怪しげな猫の言葉を聞きながら、周囲を見回す。そこは不思議な場所だった。
薄い水色を基調とした背景に時折七色の光が差し込み、ふわふわと泡のようなものが立ち昇っては消えて行く。なんとなく見覚えのある様な気のするその場所は、あたかも水の中を連想させる。周囲には猫の所有物と思しきテーブルや本棚などの家財道具がぽつりぽつりと並んでおり、はてしなく広いその場所には猫以外の生き物の気配は全くない。
周囲に危険な気配がないのを確認して、鞘に愛剣をしまう。一体どうして、こんな場所にいるのか、今一つ思い出せなかった。
「あんた、誰だよ」
名前を聞いたところで、目の前の無茶苦茶な存在に思い当たる節など全くないが、これも流れである。テーブルの下からおそるおそるこちらを覗いていた猫は、ザックスが武器をしまうのを見て安心したのか、椅子を引き出しトンとその上に飛び乗った。
鉢巻きを締めた猫のぬいぐるみ――金色のボタンが幾つもついた丈の長い漆黒の上着を羽織ったそれは椅子の上に立って、名を名乗る。
「ワシか、ワシはその……」
暫し、宙をにらむとやがてポンと手を……否、前足を打った。
「ワシは《ケット・シー》ニャ!」
「けっと・しい?」
「違う! 《ケット・シー》ニャ。『妖精の王』ニャ。知らんのか? 無知じゃニャ……」
そこはかとなく馬鹿にされている気はするものの、相手がぬいぐるみでは怒る気もせぬというものだ。第一、考えなければ名乗れぬというのは、偽名を名乗っている証拠。さらには王様なる者の真の姿を思い知らされた身としては、敬意など払えようもない。
ふと、そこで脳裏に疑問符が浮かぶ。一体、どこで己は王様なる存在に出会ったのか……。
暫しの間、過去を振り返り、記憶を探る。大岩の上に立つ全身甲冑の姿がぼんやりと思い出された瞬間、次々にそれに関する記憶がよみがえった。とたんにザックスの態度が一変する。
「おい、猫!」
「《ケット・シー》ニャ……」
抗議しようとする猫、否《ケット・シー》の襟首を掴んで締め上げる。
「ここはどこだ? オレを連れてきたのはお前か? 戦闘はどうなった? アルティナ達はどこだ?」
矢継ぎ早に繰り出されるザックスの質問に《ケット・シー》は締め上げられたまま、目を白黒させて苦しがる。
「いい加減にするニャ!」
とうとう堪忍袋の尾が切れたのだろう。ザックスに掴まれたままの上着を残して姿を消す。途端に側にあったテーブルの上に一頭の巨大な大山猫の姿が現れた。金色の毛並みに黒いまだら模様のその姿は神々しい。神獣とも呼ぶべき存在といえる。
「『妖精の王』と言うたがニャ! なめんニャよ! 少しは敬意を払わぬか。お前、無礼すぎるニャ!」
テーブルの上に突如として現れた憤慨する金色の大山猫。その姿に残された上着を手にしたまま、ザックスは暫し、呆然としていた。
「誰……?」
ザックスの言葉に大山猫はテーブルの上でずっこける。
「ワシニャ。《ケット・シー》ニャ」
半分涙目になって抗議する神獣の姿は、奇妙に哀愁をそそる。
「ああ、その、悪かった。まあ、第一印象とは違いすぎるからな……」
最初に神獣の姿で現れたならザックスとて、もう少し態度は変わっていたかもしれない。所詮、世の中、見て呉れである。
「実はこっちの方が楽ニャ……」
元の鉢巻き姿のぬいぐるみに戻った《ケット・シー》がザックスから受け取った上着を羽織り直す。
「まったく近頃の現世の奴らときたら……」
その言葉が再びザックスを刺激する。
「おい、猫!」
「《ケット・シー》ニャ!」
どうやら絶対に譲れぬラインらしい。仕方なくザックスは譲歩する。
「わ、分かった。《ケット・シー》、ここはもしかして《狭間の世界》なのか?」
その言葉に《ケット・シー》は感心したような表情を浮かべる。
「ほう、お前《狭間の世界》の事を知っておるのか……。若いのに感心な奴ニャ」
「だったら、直ぐにオレを元の場所に戻してくれ、仲間たちが危険な目に遭ってる筈なんだ!」
あれから一体どれだけの時間を浪費したのか……。ザックスの心に後悔の念が押し寄せる。もしかしたら仲間達はすでに全滅しているのでは、そんな不安がぐるぐると頭の中を渦巻いた。
「いいから、少し落ち着くニャ! 悪いようにはせんから……」
「でも、仲間達が危ないんだ!」
「《現世》と《狭間の世界》は時の流れが全く違うニャ。その事くらい知っておるだろう……」
「あ……」
言われてようやくその事に思い当たる。アルティナの夢の世界で過ごした日々はほんの半日足らずの事であった事を、ザックスは思い出した。気力が抜け落ちるかのようにその場にあった椅子に座り込む。
七色の光が差し込む淡い水色のこの世界は、どうやら、あれと同じ《狭間の世界》である――その事実はザックス自身の力ではどうしようもないという事を認識させられた。
「ワシとしても早くお前には出て行ってほしいからニャ。こんな形で客を迎えるのはイレギュラー、ニャ」
ぶつぶつと呟きながら《ケット・シー》はもう一つの椅子に座る。
「まずは落ちついて、これでも飲むニャ!」
丸い手を器用に鳴らして中空からティーセットを取り出す。注がれた甘い匂いのする不思議なお茶を一息に飲み干すと、僅かな苦みとともに途端に身体の中が熱く火照り、それまでの身体の中に溜まっていた疲労と痛みが一気に消え去った。驚くザックスに《ケット・シー》はお代わりと茶菓子を勧めた。
「で、お前の事ニャ……」
すっきりした頭で冷静になって、ザックスは初めて思い出す。《ケット・シー》に対して名乗りもせずに、ずいぶんと無礼な態度を取り続けた事に気付き、慌てて詫びを入れる。
「良いニャ、良いニャ、勘違いは良くある事ニャ」
こうなってしまうと覚悟を決めるしかない。今も戦い続けている仲間たちが無事である事を祈って、自身の置かれた状況の解決に全力を尽くさねばならないだろう。
「それでは、ザックス。お前の事を少し教えてもらうニャ! 少しばかり、失礼して……」
《ケット・シー》がそっとザックスを指さすと、途端にザックスの頭から泡のようなものが立ち昇り、ふわふわと二人の間に浮き上がる。
「何だよ、それ?」
何となく不気味に感じる泡の一つを二人で覗き込む。そこにはダンジョンに挑むザックス達のここ数日の姿が映っていた。《イエロードラゴン》との戦いの最中、ザックスが穴の中に弾き飛ばされた所で場面は途切れ、二人の間にあった泡は弾けて消えた。
「なんとも、無茶苦茶な話ニャ……」
ザックスの記憶を覗いた《ケット・シー》の表情は厳しい。暫し、ぶつぶつと呟いていたが、その姿にしびれを切らしてザックスは尋ねた。
「戻れるのか?」
その言葉に《ケット・シー》はあきれ果てた表情を浮かべる。
「戻す事は造作もないニャ。幸いあそこには幾つも穴があるから、つなげるのは簡単ニャ。けど、お前、あんなところに本当に戻るつもりニャ?」
「当たり前だろ。仲間が危険なんだ。あんたも見ただろ!」
「それで、皆で仲よく心中するニャ?」
「…………」
《ケット・シー》の言葉に沈黙する。
「勝てるのかニャ? あの《覇軍の影》に……」
「それは……」
「お前も戦人なら、相手の力量が分かってるはずニャ。そして己がどれだけ無謀な事をやっておるか……」
「それでも逃げるわけにはいかないんだ。やっと見つけた仲間達なんだ。リーダーとして命を預かってんだ。今、逃げたら、オレはおそらく一生……」
「そして皆で仲よく心中するニャ。救いようのないバカニャ……」
心底あきれ果てた様子で《ケット・シー》は呟いた。
「バカでもいいんだよ。今、オレがやらなきゃいけない事は……」
「だったら、せめて、勝つための手立てを考えてからにしたら、どうニャ?」
開き直ろうとしたザックスを《ケット・シー》がたしなめる。
「お前、リーダーとして命を預かってるというたニャ。あの場所に戻れば確かにお前は満足かもしれんニャ。でも、仲間はどうなる。無策のまま戻ってきたお前と一緒に心中の運命を辿る事に、皆が納得するのか? 人を導く立場にあるというのだったら、せめてお前を信じる者達に希望の光を見せてやる事こそ、導く者の最低限の義務ではないかニャ?」
全くの正論だった。だが、ザックスの有するどのカードを使ったとしても、戦況を好転させる要素は微塵も見つからないのも、又事実だった。黙りこんでしまったザックスの様子に一つため息をつくと、《ケット・シー》は立ちあがってテーブルを離れた。
「とはいえ、ワシもそういうバカは嫌いじゃないニャ。高みから正しい事だけ言って己は手を汚さず、他者に平然と犠牲を押し付ける奴に比べれば、そんな奴の方がずっとましなのも事実ニャ。いつの時代も人の心を動かし、時代を動かすのは、賢しい奴ではなく、バカな奴だと相場は決まっておるものニャ」
近くにあった姿見を引っ張ってきて、ザックスの側におく。
動いてはならんニャと言い残して、再びその場を離れると、少し離れた場所にある戸棚の前に立ち、次々に引き出しを開くと中身をひっかきまわす。あれでもない、これでもないと取り出したものをそこら中に放り出し、直ぐに周囲はガラクタの山と化した。
「おお、あった、あった、これニャ」という言葉と共に、散らかし放題の戸棚をそのままにして、《ケット・シー》は再びテーブルに戻ってくる。手の中にあったそれをザックスの目の前においた。
それは奇妙な形の《小剣》だった。両手持ちが可能な柄の長さに比べて、刃先はそれよりもずっと短い。祭礼や儀式に使われる呪具に近い印象をうける。とても戦闘での行使は不可能に思えるが、見た目に比べてはるかにずしりと重いそれには、高密度のマナの気配がぎっしりと詰まっているようだった。
「見慣れない材質だな……」
「ニャんじゃ、お前、《神鋼鉄》を知らぬのか?」
「これが、そうなのか……」
名前だけは聞いた事のあるそれを物珍し気に手にとる。手の中の《小剣》からは圧倒的なマナの気配が感じられるものの、その輝きは鈍い。
「で、これを如何使えばいいんだ……」
「こいつで、あの影を切り裂けばよいニャ。これぞあの《ドラゴン・キラー》――竜殺しの武器ニャ」
《ドラゴン・キラー》――大陸各地に竜殺しの伝承と共にそのような様々な武器が存在するが、そのほとんどが眉つばものの紛い物である。竜族だけを殺す為の武器、あるいは竜族を殺した武器などと曰くを付けた品を、箔をつけたい騎士や冒険者相手に売りつける詐欺行為そのものであり、間抜けな者が引っ掛かるのが実情である。竜族その物がダンジョンですら滅多に御目にかかれないというのに、それを殺したという武器だけが巷に溢れ返っているという事実の奇妙さは、少し考えれば分かる事である。
「でも、斬れねえぞ、これ……」
刃と思しき所を指でなぞってみても、一向に切れる様子はない。疑わしげなザックスに対して《ケット・シー》は呆れたように答えた。
「当たり前ニャ。それは《理法の小剣》ニャ。《竜殺しの理法》を発動させて竜族だけを滅殺するものニャ」
「理法の小剣? 竜殺しの理法?」
その言葉に懐かしいダントンの顔が思い浮かんだ。
「竜族だけに特化した『呪い』のようなものといえば分かりやすいかニャ?」
「よく分からんが、《時間凍結の理法》みたいなものか」
「お前、すんごいものを知ってるニャ、知識が偏り過ぎニャ。あんな物騒なもの、まだあったのニャ。まあ、よいニャ、絶対使ってはならんニャ!」
心底恐ろしげな顔で戒める《ケット・シー》には悪いが、生憎と使用済みである。
「いや、その……、とっくに使っちまったんだが……」
「ニャ、ニャンじゃと!」
血相を変えて《ケット・シー》は飛び上がる。
「ニャんて事するニャ! あれは発動したら最後、際限なく周囲を飲み込み、やがては世界全体を凍りつけてしまうものニャ! いつニャ! どこでニャ! 大変なことになるニャ! 答えるニャ!」
凄まじい勢いで詰め寄られ、今度は《ケット・シー》が、ザックスの襟首を締め上げる。因果応報とでもいうべきか、ともかく目を白黒させながらザックスは苦しい息の下で己の知る事実を告げた。
「ま、待て、その事なら多分、大丈夫だ……」
「大丈夫な訳ないニャ。お前、世界を滅ぼすつもりかニャ!」
「だから、使ったのは《狭間の世界》での事だから……」
「ニャ、ニャに……」
ザックスの言葉に《ケット・シー》は呆けたような表情を浮かべ、ようやく掴んでいた襟首を放した。解放されたザックスは、不意に脳裏に再び浮かんだダントンの能天気な笑顔に抗議しながら、ぜいぜいと息をつく。
仇敵を討つためとはいえ、物騒な代物を作り、ザックス自身世界の滅亡の危機に手を貸しかけていたらしい。
「使用したのはとある《魔将》が作り出した《狭間の世界》でのことだ。使った相手は別の《魔将》だったけどな。現世でなければ別に問題はないだろ!」
「それはそうニャ。ともかく二度とそんな物を使ってはならんニャ。厳命ニャ! それにしても《魔将》とは何ニャ?」
「へっ……」
意外な言葉に今度はザックスが呆けた。子供ですら知ってる存在を、目の前にいる博識だけが取り柄らしい猫が知らぬのは、奇妙なことである。
「あんた、《魔将》を知らないのか?」
「初耳ニャ。まあ良いニャ。それよりも……」
他人の人生の一大事に関わる事柄をあっさりとスルーした《ケット・シー》は、奇妙な表情でザックスの全身をねめまわす。
「お前、身体の中に妙なモノが憑いてるニャ。それにその腕輪の石、それは《竜人石》ではないのかニャ?」
興味深げにウルガの腕輪を覗き込む。
「ああ、恩人の一人が残してくれた半竜人の力らしいんだけど、とても大切なものだ」
その言葉に《ケット・シー》は酷く驚きの表情を浮かべた。
「ほう、それの持ち主は半竜人だったのニャ。それにしては見事というか……」
「どういう意味だよ!」
「うーむ、何と言えば良いニャ……」
《ケット・シー》は丸い手で器用に腕輪に嵌め込まれた石に触れながら、それまで見た事もない真剣な表情で言葉を選ぶように言った。
「激しさ、貪欲さ、何よりも未だ満足しておらず、成長の余地をたっぷりと残したそんな持ち主の強い意思と未練が感じられるニャ。しかも、これは純血種の竜人ではなく半竜人のものといったニャ?」
その言葉に思わず首肯する。
「並みの純血種の竜人ですらこれほどに見事な情熱の色を残す事は出来ないニャ。一体どんな生き方をしてどんな未練を残したのか……。託されたお前には悪いが、今のお前では全く釣り合いはとれぬし、まだとてもではないが使いこなせぬニャ」
「そ、そうか……」
てっきり満足して逝ったものとばかり思っていたウルガの意外な心を知り、ザックスは思いを馳せる。よく考えれば彼と知り合ったのはほんの一月の間。しかも共に行動したのはほんの一時の事。ウルガとその仲間たちが一体、どんな思いを抱えてどんな冒険をしてきたのか――ザックスが知るのはほんのわずかな一端である事に気付いた。それでいながら、たったそれだけの期間で鮮烈な思い出を自分の中に残したその生き方に、改めて己の前に立ちはだかる乗り越えるべき壁の大きさを実感する。
「まあ、そう、落ち込む事はないニャ。お前の人生も十分変わり種ニャ! 大体……その……」
会話をする二人の側におかれた姿見が、突然輝きを増す。先ほど席を外した時にザックスの側におかれたまま、存在を忘れられかけていた姿見の輝きに、ザックスは目を瞬かせた。
「どうやら繋がったようニャ」
「繋がった?」
「覗いてみるニャ」
言われるままに姿見を覗き込んだ先には、アルティナ達3人がドラゴンと死闘を繰り広げる姿が映っている。見慣れぬ《輝く盾》を手にしたライアットを中心に奮闘しているものの、戦況は圧倒的に悪い。このままでは全滅するのは時間の問題であろう。
「ケット・シー!」
「行くのかニャ?」
頷くザックスに《ケット・シー》は小さく笑みを浮かべた。
「では姿見に手を合わせて、マナを込めるがよいニャ」
右手に預かった《ドラゴン・キラー》をしっかりと握りしめ、ザックスは《ケット・シー》に言われるままに姿見に手を合わせた。すぐさま姿見とザックスのマナが同調を始め、少しずつザックスの身体が光の中に消えて行く。
「その、ありがとうな、色々と……」
「ニャに、ワシも本当に久しぶりに楽しい時間が過ごせたニャ。《ドラゴン・キラー》はその礼ニャ! 次は正しい道を通ってくるがよいニャ。その時には色々と伝える事もあるからニャ。では健闘を祈るニャ」
右手を額にそえる奇妙なポーズで、《ケット・シー》は光の中に消えて行くザックスの姿を見送った。輝きと共にザックスの姿が完全に消え去ると、姿見は粉々に砕け散り、その欠片すらも淡雪が解けるかのように消えていく。
後には再び静寂を取り戻した永遠の時間と空間の中に、《ケット・シー》一人が取り残された。
「慌ただしい奴だったニャ」
テーブルの上のティーセットを片付けながらぽつりと呟く。長い孤独の時間の末にやってきた、少々迷惑な招かれざる珍客であったが、帰ってしまうとどこか寂しいものである。
永遠の時をたゆたう中で、強く心正しき者に伝えねばならぬ想いと世界の真実。その役目を己に科したのは誰あろう己自身である。正しき扉を通って現れる資格ある者の登場を心待ちにして、再び静かな時の流れに身を浸さねばならない。
「まあ、よいニャ、いずれまたやってくるかもしれんニャ……」
渡した《ドラゴン・キラー》で眼前の危機は乗り越えられるだろう。そしてその先に続く、果てしない道のりを辿って……。
そこまで考えてふと、とある重大な事実を思い出す。
「し、しもうたニャ、アイツに《解放の言葉》を教えるのを、すっかり忘れとったニャ……」
空間を繋ぐ姿見はとっくに砕け散り、彼にそれを伝える術はない。慌てたところで後の祭り。《解放の言葉》で力を解放せねば《理法の小剣》は、本来のその役割を果たせないただのガラクタである。
大きすぎる己のミスに暫し呆然とした《ケット・シー》だったが、やがて僅かに動揺を示す足取りでテーブルについて己の椅子に座り直し、自身のカップを一口すすり、ほっと一息つく。
「ま、まあ、そのなんだニャ。け、健闘を祈るニャ……」
つい先ほどまでそこに座っていた青年の顔を思い浮かべながら、ぽつりと一言、言葉をかけた《ケット・シー》の額の鉢巻きからは、一筋の冷たい汗が流れおちるのだった。
2012/11/05 初稿