27 クロル、再起す!
数日が経過した。二人のアテレスタへの旅路は多くの障害が付きまとった。
客の足元を見て法外な値段を吹っ掛ける宿屋を始めとして、彼らの少ない所持金をだまし取ろうとあれこれ工作する難民達。途中で見つけた隊商にどうにか頼み込んで《アテレスタ》まで乗せてもらう事になった二人だったが、あと一日というところに来て今度は盗賊団に襲われた。
「これも私の悪運度のせいなのかな」
泣きそうになったラフィーナの手を引いて盗賊団とキャラバンの護衛団との戦闘の中を逃げ惑い、クロルは荒野を走っていた。
もしも冒険者だったらこんな時、二人の身を守る事が出来たのだろうか? 捨て去ったはずのその可能性に小さな未練を残していることに気付かぬまま、彼は必死でラフィーナの手を引いて荒野を走り続けていた。
どうにか《アテレスタ》の城門にかけ込んだ二人のボロボロの姿に、不審の色を浮かべた衛兵たちが槍を突きつけた時には、命からがら辿りついた喜びよりも、次々に押し寄せる理不尽に対する悔しさで胸が一杯になっていた。貴族であるラフィーナの身元が証明されなければ、おそらく彼らは街に入る事など出来なかっただろう。
兎にも角にも、ようやく《アテレスタ》へと辿りついた二人は、真夏であるにも拘わらず重い空気の漂う街の中を、彼女の家に向かって急いだのだった。
「ようやく着いたね」
広大な敷地を有する王宮の裏手にある高級な屋敷が立ち並ぶ区画の一角に、ラフィーナの屋敷はあった。
周囲の家々からは見劣りするものの、田舎育ちのホビットのクロルの目には巨大な御殿のように感じられた。
頑丈な作りの門の隙間から垣間見える中庭は丹念に手入れされ、いろどり豊かな夏の花々を咲かせている。だが、そんな華やかな中庭の景色とは裏腹にその奥に見える屋敷からはどこかぎすぎすした空気が感じられた。
周囲の通りには警戒をする警備兵の姿がちらほらと見られ、混乱する《アテレスタ》においてこの区画だけは静けさを保っていた。
「入ろうよ」
門の前で足を止めたままのラフィーナの手をとって、クロルは呼び鈴を引く。しばらくして一人の老齢の執事が屋敷の中から現れた。門の前に立つラフィーナの姿を見出すや否や、彼は慌てて彼女に駆け寄った。
「お、お帰りなさいませ、お嬢様、よくぞご無事で……、いったいそのお姿は……」
驚きながらも彼女の傍らに立つ小柄なクロルの姿に目を止め、彼は執事の顔を取り戻した。
「彼はクロル。私をこの街まで送ってくれたの……」
ラフィーナの言葉に執事は居住まいを正した。
「それはありがとうございました。大地の守り人、クロル様。道中、大変な道のりでさぞやお疲れのことでしょう。お嬢様を御護り下さり、家人として心よりお礼申し上げます。どうか御客人として当家にご滞在下さいませ」
実に洗練された作法と丁寧な礼を持って、彼はクロルを出迎えた。
「なんだ、ちゃんとお帰りって出迎えてくれる人はいるじゃないか」
クロルは自身の手を握るラフィーナに笑顔を向ける。これなら彼女の事は安心して任せられるだろう。
歩き出そうとしたクロルはふとさわやかな匂いを嗅いだ。直感的にその香りの元へと吸い寄せられるようにラフィーナと共に歩く。とある花壇の前で立ち止まる。クロルの背丈よりも少し低い丈の低木に、幾つかの白い花がさわやかな匂いをふりまきながら咲いていた。
鮮やかな色彩の花々が咲き誇る庭の中で、白く全く飾り気のない花弁がしっかりと開ききり、清々しく清楚に咲き誇った姿にクロルは目を奪われた。
「先代様とお嬢様の大好きな花でございます。今年も見事に咲きました」
老執事の言葉にラフィーナは小さく微笑む。花の色と同じほどに白い腕を伸ばして愛しげに花弁に触れる。ふと、父親に抱かれた幼い彼女の姿が思い浮かんだ。
「さあ、お嬢様、お疲れでしょう、中へお入りくださいませ……」
老執事に手を引かれて先を歩くラフィーナの背を眺めながら、クロルは安堵するとともに一抹の淋しさを感じていた。彼女が無事に家に帰りついた以上、彼はもうお役御免である。ラフィーナのぬくもりがクロルの手から離れた事で二人の短く小さな冒険は終わりを告げようとしていた。
「一度、故郷に帰ろうかな……」
懐かしい一族や村の住人の顔を思い出しながら、クロルはぽつりとそう呟いた。
少しばかり故郷で休養してから再び探し物の旅に出るのも悪くない。子供の頃からの憧れの一つだった《周回者》になるのも新しい選択肢だろう。
そんな事を考えながら二人の後を追ったクロルは、どこかぎすぎすした雰囲気を漂わせるラフィーナの屋敷に入っていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「出て行きなさい!」
屋敷に入った二人を出迎えたのは、この家の留守を預かっていたラフィーナの母親だった。
客間に通され、どこか怯えた姿を見せる彼女に代わり、事情を掻い摘んで述べたクロルの話を聞くや否や、彼女は傍らにあった水差しを娘に投げ付けた。ラフィーナはずぶぬれになったまま、毛の深い絨毯の上に転がるそれを呆然と見つめている。
「奥様、な、何という事を……」
慌てて駆け寄る老執事の言葉を無視して、彼女は娘を詰り続けた。
「どうしてお前も一緒にその場で死ななかったのですか? そうすれば我が家の面目も保てたというのに……。一人だけのこのこと不様に生き恥をさらす真似をして。レイヌ・バルミナ家の当主として恥ずかしくないのですか、お前は……」
その言葉に怒りを覚えたクロルは、彼女の母親に怒鳴りつけた。
「それでも母親かよ! あんたに一体何が分かるんだ。家の体面とやらの為に娘を危険な場所に突き出して、自分は安全な場所でのほほんとしていた癖に……。ラフィーナを責めるんだったら、あんたが冒険者になって自分で怖い目に遭ってみたらどうなんだ!」
「お黙りなさい、泥人形! お前ごときに人間の世界の何が分かるというのです。身の程をわきまえなさい。ラフィーナ、お前もです! いい年をして人形遊びだなんて、この家の当主としてあなたは恥ずかしくないのですか」
「奥様、クロル殿は当家の恩人。そのような御方に向かって一体何という事を……」
泥人形――それは亜人である妖精族のホビットに対する蔑称である。
彼の事を対等の人間と認めようとしないその無礼な言葉よりも、ボロボロに傷ついて帰ってきた娘の痛みを受け止め、ねぎらおうとすらしないその傲慢で無慈悲な仕打ちにクロルは激昂した。
「お願い、止めて、クロル。お母様を悪く言わないで……。全ては私が悪いの。私が当主として不甲斐ないから叱られて当然なの」
「ラフィーナ……」
まるで何かに操られるかのように紡ぎだされるその言葉を耳にして、クロルの背筋に冷たいものが走る。いつも儚げにふんわりと微笑む優しいラフィーナの面影はそこになく、眼前にいる彼女は意思を持たない母親の操り人形だった。その薄気味悪さを振り払おうと、クロルはラフィーナの手を握った。
「しっかりしなよ、ラフィーナ。ボク達にはどうする事も出来なかった。たくさんの同期が死んでいっただけじゃない。仮に優秀な冒険者のパーティだったとしてもあの惨劇からは逃れる事は出来なかったって、協会の人たちも言ってたじゃないか! ボクもキミもちっとも悪くない。どうしようもなかったんだ!」
「違うわ、クロル。私が悪かったの。私がもっとしっかりしていればこんな事にはならなかった。こんな私だから創世神は最大の悪運度という罰を私に与えたのよ……。すべては私のせいなの……」
「ラフィーナ……」
同じ言葉を話しているのに会話が成り立たない。今の彼女はまるでどこか別の世界の住人だった。
二人の姿を冷たく見下ろしていた彼女の母親は、傍らの戸棚から金貨の詰まった袋を取り出すと、クロルに向かって投げつけた。
「泥人形、お前の目当てはそれでしょう。それを持って、その出来そこないとともにこの屋敷から出てお行き!」
ぶつけられた拍子に袋から飛び出た金貨が濡れた絨毯の上に音も立てずに転がった。しばし、彼女の母親を睨みつけていたクロルだったが、やがて投げ付けられた金貨の袋には目もくれずにラフィーナの手を取ると、その部屋を後にする。
「二度と顔も見たくないわ、この出来そこない! お前は『私』の恥だよ!」
彼女の罵声に背を押されたクロルはそれを振り払うかの様にして、呆然としたままのラフィーナの手を引いて客間を飛び出したのだった。
「お待ちください、クロル殿」
ラフィーナの屋敷を飛び出そうとした二人を呼び止めたのは老執事だった。慌てて駆け寄ってきた彼の手には、先ほど彼女の母親が投げ付けた金貨の袋がある。
「どうか、クロル殿、これをお持ちください」
「いらないよ、そんな物! ボクはおカネ目当てにラフィーナを連れてきたんじゃない!」
「重々、承知いたしております。クロル殿。どうか、お怒りをお鎮め下さり、この老いぼれめの話をお聞き下さらないでしょうか?」
老執事はクロルの前に片膝をついた。その姿に息をのむ。背の低いホビット族に対しては多くの者達がその在り方までを軽んじる。丁寧な礼を尽くす紳士の姿にクロルの中にあった怒りの感情が急激に収まっていった。老執事はクロルに丁寧に続けた。
「クロル殿、貴方が心ある御方であり、危険を顧みずにお嬢様を屋敷にまでお連れ下さった事、家人として心よりお礼申し上げます。お嬢様お一人ではおそらくこの街に辿りつく事は出来なかったことでしょう。そんな貴方の人となりを見込んでもうしばらくの間だけ、お嬢様の側にいらしてはいただけないでしょうか?」
片膝をつき、自身をまっすぐに見つめる老執事の言葉に偽りはない。それは彼の真摯な願いであった。
「奥様が、あのように申される以上、お嬢様がこの屋敷におられては身の詰まる思いをなされる事でしょう。奥様の怒りが収まる暫くの間だけ、お嬢様の側にいてはいただけないでしょうか。こちらは当座のお二人の生活費でございます。このアテレスタの街は騒乱の最中でお嬢様お一人では何かと不用心でございます。本来ならば私が側についているべきなのですが、生憎とこの屋敷から離れられぬ身。どうか何卒、もうしばらくの間だけ、お嬢様のお力になっては頂けないでしょうか。伏してお願い申し上げます」
老執事の真摯な願いを無碍に断る事は出来なかった。何よりも先ほどから呆然としたままのラフィーナの様子が気になっていた。どこか落ち着ける場所で彼女と話をして心の重荷を取り除かなければ取り返しのつかない事になりそうで、恐ろしかった。
「分かった、とりあえずこの街の宿を探す。落ち着いたら連絡するよ」
「ありがとうございます。クロル殿。どうか何卒、お嬢様の事をよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる老執事に見送られて二人は屋敷を後にしたのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
まだ人通りも多く、時折《斧槍》を手にして巡回する警備兵のお陰で一見安全そうな街並だが、やがて日が暮れればそうとも言えなくなるのだろう。
「ラフィーナ、さあ立って。まずは今夜の宿を探さなきゃ……」
だが彼女の反応はない。休憩がてら道端の雑草だらけの花壇の縁に腰を下ろしたまま彼女は立ちあがろうとしない。焦点の合わぬ瞳はどこか遠い別の世界を見ているようで、クロルの言葉も姿も彼女の世界には存在しないようだった。とにかく落ち着くところを探さなければ……、不慣れな街の中で気ばかりが焦る、そんな時だった。
「アンタ達、どうかしたのかい」
その声に振り返ったクロルは思わずぎょっとする。
彼の眼前に立っていたのは大きな袋を両手に抱えた一人の大柄な男だった。ピッチリとしたタイツに身を包んだその男の上半身は、鍛え上げられた戦士か格闘家のように隆々としている。その後ろには大きな荷物を抱えた数人の男たちの姿があった。
妙な奴らに絡まれてしまった――警戒するクロルに男は苦笑いを浮かべた。
「そんなに怯えないでおくれ、アタシはアマンダ。この街唯一の冒険者の酒場の店主をやっている者さ。今はうちのロクデナシ共を連れて買い出しの帰りだよ」
「ひでえな、アマンダ。ロクデナシはねえだろ」
笑う男達の顔を見て僅かに緊張を解く。悪い人間達ではないらしい。何よりもアマンダの言った『冒険者の酒場』という言葉がクロルの興味を引いた。今夜の宿について何か良い情報が得られるかもしれない。そう考えてアマンダに尋ねようとした時だった。
「おや、アンタは……」
道端に座り込んだラフィーナの顔をのぞき見たアマンダの顔に驚きの色が走った。手にした荷物を後ろの男達に押し付けると、アマンダは再び彼女の顔を覗き込む。
「アンタ、もしかしてレイヌ・バルミナ家の……?」
「知ってるの、彼女の事を?」
クロルが手短に事情を話すうちに少しずつ彼の顔に厳しい色が増していく。黙って話を聞き終えたアマンダは立ちあがる気力すらないラフィーナの身体を抱え上げて、クロルに言った。
「ついておいで。ウチの店でもう少し詳しい話を聞かせておくれ。なに、柄は少し悪いし多少ひねくれてはいるけど、みんな根はいい奴らばかりさ。それにこの娘の事情はアタシにとっても他人事じゃないんでね」
言葉と同時にラフィーナを抱えたまま歩き出す。その背にどこか安心感を覚えたクロルは、慌ててアマンダの背中を追ったのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
クロルとラフィーナがアマンダの酒場に逗留する事を決めて数日が経過した。
その事を老執事に知らせたクロルは、アマンダの店で彼女の手伝いをしながら日々を送っていた。
アマンダの宿の一室に逗留するラフィーナの様子は徐々に回復しつつあるものの、精神状態はどこか不安定であり、先日までの優しい笑顔を滅多にみせる事はなかった。
開け放たれた部屋の窓から空を見上げながら、いつもの曲を口ずさみ、時に目に見えぬ誰かと言葉を交わすかのような彼女の行動と今にも消え入りそうな生気のないその姿は、恐ろしく危うげだった。
今の状況が続くようならば極めてまずいだろうということは理解できるものの、この荒れた街では、普通の医師さえ見つからぬ状況で、彼女の心の平安をすぐさま取り戻すことは難しく、なんら効果的な手立てが見つからないのが現状だった。
(これからどうしようかな)
客が全く来る気配のない店のカウンターで留守番をしながら、飲んだくれている冒険者達の姿を横目にクロルは自分達の未来について漠然と考えていた。アマンダは実によくしてくれるが、この店がいつまでもこの状態でいる事は難しいだろう。ときおり誰もいない店のカウンターで帳簿を眺めながら溜息をつくアマンダの姿を目の当たりにしているだけに、長居をする訳にはいかない。かといってラフィーナを放置することは絶対に出来なかった。このまま彼女を連れて故郷に帰る事も選択肢の一つとせねばならないだろう。この騒乱の街とあのぎすぎすした家は、優しい彼女には似合わない事だけは確かに思えた。
「ラフィーナを守りたい」
それがいつしかクロルの行動原理の最上位命題となっていた。彼女の心が回復して旅ができるようになったら、二人でこの街を離れよう――そんなふうに考えがまとまり始めたある日の事だった。
《ペネロペイヤ》からやってきた冒険者がもたらした書簡に目を通しているアマンダの姿がなんとなく気になって、クロルはグラスを磨きながら彼女に声をかけた。
「アマンダ、何かあったの?」
「ちょっとね、昔の知り合いが死んじまったらしくて……」
「そう……。残念だったね。仲のいい人?」
「そういう訳じゃないんだよ。ウルガっていって多分、今この大陸で一番の冒険者だね。昔、まだうちの酒場が繁盛していた頃に何度か泊っていった事があってね……。彼とその仲間達はなかなか気持ちのいい奴らだったよ。やっぱり凄い奴らってのは、最初からどこか違うものを持ってるものだね」
大陸で一番の冒険者――冒険者をとっくに廃業したクロルには全く縁の遠い世界の話だった。
「知らせによるとウルガはどうやら《魔将》と相討ちになったらしいよ」
その言葉に息をのんだ。あの日暗いダンジョン内で炎の中に浮かび上がった陰気な魔人の顔が思い浮かんだ。自分達から無慈悲に全てを奪っていった奴が死んだのだろうか? その忌まわしき思い出がクロルの顔に暗く冷たいものを浮かび上がらせた。
「悪かったね……嫌な事を思い出させちまって」
顔色の変ったクロルにアマンダは小さく詫びる。彼らの事情はもう全て話してあった。暗い表情のクロルを元気づけるかのようにアマンダは続けた。
「なんでも彼らに手を貸した新米冒険者がいるらしくってね……、名前は何だったかしら。ああ、ここだ、『ザックス』っていうらしいね……」
瞬間、手の中のグラスが床に落ちて音を立てて弾けた。全身の戦慄きが止まらなかった。
「大丈夫かい、クロル、怪我でもしたのかい?」
アマンダの問いにクロルの返事はない。床に散ったグラスの破片を片付ける事もなくクロルはふらふらとアマンダの側に近づいた。真っ青な顔をしたまま彼女に尋ねる。
「ゴメン、アマンダ。よかったらその手紙、ボクにも見せてくれないかな」
「あ、ああ、構わないよ。それよりアンタ大丈夫かい。顔色が真っ青だよ」
アマンダの言葉に返答する事もなく、クロルは手にした手紙に目を走らせた。力強い達筆の文字が並ぶその手紙の中から目的の言葉を捜し出したクロルは、その前後の文章に目を走らせる。
「こんなの……ウソだ……」
僅か数行の文章にしたためられた自身の常識の範疇外のその事態に、彼の心は大きく揺れることとなった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
クロルがアマンダに相談を持ちかけたのはそれから2、3日たっての事だった。
「ちょっといいかな」
閉店後のカウンターに座ったクロルの前に、アマンダはアルキル果実の搾り汁のグラスを自分の分と共に並べた。並べられたグラスに口をつけて暫くしてクロルはようやく重い口を開いた。
「ボクがもう一度《冒険者》に戻ることはできないかな」
絞り出すようなその声はカウンター以外の明かりを落とした店の闇の中へと消えていく。アマンダが返答したのは、それからしばらくしてからだった。
「それはあの手紙と関係あるのかい?」
その言葉に無言で頷いた。
「理由を聞いてもいいかい」
アマンダの問いにクロルは一つ小さく息をする。
「この間の手紙に書いてあったザックスって奴は、ボク達の冒険者訓練校の同期なんだ」
「ちょっと待ちな、あんたの同期ってことはそれじゃ……」
「ボク達と同じように、あの日、生き残った一人だよ」
「なんてこったい……」
目撃例さえ稀有、否、伝説級といってよい《魔将》に遭遇して死にかけながらも再び立ち上がり、僅か一月の間に大陸一の冒険者と共に《魔将》を倒した若き《冒険者》。出来過ぎといってもよいその英雄譚に大きな運命を感じてしまうのはアマンダだけではないはずだ。
「ボクが最後に彼を見たのは、協会の施術院で眠り続ける彼の姿だった」
エルフの女性と共に一向に目を覚ます様子のない二人が眠る部屋を後にして以降、彼らの事はクロルの脳裏から完全に忘れ去られていた。
「親しい仲だったのかい」
「いや、ボクの事なんか覚えてもないはずだよ。彼はフィルメイアだからね。訓練の最中も戦闘能力の高い奴の事以外は、ほとんど興味を持ってなかったみたいだった」
一般人の背丈の半分程度のホビットの事に関心を持つ者の方が少なかった。最終試験に向けてのパーティはどこにも属せなかった余り者同士で組んだくらいである。
「苦労したんだね……」
「別に大したことはないさ。ホビットは村々の単位で集まってこそはじめて優遇される。旅に出るときにそう長老から教わったから……」
アマンダの言葉にクロルは小さく苦笑いした。
「結局ホビットは一人じゃ非力なだけの種族なのさ。だから冒険者の超常的な力が欲しかった。でもボク達は誰でも受かるはずの簡単な試験であんな事になっちゃって、それで……」
逃げ出した――その言葉を使うには少し抵抗がある。例え誰であってもあの状況はどうにもできない、そんな常識を彼の同期がぶち破ってしまった今となっては、自分達の選択は只の言い訳にしかならないようにクロルには思えた。そしてそれを見透かしたかのように、アマンダがぽつりと呟いた。
「止めとくんだね……。あんたは彼じゃない。アンタと彼との共通点なんて《魔将》に遭遇した同期だってことぐらいだろ」
「でも……」
「《魔将》に遭遇する……その最悪な経験をして生き残ったアンタ達は正反対の選択をした。理不尽な運命から逃げた奴と向かっていった奴。この差は天と地ほどの開きがあるんだよ」
「アマンダ……」
「アタシも仕事柄、ずいぶんといろんな冒険者のパーティを見てきたから、分かるのさ。この間、ウルガ達のことを話しただろ。無茶と思えるミッションを組んできちんと帰ってこられる奴らってのは、例え未熟であっても己の魂に揺るぎない何かってのをきちんと持ってるものなんだよ。アンタ達にはそれがなかった。だからアンタ達は冒険者を廃業するという選択肢を選んだのさ」
正論だった。その言葉に唇をかみしめる。
「人生にはいろんな分かれ目がある。大抵は選択すべき場面で勇気を出して一歩踏み込んだかそうでないかの問題なのさ。中には『運』なんてどうしようもない要素もあるけれど、努力や積み重ねなんてのは、たしかに人生を豊かにする事はあるけれども、所詮、人生を左右する大きな要素とはならないんだよ」
「それでもボクは力が欲しい。今のままじゃ、ボクは非力すぎてラフィーナ一人を守ることすらできないんだ!」
「アンタ……」
「いつまでもアマンダの厚意に甘えている訳にはいかない。この店がずっとこのままであり続けられる保証なんてないだろ。だったらせめてボクだけでも彼女を守ってあげられるようにしたいんだ」
「危険だね……。それは……」
「どうしてさ……」
「アンタはあの娘に一方的に同情しているだけだからさ……。一人の人間を背負うってのはアンタが考えてるよりずっと重いものなんだよ。傷を舐めあうだけの関係じゃ、いつかどちらかが耐えられなくなる。しまいには共倒れさ。冒険者のパーティってのも似たようなものだからね。圧倒的な強さやカリスマで仲間を引っ張る奴とそれに寄っかかるだけの集まりよりも、反発しながらもぶつかり合ってやがては互いに信じ合い支え合っていく――そんな仲間同士の方が生き残っていくものさ」
その言葉にクロルは下を向く。
――やはり自分は甘かったのか。
それでも、と。一度浮かび上がってしまった未練は、彼の心の中から消えそうにはなかった。
「ゴメン、悪かったよ……軽率だった。でも、それでも、ボクはやっぱり諦められそうにない……」
言葉と同時に席を立とうとする。そんなクロルの様子に一つ大きく息を吐いたアマンダは、言葉を掛けた。
「まあ、アンタの気持はよく分かったよ。もし、アンタにその気があるんなら協力してやってもいいさ」
その言葉に驚いて顔を上げる。アマンダの厳しい表情は変わらない。しっかりとクロルの顔を見つめたままクロルの表情の変化を窺っているように見える。
「どういう事?」
「歪んではいるけれど今のアンタにはしっかりとした動機がある。形見探しや世界の謎解きなんて夢見がちなものよりもずっと明確な……ね。ラフィーナを守りたい――アンタの彼女に対するここ数日の接し方を見ていればその気持ちが本物だって事くらいは分かるさ」
「でもそれは正しい事ではないって……」
「正しいかどうかなんてどうでもいいことなんだよ。初めは不正解でもいつかは正解に変わってしまう、それが人が生きるってことさ。アンタがもう一度立ちあがろうとする事で、心を閉ざしかけているあの娘に変化が表れるかもしれない。今のまま何もしなけりゃ、何も変わらないからね……」
手元のグラスを取り上げて口をつけるアマンダの視線は遠い。そんな彼女にクロルはふと疑問をぶつけた。
「アマンダはどうして見ず知らずのボク達に、こんなに良くしてくれるんだい。今のボク達は冒険者ですらないのに……」
クロルの疑問にアマンダは暫し、沈黙したまま手の中のグラスを弄ぶ。頼りなげに揺らめく炎が照らし続けるカウンターに座ったままのアマンダは、一つ大きくため息をつくと、ぽつりと呟いた。
「アンタにはまだ言ってなかったけれどね、あの娘があんな風になっちまった責任の一端はアタシにもあるんだよ」
「どういう事?」
「この街からあの娘達を送り出す事が決まった時、アタシは止めきれなかったんだよ。マナに対する資質ばかりに目がいって、肝心の冒険者の精神を考えようとしない、形や体裁ばかり気にして中身を見ようとしない奴らの暴挙を止める事が出来なかった。この街にはこの街の都合があったからね。協会支部長の肩書があるとはいえ、その実態を伴わないアタシの力じゃどうしようもなかった」
「…………」
「この街から送り出されたあの子達は、どの子も《冒険者》の卵らしくはなかった。大人達の無責任な期待の鎖にがんじがらめに縛られて、ただそれに応える事だけを考えていた。あんな姿は《冒険者》のそれじゃない。《冒険者》ってのは、時に自分の命を差し出して人の世界のルールを超越した未知の世界に踏み込むもの……。世界の理の残酷さからみれば、人間の作り上げた決め事なんて嘘臭くてちっぽけなものなんだよ」
厳しい言葉だった。ただ、あの日の地獄から生還したクロルにはなんとなくその重みが感じられた。
「なりたくてなれる訳ではない。資質があるからなれる訳でもない。いつの間にか、なっているもの――それが《冒険者》なんだって……。こいつはある方の言葉なんだけどね……」
小さく微笑みを浮かべる。だが、それは決して届かぬ物への諦めのようにも見えた。
「アタシは所詮、酒場の店主でしかない。だからその言葉の本当の意味を己の物とする事がなかなかできないんだ。現実に打ちのめされてはそれを思い知らされ、しばらくしたら忘れてしまう。その繰り返しだね……。きっと心底、愚か者なんだろうよ……」
彼女は自嘲的な笑みを浮かべる。
「でもね、そんな愚か者でもそれなりの生き方ができるくらいには、世の中は優しくてもいいんだって思うよ」
「よく、分かんないな」
「当たり前だ。あんたとは生きてきた長さも重みも出会った人間の数も全然違うんだから……」
「アマンダって幾つなの?」
「乙女に年を聞くんじゃないって、おっかさんに習わなかったかい?」
アマンダの大きなゲンコツがクロルの頭を捉える音が、鈍く周囲に響き渡った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
再び《冒険者》になるべく、クロルが旅の支度を終えたのはそれから二日後の事だった。しばらく側を離れる事を告げたクロルをラフィーナは、どこか虚ろな瞳のまま抱きしめた。抱きしめるその腕の力はいつも以上に強く感じられた。
「大丈夫、すぐに帰ってくるから。そしたら一緒に又、旅に出るんだ」
クロルの言葉に彼女は遠い目をしたまま、小さな微笑みを浮かべた。
後ろ髪を引かれる思いで彼女の側を離れて部屋を出て行くクロルの背中を、いつもの曲を口ずさむラフィーナの優しい歌声がそっと押す。
「必ず帰ってくるからさ、そうしたら、楽しい事を探しに行こう」
振り返ったクロルの目に映ったのは、開け放たれた窓からの光を背にした彼女の姿だった。それはなぜかクロルの心に強く焼き付いていた。
2012/10/25 初稿