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Lucky & Unlucky  ~アドベクシュ冒険譚~  作者: 暇犬
アドベクシュ冒険譚03章 ~騒乱の都市編~
61/157

18 マリナ、揺れる!

 すでに夜は更け始めている。

 人気の全くない洗礼の部屋の中でイリアは黙々と荒れ果てた室内の掃除をしていた。

 財政の逼迫する神殿において自身の思いつきでそれを始めた以上、値の張る火晶石のランプは使えない。サンズに譲ってもらった輝くナイフを明かり代わりにしているものの、光量の弱いそれが照らしだせるのは周辺のごくわずかである。

 僅かな光源を頼りに、氷のように冷たい水桶に粗末な藁束子を突っ込んでゴシゴシと力を込めて磨く。3年近く放置された汚れを完全に落としきるにはとてもではないが時間も人手も足りない。


《ルドル山》から帰還した彼女は、そのまま《ペネロペイヤ》へと帰還する予定だったが、街の事情がそれを阻む事となった。

《アテレスタ》都市外縁に周辺領主達の軍勢が集う事により、王宮は都市と街道を結ぶ門を閉鎖した。ペネロペイヤへの道を断たれる事になったイリアはマリナの手伝いを申し出たものの、彼女と同世代の少女たちが病に苦しむ姿を目の当たりにしたマリナ達によって、制止され、日中は下働きの者達と共に炊事や洗濯、炊き出しの準備を手伝っていた。

 目の回るような忙しさに振り回され、神殿巫女としての自分を見失いそうになってしまったイリアがふと思いついたのがこの部屋の清掃だった。まったく手がつけられることのないその場所は自分達神殿巫女のみの領分である。

 一日の仕事をすべて終えた彼女のその行為は、労働というものではなく己の在り方を確かめるための儀式に近かった。

 始めてからまだ三日、おそらく全てを完結させることなく彼女はこの街を離れることになるのだろう。初めからやりきれない事が分かっているのに手をつけてしまう事は悔やまれたが、それでもイリアはその場所の清掃を少しずつ始めていた。一人の神殿巫女としてこの場所が荒れ放題になっている――それを見過ごす事はどうにも出来そうになかった。


 熱心に清掃に励むそんな少女の姿を暫く戸口から見守っていたマリナだったが、やがてイリアの元に近づいた。

「またここにいたのですね。あらあら、こんなに手を真っ赤にして……」

 近づいたマリナは冷たい水で赤く腫れたイリアの手をとると治癒を施す。

「いけません、姉さま。お疲れになってるのに、まだ、そんな事を……。このくらいは自分でできます」

 だが、イリアの言葉をマリナは取り合わない。ニコニコと微笑みを絶やさずに彼女はイリアの治癒を続けた。

「これはお務めではありません。私が貴女の為だけにしたいと思う事。こうする事で私も又、癒されるのですよ」

 敵わないな、そんな思いを胸にしてマリナのぬくもりに身を任せ、イリアはうつむいた。

 心地良い沈黙が二人を包む。こんな気分になれたのはマリナがペネロペイヤを離れて以来、ずいぶんと久方ぶりのような気がした。

 イリアの治癒を終えたマリナは悪戯っぽく微笑んで言った。

「口をあけてごらんなさいな」

 言われたとおりにしたイリアの口の中に、コロンと一つ飴玉が放り込まれた。

「ね、姉ひゃま、ふぉ、ふぉれは?」

「ふふっ、役得です。内緒ですよ」

 にこりと微笑むと自身の口にもそれを放り込む。壁際に背を向けて並んで座る二人の巫女姉妹を、手桶の横におかれたナイフの光がぼんやりと照らしだした。しばらくの間、黙って飴玉を舐めていた二人だったが、やがてマリナがぽつりと呟いた。

「こんなことが昔にもありましたね」

 その言葉にイリアはこくんと頷いた。

 まだ二人が幼い頃、探検と称して神殿内のあちらこちらを探索の最中、隠してあったライアットの秘蔵の酒に面白半分に口をつけ、二人してそのまま気分が悪くなってしまったのだった。後でライアットに大目玉をくらったのは懐かしい思い出である。

「姉さま、神殿巫女って何なのでしょう?」

 口の中でようやく飴玉が消え去ると、イリアはぽつりと呟いた。マリナの返事はない。

「冒険者の転職の御世話をする、それは第一の務め。でもそれができなくなってしまったら、私は何をすればよいのか時々不安になってしまいます」

 イリアの言葉が暗がりに吸い込まれ、やがて消えて行く。

「神殿巫女。多くの方々が、私にではなくその言葉に敬意を示し、時に畏怖します。一人ひとりはとても良い人なのになぜかそんな時は周りの人たちが遠くに感じられ、私には別の自分がどこかにいて、そこで私を演じているような気がします。そして、時々それが恐ろしく感じられます。姉さまにはそんな事はありませんか?」

 目を閉じてイリアの言葉を聞いていたマリナの返事はない。ただ、黙って傍らに座るイリアの手を握りしめるだけだった。だが、やがてぽつりと口を開いた。

「あなたもそう感じるようになったのですね……」

 どこか遠くを見つめるような眼差しのまま、彼女は続けた。

「それは巫女であるならば大抵の者が感じる事です。でも、おそらく貴女の疑問に答えはありません。私達はその力を失うまで、自身の与えられた役割とその務めを黙って果たせばよいのです。神殿巫女とは何か、創世神の教えとは何か。神殿に関わる多くの者達が必ず一度はそれを思い悩みます。ですが、その先には決して踏み込んではなりません。いずれ貴女の身を破滅へと追い込む事になりかねないのですから」

「そんな……」

「私にも覚えがあります。以前、私が尊敬する神官と巫女の方々がいらっしゃいました。彼らは熱心で敬虔であったが故に、現実にそぐわぬ教義に疑問を持ち、異を唱えることによって神殿を追われました。以前、貴女に《創世教団》の話をしたでしょう?」

「たった、それだけの理由で追放なんて……。そんなのおかしいです、姉さま」

 イリアの言葉にマリナは小さく微笑むと彼女の口を人差指で優しく押さえた。

「私もそう思います。でもね、それを軽々しく口にしてはならないのです。貴女は私達が貴女を子供扱いして真実から遠ざける事に強い不満をもっているでしょう? それが私達が貴女を遠ざける理由なのです。《ペネロペイヤ》の大神殿で共に暮らす大切な人々が一斉に貴女に悪意を向ける、そんな状況を貴女は想像できますか?」

 その言葉にイリアはかぶりを振った。

「間違っている――ただ、その一言を言う為には、それだけの覚悟をしなければなりません。そして、おじさまやルーザ様、エルシー達、貴女の大切な人たちと離れ離れにならなければならないのです」

 イリアの小ぶりの耳がしゅんと項垂れる。

「正しくないと思う事が当然のようにまかり通る。神殿はいつかこのツケを大きな形で払わねばならぬ時が来るでしょう。でも今の神殿の存在を心の支えとしているたくさんの人たちがいるのも、事実なのです。この神殿にいらっしゃる多くの人々を見ればわかるでしょう?」

「ごめんなさい、姉さま」

「謝る事ではありません。疑問を持つという事は貴女が成長している証拠です。人の良いザックスさんを騙して、《ペネロペイヤ》を飛び出してきたかいがあったというものでしょう」

「ね、姉さま、酷いです」

 コロコロと笑うマリナにイリアは抗議する。

「よいではないですか、イリア。良い女は程々に男を振り回すものです。でないと、アルティナさんにザックスさんを取られてしまいますよ」

「そ、それは……」

 顔を赤くしてうつむいたイリアの肩を、マリナはやさしく抱きしめる。

「そろそろ部屋にお戻りなさいな。明日、この街はいよいよ大きな転換点を迎えます。その中で見える事もあるはずです」

「はい」

 己の言葉に従い、洗い桶を手に部屋を出て行くイリアの背を見送りながら、彼女は小さくため息をつく。

 いつまでも共にいられればいい。でも、おそらくそんな夢はかなわない。どんな形であれ、いつか別れの時は訪れる。それが人が生きるという事である。

 自身にできるのは、ただその時が訪れるのが少しでも遅くなるように願うだけ。手の中に残った妹分のぬくもりをしっかりと抱きしめながら、彼女はそっとそう願うのだった。


 ふと、彼女の背後で小さな物音がした。

 僅かに驚きながらもふりかえった彼女の背後には、イリアが消えたのとは別の入口から現れたアリウスの姿があった。

「おや、マリナ殿。まだ、こちらにいらしたので……」

 火晶石のランプを手に近づいてくるアリウスにマリナは微笑みと共に神殿礼をする。

「イリア殿は今夜はもう戻られたのですね。本当に彼女には申し訳なく思っています」

 ここ暫く、イリアがこの部屋を掃除している事は神殿責任者であるアリウスの了解済みである。彼はいったいいつから扉の向こうにいたのだろうか? そんな疑問を微笑みの裏側に隠す。

「神官長様は見回りですか?」

「明日は大変な一日になりそうですからね。なんだか気が逸ってしまって、どうも眠れそうにありません」

「まあ、まるで子供みたいに……」

 互いの笑い声が暗い室内に響きわたる。そして暫くの間沈黙に包まれた。やがてアリウスは洗礼の部屋の上階層を見上げながらぽつりと呟いた。

「明日、この街はいよいよ変わる事になるでしょう。そして、自由都市になった暁にはこの街は再び《転移の扉》で各地と結ばれ、多くの冒険者がこの場所に訪れる事になるはずです」

 再開より3年、この地で神官長としてこの神殿を守り続け、国内や街の様々な勢力と手を結んで良好な関係を築いてきた彼の功績は計り知れない。自由都市となった暁には、再び大神殿として扱われる事になるだろう事を考慮すれば、まだ若い身でありながらも、彼は創世神殿内でも異例の出世を果たす事になるはずである。いずれは長老会にその名を連ねることも不思議ではない。

 輝かしい未来の己の姿に胸を高鳴らせるのは野心家の彼としては当然のことであろう。

「私もそのような貴重な時に立ち会えるのは喜びの限り。神殿巫女の一人としてこれからもこの神殿に尽力させて頂くつもりです」

「神殿巫女の一人……として、ですか」

 視線を合わせることなくアリウスはぽつりと呟いた。意味ありげな言葉の重さにマリナは小さな引っ掛かりを覚えた。何かを決意したかのような表情を浮かべて彼女に向き直ったアリウスは、正面から視線を合わせた。

「このまま無事に事が運べば、私は大神殿として再建されるこの神殿の神官長に任ぜられる事を長老会より確約されております。マリナ殿、願わくば、貴女には私の傍らにいて、私を支えて頂きたい」

「それは、もちろん、私も神殿巫女の一人として……」

 そのマリナの言葉をアリウスは遮った。ゆっくりと手を伸ばしたアリウスはマリナの手を取りさらに続けた。

「そうではありません。マリナ殿。私は私個人として貴女に申し上げているのです。私自身を支えてほしい。これは一人の男としての願いなのです」

「神官長様……」

 その真剣な眼差しからマリナは目を逸らせられない。結婚の申し込みともとれる突然のアリウスの言葉に、彼女は大きく動揺した。

「貴女はご自身の微笑みを作り物と思い、神殿巫女としての自分をただの偶像と考えておられるでしょう? でもそれは違います。ご存知ですか。貴女はイリア殿やあの《冒険者》と共におられる時、とても自然な笑顔をなされておられるのです。その笑顔を私にも振り向けて欲しい、そう嫉妬させられる程に……。そして、そう思うのはおそらく私だけではありません。貴女は貴女自身が気付かぬところで多くの人々を強く惹きつけているのです。だからこそ、多くの人々が貴女を慕うのです」

 僅かに言葉を切った後で、アリウスは続けた。

「貴女がこの神殿に来られるずっと以前から、私はあなたを存じ上げておりました。私も又、遠くから貴女にあこがれ続ける俗物の一人だったのですから……。想像できますか? あなたが私の元にいらっしゃる事が分かった時の私の喜びを……」

 そこまでいってアリウスは、彼女のほっそりとした手首を握り締める自身の力が強すぎた事にはっと気付いた。

「も、申し訳ありません」

「いえ、大丈夫です」

 強く握られた手に心地良さを感じながらもマリナは優しく微笑んだ。大きく息を吐いて僅かに冷静さを取り戻したアリウスは続けた。

「貴女自身にいかなる目的があってこの地に来られたのか、私には少しだけ見当がついております。そして、その手助けをすることが私には出来ます」

 その言葉にマリナは小さく警戒する。だが、そんな彼女の心を見透かしたかのようにアリウスは言葉を続けた。

「私も又、貴女と志を同じくする者。今の神殿の在り方に疑問を持ち、いつかそれを正そうと考えています。私だけではありません。今や神殿内の多くの若者達がそう胸の内に秘めております。ですが、そのほとんどが破滅への詩を奏でながらの夢物語に終わってしまう。それは彼らの力が神殿の実権を持つ者達の前には無力だからです。だからこそ私は高みに登る事を志しました。同じ場所につき、同じだけの力を持って、初めてそこにいる者達と渡り合えるのです。ですが、それは私一人では困難な事。協力者が必要なのです。

 マリナ殿、私と共にいらしていただきたい。貴女の力を私は求めています。代わりに私はあなたのよき理解者となりましょう」

 奇しくもそこは洗礼の部屋。

 多くの冒険者が新たな道を見出すように、マリナの前にも又、今、新たな生き方が示されようとしていた。これも創世神のお導きなのだろうか、そんな思いがマリナの脳裏をよぎる。

 アリウスは今、危険を承知の上で己の野心を告白した。他者に知られれば、その全てを奪われ追放される事を顧みずに、マリナに己の全てをさらけ出し、彼女を求めていた。彼はおそらく本気なのだろう。

 だが、アリウスの言葉にやすやすと乗る事を彼女の本能が警戒する。本当の敵というものは味方のふりをして近づくもの。彼の言葉を鵜呑みにする事は、余りにも危険すぎる。

「時間を頂けませんか」

 内心の動揺とは裏腹に彼女は、静かな口調で言葉を紡ぎ出す。

「あまりにも突然の事に、正直混乱しています。それに私は神殿の今についてなんら不満を持ってはおりません。今も、そしてこれからも……」

 その言葉にアリウスは小さく微笑み、彼女の意図を理解した事を示した。

「先ほどのお言葉、私はとても嬉しく思います。ですが、今夜の事は、一夜の夢としてしばし胸の内に留めておきたいと思います」

 マリナの言葉にアリウスは頷いた。

「構いません。私もすぐに貴女が頷くなどとは思っていませんし、そんな貴女だからこそ私は必要としているのです」

 アリウスの言葉にマリナは微笑みでもって答えた。

「きっと、いつか貴女の真実の笑顔を私に向けさせて見せましょう。貴女からのよき返答を私はずっとお待ちしております」

 二人は並んで歩きだす。

 やがて洗礼の部屋を出た二人は、神殿礼を交わすと互いに違う方向へと歩きはじめた。

「よき眠りを……」

 手にしていた火晶石のランプをマリナに手渡して、そんな言葉とともに通路の闇の中へと去ってゆくアリウスの姿を、マリナは黙って見送った。


 ――もしもあの時、彼にすぐさま返答をよこしていたのならば、その後の未来はどのように変わっていただろう?


 後に、この夜の出来事を振り返ったマリナがそのような想いを抱えるようになろうとは、その時のマリナは知る由もなかった。




2012/04/08 初稿




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