14 サンズ、語る!
時折強い風が危なげな橋を大きく揺らす。木とツタを編んで作ったつり橋がギシギシと耳障りな音を立てる中、ボイドはその背にサンズを背負ったまま静かに歩を進めていた。
(そろそろこのあたりでと思ってたんだが、予定が狂っちまったな……)
《軽業》の効果でさほど重さを感じぬサンズの存在をその背で感じながら、つり橋の遥か下方を流れる川の水音に耳を傾ける。この川の水量は少ない。つり橋から落ちれば浅い川底に叩きつけられて冒険者といえども助かる事はまずないだろう。
本来の予定では、先にザックスを行かせて、つり橋を渡っている最中に支え綱を切り落とすはずだった。彼さえいなくなれば、後はさほど戦闘力を持たない《僧侶》のおばさんだけである。始末するのは大した手間ではない。
(仕方ねえ、先に渡り切ってからやっちまうか……帰りが少々面倒だが、まあ仕方ねえ)
かねてから想定していた段取りを一から組み直している、そんな時だった。
突然、喉元にぴたりと突きつけられた明確な悪意に、ボイドの背筋が凍った。
「妙な事は考えないで下さいね、ボイドさん」
先ほどの狼狽ぶりがうそのようなサンズの落ち着いた声が耳元に響く。喉元にいつの間にかしっかり押し付けられた冷たい刃の感触にごくりと唾を飲み込む。
「おい、何の真似だ、あんた」
「それは私の台詞ですよ。貴方からはよからぬ事を企んでいる空気がビンビンと伝わってきます。失礼ですが、貴方は悪事を企むのには向いていないように思われますよ」
その言葉に思わず立ち止まる。自身の背にいる彼女は何かを感づいている――その事実にボイドは大きく動揺した。
「い、一体、何の事だ?」
喉元にあてられた刃の感触を意識しながら、背の上のサンズに問いかける。
「足を止めないで下さい。それと余り大きく動かれない方がよろしいですよ。冒険者協会推薦などといううたい文句のこのナイフ、耐久性はともかく切れ味だけは抜群ですから」
奇妙に輝く刃のナイフを手にしたままサンズはそう告げる。
「おーい、大丈夫かー」という後方からの呑気なザックスの叫びが周囲に木霊した。その声に背を押されるように再び歩きはじめる。
「何時、気付いた?」
全く隙のないサンズを揺さぶろうと、ボイドは僅かに手の内をさらす。
「まあ、ほとんど最初からですね」
のんびりとしたサンズの声が耳元に響く。彼女の言葉に小さく動揺する。
「これまでの貴方の言動はどう考えても仲間を信頼し、力を合わせて困難を乗り越えようなどという冒険者精神には程遠い物でしたからね……。そんな貴方が『ガキ共の為』なんて……、どう考えても似合わない台詞ですよ。『オレは酒場の他のクズ共とは違うんだ』とか『成功の暁には分け前を半分よこせ』とか言った方が説得力がありましたね」
「成程……」
「状況から察しますに、貴方はザックスさんがハツカル草を持って帰ると困ってしまう方々の手の者という事でよろしいのでしょうか。ワイアード候爵、とは違うようですが……」
「あんた、一体、何者だ?」
「私は唯の《冒険者》ですよ」
「ウソだな……」
「いえいえ、本当の事です。まあ、《冒険者》をやる前は『詐欺師』をしていましたけれどね。お恥ずかしい話ですが、それなりの通り名もありまして、その世界では結構有名だったのですが……」
どうやら、相手が悪かったらしい。己の背にいる人物とは敵対するのではなく手を結ぶべきだった事を理解したボイドはサンズの動揺を誘おうと試みた。
「あんただったら分かるだろう。あんな『正義かぶれの偽善者剣士』殿と共に行動したところで、先はねえ。言っておくがこの山の頂上で待ち構えてるのはそこらの生ぬるい魔物なんかじゃねえんだぞ」
「やはり、貴方は以前この山を登った事があるのですね」
無意識に事実を自白してしまった事に舌打ちする。
「ああ、そうだよ。だから、分かるんだ。あんた達は絶対にこの山からは帰る事はできねえ、ってな」
「そうですか……」
のんびりとした声は相変わらずである。全く動揺を見せない彼女の様子に、ボイドは薄ら寒いものを感じた。
「怖くないのかよ!」
思わず大声を上げる。彼の心を示すかのように足元のつり橋が大きく揺らいだ。
「私にはどうでもいいことですね……」
全く調子をかえないサンズの声が無性に恐ろしい。一体この女は何を考えているのか? 喉元にぴたりと当てられたナイフの刃の冷たい感触が、ボイドから冷静な思考を奪いつつあった。
ボイドの背の上のサンズは、相変わらずのんびりとした調子で世間話をするかのよう彼に話しかける。
「先ほど貴方はザックスさんの事を『正義かぶれの偽善者剣士』と評されました。あなたの目からみた彼はそう見えるのでしょうが私には違います」
「あんたにはどう見えるってんだ?」
「魔将殺し。貴方をはじめとして多くの方々は、その意味すら考えずに彼の事を軽々しくそう呼びます。そして、そんな方々は《魔将》という存在は彼にとってはそんな容易いものではないという事が理解できていないのが大半です」
渓谷を吹き上げる風の音が妙に遠くに聞こえる。
「多くの冒険者はミッションやクエストにおいて自分から危険に身を置きます。『死』という概念は一般人よりもはるかに近い所にあるといえます。もちろん一般人だって病、争い、災害、飢餓、その他様々な理由で必ず『死』は訪れますがその遭遇率は冒険者に比べれば圧倒的に低い。ですが、そんな彼らでも自身の『死』というものを常に意識するという事は稀でしょう」
「当たり前だ。毎日死ぬことだけを見つめて生きる人生の何が楽しい」
「ですが、ザックスさんは違います。彼は今、この時も《魔将》という『死』をもたらす最悪の災厄に狙われ続けています。彼の価値観において『死』はいつも当たり前にそこにあるのです」
「…………」
「そんな境遇におかれた彼の目からみれば、いかに凶悪な魔物や困難なクエストが眼前に立ち塞がろうとも、それは絶対的な死をもたらす災厄である『魔将と戦う』という事に比べれば容易いと考えてしまうのではありませんか」
「それは……」
サンズの言葉にボイドは返答すらできない。心を大きく揺さぶられた彼は自身がつり橋を渡り切った事すら気付かなかった。
「しばらくこのままの状態でいてくださいね。ザックスさんがつり橋を渡りきるまで……」
「あ、ああ……」
完全にサンズにペースを握られてしまっているボイドは、自身の計画すらも忘れてその場に立ちつくしていた。
「あんたは怖くないのか? あんたの言葉を信じれば、今この時だって、《魔将》と遭遇することになるんだぞ」
「私ですか……。そうですね、そうなってしまわねば分からないでしょうが、おそらく取り乱す事はないと思いますよ」
「何故だ!」
「先ほども申し上げましたが、私、《冒険者》になる以前は『詐欺師』をしておりましてね。御覧のように顔も容姿も十人並みであまり他者に警戒される事はありませんでしたので、ずいぶんと重宝しました。人間というのは他人には真実を求めるくせに自分には嘘を許す奇妙な生き物。だから彼らの望む物をさりげなく与えてやりさえすれば面白いように騙されてくれるものです。
ただ、悪事を積み重ねればやがて人は孤独になり、その心と思考は様々な負の感情に喰らいつくされていくもの……。いつしか私の見える世界は下らなくつまらないものばかりで溢れるようになりました」
その言葉に僅かに暗い物が感じられる。
「ですが、そんなある時ふと気付いてしまったのです。結局、世界なんていうものの価値を決めてしまうのは、己自身の心の在り方なのだという事に……。自身が素晴らしければ世界も素晴らしく、自身が浅ましければ、世界も又浅ましいものとなるのです。
そう思い至った時、私はそれまでの己の全てが虚しくなってしまいました。別にそれまで重ねた悪事を反省したという訳ではありません。ふりまかれた嘘に幻想を抱き騙される者が悪いのですから。ただ、無性に虚しくなったのです」
小さくため息をつく。
「だからと言って、今更、真人間になれるとは思いません。多くの人々を手玉にとってきた私に人並みの幸せなどはふさわしくありませんし、おそらくそんな事では満足できないでしょう。だから私は《冒険者》となりました。
どうせ一度は死ぬ命。だったらこの世の面白おかしい事を極め尽くしてみようではないか、とね。
こんな私ですから初めのころはずいぶん苦労しましたが、十分な仲間に恵まれ、今も又、ザックスさんと共に楽しい時間が過ごせています」
「この状況を楽しいというのか」
「ええ、だってそうでしょう。いつ裏切るかも知れぬ仲間に、正体不明の魔物、密かに暗躍する国家的陰謀、そしていつ現れるかもしれぬ恐るべき災厄。こんな面白い状況を楽しまずにいられますか?」
「狂ってるぜ……。アンタ」
「そうですよ。だから初めからそう言ってるではないですか」
その言葉と同時にサンズの重さがその背から消失する。己ののど元に手をあてておそるおそる振り返ったその先には、手にしたナイフを素早く袖口に隠したままニコニコと笑うサンズと、冷や汗をかきながらつり橋を渡り切ったザックスの姿があった。
「ええと、サンズ、もしかしてお邪魔だったか?」
「何をおっしゃられますやら。ザックスさん。乙女にそんな事を尋ねるなんて野暮というものですよ」
「乙女……なのか?」
「ナイスつっこみです。ザックスさん。ついにブルポンズの心を開眼したのですね」
「あ、ああ……」
苦笑いを浮かべたザックスは、ボイドに声をかける。
「助かったぜ、どうにか無駄な時間を取らずに済んだみたいだ、先を急ごう」
言葉と同時に歩き出す。すぐさまサンズがそれに続いた。だが、ボイドは彼らに続こうとはしなかった。
「どうした、ボイド?」
ザックスの問いかけに応答はない。ただ信じられぬ物を見るかのような眼差しで二人を見つめている。しばらくして彼は小さく呟いた。
「冗談じゃねえ……」
尋常でない彼の様子に不審を覚えたザックスが彼に近づこうとする。だが、そんなザックスに向かってボイドは叫んだ。
「こっちに来るんじゃねえ! もうテメエらに付き合うのはうんざりだ!」
言葉と同時につり橋に向かって後ずさる。
「おい、いきなり、何だってんだ」
事情を知らぬザックスには、ボイドの豹変は晴天の霹靂である。戸惑うザックスの前にサンズが進み出た。
「私達と共にいらっしゃらないのですか」
「うるせえ、あんたなんかとこれ以上一緒に行けるもんか」
「サンズ、一体どういう事だ」
ザックスの問いにサンズは僅かに沈黙した。しばらくして、彼女は静かに告げた。
「彼は私達の旅を妨害する目的でここまで付いて来たのです。おそらくこのあたりで私達を始末するつもりだった。そしてこの先にいる正体不明の魔物についても何かを知っているようです」
サンズの言葉にザックスは驚きの声を上げた。
「本当なのか、ボイド! サンズの言った事は……?」
「ああ、本当だ、全て事実だ」
悪びれもせずにそう言うと腰の《小剣》をすらりと引き抜いた。その姿にザックスは大きく戸惑った。徐々に後ずさり距離を取りながら、ボイドは続けた。
「本当ならテメエにはこのつり橋ごとまっさかさまに落ちてもらうところだったのによ! 余計な邪魔のせいで計画は完全におじゃんだ!」
さらにじわじわと後ずさったボイドはつり橋の上へとその身を移した。峡谷から時折吹きあげる風に、今にも崩れ落ちそうなつり橋が奇妙な悲鳴を上げる。
「バカ、戻れ、危ないだろうが」
「こっちに来るんじゃねえ。俺はもうお前達とは一緒に行けねえ。ここから先はテメエらだけで行ってさっさとくたばりな!」
身構えた小剣を支え綱に向かって振り上げる。
「よせ、止めろ、ボイド」
「ザックス。あんたは悪い奴じゃねえ。でもな、世の中にはアンタのような奴にいろいろとされると迷惑がる奴ってのもいるんだよ。今年の冬、周辺の村々でハツカル病が発生して以来、強い冒険者が《アテレスタ》に薬草をもたらさぬようにオレはずっとあの店で張ってたのさ。そして《魔将殺し》のあんたが現れた。湖の魔物を倒して薬草を持って帰られるのは困るってんで依頼主はさらに俺に仕事を頼んだのさ。あの湖からの生還なんて最初は無理だと思ってたんだがな、あんたと行動するうちに万が一にもと思うようになってな……。でも、結局俺にはやれなかった」
小剣を振り上げたままボイドは小さく顔を歪めた。
「三年前の事だ。俺は当時組んでいた仲間達と冒険者協会直々のクエストでこの山の調査に来た。俺達にとってそれは最後のクエストだった。この依頼を完遂して俺達はパーティを解散する予定だった」
「お前……」
「《冒険者》なんていつまでもやってられるもんじゃねえ。長く組んできた仲間達も皆、それぞれにいつかは別の道を歩くようになる。だが、そんな現実を認められない奴もいる。それが俺だった。ばらばらに離れてゆく皆の心を引きとめようとなんとか努力をしても結局、俺達の解散は避けられなかった。ここでの最後のクエストは、そんな俺の我が儘に付き合ってくれた仲間達の最後の好意だった。でも、その時の俺はそんなことに気付きもしなかった」
彼の言葉に強い悲しみが宿る。
「頂上に近づくにつれて、俺の心には淋しさが満ちていった。時間が止まればいい、あんな事を考えたのは後にも先にも只一度きりだ。だが、そんな俺の想いとは裏腹に一行の足は止まることなく、ついに山の頂きの湖に辿りついた。その時、俺の心の中に変化が起きた。どういう訳だか俺の淋しさは離れて行こうとする仲間たちへのどす黒い憎しみにすりかわっていた。そして……」
ボイドは目を閉じた。
「気付いた時、俺の両手とこの《小剣》は仲間達の血で真っ赤に染まっていた」
吐き出すようなその叫びにザックスは息をのんだ。
「朱に染まった仲間達の躯をおきざりにして俺はその場を一目散に逃げ出した。逃げ出す瞬間、他に誰もいないはずのその場所で、俺は確かに誰かの嘲笑を聞いたような気がした」
忌まわしき過去の記憶が身体の震えとなってボイドを揺らす。
「山を降りた俺に帰る場所なんてねえ。自分のせいでパーティが全滅したなんて報告のしようがないからな。結局、この騒乱の街のどさくさにまぎれて居座るしかなかった。仲間の血に汚れた俺にはふさわしい場所で後は想像のとおりさ」
語り終えたボイドは自嘲気味に笑った。
「ザックス、サンズ。これが俺の知る全てだ。後はテメエらでどうにかするんだな。悪いが俺はここまでだ。後はきっちり仕事を終えて、この忌まわしき山と永遠におさらばするだけだ」
「どういう意味だ」
「この橋はふもとと頂上を結ぶ唯一のルート上にある。だからこうするのさ」
言葉と同時に小剣を振り下ろす。素早い動作で両の支え綱を一刀両断されたつり橋はもろくも崩れ落ち、その上に立っていたボイドもろともに渓谷に落下していく。
偶然落ちてゆくボイドと目が合った。口元に小さな笑みを張り付けたまま堕ちて行くその姿を、ザックスは成す術もなく見つめるだけだった。
「すみません、ザックスさん。彼をけん制するだけのつもりだったのですが、こんな事になってしまうなんて」
崩落したつり橋を目の当たりにしながらサンズが詫びた。
突然のボイドの離反に、暫くの間呆然自失状態のザックスだったが、彼女の言葉に我に返った。
「仕方ねえよ、あいつの事は俺も怪しいとは思っていたんだが、結局あんたに助けられちまった。それに、あいつが素直にこのままくたばるような気もしない。全く、これじゃ、リーダー失格だな」
落ちて行く際の意味ありげな彼の笑顔を思い浮かべながら、ザックスは呟いた。
「そのような事は……。それよりもこの先どうするのですか。彼の言葉を信じるならば、例え薬草を手に入れたとしても私達は山を降りる事が出来なくなってしまうのですが」
サンズの言に頂上の方向に目をやって黙考していたザックスは、おもむろに答えた。
「オレは前に進む。まずは薬草を手に入れる事が先決だ。後の事はそれから考えればいい。あいつは確かにルートは一本道といったが、多少の無茶をすれば道なんていくらでもあるはずだ」
「そうですか、では先に進みましょう」
ザックスの言葉にあっさりと賛同した彼女、は歩き始める。そんな彼女の背にザックスは声をかけた。
「なあ、サンズ、あんたはこのままオレと一緒に行動しても良いのか?」
振り返った彼女はしばしザックスの顔をじっと見つめていたが、やがていつもの朗らかな笑みを浮かべて答えた。
「私は他の誰の為でもない、私自身の為に行動する、それが私の冒険者として誰にも譲れぬ一線です。今、私はザックスさんという仲間と共に困難に立ち向かう、そう私自身が決めたのです。共に歩く仲間として私は力不足でしょうか?」
「いや、そんな事はねえよ。十分に心強いさ」
今の自分は一人ではない。その事実は前に進もうとするザックスにとって大切なことである。
「先に進もう。後ろは任せた」
「分かりました。アルティナさんには申し訳ありませんが、今は私がその役を務めさせていただきます」
その言葉に相棒のエルフ娘の顔を思いだす。今頃《ペネロペイヤ》の空の下で、彼女をおいてきぼりにしたザックスの帰還を手ぐすね引いて待ち構えているのだろう。
(きっと又、怒ってるんだろうな……)
端正な顔立ちを真っ赤に染めて憤慨する相棒の顔を思い浮かべながら、ザックスは正体不明の魔物が待ち受ける湖に向かって歩を進めたのだった。
2012/04/02 初稿