03 イリア、塞ぎ込む!
通用口へと続く神殿裏手の坂道を僅かに重い足取りで上って行く。
初めて転職で訪れて以来、この場所にはなぜか妙に縁がある。
創世神殿信者ですらあまり近づけない神殿裏口で、務めに励む監守に事情を話し、ザックスは神殿敷地内を歩いていた。ここ連日の皿洗いにすっかり荒れた手が寒風にさらされ、僅かな痛みを訴える。
それを無造作に上着のポケットにつっこんで、彼は指定された場所へと歩を進める。その日彼を呼び出したのは懇意にするイリアでもマリナでもない別の巫女だった。覚えのない名に疑問符を頭にちらつかせながら、「神殿とはくれぐれも慎重にな……」といういつも通りのガンツの警告に背を押されて、彼は件の巫女の登場を待っていた。
「あら、ザックスさん。ご無沙汰ね」
指定時刻きっかりに現れたのは見覚えのある巫女の姿だった。2度目の転職の際にザックスを洗礼の部屋へと導いたのが彼女だったはずである。先日のアルティナの一件の際にも、イリアを見守っていた巫女達の中に彼女の姿があった。
エルシーと名乗る彼女は、ザックスとさほど深い面識はないにも拘らず、実に親しげに話しかける。そんな彼女に僅かに戸惑いを覚えながらも、ザックスはいつも通りの口上を述べた。
「ガンツ=ハミッシュの酒場よりクエストの依頼を受けてきたんだが……」
僅かに笑みを浮かべて、彼女は続けた。
「ああ、そうだったわね。まあ、クエストといえばクエストになるかしら」
「?」
熱い茶を勧めながら、彼女はザックスの正面の席に座った。
「マリナ姉さまが異動になった事はご存知?」
「ああ、なんでもずいぶんと遠くに行っちまったらしいな」
彼女の異動について耳にしたのは、書き入れ時の修羅場の真っ只中だった。例によって酒場に巣食うマリナ信者達に詰め寄られたものの、ザックスとてそんな話は初耳である。けっして知らぬ仲ではないが、だからといって事あるごとに連絡をとっている訳でもなく、何よりも彼がその事を耳にしたのは、彼女が《ペネロペイヤ》を離れてしばらくしての事だった。閑散期に入って解決せねばならぬ懸案事項の一つであったのは間違いない。
そんなザックスに対してエルシーは僅かに厳しい視線を送った。
「じゃあ、姉さまの異動の原因が、最高神殿に許可なくあんたに対して行われた既定の手順に反した洗礼の為である、という事は?」
「へっ? 何の事だ?」
エルシーの表情は硬い。晴天の霹靂とばかりの彼女の言葉にザックスは困惑する。
「姉さまはね……、イリアをかばってあんたの洗礼を自分が執り行ったと報告する事で、上級巫女職を降格されたの……」
「ちょっと待て、降格っていったいどういう事だ! そんな話、全く聞いてないぞ!」
僅かに声を荒げて身を乗り出す。
巫女を縛る規律が厳しいものだという事は察しがつく。そんな規律に支配された彼女が降格され、しかもそれはザックス自身のせいだという。これまでずいぶん弄ばれてはきたものの、彼女に一方ならぬ世話になっているのは事実である。
そんなザックスの姿を暫し厳しい表情でエルシーはじっと見つめていたが、やがて表情をゆるめてにっこりとほほ笑んだ。
「よかったわ。姉さまも飛ばされた甲斐があったようね……」
「お、おい、いったい何が言いたいんだ?」
「姉さまの身に起きた理不尽な事態について、あんたはどうやら怒ってくれているらしいからね。『オレには関係ねえ』なんてあんたが言おうものなら、私は間違いなくあんたを殴ってたわ」
拳をにぎる眼前の彼女はかなりの武闘派らしく、『常に優雅たれ』を信条とする巫女の規格を著しく外れているようだ。そんな彼女の言葉に戸惑いながらザックスは説明を求めた。
「悪いが、一体、何がどうなってるのか、さっぱり分かんねえ。オレは神殿内の事情にはとんと疎いんだ。すまんがきちんと詳細を説明してくれないか?」
「そのつもりよ。姉さまには禁じられているんだけどね……。どうにも手詰まりな状態で私はあんたの助けを必要としているの……」
「まさか巫女の禁に触れる事はないだろうな」
手元のカップを取り上げ、わずかに口をつけるとエルシーは深くため息をつく。
「その言葉から察するに、姉さまはずいぶんとあんたを信用してたみたいね。だから、私もあんたを信用する事にするわ。大丈夫、話の内容自体に別に大きな問題はない。ただ、神殿の内部事情に関わる事だから……、察してくれるかしら……」
「あ、ああ……」
カップを置き彼女は目を閉じる。そして静かに語り始めた。
「あんたへの洗礼を理由に姉さまが降格されたのは事実よ。ただ、それは姉さまが望んでそうしたというのが本当のところ」
「望んで降格されたってのか?」
「ええ、一つはイリアを守る為。あの娘の異常な力については私達もこの間目にしたばかりだからね。あの件に関わった者は皆、事の詳細について外部に口をつぐむ事にしているわ。あの娘の事が最高神殿の長老たちに知られれば、間違いなく召喚されることになる。巫女としての能力に優れていても世事の裏側の見えないあの娘を、狡猾な大人たちがどう利用するかなんて分からないでしょう」
「あ、ああ」
「もう一つの理由が姉さま自身の為。神殿巫女としての姉さまの影響力を政治的に利用しようとする勢力から、姉さま自身が遠ざかることを望んだの。今回の処分は姉さまがあんたの事を上手く利用したというのが本当のところ。だからあんたもイリアも責任を感じる事はないわ……」
「ちょっと待て、最高神殿ってのは、あんた達の味方じゃないのか?」
「敵か味方かなんて範疇ではくくれない問題ね。相手が余りに大きすぎて、いかに《ペネロペイヤ》大神殿であろうともその方針に逆らう事なんてできない。個人レベルではなおさらよ。ただその懐はガラ空きだから姉さまはその隙をついた……そういうことよ」
「…………」
これも姉さまには口止めされてるんだけど、と前置きして彼女はさらに続ける。
「忘れないで。あんたやエルフの彼女だって他人事じゃないわ。《魔将》という存在に関わったあんた達は最高神殿に間違いなく目をつけられている。中級試験で姉さまがあんたを審査官に推薦したのは、あんたが神殿にとって危険な存在ではない事を上層部に印象付けるためってのもあるのよ。この間の闘技場の一件では結果的に神殿の力は味方になったけれども、いつもそうだとは限らない。だからくれぐれも気をつけて」
「な、なんだか事が大きすぎて実感が湧かないんだが……」
「大丈夫よ。緊急にどうにかなる問題じゃないから。あんた達が心のどこかにそれを留めて、日々言動に注意してくれればいいわ、今のところ……。ただ、こっちの方は大きな問題があってね……」
「こっちの方?」
エルシーは僅かに困惑した笑みを浮かべた。
「今回の一件で、イリアがね、まいってるの。相当に……」
「えっ……」
愛くるしい少女の笑顔が思い浮かぶ。あれ以来、見舞いの品こそ送ったものの、大事を取ることを望んだ周囲の思惑もあって直接彼女に面会する事は出来なかった。忙しい日々に忙殺されそのままになっていた事が悔やまれる。
「体調も回復して務め自体を怠る事はないんだけど、日を追うごとに笑顔がなくなってね……、私達も正直お手上げ状態なの」
「きちんと事情を話さなかったのか? 彼女は理解できないような娘じゃないだろう」
だが、その言葉にエルシーは首を横に振った。
「残念だけど今のあの娘にそういった話はまだできないわ。あの娘はまだ物事の表裏を同時に見る事は出来ない。言葉では理解できるかもしれないけど、世の中を斜に構えて見るようになりかねないし、周囲の私達もそれを望んでないわ。年を重ねて世の中の光と影が当たり前に受け止められるようになるまで、あの娘には光の中にいてほしい、それが私達の願いなの」
「…………」
「でも、そんな私達の一方的な願いがあの娘を苦しめている……それは事実よ。姉さまもある程度その事を予想して、私達に色々と託していったのだけれど、あの娘の状態はどんどん悪くなってるわ。思い込んだら頑ななところがあるからね……。だからあなたの力を借りたいのよ」
話を終えると同時に溜息をつく。
「まあ、そんなことならお安い御用だけど、オレに何ができるんだ?」
イリアには幾つもの大きな借りがある。その一大事ならばザックス自身が動かぬ訳がない。
「話を聞いてあげて欲しいのよ。取り返しがつかなくなる前に、頑なになりつつあるあの娘の心を開いてあげて。それが今の私に思いつく精一杯……」
僅かに弱々しげな笑顔を向けて彼女は告げた。
「分かったよ。案内してくれ」
その言葉と共に席を立つ。一刻も早く顔を見て励ましたい、それがザックスの想いだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
人気の少ない神殿巫女寮の廊下を、ザックスはエルシーに連れられて歩いていた。男子禁制のその場所を出入りする為に、ザックスの頭には戯曲の舞台に登場する黒子のような頭巾がかぶせられている。建物を保全する業者の者たちが着用を義務付けられるそれを被らされたザックスは、『その場所に存在しない者』として扱われていた。時折すれ違う巫女達は、エルシーに挨拶をするものの、ザックスの姿を一瞥すらしないのがその証拠である。
「もしも、不始末があったら私も一緒に追放処分になるから、その時は責任取ってよね」
などとエルシーに軽く釘を刺されたザックスは、おっかなびっくりで歩を進める。階段を上ったつきあたり近くの一室でエルシーは立ち止まり、部屋の扉を優しく叩いた後で静かに開いた。
「イリア、あんたにお客さんよ」
先に部屋に入ったエルシーの呼びかけに反応の声はない。しばらくしてようやく「会いたくありません」と小さく呟く声が聞こえてくる。声には全く張りがない。エルシーの言うようにどうやらイリアの状態は相当に悪いらしい。
小さくため息をついて部屋から出てきた彼女と入れ替わる様にして、ザックスは室内へと入って行く。扉を開け放ったまま部屋の外で控える事にしたエルシーの内心を慮りながら、彼は少女の私室には似合わぬ空気の室内に足を踏み入れた。
遮光用のカーテンで暗く締め切られた室内。寝台の上の毛布の塊からぴょこんと飛び出た小ぶりな兎の耳は力なく垂れている。
一つ深呼吸をしてザックスは彼女に呼び掛ける。
「イリア、久しぶりだな」
効果はてきめんだった。途端に小ぶりな耳がピクリと動き、おそるおそるといった様子で毛布の中からイリアは顔を上げた。
「ザックス様……」
呆然とした様子の表情のイリアだったが、その目は僅かに充血している。
「元気か、と聞きたいところだけど、そうでもないらしいな」
「ザックス様……、どうして……」
「ん? ようやくこっちも一段落したんでな、この間の礼も兼ねてイリアの顔を見に来たんだよ。君のお陰でアルティナも元気にやってるぜ」
ザックスの言葉にようやく浮かんだイリアの微笑みが小さく歪んだ。問題の核心にいきなり踏み込んだまま、ザックスは続けた。
「悪かったな、オレのせいでマリナさんや君に迷惑をかけちまった……」
「それは違います!」
ザックスの言葉に口調を強めて反論しようとしたイリアだったが、その言葉はどこか弱々しい。
「冒険者の方が洗礼を受けられるのは当然の事。《転職の儀》を執り行い、新たな自身の力と未来に希望を持った冒険者の方を送り出す事が私達巫女の第一の務め……。神殿内にどんな事情があろうともそれは冒険者の方とはいっさい関わりのない事です。全ては……、私のせいなのです」
言葉と同時にジワリと涙ぐむ。言葉では納得していても本心では受け入れられない――そんな涙なのだろう。問題の本質があまりに重すぎて、それを受け止めきるには彼女はまだ幼すぎる。マリナ達がイリアから問題を遠ざけようとしたのはそういうことなのだろう。
寝台の傍らに腰掛けたザックスに手を伸ばし、その手を取るとイリアはザックスの荒れた手に治癒の魔法をかける。僅かなぬくもりと共に彼の手荒れが消えてゆく、そんな様子を見つめながら自嘲気味にイリアは告げた。
「こんな事が出来たって私は、所詮、子供なのです。肝心な事、大切な事から遠ざけられたまま、周囲の人たちに守られてばかりで……」
「でも、例え経緯はどうあれ、オレは君にとても感謝してる……。君の助けがあったからこそ、今のオレはこうしていられるのは間違いないんだ」
「それは……」
言葉に詰まってイリアは下を向く。
「現実って奴がややこしすぎて、自分の力だけじゃどうしようもない時ってのはあるもんさ。そんな時は黙って時間が通り過ぎて行くのを待たなきゃいけないこともある。尤もこいつは他人の受け売りで、いまいちオレにもピンとこないんだがな……」
「分かってるんです。だから頑張って日々の務めをこなして……、姉さま達に心配をかけないように……。でも、駄目なんです。心のどこかから力が抜けてしまうようで……」
「イリアは、どうしたいんだ?」
その言葉に彼女は僅かに口ごもる。暫しの時を置いて彼女は絞り出すように告げた。
「謝りたいんです。姉さまに……。でも……」
でも、肝心の相手が直ぐ側にいない。いつも当たり前のように身近にあった存在の不在に彼女は戸惑っているのだろう。
「手紙を書いてみたらどうだ?」
「手紙……ですか?」
「ああ、なんだったらオレが届けてやるぜ。忘れたのか? オレは冒険者なんだ。クエストの依頼があればいくらでも受けるよ。イリアからの初めての依頼なんだから、報酬は君の笑顔ってのはどうだ?」
似合わぬ気障な台詞で笑いを取ろうとする。だがイリアの反応は予想と異なった。
「それはダメです! ご存知ないのですか、ザックス様? 姉さまの向かわれた《アテレスタ》の地は騒乱の最中だと聞いています。私の依頼のせいでザックス様にもしもの事があったら、私は……」
「これでもそれなりに修羅場をくぐってきたつもりだぜ。もう少しくらい信用してくれてもいいんじゃないか?」
「そうではないんです、そうでは……」
自身の内心を上手く言葉にできないもどかしさに、イリアは悔しそうにうつむいた。
二人の間に僅かに沈黙の時が流れる。室内に静寂が訪れた。その静寂を破ったのは予期せぬ方向からかけられた声だった。
「では、私がクエストを依頼しましょう」
声の主は開け放たれたままの戸口に立っていた。その声にイリアは驚いて声を上げた。
「ルーザ様……」
ルーザと呼ばれた年長の女性は、様子を窺っていたエルシーを従えて、開け放たれた戸口に立っている。巫女長の職にある事を示す装束を身にまとった彼女は、朗らかな笑みを浮かべて続けた。
「《魔将殺し》のザックスさん。《ペネロペイヤ》大神殿の巫女長としてあなたにクエストを依頼したいと思います。つきましては場所を変え、少々私にお付き合いくださいませんか?」
突然の来訪者の意外な言葉にザックスとイリアは戸惑いの色を浮かべた。そんな二人の顔色を窺う様子もなくルーザはずかずかと部屋に入り閉じられていたカーテンを開け放つ。弱々しげな冬の日差しが室内に差し込み、室内を明るく照らす。振り返ったルーザは悪戯っぽい笑みを浮かべると、イリアに言った。
「イリア、しばらくあなたの大切な彼をお借りします。御免なさいね」
僅かに頬を赤らめたイリアは、そっと毛布を被って顔を隠したのだった。
2012/03/16 初稿