23 ザックス、対峙する!
イモの粥に一かけの腸詰めと煮込み野菜。ザックスの前に並べられた《トロイヤ》神殿の食事は実に質素だった。
神官、巫女、見習いに下働きの者達まで、神殿中の人たちが一斉に大食堂に集まって創世神に祈りを捧げている。その姿に再び違和感を覚えつつ、ザックスは傍らに座るマリナの側で祈りを捧げるふりをする。
祈りが終わると同時に食事が始まり、大食堂は終始和やかな時間に包まれた。
贅沢という言葉とは縁遠い内容ではあるが、十分に量を取る事が出来、誰もが幸せそうな顔に満ち溢れている。同じ場所に住まう人々が身分を問わず同じものを食べ、飲んで笑い合う。そこには理想的な光景が広がっていた。
(これが当たり前なんだよな……)
なぜ違和感を覚えるのかは分からない。眼前に広がるこの光景こそ、多くの人々が求めてやまない一つの幸せの形のはずである。
だが、どこか腑に落ちない。自身の中から激しく湧きあがる疑問を麦酒と共に飲み下しながら、彼は簡素な食事を十分に堪能していた。
食事を終え、与えられた客間の寝台の上に寝転がったザックスは見慣れぬ天井を見上げていた。
彼の頭をよぎっていたのはここ暫くの間、度々湧きあがる違和感についてだった。自分は何か大切な事を忘れているような気がする――違和感はそんな感覚を呼び起こし、彼の心の中を激しく波立たせていた。
そんな心理状態では寝つける訳がない。仕方なく寝台から起きあがったザックスは夜の散歩でもして気分を落ち着かせようと考えた。
と、その時、彼の部屋の扉を静かに叩く音が聞こえた。
枕元にある火晶石のランプに火を灯すと彼は静かに扉を開ける。そこに立っていた意外な訪問者の姿に息をのんだ。彼の部屋を訪れたのはマリナだった。
「どうかしましたか?」
マリナから与えられた彼の仕事は彼女の警護である。神殿内ということもあり、すっかり気を抜いてしまっていた自身の迂闊さに唇をかむ。彼女を部屋に招き入れ、廊下に顔を出すと周囲を警戒する。だが、怪しげな気配は一切なく、ただ静けさだけが周囲に満ちていた。
扉を閉めたザックスは振り返って背後にたつ彼女の顔を覗き込む。彼女の顔にはいつも通りの微笑みが浮かんでいた。
「あのー、マリナさん?」
今一つ緊迫感に欠ける彼女の様子に疑問符がうかぶ。続いて放たれたマリナの言葉にザックスはあっけにとられた。
「先ほどから私の部屋にいつ尋ねてこられるかと首を長くして待っていたのですが、一向に来られるご様子がないのでこちらの方から出向いてまいりました」
言葉と共にマリナはザックスの懐に飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと、マリナさん、一体、何考えてんですか!」
マリナに迫られて真っ赤になって後ずさるザックスは、よろよろとよろめいて寝台に転がった。当然マリナも一緒である。
「まあ、ザックスさん、いきなりなんてとても大胆ですのね」
転がったまま嬉しそうな笑みと共に、ザックスの胸に頬を寄せる。彼女の甘く長い髪がさらさらとザックスの腕に滑り落ちる。
「いや、これは偶然であって、その……」
すっかり動転して起きあがろうとするザックスにしっかりとしがみついたマリナは、微笑みながら続けた。
「ふふっ、では今夜はこのまま、身辺警護をお願いいたしますわ」
「はい?」
「お忘れですか? 私の依頼したクエストは未だに有効ですのよ。ザックスさん、今夜はしっかりと私の事を守ってくださいね」
耳元で小さく囁かれ、その度に甘い吐息が彼の心身を刺激する。
大胆なデザインの夜着に身を包んだ彼女は、惜しげもなくその豊かな胸を彼の身体に押しつけた。そのやわらかな感触と覗き見えるふくよかな谷間は、反抗の意思を根こそぎ奪いとり、今の自身の姿がクモの巣に捉えられた獲物のように思えてならない。
ここちよい彼女の重さをしっかりと抱え込んだザックスは、彼女を傷つけずになんとかこの場を収めようと、懸命に智恵を巡らした。
神殿とは事を構えるな――ガンツの言葉がぐるぐると脳裏を駆け巡る。
巫女に悪さをしたばかりに、店ごと潰されたなどという噂もあるだけに、男なら誰もが喜ぶはずのこの状況は、今は苦痛以外の何物でもなかった。
「ええと、マリナさん。今日は一日中働き通しで、疲れてるんじゃ?」
「はい、その通りですわ。このまま眠ってしまいたいくらいに……」
しっかりと彼の胸に顔をうずめたままで、マリナは答えた。
「じゃ、じゃあ、明日も早い事ですし、ご自身の部屋に戻って……」
不意にマリナの人差し指がザックスの唇にあてられる。その軽やかな指先はしっかりと彼の言葉を封じていた。
「いつもと勝手の違う場所で冒険者の皆さんの大きな期待を一身に背負って果たすお務めは、想像以上に大変でしたわ。でもこれも自身が望んだ事。文句を言っては罰が当たりますわ」
ザックスの唇に人差し指を当てたまま、彼女は続けた。
「望み通りに神殿巫女となり、お務めを果たし、多くの人々の期待にこたえ、他者の喜びとなる。頑張ったものが頑張っただけの代償をえられるのですから、こんなに幸せな事はありません」
マリナの言葉が奇妙に心に引っかかった。
寝台に転がったまま彼女をしっかりと抱きしめ、次の言葉を待つ。そんなザックスにそそと顔をよせるとマリナは優しく笑みを浮かべて微笑んだ。
「ですからこれも受けるべき正当な報酬なのです。しっかりとお務めを果たし、愛しい殿方と共に時間を過ごす。後ろめたいことなど何一つございませんわ」
その言葉にさらに違和感を覚えた。
彼女はこんな事を言う女性だっただろうか? そんな疑問がふと脳裏をよぎった。
「イテッ」
不意に彼の左手の甲に痛みが走った。以前にも一度感じた事のある痛み。抓られるようにどこか可愛らしさを感じさせる痛みにザックスは思わず声を上げて、己の左手を見つめる。その左手に彼女の手が重ねられる。
「ふふっ、可愛らしい事……」
マリナの手が優しくザックスの手の甲を擦り、まるで宥めるられるかのように痛みが引いていく。
「もう少しだけ、こうしていさせて下さいな……」
そのまま手を握りしめ、誰にかけられたか分からぬその言葉と共に、室内に沈黙が訪れる。火晶石のランプの仄明るい光が室内を揺らした。
「マリナさん?」
しばらくしてザックスは、己の胸の上の彼女が小さな寝息を立てていることに気付いた。
夕刻に見た彼女の横顔は相当に消耗していたようで、その寝顔はとても安らかだった。意識的な表情の消えた今の彼女のそれは年齢相応のものであり、どこかあどけなさすら感じさせる。
その眠りを妨げぬように起きあがったザックスは彼女を抱き上げ、自身の寝台に寝かしつけるとその身体に掛け布をかけた。その傍らに座ると、すやすやと寝息を立てる彼女の頬を優しく撫でながら、ふとその言葉を反芻した。
『頑張ったものが頑張っただけの代償をえられるのですから、こんなに幸せな事はありません』
『ですからこれも受けるべき正当な報酬なのです。後ろめたいことなど何一つございませんわ』
何かが違う――事あるごとに生じていた違和感は今や確信に変わりつつある。彼女の寝顔を眺めながら、ザックスはその根拠を自身の記憶に求めた。だが、十分に満足する解答など得られるはずもない。
仕方なく立ち上がった彼は、混乱する頭を冷やす為、自室を離れて人気のない夜の神殿内を散歩することにした。
暗く長い廊下の窓の端々から、さわやかな月の光が射しこんでいる。日ごとに満ちて行く月の輝きの恩恵を受けながら廊下を歩くザックスは、神殿の中庭に出ていた。
「おや、これはザックス殿、よい月夜ですね」
背後から声をかけられ、振り向いたその先には《トロイヤ神殿》神官長であるブレルモンの姿があった。
大柄でやせ形の体躯の彼は右手にランプを持って静かに立っている。どうやら夜の神殿内の見回りを行っているようだ。
「神官長自ら、見回りですか?」
ザックスの問いに、ブレルモンは小さな笑みを浮かべた。
「なにぶん、小さな神殿で、人手も足りないもので……。尤もこんな地味な仕事こそ、私は好きなのですよ。こうしていると若い時分に神官の一人として夜の街を警護がてら、歩いていた頃の事を思い出します。ところでザックスさんはどうなされたのですか? こんな夜更けに……」
「ああ、申し訳ない。どうも寝付けなくって。静かすぎる場所というのは今一つ居心地が悪いみたいで……」
その言葉にブレルモンは微笑んだ。
「ここはとてもいいところだな。神殿内にいる人たちも皆幸せそうに見える」
「それは神殿を預かる者として大変嬉しい言葉ですね」
ブレルモンは続けた。
「たしかに小さな神殿ではありますが、今は噂のせいもあって多くの方々がこうしてお越し下さっておられます。時折、今日のように忙しすぎる日というのもありますが、お陰で、最高神殿からの援助も十分に受けられ、ここで、暮らす者達も質素ではありますが、十分に満ち足りた生活を送る事ができます。
これも皆、創世神の思し召しでしょう」
そう言うと彼は神殿礼をする。
「創世神の教えか……。オレにはいまいちよく分からんが……」
その言葉にブレルモンは笑った。
「信仰は常に己の内にあるものです。そして日々を慎ましやかに送れば、きっと十分な代償が創世神によって与えられることとなるでしょう、おっと、あまり説教臭いのも野暮というものですね。せっかくの美しい月夜が台無しになってしまいますな……」
言葉と共に彼は背を向けた。
「それでは私は見回りの続きをさせていただきます。どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。ザックスさん。別段足を踏み入れてはならぬ場所というのもございませんし、ゆっくりと夜の散歩をお楽しみください」
廊下の暗がりの中に、去ってゆく彼の背が手に持ったランプの光と共に消えていった。その背にふと別人の姿が重なった。
自分はここで、何か特別な事をした様な気がする――そんな錯覚が脳裏をよぎってやまない。首を振ったザックスは中庭を離れると再び暗い廊下を歩き始めた。
静けさに包まれる神殿内を再び散歩し始めた彼は、いつしか洗礼の部屋にたどりついていた。
上階層から流れ落ちる神聖水の滝は今は止められ、泉は只静かに滔々と水をたたえている。静かな水面をじっと見つめながら、ザックスは自身の中に溢れ返る違和感の正体を探し続けていた。
――何かがおかしい。どこかが間違っている
だが、どうおかしいのかが分からない。まるで巧妙に覆われた見えないベールに阻まれるように、彼の周囲に存在する自然な不自然さの中に彼は身を置いていた。
この違和感はいつから始まったのだろうか? そんな想いと共にこの数週間を振り返る。尤も答えなど出ようはずもない。
無意識に眼前の水面に手を伸ばそうとした、その時だった。
「おおっと、気をつけて下さいよ。むやみにその神聖水に触れると、どんなことになるか分かりませんよ」
全く気配もないまま、突如として背後から降って湧いた聞き覚えのあるその声に、ザックスは飛び上がる。身構えながら振り返ったその視線の先にあったのは、忘れようもない魔人の姿だった。
《初心者向けダンジョン》の中で次々に仲間達を焼き尽くして、自身とアルティナに正体不明の呪いをかけていったその元凶。
その姿を目の当たりにするや否や、ザックスは腰の剣を引き抜き、切りかかった。
だが、その一閃は空を切る。確かに切りつけたはずだったが、手ごたえは全くなかった。まるで幻を切ったような感覚にザックスは戸惑いを覚えた。
「またお会いできて光栄です。ザックスさん。尤も久しぶりという感覚は私にはないのですが……」
「お前、オレの名前を……」
「おや、これは面妖な……。いえ、ああ、そういうことですか。やれやれ、ここは思った以上に厄介な場所のようですね」
陰気な顔をした魔人はそう言って肩をすくめた。ザックスは身構えたまま注意をそらさない。
「ああ、大丈夫ですよ。今は貴方と争うつもりはありません」
「勝手な事を言ってんじゃねえ! あれだけさんざん、たくさんの人間の命を奪っておいて、誰がそんな言葉を信じるってんだ!」
「確かに道理ですねえ。ですが、ザックスさん。それは貴方の本当の感情なのですか。はたして、あなたのその怒りは本物なのでしょうか?」
「なんだと?」
「ご自身で気付いてはいらっしゃいませんか。幾つもの違和感に。あるはずのない人や物の姿、そんなことに貴方は躊躇っておいでなのではありませんか?」
その言葉にザックスは沈黙する。自身の疑問をよりによってこの魔人に指摘された事に、ザックスは動揺した。
「実はこの場所であなたとお会いするのは二度目なのですよ。ザックスさん。その時に互いに自己紹介をしたのですが……。覚えていらっしゃらないとは大変残念です。
私、《杯》を司る魔将ヒュディウスと申します。最後にお会いしてから、3か月近くになるはずです。
尤も我々魔将には時間という概念が存在しないのですが……」
「お前、な、何を言ってる」
ヒュディウスと名乗った魔将の言葉にザックスは驚いた。あの事件からまだ一月たらずというのに、彼は3か月ぶりの再会だという。いったいどういうことなのか?
だが、魔将は更なる言葉でザックスに動揺を与えた。
「ここは実に奇妙な世界です。誰もが幸せなんてとても都合のよすぎる事だと思いませんか? まるで誰かの『夢』のような……」
「『夢』だと」
その言葉に記憶の底の何かが大きくひっかかる。自分は何かとても大切な事を忘れている――そう直感した。
不意に彼の記憶の中から幾つもの映像が浮かび上がる。
――食事時の神官たちの羨望に満ちた視線。
――重なりあう二つのブレルモンの姿とそこにいたはずの人々の姿。
――洗礼の部屋の中で暴れまわる巨大なモンスターと苦戦する自分。
だが、どれも決定打とはなりえない。ザックスの混乱は一向に収まる気配はなかった。そんな彼にさらに変化が生じた。
自身の左手が熱く熱を帯び、そこからまるで彼を守ろうとするかのようなマナの波動が感じられた。
ザックスの姿に僅かに目を細めながら、ヒュディウスは言葉を続けた。
「どうやら、この世界の決着はあなたにお任せしたほうがよいようですね。あなたならこの厄介な場所から眠り姫を無事に助け出す事ができるかもしれません。尤も、その可能性は限りなく0に近いですが……」
言葉と同時に彼の姿が徐々に薄くなっていく。
「待て! 逃げるのか!」
ザックスの言葉に小さな笑みを浮かべてヒュディウスは答えた。
「いまはまだ時が熟していません。全ては貴方の記憶次第……。直に『運命の時』が訪れるはずです。その時にまたお会いしましょう。それまでしばしのお別れです」
その言葉と共に彼の姿は完全に消えた。
「ザックスさん、あなたはどんな現実を望みますか?」
虚空から投げかけられたその言葉と共に、《杯》の魔将の気配は完全に途絶えた。ぽつりと一人取り残されたザックスの傍らには何事もなかったかのように神聖水の泉が滔々と水をたたえている。
「勝手なことばかり言いやがって……」
ぶつける相手を見失った八つ当たり気味のザックスの言葉は、虚しく宙に消えて行く。
魔人との邂逅で彼の悩みは解決するどころかより深みを増しただけだったが、心のどこかで、ザックスは自身の運命の歯車がかみ合い始めたような予感がした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
客室の窓からはさわやかな夏の朝の日差しが射しこんでいる。
何者かが頬に優しく触れる感触でザックスは目を覚ました。起きぬけのぼんやりとした頭で見回したその先には、寝台の上に座る大胆な夜着に身を包んだ一人の女性の姿があった。
そんな彼女と目を合わせる。
美しい顔を眺めているうちに徐々に昨夜の事を思い出す。
その一部始終を思い出したザックスは、思わずその場を飛び下がろうとした勢いのまま、バランスを崩して床に転がった。中途半端に寝台に縋って眠っていたために、足がしびれてしまったらしい。
そんなザックスの姿を見つめていたマリナだったが、その柔らかな頬を膨らませるとなぜかプイとそっぽを向いてしまった。
昨夜、魔人との邂逅を終え、動揺する心をなんとか落ち着かせたザックスは自室へと戻った。
彼の部屋の寝台の上では、押しかけて来たマリナがあいかわらずすやすやと寝息を立てており、全く変わった様子はない。彼女の寝顔を眺めながら、自身の中に生まれた様々な既視感と違和感を整理しているうちに、そのまま眠りこんでしまったらしい。
昨夜の記憶を探る限り、何か彼女の気に障るような真似をした覚えはないのだが、当の本人は臍を曲げている。
「ええと、マリナさん、その、おはようございます」
「……。おはよう、冒険者さん」
実に他人行儀な挨拶である。否、これが当たり前の事なのだろうが、どうにも極まりが悪い。
「あの、マリナさん、何かまずい事でもあったでしょうか?」
臍を曲げてそっぽをむく彼女に、慣れぬ敬語を使ってザックスはその真意を尋ねる。だが、彼女は沈黙したまま語ろうとしない。いつもの柔らかな微笑みが見られない事に、なぜか無性に淋しさが感じられた。
室内に重苦しい沈黙の時間が流れる。下を向くザックスを横目でちらりと見た彼女は、暫くしてようやく口を開いた。
「私、がっかりしていますのよ」
「はい?」
「せっかく一晩を共にすごしたというのに、何もして頂けないなんて……。私、ザックスさんのお眼鏡に適うほど女として魅力がないのでしょうか」
その言葉に目が点になる。どうやら無防備に眠る彼女に自身が何かした訳ではなく、何もしなかった事に問題があるようだ。
「あ、あの、マリナさん……」
言葉を失ったままザックスは唖然とする。一体どうやってこの状況を乗り切ろう。兎にも角にも彼女の機嫌を直さねば、色々と大変なことになりそうだ。
「いや、そんな事はないですよ。マリナさんは十分すぎる以上に魅力的です。お、男なら誰でもマリナさんのその魅力あふれる身体に溺れてみたいですし、あなたの寝顔はとても可愛らしくて……」
もはや自分でも何をいっているのか分からない。しどろもどろで弁解するザックスだったが、マリナは相変わらず拗ねたままだ。
(参ったな……)
この手の修羅場はさすがに経験がない。
『女なんて単純な生き物、心にもない言葉をかけて拗ねる相手の唇を強引に塞いじまえば、直ぐに機嫌なんて直っちまうさ』
故郷にはそんな事をしたり顔で述べた猛者もいたものだが、相手がマリナとなるとどうにもうまくいきそうにもない。
困り果ててうつむくザックスだったが、そんな彼の姿をちらちらと横目で見ていたマリナの肩がやがて小さく震えはじめた。
「マリナさん?」
とうとう泣きだしてしまったのかと慌てたザックスだったが、事実は正反対だった。肩の震えが徐々に大きくなり、ついにマリナは寝台の上で腹をかかえて笑い始めた。
「う、嘘ですわ、ザックスさん。もう、そんなに困った顔をなされるなんて、可愛らしい……」
涙すら浮かべながら爆笑するマリナの姿に、あっけにとられたザックスだった。
しばらくして笑いを収めたマリナは寝台から立ちあがると、床の上で唖然としたままのザックスに近づき、その両頬を柔らかな手の平で包んだ。しっかりと谷間をあらわにした豊かな胸元が、彼の眼前でたゆんと揺れる。
「何もなさって頂けなかったのはとても残念でしたが、夕べ一晩中、私の手を握って頂いて、大変嬉しかったですわ」
「そ、そうなのか?」
全く記憶にないが、どうやら事実はそうらしい。動揺するザックスの瞳をしっかりと見つめていた彼女だったが、やがてその美しい顔を近づけると彼の頬に柔らかな唇で触れた。蝶が花に止まるかのような軽やかなみずみずしい感触を感じたザックスの耳に、彼女は僅かに囁いた。
「次は逃しません!」
あまりにも物騒な言葉を残した彼女は、まるで少女のように悪戯っぽく微笑むと、そのまま立ちあがり、飛び跳ねるかのような軽やかな歩みと共に、ザックスの部屋を後にする。理解不能な事態に呆然とするザックスの姿が、只一人その場に残された。
「女って……、分かんねえ……」
ぽつりと漏れた呟きが、聞く者のいない室内の空気に広がって行く。
ふと、彼の左手が熱くなり、また誰かに手の甲を抓られたような気がしたザックスは、慌ててそこを擦りながら、心の中で見知らぬ誰かに弁解を重ねるのだった。
2011/09/22 初稿