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Lucky & Unlucky  ~アドベクシュ冒険譚~  作者: 暇犬
アドベクシュ冒険譚02章 ~仲間の絆編~
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18 ザックス、歩み出す!

「まったく昨夜は、えらい目に遭わされたぜ……」

 睡眠不足気味の目をこすりながら、ザックスは冒険者協会の建物の廊下を、件のエルフの女性の眠る部屋に向かって歩いていた。

 マリナの悪フザケを全力で回避しながら、どうにか大神殿まで送り届けた後、すっかり夜半を回り切った時間帯にも拘わらず、ガンツ=ハミッシュの酒場には煌々と明かりが灯り、ザックスの帰りを手ぐすね引いて待ち構えていたマリナ信者達との激烈なバトルが待っていた。

 もう一度未踏破ダンジョンをクリアする方がいいだろうと思えるほどの激しい戦いを終えて床についたのは、朝も白み始めた頃。寝台の上でうとうとしかけると再び叩き起こされ、冒険者協会協会長直々の呼び出しによって、彼は再びこの場所にやってくる事となった。

「おはようございます、ザックスさん」

 昨夜遅かったにも拘わらず、いつもと変わりない微笑みを浮かべて、マリナは部屋の前に立っていた。

「ああ、おはよう」

 その彼女の姿に、昨夜、神殿裏手にある通用門で別れた時の彼女の姿と言葉が重なった。

『私はおそらく神殿巫女として彼女を救う為に、人として恥ずべき振る舞いを行う事になるかもしれません。どうか、ザックスさん、それがいかなる事態となっても、私を軽蔑なさらないで下さい』

 彼女の真意は分からない。

 昨日の訪問についても、結局のところ彼女が何をしに来たのかという事は分からずじまいだった。いつも弄ばれてはいるものの、彼女の言葉に嘘はない。昨日のようにザックスには理不尽としか思えない神殿巫女の信条に従い、自身の務めを果たそうとするのだろう。

「みなさん、もう、お待ちかねですよ」

 言葉と同時に彼女は扉を開き、彼を招き入れる。

 その姿にため息を一つついたザックスは彼女に招かれるまま、再び険悪な空気の中に身を置いたのだった。




 室内にいるのはマリナを除けば、昨日と同じメンバーだった。

 ザックスを招き入れた後、退出した彼女はそのままどこかへ行ってしまった。年長者ばかり残されたその場所で互いが互いをけん制し合う中、大神殿側から提案された一つの案に若いエルフが怒りの声を上げた。

「バカな、何故、創世神殿の力を借りねばならぬのだ!」

「では他に貴方方に何か打つ手はあるのですかな。彼女の身体の状態は先ほどそちらの冒険者によって確認されたように、もはや予断の許さぬ状況にあるのですぞ!」

 協会長の依頼で巫女長の立ち合いの下、再び彼女の結界内に入ったザックスは、彼女の身体の掛け布をとりはらい驚きの声を上げた。

 むき出しになった彼女の腕からは若芽が芽吹き、彼女の身体は昨日、エルフ達の言ったように、すでに若木の苗と化しはじめていた。


 そんな彼女を目覚めさせる事が出来るかもしれないとある手段が、神官長によって提示されたものの、それが大神殿の協力の下に行われるという事実に、エルフ達は大きく動揺した。

 彼らの中には《妖精憲章》の記載事項に大きく縛られた者達がいるらしい。

 そして、さらにそんな彼らを激怒させる提案が、大神殿側からなされたのだった。

「お入りなさい……」

 巫女長の声に従って部屋の扉が開くと二人の巫女が入ってくる。マリナとイリアだった。イリアの容姿にエルフ達は大きな嫌悪感を示した。

「なんの真似だ! けがらわしい! 獣人族、それも『狡き者』の一族をこの部屋に招き入れるとは……!」

「黙れ! 『森の住人』共! 昨日から礼を失し続ける貴様らの暴虐な言葉の数々、もう我慢ならん!

 貴様らの不出来な姫の為に我らが手を貸す事など、馬鹿馬鹿しいわ!

 これ以上、我が愛娘を愚弄するならば、この場で貴様らを斬り捨て、その亡骸を里に送り返してくれよう!」

 沈黙を保ち続けていたライアットの怒声が部屋を揺るがす。

 その剣幕に当のエルフも言葉を失った。獣人族と妖精族の対立、そして兎族への偏見は根深いもののようだ。

「お怒りをお納めください、お義父様。大丈夫です。私はここに巫女の務めを果たしに参っただけです」

 しっかりとした口調でイリアの澄み切った声が室内に響く。その声に険悪な空気が僅かにかき消されてゆく。

「では巫女殿、あなたは姫の結界の内に入る事が出来るのですかな?」

 年長のエルフがイリアに尋ねる。マリナに肩を叩かれた彼女は大きく深呼吸をすると足を踏み出し、眠り姫の側へと近づいてゆく。

 そして次の瞬間、誰もがその光景に驚きの声を上げた。

 昨日のザックス同様、イリアも又、エルフの結界をものともすることなく自然に彼女の枕元に近づいた。上級巫女のマリナですらかなわなかったその奇跡に、室内の者達はみな目を丸くする。唯一マリナだけが小さく微笑んでいた。

「バカな、なぜ『狡き者』の一族までもが……」

 その言葉にライアットが再び睨みつける。

「決まりのようじゃの。神官長の申し出通り、彼女を大神殿へと連れて行き、洗礼を受けさせることとしよう」

 協会長である老人の言葉に、エルフ達が反発する。

「お待ち下され、このような事、我々には想定外で……」

「想定外じゃと、お前さん方、現状がきちんと認識できておるのか?」

「しかし、大神殿の力を借りるだけでなく獣人族にまで……、このような事態、氏族長会議の決定を無視して……」

「ほう、その会議とやらをやりにこれから帰る訳か……、お前さん方……」

「私達は単なる使者でございます。与えられた以上の権限のない我々にこれ以上の判断は……」

 無駄としか思えぬ彼らのやり取りに、ザックスは業を煮やしつつあった。

 いい年をした者達が、事の本質も見極めずに自分達の都合勝手を並べ立て、そうこうしている間にも目の前の女性の時間は、刻一刻と失われていく。

 その現実が彼の中で怒りとなり、ついに爆発した。

 無為な言葉を重ねる彼らを無視したザックスは、つかつかと寝台に近づくと、眠り続ける彼女の身体に掛け布を巻きつけ、そのまま抱き上げる。ザックスのその行為に、室内にいる誰もが唖然とした。

「き、貴様、無礼ではないか、姫のお身体に勝手に触れると……」

「黙れ!」

 低く、鋭く、ザックスの怒りが彼らに突き刺さる。その気迫に3人のエルフは気圧された。

「どうやら、年を重ねるってのは、バカになるってことと同じ事らしいな!

 テメエらにはこの人の命よりも、自分達の立場やつまらん偏見に彩られたプライドの方が大事ってことか!」

「それは我々を侮辱しているという事か! そのような真似をして只で済むと……」

「戦争でもやろうってか! やれるもんならやってみろ!

 同族を見殺しにしてまでチンケなプライドにしがみつく種族が、安穏と生き残れるほど世界が甘いかどうか試してみるんだな!」

「これ、若いの……」

 老人が呆れたように声をかける。当のエルフ達は怒りをあらわにしてザックスを睨みつけている。

「テメエらの下らんしきたりなぞ、クソ食らえだ!

 オレはこの女性ひとを助ける。彼女がエルフであるか人間であるかなんてどうでもいい。どうやら俺と同じ境遇に置かれ、無事に生き残った数少ない女性ひとらしいからな。

 そして毎夜のようにうちの酒場に助けを求めに現れる。そんな彼女が生き延びる手立てがあるというんだったら、オレはそれに賭けさせてもらう。

 そのために兎族の巫女の力が必要なら容赦なく協力してもらう! いいよな、イリア!」

 突然声をかけられたイリアだったが、ザックスの傍でコクリと頷いた。

「爺さん、彼女に洗礼を受けさせればいいんだな」

「そうじゃ」

「分かった!」

 言葉と同時に眠り続ける彼女を抱えて、ザックスは歩き出す。

「ま、待て、そのような勝手な事、たかが冒険者風情が……」

 年若いエルフが制止しようとする。

「近づけるのか、あんたに……」

 ザックスの言葉通り、彼は結界に阻まれて抱え上げられた彼女に触れるどころか、近づくことすらかなわない。

「そんなあんた達の頑なな姿勢が彼女に拒絶されてる、とは考えられないのか? エルフってのは聡明で理知的な種族って評判らしいが、どうやら実態はそうでもないようだな」

 冷たく言い残すとザックスは扉に向かって歩き始める。すかさず彼の前に立って扉を開け放ったマリナが、出て行こうとする彼の後に続き、イリアが彼らを追いかけていく。そしてライアットがそれに続いた。

「年を重ねるとバカになる……か、あいかわらず痛いところを突きおるのう……、あやつは」

 老人の追い打ちに、守るべきものを見失ったエルフ達はうなだれる。室内には開け放たれたままの扉からさわやかな秋の風が舞い込んでいた。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



(やっちまった……)

 大神殿内に与えられた一室の片隅で、ザックスはどんよりとした空気を放ちながら壁際で落ち込んでいた。

 カッとなっていた時には気付かなかったが、どうやら自身はとてつもない暴言を放ってしまったらしい。

 感情的になってしまったエルフ達がある事ない事、里に報告して、本当に種族間戦争になってしまったなら目も当てられない。

 すっかり落ち込んでしまったザックスのいる部屋に、ノックの音と共にマリナが現れた。

「おや、ザックスさん、先ほどまでの威勢の良さはどちらに行かれてしまったのでしょう? 先ほどの大変勇ましいお姿に、私、ときめいてしまいましたのに……」

「悪いな、マリナさん、今は付き合えそうにない……」

 どんよりと壁際で暗い物を背負うザックスの背を、マリナは微笑みを浮かべて眺める。

「大丈夫ですよ、神官長を初めとして、様々な方がエルフの御三方をとりなしていらっしゃいましたから。勿論、協会長様も……」

「うう……」

 老人にしっかり借りを作ってしまったようである。その事実にザックスはさらに泥沼にはまり込んでいた。

「もしもの時は神官になられてはいかかですか。冒険者としてのスキルは十分すぎる程にお持ちですし、きっと良い神官になられると思いますよ?」

「それだけは、嫌だ……」

 おっさんやマリナの部下になってしまえば、一体どんな目に遭わされるやら……。

 ここは過去の数多の偉人達の所業を見習って、潔く全てをなかった事にして、明るく前を向くべきであろう。

「洗礼の準備は、どうなってるんだ?」

「ええ、今イリアを初めとして多くの巫女達が準備にかかっております。夕刻の門限を迎えて神殿の全ての通常業務が終わり次第、直ぐに開始されることとなるでしょう」

「そうか、でもよ、なんで今更、洗礼なんだ?」

 ザックスの何気ない質問にマリナの顔が僅かに曇った。しばらくして彼女は重々しく口を開いた。

「ザックスさん、私は、貴方に一つだけ謝らねばならない事があります」

「なんだよ……」

「実は貴方が中級職に転職する際に、イリアと共に行った洗礼の一部始終を、密かに見届けておりました」

「へっ?」

「べっ、別にやましい事などありません。ただ、その時の私はあの娘の事を思って、そうすべきだと判断したのです」

 その日の事を思い出す。

 なんだかとても気恥ずかしい事があったような気もするものだが、彼のその時の記憶はどうにもおぼろげだった。

「まっ、まあ、それはいいとして、それが今回の事とどういう関係が?」

「お二人が洗礼の滝を潜った一瞬、二人の姿は神聖水の輝きの中でかき消すように消えてしまったのです。時間にして数分程度でしたが……」

「えっ?」

「後でイリアにもそれとなく確かめたのですが、やはり彼女もその時の記憶はないようで……」

「…………」

「これまで私自身、神殿巫女として幾つもの洗礼の場に立ち会ってきましたが、そのような神の奇跡というべき出来事を目の当たりにしたのは初めての事でした。そして、その出来事に疑問を持った私は、先日最高神殿に参りました折に、いくつかの文献を調べて参ったのです」

 マリナは静かに一息ついた。

 最高神殿には様々な古い文献が保管されている――かつてルメーユが未踏破ダンジョンの中で語った事は事実らしい。きっと彼がこの事を知ったら半狂乱であろう。

「それらの中に最上級洗礼について書かれたくだりに気になる一節がありました。『巫女は冒険者の道標であるだけでなく、彼の者を《現世うつしよ》に留めるべく、これを守るべし』と……」

「よく、分かんねえんだが……」

「本来人間の体内に存在するマナとはほんの僅かなものです。常人が冒険者となる事で、その感覚の一部を外側に向かって解放し、外界のマナを様々な形で体内に取り込み蓄積する事で、冒険者は大きな力を得ることになります。上級冒険者になればなるほどその量は多くなります。

 ですが、洗礼の時のように過剰な量のマナが一度に集中すれば、世界の歪みが生まれかねない――そう考えられるのです。巫女の本来の役割とはそのような冒険者をこの世界に留め導く事……、私はそう解釈しました」

「…………」

「今、思えばイリアは巫女としての直感で、ザックスさんを守り続けてきたのかもしれません。あの娘の桁外れな巫女としての資質は、私など及びもしないのです」

 彼女はそのまま静かに目を閉じた。

「中級試験が行われるしばらく前、私はあの娘からエルフの姫君に出会ったという報告を受けました。

 そして彼女を目撃したザックスさんが、誰も入る事の出来なかった彼女の結界に何事もなかったかのように入られた時、私は一つの仮説を立てたのです。

 あるいはイリアにもそれが可能なのではないのか……と。

 そして、予想通りの事態が起こりました。その事で私は確信したのです。

 貴方とイリアならば、違う世界にいる彼女の魂をこちらに引き戻す事ができるはずだ……と」

「危険はないのか?」

 その言葉にマリナは目を閉じたまま黙り込んだ。どこか苦しげな表情が彼女の美貌に影を差す。

「正直何が起こるか分かりません。これは危険という言葉では表わせない程に危険な行為です。

 この事を思いついた時、私は直ぐにそれを胸の内にしまい、素知らぬふりを通そうと思いました。

 あの娘を思う一人の人間として、あの娘をどうなるかも分からぬ危険に放り込む事など、正直論外です。

 いえ、それは嘘ですね。私は只、あの娘を失いたくないのです、私自身の為に……」

「マリナさん……」

「ですが、それでも神殿巫女である私がそれを許しませんでした。真実を隠したまま、私を目指して神殿巫女としての務めに励むあの娘に恥じることなくこれから振舞い続けられるのか……と」

「それって、昨日言ってた……」

 不意に目を開いたマリナが人差指をザックスの唇にあてた。

「迷った私は昨夜、貴方の下へと窺い、姫君の姿を目の当たりにしてどうすべきかを考えたのです。そして選びとった結論が、これでした」

 巫女の禁を犯してまで様々な話をした昨夜のマリナの行動にはそんな意味があったのか――ザックスの胸に複雑な想いがよぎった。

「私は酷い人間です。自身の満足の為に貴方達を危険な目に遭わせ、のうのうと事態を傍観している……」

 不意に今度はマリナの唇にザックスの人差し指があてられた。自身の唇にあてられた彼女の人差し指を優しく外すと、ザックスは彼女に言った。

「そういう言い方はやめろよ。あんたが苦しんでいるのはよく分かっている。自分の大切な物を犠牲にしてでも果たさねばならないのが巫女の務めって奴なんだろ。だからイリアだって、納得したんじゃないのかよ」

「ザックスさん……」

「だったら、オレだってそれに付き合うまでだ。オレがイリアに助けられたように、今度はオレが彼女と眠り姫を助ける番なんだろう」

 巡り巡って、自分が与える側に回ることだってある――いつかのガンツの言葉を思い出す。

「今のあんたがしなければならない事は、無事に事を終えたあの娘に、『よくやった』と一声かけて、いつも通りの笑顔を向けて迎えてやることだろう」

 その言葉に彼女は小さく微笑みを浮かべた。

「何が起こるか分からないってのに、じたばたしたって仕方がねえよ。あとは創世神の意思に任せるしかないんだったら黙ってそうするしかない。あんたが後ろでしっかりしていてくれなくちゃ、俺もイリアも動揺しちまうだろう」

「まあ、ザックスさん、それは私への命令でしょうか?」

 昨日の出来事を思い出す。

「ああ、そうだな、あんたは笑って、いつもどおりにしててくれ。オレ達は『別の世界』とやらにいる『ねぼすけ姫』を叩き起こして、それで事態は一件落着だ」

 彼女はくすくすと笑う。まるで少女のようなその笑顔にザックスは一瞬どきりとした。

……と、その瞬間、何者かが部屋の扉をノックする音が響いた。

「どうぞ」という言葉と共に現れたのはイリアだった。初めて見る漆黒の厳かな衣装に身を包んだ彼女の姿は、実に大人びて見える。

「あの、姉さま、変じゃないでしょうか?」

 部屋に入ってきた彼女は、僅かに顔を赤らめてマリナにそう尋ねる。

「いいえ、とても似合ってますよ。ねえ、ザックスさん」

「ああ、でもこれって、一体?」

 先日の中級試験の打ち上げの時に見た神殿巫女の正装とも違うイリアのその姿に、ザックスは戸惑いを覚えた。

 そんな彼にマリナが説明した。

「これが、神殿巫女が冒険者の方と滝を潜る際に身につける正式な衣装なのです。イリアがいつも身に着けていたのは、女性冒険者用の洗礼着なのです」

 その言葉にザックスとイリアの顔が赤くなる。そんな二人を交互に眺めながらマリナは悪戯っぽい笑みを浮かべると続けた。

「さて、私はこれから準備に行かねばなりません。時間が来るまで、貴方はここでザックスさんとお話していなさいな。あまり彼を困らせてはいけませんよ、イリア」

 その言葉をあんたが言うのか、というつっこみを密かに胸の内に留める。

「はい、姉さま」

 言葉とは裏腹に、彼女の小ぶりの耳は忙しなく動き、どこか不安げなその様子はやはり隠せない。そんな彼女の心中を察したマリナは、愛しい少女をしっかりと抱きしめる。

「大丈夫、きっとあなたなら出来ます。誇りある神殿巫女として、彼とエルフの姫君をしっかりと導きなさい」

「はい、姉さま」

 忙しなく動いていた耳がぴたりと止まる。マリナの言葉はイリアにとって絶対的な道標であるのだろう。

 そんな彼女の様子を確かめたマリナはイリアを手放すと、ザックスに神殿礼をして部屋を後にした。後にはぽつりと二人の姿が残された。

「あ、あの、ザックス様……。不安ではありませんか?」

「ん? ちっとも不安なんかじゃねえよ……って言えばウソになるかな」

 その答えにイリアは小さく微笑むと、懐からある物を取りだした。

「もしよろしければ……、これを持っていて下さい」

 わずかに顔を赤らめて、イリアはそれをザックスに差し出した。それは魔将との戦いの際に、彼とウルガ達を導くこととなったイリアの護符だった。

「ありがとう、でもいいのか?」

 その問いに彼女は顔を赤らめたまま、小さく呟いた。

「はい、これは私達巫女が失いたくない大切な方々の為に贈らせて頂くものです。きっとザックスさんのお役にたてると思います」

「そうだな、こいつの力はよく知っているよ。これがあれば安心だ」

 彼女の護符の威力はすでに経験済みである。

 固めの表情を僅かにゆるめたザックスの言葉に、不思議そうな顔をするイリアに小さく笑いかけると、彼女の護符を懐に忍ばせる。

「じゃあ、後はよろしく頼むぜ! 中級巫女さん」

「はい、ザックス様」

 ザックスの言葉にイリアは明るい返事で答え、彼の傍らにちょこんと座る。洗礼開始までのほんの僅かな間、何気ない会話を交わしながら、二人はその時を静かに待っていた。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



《ぺネロペイヤ》大神殿 洗礼の部屋――。


 滔々と青白い神聖水をたたえる泉の側には、眠り姫を両腕に抱いた洗礼着姿のザックスが立っていた。イリアによって洗礼着に着替えさせられた彼女をしっかりと抱え、ザックスは上階層から流れ落ちてくる滝の水音に耳を傾けていた。

 彼の傍らには漆黒の衣装を身にまとった少し緊張した面持ちの、イリアの姿があり、その周囲にはマリナを始めとした4人の姉巫女達の心配げな姿がある。

 本来秘事である洗礼において、協会長やエルフ達は特例として、少し離れた場所にある傍観窓からベール越しに泉の様子を窺っているようだ。

「では、イリア、そろそろ始めましょう」

 マリナの言葉に小さく頷いたイリアは泉に身を投じる。膝上までを水につけた彼女は、漆黒の洗礼着の裾を水面にふわりと浮かべながら振り向くと、ザックスを誘った。

 彼女の導きに従い、ザックスがそれに続く。

 そこからはいつも通りの儀式の手順が進められてゆく。

「ちょっと、待ってくれ」

 彼女が両手で滝の水を差しだした時、ザックスはふとある事を思いついて洗礼を中断させた。その行為に傍観者達の間から小さなざわめきが生まれた。

 何事か、と尋ねようとするイリアを眼で制して、ザックスは両手で抱えていた眠り姫の身体を片手で支えると、左手を伸ばした。その手にはイリアの護符が握られている。目を閉じたザックスは静かにその護符にマナを込めた。

 マナを込められた護符は、あの日と同じように瞬時に燃え上がり、中におさめられたイリアの銀色の髪がふわりと宙に浮かんで彼の左手に絡みつく。

 その光景に背後の巫女達が息を呑む様子が窺え、当のイリアも驚いた表情を浮かべる。

 そんなイリアに片目をつぶって、ザックスは言った。

「これがあれば安心だ、って言っただろ」

 ザックスの言葉にイリアは小さく微笑んだ。再びザックスは眠り姫の身体を両手で抱き抱える。

「じゃあ、始めてくれ」

 儀式が再開される。

 滝の水を口に含んだ二人は互いに寄り添うように立つと、イリアの力によって互いのマナが同調する。

「いきましょう、ザックス様」

「ああ」

 一度だけ目を合わせた二人は、同時に足を踏み出す。両腕に抱えられた眠り姫と二人の姿が滝の水に触れた瞬間、神聖水が激しい輝きを生み出した。

 その奇跡を目の当たりにして息を飲む傍観者達の前で、3人の姿は光に呑み込まれ消えて行った。そのまま輝きを放ち続ける滝の水を前にして、傍観者達は呆然と立っていた。


――いったい何が起きているのか。


 その答えを知っているのは、おそらく創世神のみであろう。人智では理解しえない光景にその場にいる誰もが言葉を失い、ただ彼らが無事に帰還する事を願うだけだった……。




2011/09/17 初稿




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