16 ザックス、向き合う!
大きく開け放たれた自室の窓から、秋の虫達の声と共に涼風がふらりと訪れる。
時折、酒場で騒ぐ冒険者達の声が大きく弾け、小さな女の悲鳴が混じる。再び静かになったのは決して彼らが騒ぎをやめた訳だからではなく、次の騒ぎに備えての嵐の前の静けさといったところだろう。
今時分は故郷の山々にもそろそろ白いものが目立ち始め、冬支度はその最盛期を迎えている。
冷たく凍える長い冬の中で飢えと寒さに震えて待つ短い春の訪れは、ザックスにとって余り良い思い出ではない。願わくは、もう二度とあの場所には戻りたくないものだ、というのが彼の本音だった。
初めて体験する『静かな秋の夜更け』を寝台の上で目を閉じて楽しんでいたザックスだったが、不意に彼の部屋の扉を勢いよく叩いた不躾な訪問者によって、その安らかなひと時はあっけなく破られてしまった。
「誰だよ、人がせっかくいい気分で浸っているって時に……」
ぼやきながら開いた扉の向こうにいたのは、ガンツ=ハミッシュの酒場の自称看板娘である猫族の女性だった。皮肉の一つも言ってやろうか、などと思ったザックスだったが、彼女の珍しく青ざめた顔を見て、その考えはすぐに消えてしまった。
「すぐに店に来て欲しいニャン! マスターがあんたをお呼びだニャン!」
言葉と同時にぐいぐいと彼の手を引く。
切羽詰まった状況にも拘わらず、語尾に『ニャン』とつけ忘れないところはどうやら筋金入りらしい。
猫族である事を示す彼女のシッポはピンと立ち、いつも笑顔と愛嬌をふりまく彼女にしては珍しく、何かに怯えている様子を示している。尋常でないその様子と彼女の冷たい手の感触に戸惑いを覚えながら、ザックスは彼女に引きずられるままに酒場へと向かった。
改装されたばかりの店内はまるで誰もいないかのようにしんと静まり返っている。
リニューアルの日以来、ガンツ=ハミッシュの酒場の客の入りは上々のようで、閉店時間まで常に一階席は満席の状態が続いている。
値段の割に上質な食事と小洒落た店のデザインに引かれて、その所属をガンツの店に移そうと考える女性冒険者パーティの姿もちらほらと目立つようになった。一時閉店時に離れて行った冒険者たちの数を十分に補いつつあるガンツ=ハミッシュの酒場は、ザックスの手助けによって未踏破ダンジョンを踏破したバンガスのパーティを看板として、以前と変わらぬ盛況ぶりを示していた。
閉店二時間前に限っての仄明るい照明の光の下では、多くの冒険者達が息を潜めており、宿屋側の通用口から現れたザックスの姿に一斉に彼らの視線が集中した。
「マスター、つれてきたニャン!」
その言葉に二階席から乗り出して顔を見せたガンツが、ザックスに声をかけた。
「悪いな、ザックス! ちょっとこっちに来てくれ!」
ザックスの挙動を一階席の冒険者達皆が、固唾をのんで見守っている。
彼らの呼吸と意識が一斉に自身に向けられた事に僅かに不快感を覚えながら、頑丈に造られた階段をしっかりとした足取りで上っていく。二階席に上がると同時に、そこに座る屈強なパーティの面々までもが、息を潜めてザックスの動向を注視する姿に、さらに戸惑いを大きくする。
「こっちだ!」
ザックスに声をかけたガンツは二階席の一番奥、欠番である一番席の前に立っている。声をかけられるがまま、彼に近づいたザックスは、ガンツの向こうに見える一番席の様子に驚きの声を上げた。
「ご覧の通りの有様でな……」
マスターであるガンツも説明不能な異常事態に戸惑っている様子である。
「まったく、不思議な光景です」
二番席に座っていた魔導士のルメーユが興味津津といった様子で身を乗り出している。その後ろからは、おそるおそるといった様子でリーダーのバンガスが覗き込んでいる。
「お、俺は、どんなモンスターでも怖くはねえんだが、さ、さすがにこういうのはな……」
「大きななりをして、怖いんですか? バンガス」
「う、うるせえ……」
ルメーユの意地の悪い質問をバンガスは突っぱねるものの、彼の心情はその態度が示している通りなのだろう。
一つため息をついたザックスは、ガンツに事の次第を尋ねた。
「いったい、どういう事なんだ?」
「俺にも何が何やらさっぱりでな……」
ザックスの問いにガンツは躊躇いながらも続けた。
「一仕事終わったんで、客の様子を見に店内を回っていたら、いつの間にかこうなってたのさ」
「こうなってた、って……」
再び一番席に目をやる。
ガンツの希望と店に所属する多くの冒険者達の了承の下、この場所だけは改修前のままの状態に保たれていた。
欠番扱いされ、無人のはずのその場所にただ一人座っていたのは、エルフの女性だった。そんな彼女が店内の全ての人間を動揺させているのは、ひとえに彼女の姿がうっすらと透けており、その輪郭がおぼろげだからであろう。『この世のものではない……』一目でそう理解できるその姿を目にして平然としていられる者は、まずいない。
黄金に輝く長い髪を後ろでひとくくりに結いあげ、妖精族独特の特徴的なピンととがった長い耳、その彼女の姿は誰もが美しいというに違いない。
それはかつてザックスが初級レベルダンジョンの中で幾度か見かけ、ここ暫く冒険者の間で噂になっていたエルフの幽霊そのものだった。
かつて彼が見かけた姿と只一つ違う点があるとすれば、勝気さを感じさせる整った顔立ちに浮かんでいるその表情は、ダンジョン内で見た悲壮感など微塵もなく、彼女は実に楽しそうに微笑み、見えない何者かと語り合っている。
そんな彼女の姿を眺めながら、ガンツはぽつりと呟いた。
「俺はこの店に来た奴なら、たとえ一日だけだったとしてもどんな奴でも覚えている。だが、あんな娘は見た事がねえ……。それに……」
僅かに言葉を切る。
「パーティってのは、長く共に時間を過ごすうちに癖や仕草が似てくるもんだ。座り方や座る場所、あの娘はあそこに過去、座っていたどいつとも似てやしねえ。ただし、たった一人を除いてな」
「たった一人?」
「お前だよ、ザックス。これは俺の直感なんだがな、今、あの娘と話してるのはお前じゃないのか、俺にはどうしてもそう思えてならねえ。あの娘の視線の先にどうしてもお前の姿が浮かびあがっちまってな、それで、お前を呼びにやったって訳なんだ」
「お、オレか?」
「あまりに突飛で申し訳ねえんだがよ、あれはあの場所の未来の姿、あるいはありうるべきもう一つの現実の姿ってのを映し出してるんじゃねえのかって、そう思わされちまうんだよ」
ガンツらしくないその突拍子もない言葉に、ザックスは絶句する。
だが、ザックス自身もその言葉にどこか腑に落ちるものを感じ取っていた。そんな二人の後ろからルメーユが口を挟んだ。
「意外と正解かもしれませんね、それ……」
「どういう事なんだ?」
ダンジョン内でも博識ぶりを披露し、その知識にずいぶんと助けられただけに、ザックスは彼にその答えを求めた。
「マナですよ」
「マナ?」
「ええ、ご存知のようにマナとは世界中のあらゆる場所に存在します。そしてこの場所は過去から現在に至るまで、ガンツ=ハミッシュの酒場に関わる全ての人々の様々な想いや願いが込められた場所。
改修された店内で唯一以前の姿を保つことで、この場所に凝縮された想いのエネルギーが、マナによって浮かび上がったのではないか……そんな風に考える事は可能だと思います」
「マナか……」
ダンジョン内で特に強く感じられるマナがその理由であるとするならば、これまで彼女の姿がダンジョン内だけで確認された事にも納得はできる。
「なあ、ザックス。無責任な言い方で申し訳ねえんだがよ……」
僅かに躊躇いながらもガンツは言葉を続けた。
「これはおまえが向き合わなければならない問題のような気がするんだ。この場所に座る事を、店内の誰もが認めた只一人の人間であるお前だけが、この娘を助けてやれるんじゃねえのかってな」
「助ける?」
「ああ、そうさ、この娘は助けを求めてる。俺にはそうとしか思えねえ」
「あんたがそう言うんなら、そうなのかもしれないな」
ガンツの人間観察力は超一流である。
そして、何よりも、過去何度か彼女の姿を目の当たりにしてきたザックスには、ガンツの言葉がなぜか腑に落ちた。見下ろした一階席に座る者達は皆、ザックスに注目している。
「任せたぜ」
その言葉を残してガンツは去ってゆく。
店のマスターであるガンツが問題の解決をザックスに委ねた事で、他の客達も納得したのだろう。恐る恐るこちらを窺いながらも、店内はいつもの空気へと戻りつつある。
「任せたぜ、って言われてもな、オレは幽霊退治屋じゃねぇんだがな……」
いわゆる死霊や悪霊といった類に分類されるアンデッドモンスターも存在はする。それらを専門にハントしている冒険者達もいる事にはいるのだが、この場合は違うだろう。どちらかといえば神殿巫女や星詠みといった神秘性をもつ者達の領分といえる。
一つため息をついたザックスは、仕方なく一番席に座った。楽しそうに笑いながら語り続ける彼女の視線に合う位置に腰掛け、決して交わらぬ時間を共有する。
整った顔立ちにくるくると様々な表情を浮かべるその姿に、いつしかザックスは魅入られていた。
「なあ、あんた何者なんだ?」
初めて出会ったときに感じた既視感にとらわれながら、ザックスは決して答える事のない彼女に語りかけた。
「俺は、あんたに何をしてやればいい?」
返事をする者などないであろうその言葉は、只虚しく宙へと消えて行く。
「まいったな……」
いったいどう問題を解決すればよいのか?
まったく見当もつかない事態に放り込まれたザックスは頭を抱える。
閉店の時間が訪れ、店内から次々に客の姿が消えて行った後の無人の空間で、彼女と向き合ってザックスは時を過ごした。
その場所でいつしか眠りの世界へと旅立ったザックスが翌朝目覚めた時、彼女の姿はすでになかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「たのもう!」
翌日の朝、彼が手土産を持って扉を叩いたのは《ペネロペイヤ》に居を構える冒険者協会本部協会長執務室――件の老人のところだった。
組織としての実質はともかく、仮にもここは、大陸を股にかける組織の総本山である。ここならば何らかの情報が得られるのではないだろうか、という淡い期待を胸に、ザックスはか細い人脈の糸を頼りにここへとやってきた。
ここが駄目ならば後は《大神殿》くらいしかないだろう。
今日は転職の日取りに良い日とされているため、神殿は朝から大賑わいのはずである。人気の途切れた夕方くらいにでも訪ねて、マリナかライアットに相談を持ちかける事になるのだろう、甚だ不本意ではあるが……。
確率としては先に向かった波止場の方が件の老人を捕まえられるのではないかと思ったのだが、残念なことに彼の姿はそこにはなかった。
部下に仕事を丸投げしてあちこち遊び歩いている――そんな放蕩老人のイメージしか湧かないザックスだったが、どうやら今日はまじめに仕事をしているらしい。
「おや、これは、珍しい」
扉を開けてザックスを出迎えたのは、件の老人の秘書役兼世話係の部下の男だった。
「面会予約は入れてないんだが、爺さんはいるかい?」
ザックスの問いに、男は苦笑いを浮かべた。
「申し訳ない。ザックス君。協会長は本日珍しく朝から仕事をして下さってましてね……」
「それは珍しいな。雨が降らなきゃいいが……」
老人に対する互いの認識は一致しているらしい。手土産を男に渡しながらザックスは続けた。
「じゃあ、出直すよ。できれば早いうちに爺さんに会って、相談したい事があったんだが」
「君が協会長に相談ですか? それは本当に珍しいですね……。よろしければ私が代わってお聞きして、協会長にお伝えしておきますが……」
彼の厚意のままに部屋に招き入れられ、上質なソファに座らされたザックスは、余りに突飛な用件で申し訳ないんだが、という前置きと共に、用件を伝えることにした。
「実は、昨晩、うちの店にエルフの幽霊が現れて……」
目の前の男に事態のあらましを話すうちに、彼の顔がみるみる曇っていく。
常日頃から放蕩老人に様々な仕事を押し付けられる、まじめさが売りの男に申し訳なく思いながら話し終えたザックスは、彼の言葉を待った。あまりに下らない話に気を悪くしたんだろうか、そんな心配をしたザックスであったが、彼の返事は予想外のものだった。
「これは、なんという偶然なのでしょうか、いえ、あるいはそうなるべくしてなった、という事なのか……」
ぶつぶつと呟きながら、何事かを考えていた彼は、やがて顔を上げるとザックスに語り始めた。
「実は、今朝からうちの協会長が悩まされている問題が、件のエルフについての事でして……」
その言葉にザックスは驚いた。
「色々と微妙な問題を含んでいますので、部外者である君に本来話すべき事ではないのですが……」
僅かに躊躇った後で、彼は決心したように顔を上げる。
「ついて来てください。ザックス君。君を協会長の下にお連れします。実際に目で見た方が話は早い。ただ……」
僅かに声を潜めて、彼は続けた。
「どんなに頭に来ても決して怒ったりしないで下さい。下手をすれば、私と君のクビだけでは贖いきれない問題に発展しかねません」
「おい、大丈夫なのかよ、それって……」
「ええ、私の独断ではありますが、問題の解決に君の協力はおそらく必要なはずです。何、安心して下さい。これでも彼の有能な右腕として、日頃から並々ならぬ貸しがたっぷりとあのジジ……おっと失礼、協会長にはありますからね……」
「成程……」
「ただ、くれぐれもご注意下さい、本日いらしている協会長のお客様は実に気難しく頭の固い方々ですので……」
「いったいどんな人たちなんだ?」
「……。エルフです。それもかなり気位の高い……」
「エルフ!」
その言葉に驚きの声を上げる。どうやらいきなり問題の核心へと踏み込む事が出来るらしい。
「彼らの思考は、私達人間とは明らかに違う部分があります。些細なことで気を悪くされて臍を曲げられると厄介な事になりかねません」
「分かった。あんたの顔を立てて俺は黙っておく事を約束するよ」
「助かります。それでは行きましょう。眠り姫の下へ」
「へっ、眠り姫?」
ザックスの疑問に小さな笑みで答えると男はザックスを連れて部屋を後にする。どうやら、問題は一気に解決できるかもしれない、男に連れられて廊下を歩いていくザックスの胸にはそんな期待が広がり始めた。
だが、事態はザックスの予想を越えて遥かに深刻なものとなっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
しばらく待たされた後でようやく入室を許可された部屋の中には、幾人かの先客の姿があった。ザックスを驚かせたのは、老人以外に顔なじみの二人の姿があった事である。
通された部屋の中にいたのは、老人を始めとして、おそらく彼の客と思われる3人のエルフ、そして《ペネロペイヤ》大神殿の神官長と巫女長、さらにはライアットとマリナの姿だった。
「これは一体どういう事ですかな、協会長殿! どこの土地の草とも分からぬ者をこの場所に入れるとは!」
3人の内のもっとも若く見えるエルフが老人に食ってかかる。人間の言葉でいうところの『どこの馬の骨』という表現はエルフ達の間では『どこの土地の草』というらしい。もちろんそれがザックスの事を指している事は疑うべくもない。
「まあまあ、ここは抑えて下され、お客人。彼も又、決して無関係というわけではありませんのでのう」
「こいつが、ですか?」
ザックスを上から下まで値踏みするかのような不躾な視線を送る3人のエルフ達に怒りを覚えるものの、ここは秘書の男の顔を立ててじっと我慢の子である。
周囲の人々の表情は皆硬い。
顔を合わす度にいつも不機嫌そうな顔のライアットはともかく、常に優雅な微笑みを絶やす事のないマリナまでがその表情を消しているところをみると、事態はどうやらかなり深刻らしい。これはいつもの調子でやっていれば大変なことになりそうだな、という悪い予感が、ザックスの心にブレーキをかけていた。
「まあ、よろしい。とにかく我々は彼女を連れて、すぐさまこの地を後にさせていただく。貴方がたに拒否する権限は一切ありませんぞ」
「ほう、それは結構なことですが、彼女に触れる事すらできぬ貴方がたが、一体どうやって彼女を移されるのかな?」
その言葉に3人のエルフは、渋面を浮かべた。
「我々としても厄介事の種は早めに消えてくれる事が望ましいが、いかんせん彼女に触れることすらできぬとなると、この状態を維持し続ける事で手一杯でのう」
「ですが、私どもの里に知らせを走らせることぐらい、できたはずでは……」
「たしかにそのくらいはしたであろうな。彼女が己の身分を偽っていなければ……」
老人の言葉に3人は再び渋面を浮かべた。どうにも状況は彼らに分が悪いらしい。
ふとザックスは、部屋の奥の天蓋付きの寝台の上に眠る何者かの姿を見つけた。僅かに自身の立ち位置をずらし、その寝顔を見たザックスは思わず驚きの声を上げた。
「なんじゃい、若いの、もうちっとばかり静かにせんか」
「どういう事だよ爺さん、あれはここ暫く騒ぎになってたエルフの幽霊じゃねえか」
その言葉に3人のエルフは驚きの表情を浮かべた。
「幽霊だと。一体何のことですかな?」
彼らの言葉に答えたのは老人だった。
「何、ここ最近、冒険者協会管轄下の初級レベルダンジョン内で目撃されたエルフの幽霊によく似ておる、と彼は言っておるんじゃよ」
「幽霊だと、バカな」
エルフ達は顔を見合わせる。老人は続けてザックスに尋ねた。
「ところで、若いの、お前さん彼女に見覚えはないかのう?」
「見覚えも何も、彼女は夕べうちの酒場に現れて、店内を凍りつかせたばかりだぞ」
「なんじゃ、それは? 初耳じゃのう。まあ、よいわ。他にはどうじゃ?」
「他に? まあ、どこかで会ったような気はするんだが、それがいつかってのは思い出せないな……」
「なるほどのう、お前さんの方も、まだまだ重症のようじゃのう」
「どういう意味だよ」
その言葉に老人は答えなかった。件の彼女の寝顔を眺めながら、何事かを考えている。
「なあ、ちょっとそっちに行って、彼女の顔をよく見せてもらってもいいか?」
「無礼な。高貴なエルフの姫君の寝顔に近づくなど、無礼にも程があるぞ」
そんなエルフ達の言葉を無視して、老人はザックスに許可を与えた。
「ん、まあ、無駄とは思うが試しにやってみせい」
「なんか、引っかかる言い方だなあ」
ザックスの傍らに立つ秘書の男と顔を見合わせると、そろそろと彼女に近づいてゆく。
眠る彼女の直ぐ傍らにまで近付いて、その寝顔を間近で見つめる。
それは昨晩、ずっと2階の一番席で眺めていた彼女に間違い無かった。一体どういう事なのか? どうやら答えの鍵は老人が握っているらしい。彼を問い正すべく振り向いたその場所には、奇妙な光景が広がっていた。
ザックスの周囲にいる全ての者達が皆、唖然とした顔で彼の事を見つめている。唯一マリナだけが、その口元にいつも通りの微笑を浮かべている。
特に3人のエルフ達の驚きは相当なもので、自身がマヌケ面をさらしている事にも気付いていないようだ。元来、エルフというものは物静かで理知的な種族というイメージが強いのだが、この3人は例外なのだろうか?
「なんだよ、あんた達、そろいもそろってマヌケ面さらして……」
「わ、若いの……、お、お前さんなんともないのか?」
いつも飄々とした老人が驚く顔というのは珍しい。
「一体なんのことだよ?」
ザックスの言葉に老人が彼に向って手を伸ばす。と、何か見えない障害物があるかのように、老人の手が弾かれた。
「こういう事じゃよ。これまで全ての者達が皆、例外なく結界に弾かれて、どうしようもなかったんじゃが……」
「そ、そんなバカな。たかが人間風情に……」
ザックスの下に駆け寄ろうとしたエルフの一人が、駆け寄った反動で弾き飛ばされる。
「どうやらこの眠り姫は、同族であるお前さん方よりも、この若いのに心を開いておるようじゃのう」
老人の皮肉に3人のエルフは渋面を浮かべた。
「ついでじゃ、若いの。その娘の首元のクナ石を外してはくれんかのう」
「ああ、別に構わないが」
わずかにマリナの視線が気になったものの、老人の願いどおり彼女の首元に輝くクナ石を恐る恐る取り外す。
柔らかな寝息を立てている彼女の上質な絹織物のように柔らかな手触りの黄金の髪が、心地よくザックスの手に触れる。
僅かに苦労しながらも彼女のクナ石を取り外したザックスは、それを老人に手渡した。どうやら彼女の周囲の結界らしきものの前では、老人の持つ特殊スキルも効果はなかったらしい。
「これは……、やはりそうか」
クナ石にマナを込めた老人はその中身を確認した後で、周囲の者達に石を渡す。室内にいる全ての者達の手にそれが渡ると再び老人の下へとそれは返ってくる。
「なあ、俺も見せてもらっていいか?」
その問いに老人は、僅かに躊躇う様子を見せた。
「構わんが、決して取り乱すではないぞ」
「あ、ああ」
室内の全ての視線がザックスに集まる。いったいなんなのだと思いながら、ザックスは彼女のクナ石にマナを込めた。
名前 ルティルの娘アルティナ
マナLV 23
体力 118 攻撃力 43 守備力 98
理力 MAX 魔法攻撃 189 魔法防御 138
智力 182
技能 137
特殊スキル 駿足 部分強化 直感
炎術 氷水術 雷術 風術 輝光術
称号 中級冒険者
職業 魔術士
敏捷 173
魅力 152
総運値 MAX 幸運度 MAX 悪運度 0
状態 呪い(詳細不明)
備考 協会指定案件6―129号にて生還
所持金 非資格者による閲覧の為表示不可
武器 なし
防具 なし
その他 なし
その内容に手が震える。動揺しながらも不意に老人の言葉を思い出し、なんとか平静を保とうとする。
それはザックス自身のステータス値の中にあった幾つもの事象と符合する。
慌てて己のクナ石を取り出し、その内容を比較する。
名前 ザックス
マナLV 33
体力 189 攻撃力 232 守備力 188
理力 MAX 魔法攻撃 0 魔法防御 179
智力 153
技能 179
特殊スキル 収奪 駿足 全身強化 倍力 直感
剣撃術 斧撃術 一刀両断 乱れ斬り 体当たり 抜刀閃
称号 中級冒険者 踏破者 竜殺し 魔将殺し
職業 剣士
敏捷 194
魅力 142
総運値 0 幸運度 MAX 悪運度 MAX
状態 呪い(詳細不明)全属性半減
備考 協会指定案件6―129号にて生還
協会指定案件6―130号にて生還
協会指定案件6―131号にて生還
所持金 135348シルバ
武器 ミスリルセイバー
防具 魔法障壁の籠手 神聖護布の上衣
疾風金剛のひざ当て バトルブーツ
その他 ウルガの腕輪
MAX値をしめすパラメータ、詳細不明の呪い、協会指定案件6-129号という言葉。
かつて、そして今も彼を悩ませるそれらが、彼女のステータス値にも示されている。
「じ、爺さん、これ、一体どういう事なんだ」
声の震えを抑えられない。
自身の顔が真っ青になっている事が感じ取れるほどに、ザックスは動揺していた。
目眩と共に座り込みそうになる彼を、いつの間にか傍らに立っていたマリナがしっかりと支えていた。そんなザックスに向かって老人は静かに告げた。
「お前さんが考えている通りじゃよ。彼女はあの日ダンジョン内で生き残ったもののうちの一人じゃ。そして、それ以来ずっと眠り続けておる。彼女はお前さんの同期生なんじゃよ」
「そんな……」
「それよりもお前さんに改めて尋ねたい。お前さん、あの日以前の事、つまり、自分がどんな仲間たちと共に時を重ね、あの日のダンジョンに挑んだかという事をまだ思い出せぬのか?」
その言葉に愕然とする。言われてみれば当たり前の事が思い出せない。
あの日の魔人との邂逅については鮮明に思い出される。だが、それ以外の記憶となるとあやふやになって、まるで霧の中にいるようだった。
「そ、それって……」
「お前さん、記憶の一部がないんじゃよ。あの日、ダンジョンの中で保護され、目覚めた後での協会の事情聴取記録にはそう書いてある」
その事実に愕然とする。
だが、それでも彼は最後の気力を振り絞って一つの疑問を老人にぶつける。
「でも、おかしいじゃねえか。もしも彼女があそこにいて、それ以来眠り続けているとしたら、このステータス値はおかしいだろう。マナLVだってせいぜい2か、3ってところじゃねえのかよ」
その質問に老人は押し黙る。しばらくして彼は静かに口を開いた。
「彼女の意識はおそらく別の場所にあるんじゃろうよ。我々の暮らすこことは違う世界、そしてその場所で彼女は冒険者として時を過ごしておるんじゃろう。詳しい事はワシらよりもそちらのエルフの御三方の方が、よく御存知のはずじゃ」
「バカな事を!」
老人の言葉に年若いエルフが答えた。
「彼女は生まれてまだ20年にも満たないのですぞ。そんな彼女が《エルフの眠り》の中にあるというのか?」
「ほう、《エルフの眠り》とは一体何じゃ?」
「そ、それは……」
「なんじゃ、又、この期に及んで《妖精憲章》で禁じられておるとでも言い出すのか、お前さん方」
老人の言葉に年若いエルフが口ごもる。だが、それを引き取ったのは最も年長のエルフだった。
「我々エルフは、150年近い寿命の果てに病死やその他の理由を除いて、二つの人生の終わりを選択します。一つは寿命と共に土に帰る事。そしてもう一つは、《エルフの眠り》の果てに、自身の生の中で得た知識と力を糧に森の木々となって長い時の中を生きていく事です」
「ほう、では彼女はどうなるんじゃ」
「もし、彼女が《エルフの眠り》の中にあるとすれば、近いうちに彼女は若木の苗となるでしょう。しかし、彼女の短い人生からは、本来得られるはずの十分な糧となる知識と力がない以上、彼女の木の苗は直ぐに枯れ、永遠の死を迎える事になります」
「それを防ぐ事はできんのか」
「残念ながら《エルフの眠り》から目覚めた者は、かつて一人としておりません」
「歴史や伝統を何よりも重んじるお前さん達が言うのなら、間違いないんじゃろうな」
その言葉に室内の者は、みな押し黙る。
「やれやれ、どうやら、最悪の結末になるという訳か……。無念じゃのう」
老人の言葉は室内に静かに重く響いた。
2011/09/14 初稿