07 ザックス、躊躇う!
自室の扉が叩かれる音で目を覚ます。
不快になるほどに強くもなく、気付かれぬほどに弱くもなく……。
ドアのノックの仕方にも奥義が存在するのだろうか? 寝起きの頭にそんな馬鹿げた考えを浮かべながら、ザックスはドノヴァンの宿の自室の寝台で目を覚ました。
「そういや、戻ってきたんだったな」
ここ数日、中級試験の審査官としての傍ら、マリナに様々な雑務を押し付けられ――正確にはザックスがそう言いだすように仕向けられたのだが――最高神殿内の一室に彼は寝泊まりしていた。
波乱万丈だった中級試験も終わり、めでたくお役御免となったザックスは、マリナとイリアに見送られ、再び西地区にあるこの酒場兼宿屋に戻っていた。二人の神殿巫女はまだしばらくこちらに滞在し、あちらこちらへのあいさつ回りや雑務に追われることになるらしい。紆余曲折の末、見事中級巫女となったイリアは真新しい巫女の印を胸に、名残惜しげにザックスに手を振っていた。
様々な規律と制限のある神殿で寝起きしていた頃とさほど変わらぬ息苦しさは、今はなつかしく感じるだろうが、数日の内にまた、ストレスの原因となるのだろう。そう思いつつ、ザックスは朝食をとるべく階下へと足を運んだ。
だが、そんな彼などよりはるかに気の短い者もいたようで、その日の朝はドノヴァンの酒場始まって以来の嵐が吹き荒れる事となり、店はターニングポイントを迎える事となった。
「だから、もうこの酒場には出入りする気はない、って言ってんだ!」
「そんな、一体どういう理由で……」
「どうも、こうもないな! 出て行くっていったら出て行くんだ。あんたは黙って、証明書を発行しろよ!」
これがガンツだったならノキル酒の一杯でも差し出し、去るものは追わずというところなのだろうが、生憎、ドノヴァンはまだ若く経験も浅い。自身の気付かぬ不始末に対して不安なのだろう。
かつて、冒険者達の集まる『酒場』とは本来文字通りの意味であった。
だが、様々なダンジョンで得た稼ぎで飲んだくれる彼らがそのまま朝を迎える事で、いつしか酒場は宿屋を兼任するようになったのである。
生活の中で不可欠な『住』の一角を担うようになった『酒場』兼『宿屋』の顧客リストは必然的に冒険者達の実態を図る為の戸籍のようなものとなっていき、そんな酒場の店主達の寄り合いから酒場ギルドが生まれたのである。やがて、そのような各都市の酒場ギルドが、大陸で絶大な権力をふるう神殿勢力や国家群に対抗し、弱い立場の冒険者達を守るべく統合されたのが冒険者協会だった。
冒険者達の管理を任される酒場は協会から認定されることで、都市における税やその他の面で様々に優遇され、協会からクエストの支給が受けられる。酒場の看板に協会認定証が描きこまれると言う事には、大きな意味がある。
その一方で、不祥事を起こしたり、登録冒険者が一定数を切ってしまえば、その酒場からは認定証がはく奪され、廃業か、認定証を得ずに営業を続ける「裏酒場」として残るしかない。当然、様々な特権も剥奪される事で、その経営は極めて苦しいものとなる。
ドノヴァンの酒場も例に洩れず、彼の酒場の登録冒険者数は認定基準ラインぎりぎりになりつつあり、極めて危ない状態にあるらしい。彼が去っていこうとする冒険者に対して食い下がるのは、このような背景があった。
「出て行く事を止めはしません。ただ、理由を教えてくださいと言っているのです」
「うるせえな! そんなものあるかよ、出て行きたいから出て行きたい、って言ってんだ。あんた、いちいち面倒くせえんだよ!」
「そんな……」
カウンターで店主のドノヴァンと言い争ってるのは獣人族である牛族の男だった。気の長さとおおらかさで定評のある種族のはずだが、そんな評判など全く当てにならぬかのような勢いで激昂している。長い間、押さえつけていたものが弾けてしまった……そんなところだろうか。
怒りに震える牛族の男にドノヴァンは珍しく食い下がっている。
「私達酒場の店主には冒険者の皆様の『食』と『住』をお世話すると同時に、その行動を把握しておく義務があるのです。責任ある認定証を頂いた店の主として、協会への報告義務を全うしなければならないんです」
「何かと云えば規則、規則って。こっちは冒険者なんだ。ダンジョンに潜ったり厄介なクエストを抱えて疲れて帰ってくることもある。出会った奴らと意気投合して別の店で大騒ぎすることだってあるんだよ。そんな不規則な生活が当たり前なのにそれを規則、規則で縛られちゃたまらないんだ!」
「そんな方々だからこそ規則が必要なのでしょう? 酒場や宿屋には種族を越えて多くの者が滞在します。皆さんの価値観が違うからこそ、一定のルールが必要なのが分かりませんか?」
「だからそれが、行き過ぎだって言ってんだ! あんたも分からない人だなあ……」
――ああ、そういう事なのか。
ザックスは牛族の男の言葉に得心がいった。彼がこの宿に来て以来、どことなく締め付けられるような思いを抱え続けていたものの正体がうっすらと見えたような気がした。
――だが、それをどう彼に伝えればいいのか?
今のザックスには牛族の男以上に上手く、それをドノヴァンに伝える言葉が見つからなかった。
傍観する位置に立たざるを得ない彼は忸怩たる思いをかみしめる。
これはドノヴァンからガンツへ、そしてガンツからザックスへ依頼されたクエストでもある。だが今のザックスには手に余る問題だった。どちらにも言い分があり、どちらも正しい。それが感じられるからこそ、ザックスには語るべき言葉が見出せなかった。
自身の考えとその立場に理解を示されない悔しさに涙ぐむドノヴァンと、怒りのままに拳を振り上げたもののその下ろし所に困った牛族の男がカウンターを挟んで睨み合う。朝食時でありながら空席の目立つ一階席では突如として勃発した修羅場に多くのものが困惑していた。おそらくはそこにいる誰もが二人と同じような想いを抱えているのであろう。そんな時だった。
柔らかな歌声と共に一人の男が二階席から階下へと降りてくる。竪琴を奏でながら現れたのはザックスのよく知る男――シーポンだった。
「おお、店主殿に優しき種族の方もおはようございます。さわやかな朝のひと時に争いごととは、少しばかり無粋ですね……」
「なんだ、あんた、関係ない奴は引っ込んでてくれ……」
男の恫喝を「ラララーー」と歌を口ずさんでいなしながら、シーポンは言葉を続けた。
「店主殿、ここは彼の言われる通りに速やかに証明書を発行し、気持ちよく送り出してあげるのが粋、というものではありませんか?」
「わ、私は……」
「彼も飛び出たはよいが、もしかしたらこの宿の良さに気付いて再び帰ってくるかもしれません。去ろうとするものを無理やりに引きとめても、得られるものは何もありませんよ……」
シーポンの助け船にドノヴァンは素直に従った。
「ご利用有難うございました。行ってらっしゃいませ……」
商売上の笑みを浮かべながらそれを男に引き渡したのは、ドノヴァンの酒場の店主としての誇りゆえであろう。
出された証明証を決まり悪げに引き取った男は、フン、と鼻息を鳴らすと大股で、店を出る。それを機に再び店内は元の朝の静けさを取り戻し始めた。
「シーポン、ドノヴァンさん……」
「おお、ザックスさん、こちらに戻られていたのですか。大任、御苦労でしたね……」
「まあな。そんなことよりドノヴァンさん、すみません、力になれなくて……」
「いえ、ザックスさんの謝られる事ではありません。それにしても私は間違っていたんでしょうか?」
返答などあるはずのないその問いが、店の空気の中へと消えて行く。
「亡き父から店を受け継いで二年近く、私は私なりに一生懸命にやってきたつもりです。だが、そんな努力も空しく、冒険者の皆さんは離れて行くばかり。皆さんのお役に立とうと頑張ってきたつもりなのですが、もはやどうすればよいのか……」
ドノヴァンの言葉が重く響く。だがそんなドノヴァンにシーポンは意外なほどにあっさりと答えた。
「答えはすでに貴方自身が分かっているのではないですか? 店主殿……」
竪琴の音楽と共にシーポンは語る。
「答えですって……!」
「例え、貴方が分かっていなかったとしても、先ほどの彼がそれを言葉にされたではないですか?」
「…………」
「あるいは、これまでも去って行った人々は何らかの形でそれをあなたに示してきた。だが、貴方はそのことから目をそらし続けてきた……」
「!」
「人の世にはよくあることです。自身の望む正解が、他者が望まぬ不正解であるいう事実に目をつむってしまうという事は……」
「そんな、私は……」
シーポンは彼の言葉を遮る様に竪琴を掻きならしさらに語った。
「私事でお恥ずかしいのですが……、私も又、目をそらし続けるものの一人なのです」
「シーポンさん……」
「多くの方が私の奏でる楽曲を美しい、楽しいと喜んでくれます。だが、その時の私はいつも寂しさを感じているのです。なぜなら彼らが喜んでくれる楽曲は私にとっては音楽とは呼べぬ物……。私にとっての最上の音楽とは魂の全てをかけて紡ぎ出す私独自の音色の事……。だが、それは決して他者には受け入れられない。たとえそれが私にとって親愛なる者達であっても……」
シーポンがザックスに意味ありげな小さな笑みを送る。ザックスは決まり悪げに頭を掻いた。
「自身が最良と思うものが他者に受け入れられないということは寂しいもの。だが、人が他者と共に生きていくためにはどこかでそれと向き合わねばならないのです。受け入れ妥協するのか……それとも突っぱねるのか……」
ドノヴァンは下を向いたままだった。
「それでも私はこれからも追い求めたいと思います。私が最上とする音楽でありながら、人々が心から喜んでくれる音楽の存在を……」
その言葉を最後にシーポンは語り終える。あとは只竪琴の調べだけが優しく流れた。しばらくして顔を上げたドノヴァンは意を決したようにザックスに尋ねた。
「ザックスさん、教えてください。私の何が間違ってるのかを……」
小さくうなずいたシーポンの顔を見て、ザックスは静かに語り始めた。
「俺はドノヴァンさんの事が個人的に嫌いじゃない。仕事も熱心にやっていると思う。だが、この店は冒険者の為の物ではない気がする。さっきの牛族の男がいった事は正しい。ドノヴァンさん、あんた、冒険者としてダンジョンに入った事はないだろう?」
その問いにドノヴァンはコクリと頷いた。
「確かにここには規則が多い。ドノヴァンさんの言うとおり多くの価値観の異なるものが集まる以上、決まりごとは重要だ。でもそのどれもがここで時間を過ごす冒険者のためではない。その全てが店を切り盛りするドノヴァンさん達に都合のいい決まり事なんだ……」
――瞬間、彼は目を閉じた。
「御免、ドノヴァンさん。生意気言って。でもこれはガンツの親父から受けたクエストであり、そして、ドノヴァンさんへの感謝をこめて、あえて言わせてもらった……」
互いの間に沈黙が流れる。やがて、ドノヴァンはぽつりと「ありがとう、ザックスさん」と呟くと店の奥へと消えて言った。
「きっと分かってくれますよ。彼は……」
そういうとシーポンは再び明るい曲を奏で始めた。
「さあさあ、ザックスさん朝御飯にしましょう。今日のメメノ鳥の卵料理は絶品ですよ」
言葉と共にいつもの2階席へと向かう。
嵐の過ぎ去った店内にはいつもの朝の時間が静かに戻っていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「で、その後、奴はどうしたんだ?」
カウンターにおかれたアルキル果実のしぼり汁の入ったグラスの横で顔を伏せたままぐったりとしているザックスを見下ろしながらガンツは尋ねた。
「別にどうもしねえよ。その日一日顔は見なかったけど、翌朝にはケロリとした顔で気持ちいい挨拶してたぜ。まあ、唯一変わった事といえば宿の規則が半分くらいに減っちまったってことかな」
「店の事を何か言ってたか?」
「別に……。まあ俺が引き払う頃には少しばかり食事時の客足が増えてたかな。あそこの飯はなかなか上手いからな……。ところで、いいのか。なにか助言とかしなくて……」
ザックスの言葉をガンツは鼻で笑う。
「ふん、必要ある訳ないだろう。店を作っていくのはあいつだ。いくら親から受け継いだからって、それをそのまま守っていけるなんて甘い世界じゃねえ。時代が変われば人の趣向も変わる。それを肌で感じてはじめて一人前ってもんだ!」
「あんたの知り合いだったのか、ドノヴァンさんの親父さんって人は……」
「昔の弟子さ。いい奴はみんな先に逝っちまう。残ったのは悪党ばかりってね」
「あんたもか?」
「ふっ、そんなところさ。ところでお前の方はどうなんだ。帰って早々にアルキルのしぼり汁なんて飲んでるところをみると、まだまだって感じだな」
あの日から数日が経過し、ザックスは予定通り《エルタイア》を後にして《ぺネロペイヤ》に帰還していた。あの日以来時折共に飲むようになったドノヴァンは別れ際に「今度来られる頃にはきっと繁盛していますよ……」と言って笑ってザックスを見送った。シーポンは再び旅に出てしまい、又どこかの空の下で魂の音色を奏でているのだろう。
それなりの充実感を伴って帰還したザックスだったが、《ペネロペイヤ》に到着するや否や、彼に再び災難が待ち受けていたのである。
「この状況でどうやって笑え、と?」
カウンターに倒れ伏したザックスの傍らにおかれた一枚の紙片には『挑戦状』という言葉が大見出しで踊っている。《旅立ちの広場》でそのビラを受け取ったザックスは、それを見るや否や、目が点になった。
挑戦状
《魔将殺し》ザックス殿
来たる酉の月、大格闘技大会にて貴殿との手合わせを望む。
この挑戦から逃げられるならば、以降《魔将殺し》の称号は当方のものとし、貴殿には《卑怯者》の称号を贈呈し、自由都市《ペネロペイヤ》中にこれを喧伝する事とする。
闘技場現覇者 デュラグヌス
気付けば《旅立ちの広場》の周囲にはこれと同じような張り紙が幾つもベタベタと張り付けてある。幸いザックスの肖像までは張り出されてはいなかったが、直に大騒ぎになる事は間違いないだろう。マナ酔いとは異なる目眩を覚えながらザックスは、懐かしいガンツ=ハミッシュの酒場に帰還したのである。
心なしか店内にいる冒険者達の視線を強く感じる。あわよくばひと儲けといったところだろうか……。
「下らんことを考えるもんだ、興行主共も。放っておけ」
ガンツは吐き捨てるように呟いた。
二か月に一度《大市》と交互に開かれる都市を上げての格闘技イベントは自由都市《ペネロペイヤ》の貴重な収入源となる。ザックスは格好の客寄せパンダというところだろう。
「そうは言うけどよ、多分それだけじゃ済まなくなるぜ……。それにあんたにも迷惑になっちまうだろう……」
闘技場覇者何某という輩はおそらく焚きつけられて踊らされているだけだろう。
ここで勝ったとしても第二、第三の馬鹿共がこぞって現れるのは目に見えている。
逆に負けたとしたら、それはザックスのみならず《魔将殺し》の事件に関わった多くの人々の名誉に関わってくる問題となる。
ガンツの言うように無視したとしたら、おそらくさらに悪質な手で、ザックスやこの店を揺さぶってくる事になるだろう。
「ふざけやがって!」
吐き捨てるザックスの言葉と共にアルキルのグラスの氷がコロンと転がる。どう転んでもザックスには良い結果になると思えない事態に、彼は途方に暮れていた。そんな時だった。
「では、作戦を練る為に拙者と暫し山籠りというのはいかがでござるかな? ザックス殿」
懐かしい声に振り向いたその場所に立っていたのは、ブルポンズのリーダー、マゲを左に結ったイーブイだった。
「イーブイ、あんた帰ってたのか……」
「お久しぶりでござる、ザックス殿。活躍は聞いておるでござるよ……」
「大した事なんて、やってねえよ。それより山籠りって?」
「どうもこの企て、いろいろキナ臭い噂が聞こえてきて……、まずは身を隠すのが先決かと思い、ザックス殿を誘いにきたでござるよ」
「それは構わねえけど、一体どこへ……」
「それはついてのお楽しみでござる」
「いいぜ、とりあえず任せるよ」
「では出発は今夜にでも。善は急げと申すでござるからな……」
かくして、ザックスは再び《ペネロペイヤ》から離れ、身を隠す事となった。
2011/09/03 初稿