04 マリナ、微笑む!
《エルタイヤ》創世神最高神殿――。
豪華、壮麗、絢爛、といった言葉がかすんで聞こえるほど壮大な建物は、神殿都市《エルタイヤ》の最も北側の奥深い区画に悠然と佇んでいる。
神話の時代に巨人族の建築士によって建てられたという逸話すら残るその巨大な建物には多くの神官、巫女が寝起きし、一日に大陸全土から訪れる信者は膨大な数に上る。
人生の終わりに一度でもこの場所に訪れたいとやってきては倒れるはた迷惑な老人たちの為に、大規模な施術院設備も備わっており、《エルタイヤ》はこの最高神殿を中心に全てが動き、それが無ければおそらく都市としては機能しないだろうとさえ言われている。
そんな最高神殿内のとある一室で神殿巫女のマリナは、その美しい顔に若干の疲労の色を浮かべながら己の務めに励んでいた。
「本当に肩の凝りがおさまらない日々が続きますわね」
その原因は、決して彼女の神殿巫女にしておくには惜しいほどに豊かな胸のせいではない。あえていうならば神殿内に充満する空気の重さのせいであろう。周囲に人がいないのをよい事に、マリナは再びボヤく。
「《ペネロペイヤ》の大神殿のほうがよほど気楽ですわ。みんな元気で務めに励んでいるのかしら」
最高神殿にマリナが参内して2週間近く。奇しくもザックスと変わらぬ頃に彼女はこの地を訪れていた。
幽霊騒ぎに巻き込まれたイリアがまだ完全に立ち直っていないにも関わらず、神殿を離れねばならなかった彼女は、後ろ髪をひかれる思いで彼女を妹巫女達に任せ、《ペネロペイヤ》を離れることとなった。上級巫女である彼女の務めとはいえ、それは彼女にとって、苦渋の決断だった。
史上最年少で上級巫女となった彼女は近々、神官・巫女職に就く者達の為に行われる中級試験の為の準備に日々明け暮れていた。
彼女の仕事は、神殿内の様々な方面への折衝であり、必然的に多くの人々と関わらねばならなかった。いつも微笑みを絶やさぬと言われる彼女ですら閉口させられたのは、神殿内に充満する陰湿な空気だった。
伝統、格式、権威……。
偉大な先人達によっての多くの戒めは、歴史が積み重ねられると共にその本質が塗り替えられ、その時代に権力を握るものの恫喝の手段と化していく。
目に見える形での神の奇跡を求める人々の要求に従うべく、俗物化した教義は本来の創世神の意思とは程遠い。必然的にそれに媚びる人々によってさらに捻じ曲げられていくその場所は、閉鎖的な世界にありがちな俗世以上のカオスだった。
彼らがありがたがっているのは創世神という絶大なカリスマではなく、神殿という巨大な空っぽの箱に入った創世神らしきものの幻想と奇跡を望む者達の巨大な欲望である――マリナはときおり、そんな滑稽な錯覚を覚える。
だが、人の世界においては、そのような欺瞞にみちた存在でも社会に一定の秩序を与える事は疑いようのない事実である。そして、創世神の存在を心のよりどころにして日々を慎ましく暮らす多くの人々や、誇りをもって務めに励む巫女や神官たちがいることも、まぎれもない事実だった。
見える目を閉じ、聞こえる耳を塞ぐ……そんな不自然さが疲労感になって圧し掛かるのだろう。
「早く終わらせて帰りたいものですね」
らしくない弱音がぽつりと吐き出される、そんな時だった。彼女の部屋の扉をおずおずとノックする音が聞こえる。「どうぞ」という言葉と共に入ってきたのは、愛しい妹分の兎族の少女だった。
「お久しぶりです、マリナ姉さま」
若干緊張気味の顔をして入ってきたのは、この場所が暮らしなれた《ペネロペイヤ》の大神殿とは勝手が違うから、というだけではないだろう。
「もう、元気になったみたいですね」
「ごめんなさい。マリナ姉さまに心配をおかけしたままで……。それよりも姉さま、お顔の色が優れないようですが……」
「いいんですよ、それよりも試験の準備はどうですか?」
「はい、エルシー姉さま達に、とてもよくして頂きました」
「無理はしなくてもいいんですよ。あなたの年齢ではまだ早いくらいなのですから。それよりも楽しんでいらっしゃいな」
と、いってもこの芯の強い可愛らしい少女は、期待に応えようと頑張ってしまうのだろう。そんな愛しい少女を久しぶりに彼女はしっかりと抱きしめる。
「フ、フミャア……ね、姉さま?」
後ろからしっかりと抱きしめられ、イリアの兎の耳がぴくぴくと忙しなく動く。
「ふふっ、妹成分の補給です」
そんな言葉と共に悪戯っぽく笑うと。彼女の小ぶりの兎の耳を軽く甘噛みする。
「フミャア……ね、姉ひゃま……、そ、しょれは……、らめですぅー」
最後にいつもよりも強くしっかりと抱きしめる。そして、彼女は静かに少女の身体を手放した。
涙目になりながら「ひどいです」と顔を真っ赤にしたイリアにマリナは優しく告げた。
「有難う、イリア、おかげで元気が出ました。貴女も少し緊張がほぐれたならいいのだけど……」
その言葉にイリアはハッと我に返る。きっと緊張した自分を気遣ったのだ、と考えたのだろうが、それはお互いさまなのだということが理解できるようになるのは、もう少し大人になってからだろう。
それまでの甘く温かい時間を振り払うようにいつもの優雅な微笑みを取り戻したマリナは、イリアに向かって静かに告げた。
「イリア、ごめんなさいね、これからはしばらく他人です。知っている方に出会っても、あくまでも創世神殿の巫女として慎ましやかに振舞うのですよ……」
その言葉に僅かに淋しげな色を瞳に宿しながら、彼女は「はい」と答える。
去ってゆく彼女の背を見送りながら、マリナは心の中に落ち着かぬものを感じていた。彼女の姉貴分である自分達の目が届かぬ場所で、兎族の少女が周囲とうまくやって行けるだろうか……。そんな不安が心を捉えてはなれない。
「あまり、過保護なのもいけませんね……。あの娘は強い娘なのだから……」
時として突き離さねばならない事を、過去の経験から十分に身に染みて理解している彼女は、そう呟いてジレンマに揺れる己の心を押さえつけた。
そんな彼女の背に一人の巫女が声をかける。
「あの、マリナ姉さま……。姉さまから召喚状を受けたという怪しげな冒険者が面会を求めているのですが……」
その言葉でふと我に返る。
ああ、そうだ、私はあの娘の為に一つ手を打っていたのだ、と思い出したマリナは、柔らかな微笑みと共に彼女に答えた。
「分かりました。すみやかにこちらにお通しして下さい。過去に神殿を一つ破壊しかけた凶悪で悪辣極まりない冒険者ですので、貴女も十分に注意して……」
その言葉に彼女は顔色を変え、背筋を伸ばした。
「分かりました。姉さま! 姉さまからのお役目、完璧に果たしてご覧に入れます!」
力強い言葉と共に一礼して小走り気味に歩み去ってゆく。
そんな彼女の背を見送りながら、きらりと目を光らせたマリナが「ふふっ、いい退屈凌ぎになりそうですわ」と思ったかどうかは定かではない。
ノックの音と共に開いた扉の向こうには実に愉快な光景が広がっていた。
中央に大きな木箱を抱えた冒険者が一人。
その周囲をとり囲んだ完全武装の神官3人が武器を突き付け、件の巫女も少し離れたところから警備用の《短槍》を小脇に立っている。
そんな冒険者に彼女は優しげな笑みを浮かべて声をかけた。
「あらあら、わざわざ、御足労下さり有難うございます。ザックスさん。どうぞお入りくださいな」
彼女に不機嫌な表情を向けたままザックスは無言で部屋に入ろうとする。
「あの、マリナ様、その……よろしいので……」
3人の神官たちは隙あらば、襲い掛かるかのような視線をザックスに向けながら、マリナに尋ねる。傍らの巫女も油断ない様子で《短槍》を構えている。
「ええ、ご苦労様でした、みなさん。ここからこの者を善き道に導くのは私の役目です。よろしければ酒代の足しにしてくださいな」
懐から心付けを取り出し、神官たちの一人に手渡した。マリナの暖かな両の手に包まれ、赤面した神官は神殿礼と共に去ってゆく。
「貴方もご苦労様でした。お務めに戻ってくださいね」
マリナに担がれた事に気付かぬ巫女も又、神殿礼とともに去ってゆく。そして、部屋の中に不機嫌なままのザックスとマリナの二人の姿が残った。
「ご無沙汰しておりましたわ、ザックスさん」
「……で、あんた、あいつらに一体何を吹き込んだんだ?」
「いえ、私は何も、ただ、あるがままを語っただけですわ、ふふっ……。それよりどうなさったのですか、その大きな御荷物は……」
床に置かれた大きな木箱の横にしゃがみこんで、マリナは面白そうに中を探る。
「こんな大きな箱を抱えて、前も見えずに一体どうやってここまでたどり着いたのかしら、あらあら、高そうな御品ばかりだこと……」
などと呟くマリナを尻目に、ザックスは部屋の中の適当なソファにどっかりと腰を下ろした。
「うちの宿の奴らからあんたへの貢物だよ」
「まあ、それではわざわざ、ザックスさんはそれを配達して下さったのですね。でもどうして抱えていらしたのかしら。冒険者はみなさん《袋》をお持ちでしょうに」
「入れようとしたら怒られたんだよ。『マリナ様への献上品を《袋》などに放り込んで無碍に扱うとは何事か』ってね。まったく困ったもんだぜ、あんたの信者には……」
「あらあら、それではこちらの品は神殿への寄付として、丁重に納めさせていただきますね。ところで、ザックスさんから私への献上品はこの中に入っているのですか?」
中身を一つ一つ確認しながらマリナは悪戯っぽく微笑む。
「ねえよ、あるとしたらその大きな箱とここまでそれを運んできた労力ぐらいだ……」
「それではこちらは大事に扱わせていただきますね」
入れ物となっている大きな木箱を、愛しげに優しく撫でる。
「あんた、わざとやってるだろ……」
「ふふっ、なんの事でしょう」
そう微笑んで立ちあがると、二人分のお茶の準備を始めた。
「ここは大きいし、活気のあるところだな、でも好きにはなれそうにない場所だ」
二人分の冷えたホメヨ茶をグラスに満たして彼の傍らに腰掛けたマリナの傍で、ザックスはぽつりと呟いた。
「そのおっしゃり方、懐かしいですね。あの日の事が昨日のように思い出されますわ」
「オレはもう忘れたいよ」
「ひどいですわ。あんなに激しい夜でしたのに。ザックスさんは私の胸だけをさんざんに弄んで、捨ててしまわれるような殿方でしたの?」
マリナは自身の両腕で己の身体を掻き抱きながら、そそとザックスに身を寄せる。
「おっ、おい、ひっ、人に誤解されるような言い方は……」
「ここには誰もおりません事よ、ザックスさん。ここは貴方と私の二人きり……。何が起ころうとも二人を止めるものなどありませんわ」
さらに、すすっとザックスに身を寄せる。甘い香りがザックスを包み、仄かな吐息が耳元を刺激する。
うるんだ瞳に間近でじっと見つめられてザックスは大きくたじろいだ。
「ちょっ、ちょっと、マリナさん……?」
「あら、よそよそしい。せっかく二人きりなのだからマリナとお呼び下さいな」
「はい?」
「気付きませんでして……? 私、あの夜からずっと貴方をお慕いいたしておりましたのよ……」
「ま、待てっ……、いったい何の話……うわっ」
身を寄せてくるマリナに堪らず、ザックスはソファから転げ落ちた。そんな彼の姿をくすくすと笑いながら、マリナは見下ろしている。
「ザックス様、真っ赤になられて、とても御可愛らしいですわ」
「あんた、又、オレを担いだな!」
床の上で不貞腐れていたザックスは反撃とばかりに彼女の傍らに立ちあがると、その身にぴたりと己の身を寄せて座りこむ。だが敵もさるものだった。
「あらあら、これから私はどんな風にされてしまうのでしょうか?」
直ぐ間近で、期待に満ちた瞳で見つめられてはザックスの完敗である。
出されたホメヨ茶をぐいと飲み干し、降参の意思表示をする。そんなザックスに小さく微笑みかけた彼女は、彼の傍らから身を離すと自身のグラスをからからと掻きまわした。
「さて、そろそろ、本題に入ってくれるかな。オレをここに呼び出した訳って奴が聞きたいんだが……」
あら、残念、とつぶやきながらマリナはグラスに口をつける。形の良い口唇の跡がうっすらと冷えたグラスに移る。それをテーブルに戻したマリナは居住まいを正して、語り始めた。
「二日後よりこの最高神殿において、神官、巫女の中級試験が始まりますの……」
「中級試験?」
「創世神殿において、巫女はそれぞれ、初級、中級、上級、神官は初級、中級、上級、高神官、最高神官という風に大まかに位分けされております」
「なんだか冒険者みたいだな」
「あくまでも組織内での名目上の肩書ですわ。ただ、そうする事でそれぞれのお務めの内容が少しずつ変わってくるのです。
試験は、筆記、面談、実技の3つで行われ、及第点に達した者が合格するのです」
「難しいのか?」
「中級神官職はさほど問題ではありません。中級巫女職の方は少しばかり困難である、というのが一般的な見解ですわ」
「ふーん」
興味なさげな態度で彼女の話を聞くザックスの姿に微笑みながら、マリナは続ける。
「試験の最後に実技審査が行われます。内容としては神官、巫女数名がパーティを組んで初級レベルダンジョンに入り、簡単な探索を行うというものです」
「それはまた、大変だな……」
「神官は闘う事に慣れている者もおりますが、巫女の大部分はそうではありません」
「なんで、そんな、真似を?」
僅かに言葉を切ったマリナは、少し遠くを見つめながら語った。
「私達巫女は多くの冒険者の方々の転職のお世話をいたします。日頃からお世話をさせていただく冒険者の方々が、一体どのような場所でどのような想いを抱えてダンジョンに挑まれるのか……。それを己の中できちんと実感する事が、この実技試験の目的ですの」
「つまりただ踏破すればよいという訳ではないと……」
小さくうなずいてマリナは続けた。
「各パーティには必ず審査官と護衛役をかねた上級冒険者が一人以上付き添う事になります。その役をザックスさんにお願いしたいのです」
「オレに? なんでまた……。大体オレは上級冒険者ではないぜ」
「一つには《エルタイヤ》の神殿組織が冒険者協会に不信感を持っていると言う事が上げられます。先日の初級レベルダンジョン一斉捜索ミッションが見事に空振りしたのはご存知ですか?」
「ああ、あれね」
嫌な経験を思い出し、ザックスは少しばかり不機嫌になる。
「あのミッションはこの度の中級試験の事前調査も兼ねていたのですが、さほど、大した成果も上げられなかった事と上級冒険者達がほとんど参加しなかった事もあって、神殿の権威をないがしろにされたと、長老達がお怒りになられ、それに対して冒険者協会の方々も大きな反発をなされまして……」
「成程……」
「要は上級冒険者程度の実力、もしくはそれに準ずる経歴があればよいのです。ザックスさんの過去の実績には申し分がありませんし、何よりも称号《魔将殺し》を持つお方。ザックスさんは最高神殿の召喚状を受け取られるに値する十分な資格をお持ちなのですよ。反対する者など決しておりません。故に私が推薦し、とあるパーティの護衛役をつとめて頂きたいのです。
これは神殿からのクエストであると同時に、私個人からのクエストでもあります」
「なんか、裏がありそうだな。この前みたいなのは御免だぜ」
「あれは私の意向というよりは、おじさまの意向が強く反映されたものですわ。ザックスさんには是非ともこのクエストをお受けして頂かなければなりません」
「理由を聞きたいな。あんたがそうまでして、オレに頼みこむ理由ってのを……」
その言葉に彼女は伏し黙る。だが、直ぐに顔を上げた。
「ザックスさんの担当するパーティにはイリアがおりますの」
「はい?」
「実は、イリアはこの度の中級巫女試験に臨んでおります」
「…………」
「年齢的にも巫女となっての期間から考えても彼女にはまだ少し早いのですが、それでも彼女にいずれ中級巫女の資格は必要となるであろうと考え、私が推薦したのです。もちろん本人も大いに乗り気です。あの娘ならば筆記と面談はおそらく問題なくクリアするでしょう」
兎族は優秀ですからね、とマリナは付け加える。
「えっと……、オレは彼女につきそい、影から手伝って彼女を合格に導けっていうのか」
僅かに憮然とした表情でザックスは尋ねた。
「めっそうもありません。そんな事は私も彼女も一切望んではおりません。彼女に相応の力がないと判断されたのならば、即座に失格と判断して頂いて構いません」
「あんたの望みがよく分からんのだが……」
「私がザックスさんに望むのはあくまでも彼女の身の安全です。ダンジョンの探索は慣れぬ者の目から見れば恐ろしいものです。いかに常日頃から神官や巫女が武闘訓練を行っているとはいえ、いざ、人外のモンスターを相手にするとすれば、その精神状態は計り知れません。彼らが神官や巫女であるとはいえ、所詮は寄せ集めのパーティ。何が起きるか分からないのです」
「…………」
「そして何よりもあの娘は兎族です。その異質な容貌と種族への偏見が、どのような悪影響を及ぼすか計りしれません。だから私は……」
マリナの瞳は真摯だった。微笑みすら忘れ、彼女はいつしかザックスに詰め寄っていた。
「なあ、おっさんはどうしたんだ。一応、イリアの『お義父さん』なんだろ……」
「おじさまはあの娘の受験について何一つ口出しはいたしません。ああいう方ですから……。巫女としてのイリアの全ては私に一任されているのです。ただ、今回のアイデアを与えてくださったのは、おじさまではありますが……」
彼女は言葉を切った。室内に小さな沈黙が生まれた。
「お受けしては頂けないでしょうか」
探るような瞳が揺れる。僅かに呼吸をおいて、ザックスは肯定の意思を示した。
「いいだろう、受ける事にしよう」
その言葉にマリナの顔に明るい花が咲く。そしてさらに悪戯っぽい表情が浮かび上がった。
「ふふっ、ザックスさん、それはイリアの為なのですか?」
「いや、違うな。オレの為だ」
意外な言葉だった。
拍子抜けしたようなマリナの顔は新鮮だった。
「興味があるってのが本音だな。即興とはいえ一つのパーティがどんな事を考え、前に進んで行くのかってのを外側から見るのはとても面白そうだ。それに……、神官ってやつらが一体どういう頭の構造をしているのか、知りたいってのもあるしな」
ザックスの意味深長な言葉に、興味深げな色を浮かべるマリナの顔を見つめながら、彼は続けた。
「実はここにきてしばらくして、神官籍を持つ奴にひどい目にあわされてな……」
手短にいきさつを語る。
しばらくの間、腹を抱えて笑っていたマリナだったが、やがて、真顔に戻るとしみじみと呟いた。
「残念ながら神官籍を持つ者の全てが心正しいものではない、ということはどうしようもない事実です。ザックスさんがお会いした方だけでなく、神官という肩書を利用して横暴を働く者は大陸中のあちらこちらに潜んでおります。先日のブレルモン神官長の一件を覚えておいでですか?」
「ああ」
「神に仕えるものとはいえ、所詮は人間です。私達が人間の組織のしがらみの中で生きていく以上、どうしても避けられない問題なのです」
「大変だな……」
「何を他人事のようにおっしゃられておられるのですか、ザックスさん。あなたもこれからしばらくの間、当事者になるのですよ」
言葉と同時にマリナは立ちあがり、自身の執務机へと向かう。
「ええと、マリナさん……?」
「実技試験の審査官である以上、様々な不正の手段を知っておかねばなりません。中には買収や色仕掛けで迫ってくる者もおりますわ」
「お、おい、そこまでやるのか……」
「はい、悪用すれば大きな利益となりうる創世神殿神官籍というものは、そのくらい魅力的なものなのです」
なにやら引き出しをごそごそ探りながら、マリナは言葉を続けた。
「ですから、これからザックスさんには手短にレクチャーを受けて頂きます」
きりり、と顔を上げたマリナの顔には伊達眼鏡が、そして手には鞭が握られている。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ、マリナさん! その姿はまさか……」
「今回は私も忙しく余り時間はとれません。服装はこのままでご勘弁を……。それでは前回よりもさらに厳しくビシビシ行かせていただきます! 御覚悟の方、およろしいですか?」
先日の悪夢がよみがえる。
「待てっ、そこまでやる事はないだろう!」
「問答無用です! 大丈夫! ここには誰もおりません事よ、ザックスさん。ここは貴方と私の二人きり……。何が起ころうとも二人を止めるものなどありませんわ」
「そう、来るのか……」
「これもひいては可愛いイリアの為、そして未来のザックスさんの為。さあ、さあ、参りますわよ!」
「オレの話を聞けーー」
室内にザックスの悲鳴が響く。
マリナの輝かしい悪人改心人数記録に、再び一人追加されることとなった……かどうかは定かではない。
2011/08/31 初稿